8.たった一度の恋だった 大好きな人が自分を好きだと言ってくれる、その幸せ。 ふわりふわりと、まるで風船が弾むように浮かれる心。意識しないとつい緩んでしまう頬と口元。 そして気づけば、泰裕のことばかりを考えてしまう日々。 高校生活最後の夏休みは、本来なら受験一色で、決して楽しくはなく、むしろ精神的にもつらいものになっていたはずだ。 でも俺は、それこそよくある表現だけど、毎日がバラ色で、去年の俺からは想像もつかないほどに幸せな日々を過ごしていた。 前半の二週間くらいは、ほぼ毎日泰裕の家で、学校から出された課題を一緒にこなしていた。 フローリングの床に敷かれたカントリー風のパッチワーク。高校生男子の部屋に若干不似合いなそれは、聞けばおばさんの手作りらしい。 その上に置かれたガラス製のローテーブル。長方形のそれに、向かいあう形ではなく、斜交いに座り、それぞれ問題を解いては、わからないところがあったら教えあう。 泰裕は成績もよく、おまけに教え方も上手で、俺は、改めて泰裕の周りに人が集まる理由がわかった気がした。 そしていつも三時になると、おばさんがお手製のおやつを運んできてくれる。そこで少し休憩をして、好きな音楽や、昔見ていたドラマ、最近読んだ本の話などをした。 「電車の中で少しずつ読もうと思ってたんだけど、どうしても続きが気になって、家に帰ってすぐに続きを読み始めて……気づいたら夕飯食べるの忘れてた」 「うん、気持ちはわかるな。――それにしても那津は読書家だね」 目を細めて、本当に大切なものを心から慈しむように俺を見つめる泰裕の瞳。 そんな風に見つめられると、ドキドキして、正直どうしていいのかわからなくなる。 「――っ、お、叔父さんが、さ、時代小説がすごく好きで、たくさん買ってて……でも、一度読めばそれで気が済むみたいで、読み終えた本は全部俺にくれるんだ」 「叔父さん、いるんだ」 「あ、うん。亡くなった父さんの弟で……今の俺の……保護者、かな。俺の住んでるアパートの家賃とか、生活費とか、高校の学費とか全部出してくれてて、他にも色々面倒見てくれてる」 これがもし泰裕相手じゃなかったら、プライベートなことをこんなにも話したりはしなかっただろう。 なんとなく、泰裕になら、言える気がする。何を言っても大丈夫な気がする。 「じいちゃんが亡くなったとき俺、学校辞めて働こうと思ったんだ。でも叔父さんが、父さんやじいちゃんやばあちゃんが一生懸命育ててきた俺にそんなことはさせられない、って言ってくれて、さ……」 俺にとってつらい過去の思い出を含む話でも、泰裕なら受け止めてくれる気がする。 「俺、父さんと母さんが年取ってからできた子供だったから、叔父さんの子供――従兄弟はかなり年上なんだ。それで叔父さんが、自分の子供はもう結婚して独立してるから、って言って、俺のほうの金銭面をすべて援助してくれることになったんだ」 「そうなんだ」 「うん……」 「………」 「………」 泰裕の相槌には、俺が恐れているような同情の色は決して含まれない。 その分今度は、「友達」の時は気にも止めていなかった会話と会話の間の短い沈黙を妙に意識してしまう。 「恋人」として感じる、今までよりも心なしか甘めの空気。 そっと泰裕を伺えば、泰裕の視線は右斜め上、壁に掛けられた時計に置かれていた。 「そろそろ、始める?」 言葉と同時に開かれる英語のテキスト。 楽しい会話が終わったことを少し残念に思いながら、泰裕と同じページを開こうとする前に、泰裕が、一度は握ったシャーペンを再びテーブルの上に戻した。 「那津」 ただ呼ばれただけなのに、ドクン、と心臓がひとつ跳ねる。 そんな自分を知られたくなくて、泰裕の顔が見れなくて――、視線をテキストの表紙に固定したまま、ぎゅっと手を握り締めた。 俺の右手に泰裕の左手が重なってきて――。 「那津」 「………っ」 顔を見ないまま、下を向いたままで、ゆっくりと泰裕の方向へ首を動かす。 「那津、顔上げて」 心臓はすごく煩く鳴り響いていて、末端の毛細血管までもがドクドクと大きく脈打っていて……すごくすごくドキドキしたけど、それでも俺はゆっくりと顔を持ち上げた。 