9.全てを捧げた恋だった


 二年半、守り続けた習慣を変えた。
 うっかり遭遇してしまう可能性を考えて、一本早い電車ではなく、二本早い電車に乗ることにした。
 それでも偶然、ということがあるかもしれない。そう考えて、毎日乗る車両も変えた。
 学校に着いてからは、ホームルームが始まる直前まで学習室で過ごした。放課後も、生徒が残っていられるギリギリの時刻まで、同じように学習室で過ごした。

 もしも話し掛けられたら――。時限ごとの休み時間には予習復習に精を出しているフリをしながら、全神経をフル稼働させて泰裕の動向を窺った。
 でも、よくよく考えたら、そんな心配は無意味だった。
 元々友達も多く、人懐っこい泰裕の周りには、休み時間になれば常に何人かの生徒が集まっていて、前の授業でわからなかったところを教えあったり、次の授業で当たりそうなところを聞き合ったり、何てことない話で盛り上がったりしていた。

 ……それはそれで、自分で作った胸の傷を広げる要因にはなったんだけど。

 二週間、故意に避け続けた。
 それでも泰裕は、俺の心の奥を見透かしたかのように、いつもの、あの駅で、あのホームで、そうすることが当然であるかのように、俺の目の前に姿を現した。

「まだ俺のこと、好きだろ? ――那津」

 好きだよ。
 大好きだ。

 だけど言葉にはならなくて、ただただ涙が零れてくる。
 弱くて、臆病で、自分に自信がなくて、失いたくない大切な人さえも信じきることができなくて。
 続けて掛けられるのは、そんな俺にはもったいないくらいの、優しい言葉。

「俺は、お前がそばにいてくれれば、それだけでいいから……な」

 必死になって頷く。
 そばにいたい。――そばに、いたい。

 目の前で失われていった大切な命と、自分の力では変えることのできなかった現実。
 泰裕も、いつか離れていってしまうくらいなら、自分からこの手を離そうと思った。
 そのほうがいっそ楽だと。
 それでも、この胸の中の罪悪感や虚無感は消えなくて。
 すごくすごく、後悔して。やっと気づいたんだ。
 この先の、どうなるかわからない未来に怯えるよりも、一分一秒でも長く、――そばに、いたい。

 俺の肩に掛かった泰裕の手が、自然な動作で俺の体を引き寄せる。
 強くもなく、弱くもなく。優しく、やわらかく。
 抱きしめられて、涙に濡れた頬を気にしながらも、深く息を吸い込んで、その胸に顔を埋める。
 二週間ぶりの泰裕の体温は、俺にどうしようもないほどの深い安心と安堵感を与えた。

 ああ、やっぱり俺、泰裕が、好きだ。

 そうして、何分経っただろう。
 ホームの端に置かれたベンチに二人並んで座って。
 一体、何本の電車を見送っただろう。
 泣き濡れた俺の顔を他人の視線から隠すようにして肩を抱いていた泰裕が、今更ながらに呟いた。

「電車、乗れなかったな」
「……うん」
「学校、どうする?」
「………うん」
「俺んち、来る?」
「……、……うん」

 促されて立ち上がり、そのまま手を引かれて、泰裕の後に続いてエスカレーターを降りる。
 まだまだ通勤通学客の多い駅の改札を、人の流れに逆らいながら、顔を俯けとぼとぼと歩いた。

 泰裕は、何も言わない。
 俺も、何も言わない。

 それでも、繋いだ手が離されることはなかった。

 ポケットから取り出した鍵で、泰裕が玄関扉の鍵を開ける。
 家の中はシン、としていて、いつも、俺が来ると必ず出迎えてくれるおばさんの姿もない。
 それを不思議に思って泰裕を見上げると、泰裕は、俺の視線だけで言いたいことがわかったらしい。

「母さん、平日はパートに出てるんだよ。今日は金曜日だから二時まで仕事、かな」
「そうなんだ……」

 知らなかった。
 思えばここへ来るのは、たいてい平日の放課後か、もしくは土日のどちらかだ。
 いつも家にいるから専業主婦なのかと思っていたけど、子供が学校へ行っている時間だけ働いてるってことなんだろう。
 見慣れたあの優しい笑顔がないと、少し寂しい。そう感じるほどに俺は、泰裕の家族にすっかり馴染んでいた。

