4.笑顔の似合う恋だった


 昇降口で靴を脱ぎ、上履きへと履き替える。
 去年までは、泰裕とはここで別れて、別々の進路を辿っていた。
 けど、今年は違う。
 生徒一人一人に宛がわれたげた箱。自分と同じ列の三つ上に「福井泰裕」の文字。

 その事実が嬉しくて、胸が、踊る。

 同じように上履きに履き替えた泰裕と一緒に階段を昇って、同じ教室の中へ。

「おはよー」
「おはよう福井」
「おはよー」
「ヤス、おはよー」
「おはよー」

 相変わらず友達が多い泰裕は、まだ新しいクラスになってから日も浅いというのに、自分の席につくまでにたくさん声を掛けられ、そのひとつひとつに笑顔で返していた。
 泰裕の後をついていく俺にも、ついでのように掛けられる言葉。

「水戸部も、おはよー」
「……………おはよ」

 おざなりに返事をして、泰裕と離れて自分の席に座る。
 三つ前の席に座る泰裕。その前の席のヤツが、泰裕を振り返る。隣の席のヤツは、教科書を手にしながら椅子を寄せている。他にも傍に立っているヤツが、二、三人。
 たった数日で、それは既に見慣れた光景となっていた。
 聞こえてくる話の内容もいつもと同じ。学校の噂話、昨日見たテレビの話、出された課題や、今日の授業の話。

 なのになぜか、胸の奥がちりちりと痛む。

 他のヤツと話さないで欲しい。
 他のヤツを見ないで欲しい。 
 俺だけを見ていて。ずっとずっと、俺だけを。

 思いがけず、沸き出でた独占欲。出どころのわからないそれに、少し戸惑い、制服の胸元をぎゅっと握りしめた。

 去年と今年で、変わったことがもうひとつ。

「水戸部、帰ろう」
「……………うん」

 泰裕と、帰りも一緒に帰るようになった。
 それは、ちょっと嬉しくて、でも、ちょっとだけ切ない。

「水戸部って、下の名前、『那津』っていうんだな」

 同じ電車に一緒に乗り込み、しばらくして投げかけられた話題。
 そういえば、初めて会話を交わしたときに、お互い苗字だけは知っていたから、改めて自己紹介をした覚えがない。
 俺は知っていたけど、泰裕はきっと、新学期初日に配られた名簿を見て初めて、俺の名前を知ったんだろう。
 あれだけたくさん話しておきながら、今更な話題がおかしくて、ふっと笑みが零れた。

「……うん」
「いい名前だな。『那津』って」

 名前を褒められたのが嬉しくて、それが泰裕なのが嬉しくて。だからつい――。

「……死んだ、母さんの名前をもらったんだ……」

 誰にも言わないと決めていたことを言ってしまった。
 ハッとして泰裕を仰ぎ見る。けれどもそこには、俺が最も見たくないと思っていた、同情や憐れみの表情はかけらも浮かんでなくて、泰裕は、ただただ優しい顔で俺を見つめていた。

「なら水戸部は、いつもお母さんに守られてるんだな」
「……………うん」



『那津、那津の名前はね、死んだお母さんからもらったんだよ』
『そうなの?』
『そうだよ。だから、那津のそばにはいつも奈津美が、お母さんがいて、那津を守ってくれているんだ。だから……』



 不意に蘇る、遠い記憶。
 写真の中で幸せそうに笑う母親。それを見せながら、幸せそうに思い出を語ってくれた父親。

 俺を現実に引き戻すかのように、耳に流れ込む車掌のアナウンス。
 降りる駅が近づく。
 まだ、降りたくない。
 もっと一緒にいたい。

「明日の体育はさ、グラウンド使えないから第二体育館で卓球って話」
「……本当?」
「本当。二組の連中が言ってたから間違いないよ」

 二組の担任は、体育担当の田辺先生だ。

「……俺、卓球苦手」
「水戸部、陸上も苦手って言ってなかった?」

 軽く声を上げて笑う泰裕。
 何てことない、他愛もない話。
 でも、もっと話していたい。
 もっとずっと、その笑顔を見ていたい。

 ……なんて、自分勝手な考えを嗜めるように軽く頭を振った。

 ホームに降りたら、そこで泰裕とはお別れ。
 俺はここで電車を乗り換え、泰裕は改札を出て、家へと帰る。

 この瞬間が、いつも、少し、苦しくて。

 いつもいつも、「サヨナラ」が言えない。

 別れ際、泰裕は、ごく自然に。
 まるでずっと前からそうしていたように。
 そうすることが当然であるかのように。

「那津」

 俺の名前を、呼んだ。

「那津、また明日」

 笑顔で手を振ってエスカレーターに乗り、ゆっくり降下していく後姿。
 俺の目に映っているのは泰裕の背中のはずなのに、瞼の裏に浮かぶのは、いつも変わらず俺に向けられる、優しい笑顔。

 その笑顔はまるで鎖のように。
 俺を捉えて、離さない。

END

2008/06/15


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