 でも、おばさんがいないということは、つまりは、この家に、泰裕と二人きり……。

 急に意識してしまって、心臓の鼓動が心なしか早くなった。

「那津?」
「あ……、うん」

 考えごとをしていたため玄関で立ち尽くしていた俺を泰裕が気遣うように優しい声色で呼ぶ。
 慌てて靴を脱いで家の中へ上がると、その間離されていた手が再び繋がれて、泰裕の部屋に連れて行かれた。

 どうしよう……。
 掌に汗が浮かぶ。何かほかのことを考えて気を紛らそうとしても、うまくいかない。

 ドクンドクンと忙しないリズムで動く心臓。
 俺を先に部屋に入れてから、泰裕が後ろ手に扉を閉める。たいした大きさじゃないその音に、びくり、と肩が震えた。

「那津?」

 動けない。
 体がカチカチに固まって、指先さえも動かすことができない。

「那津」
「………」
「那津、緊張、してる?」

 きっとこういうのは、空気を通して伝わるものなのかもしれない。
 少し声を抑えた泰裕に対して、俺はゆっくりと首を縦に振った。

 泰裕が近づいてくる気配。
 伸びてきた手が俺の肩に触れ、腕に触れ、後ろから包み込むように抱きしめる。
 どうして人の体温っていうのは、それを感じているだけでこんなにも安心するんだろう。
 それともこれは、相手が泰裕だから、なんだろうか。
 ひっそりと静まり返った部屋で、俺は目を伏せ、ゆっくり息を吐きながら泰裕に体を預けていった。

 少しずつ緊張がほぐれていく。
 カーテンを掻い潜って届く初秋の日差しが、部屋全体をうすぼんやりと照らしていた。

「那津」

 呼びかけと共に、無駄のない動きで体を反転させられる。
 向かい合う形になって、泰裕を見上げれば――。

「那津――」
「ん……」

 触れる唇。
 一瞬遅れて届くぬるっとした感触にびっくりして身を引くと一層強く抱きしめられて、再び唇が合わさった。
 それは泰裕の舌で。
 最初上顎を舐めていた舌が奥へ奥へと入り込んでくるから、おずおずと自分の舌を差し出せば、強く擦り合わせられ、舌先がビリビリと痺れた。
 くちゅくちゅと絶え間なく舌を絡め続ける。ただ唇を触れ合わせるだけのキスしか知らない俺にとって、それはあまりにも刺激的で、背筋がゾクっと震えた。

「ん……、んふ……ん……、あ、ヤ、スヒロ……」

 鼻から抜けるような声が出てしまって、とてつもなく恥ずかしい。
 唇が離れた隙に、助けを求めるように名前を呼んでも返事はなく、代わりにもっと深いキスが返ってきた。
 片手で頭の後ろを抱えられ、もう片方の手で腰を抱かれ。
 気づいたら、視線の先にあったのは、壁ではなくて天井。
 俺の上に覆いかぶさっている泰裕をそっと見ると、いつもと同じ、優しい瞳が俺を見下ろしていた。

「那津」
「………ん」
「俺とこういうことするの、嫌?」
「……ヤ、じゃ、ない……」

 肯定の意味を込めて、そっと泰裕の背中に腕を回す。
 それでも泰裕は、俺の中に眠る怯えを感じ取ったんだろう。

「それなら、もしかして……、怖い?」

 額に小さくキスを落として、そんな風に尋ねてきた。

「……………大丈夫」

 本当は、少し、怖い。
 でもそれは、泰裕や、泰裕が指す行為が怖いんじゃない。
 終わったあと、自分が一体どう変わってしまうのかが――、怖い。

 でも大丈夫。もう大丈夫。
 いつかきっと、こんな日が来るって、心の奥底ではわかっていたから。

「覚悟………、できてるから」

 そう伝えれば、泰裕はふっと微笑んで、俺の首筋に顔を埋めた。

 唇で触れられ、肌を吸われるたびに、泰裕が触れている部分じゃなくて、背中から腰の辺りがじんわりと痺れる。
 シャツの前を開かれ、泰裕の唇が真っ平な胸にある小さな粒へとたどり着いた。

「ッ、ア!」

 一舐めされ、予想外に甲高い声が出てしまって、慌てて掌で口を塞ぐ。
 泰裕は、俺の手の甲に口づけると、そっとその手を外した。

「那津」

 そしてキス。
 何度も何度も、ただ唇で触れるだけのキス。
 その間に泰裕の掌が、体のあちこちを撫で回すから、皮膚がどんどん熱くなって、体の芯から熱くなって――。

 もう、止まらなかった。
 自分のものじゃないみたいな高い声も、早い呼吸も、汗ばむ体も。
 でも、恥ずかしさだけはずっと残っていて。
 泰裕が少し離れた隙に、両腕で顔を覆った。

「那津、顔見せて」
「……っ、でも………、恥ずかし……」
「那津の全部が見たい。……ね、顔、見せて」

 泰裕の声や言葉に俺は、逆らえない。
 それはやっぱり好きだから。なんだかんだで素直に従ってしまうのは、それだけ、好きだから。

 俺はゆっくりと腕を解いた。俺の大好きな優しい瞳がそこにあって、俺をまっすぐに見つめていた。

 泰裕の手が、ズボンのベルトに掛かる。
 恥ずかしいことだらけで、でもそれをなんとか乗り越えてここまで来たけど、それでもやっぱり恥ずかしくて、慌ててその手を押し留めた。

「見……、ない、で……」
「どうして?」
「だって………」

 俺の股の間にあるものは、既に窮屈そうにズボンを押し上げている。
 下着が少し湿っているような気がするから、きっと先端が濡れているんだろう。

「恥ず、かし………」

 正直に言えば、泰裕は俺の手を掴んで、自らの下腹部へと導いた。

「大丈夫」
「あ………」

 俺と同じか、それ以上の、熱。
 これが泰裕の思い。泰裕の――。

 泰裕は、決して急いだりしなかった。
 俺の体を傷つけないように、いたわりながら、ゆっくり時間をかけて、本来は入り口ではないそこを解していく。
 俺の体がとっくに融点を超えて、どこもかしこも熱くてとろとろになったところでようやく、泰裕の先端が俺の孔に宛がわれた。

「那津、入れるよ」
「………っ、うん……」

 それでもぐい、と押し込まれた質量は、俺の想像を絶するほどで。
 ぎゅっと目を瞑り、奥歯を噛みしめていると、泰裕がそっと俺の頬を撫でた。

「那津、もっと力、抜いて」
「ん……、ふ……」
「息吐いて」
「は……、」
「そう」

 呼吸に合わせてずぶずぶと押し入ってくる熱の杭は、ものすごい圧迫感を伴っていたけれど、俺の心は、恐怖よりも苦しさよりも痛みよりも、繋がることで得られる、他のどれとも違う幸福を感じ取っていた。

 緩く突かれて背中が仰け反る。
 悪いと思いながらも、泰裕の肩甲骨の辺りに置いた手に力が入ってしまう。

「あっ、あ、は……、あぁ……」
「那津……っ」
「泰裕っ、あン、あっ、ヤ、スヒロ……!」

 好きって思いがとめどなく溢れて、それが涙となって零れ落ちる。
 悲しいからでも、嬉しいからでもなく、こんな風に感情が高ぶって溢れてくる涙を、俺は知らない。

「那津」
「あぁッ、あっ、泰裕っ、泰裕……っ!」
「那津―――愛してる」
「ア―――ッ……!」

 幸せで、幸せで。
 俺は例えるなら、あたたかい海のように大きな愛情に包まれていて。
 他に誰もいらない。何もいらない。
 そんな思いで泰裕に心も体も、すべてを捧げて――、そうして俺は目もくらむほどの高みへと昇りつめた。

END

2008/08/24


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