「那津――」 あ―――キス。 思ったときにはもう、泰裕の唇が俺の唇に触れていた。 それはほんの一瞬で。 たぶん一秒にも満たないくらい短い時間で。 でもたぶん――、一生、忘れない瞬間で。 「……始めようか」 「……………うん」 顔が、熱い。 握られたままの手が、熱い。 「那津」 「………うん」 「好きだよ」 「………うん、俺も……」 静かに離れていく泰裕の手。 離さないで。ちゃんと俺を捕まえていて。 「俺も……、好き……」 小さく、でもきちんと言葉にしてからきゅっと唇を噛みしめて、俺は、改めて英語のテキストを開いた。 * * * お盆休み明け、夏休みの後半には十日間の学習合宿が行われる。 参加は自由だけど、俺も泰裕も、早い段階で参加を決めていた。 俺の目標は、自分の通える範囲でなるべくレベルの高い大学に、現役で合格すること。そしてきっちり四年で卒業すること。 それが両親や祖父母に代わって今、俺を支えてくれているたった一人の叔父さんに報いる方法だと思っている。 でも、塾や予備校は金銭的負担が増えるから、行かない。その代わり、学校主体で金銭面での負担が少ない補習や学習行事には積極的に参加しようと決めていた。 「う〜〜、ずっと座ってたから腰が痛い」 拳でトントンと腰を叩いていると、泰裕がそんな俺を見てクスリと笑った。 「毎日言ってたね、それ」 青々と茂る名前もわからない草を踏みしめながら、二人並んで歩く。 朝食を食べて午前中に三時間、昼食を挟んで午後五時間、夕食を摂り、満腹感で学習意欲を損なわないよう腹ごなしの散歩をしてから更に二時間。決められたスケジュールを守りながら一日に十時間、机に向かう。 でも、そんな学習合宿も、明日で終わりだ。 「うん……、でも、本当来てよかった」 「そうだね」 もしも自分ひとりで勉強していたら、行き詰まった時にどうしていいかわからなくなる。 ここでなら、各教科担任も揃ってるし、ちょっとしたことなら周りの友達に聞くこともできる。 だから俺は、心からそう思っていた。 三通りある散歩コースのうち、一番長いのを選んで二人きりで歩くのが、ここへ来てから俺と泰裕の間で暗黙の了解となっていた。生徒のほとんどは一番短いコースを選ぶから、俺たちの前にも、後ろにも、見える範囲に他の生徒はいない。 「那津」 泰裕の手が、そっと俺の手に触れる。 びっくりして思わず反射的に離そうとしてしまったのを握りこまれ、掌を少しずらしてしっかりと手を繋ぐ形に変えた。 「福井……」 「『ヤスヒロ』。――呼んで?」 「………泰裕………」 いつも、心の中では呼んでいた名前。ようやく口にできた名前は、すごく特別な響きを持っていた。 「誰もいないし、誰も見てないよ」 「………うん」 自然と、歩く速度がゆっくりになる。 お互いに無言で、耳に届くのは、土を踏みしめる二つの足音だけ。 「那津」 「………うん」 「好きだよ」 握られた手の力が強くなる。 泰裕は毎日、まるで俺に言い聞かせるかのように、「好き」と言ってくれる。 疑っているわけじゃないけど、でも、その言葉を聞くたび、胸の奥がくすぐったくなって、そして、すごく、安心する。 それなのに俺は、泰裕からもらう気持ちの半分も返せないでいる。 「……………うん」 ごめん、泰裕。 俺はこんなに幸せなのに、それでもどこかで怯えている。 泰裕が、いつか俺の前からいなくなってしまうんじゃないかって。 いつか、俺以外の誰かを、俺以上に好きになって、俺の元から去っていくんじゃないかって。 怖いんだ。 幸せだから、幸せだと感じることができるから。 だから余計、失うことが、怖いんだ―――。 * * * 新学期が始まってからも、俺と泰裕の関係にこれといった変化は訪れなかった。 自分たちも、その周りも本格的に大学受験の準備に取り掛かり、当然、簡単にどこかへ遊びに行ったりなんてできなくなった。 それでも週末、予定がなければ泰裕の家へ行き、一緒に勉強して、おやつと夕飯をいただく、というようなことは何度もしていた。 泰裕の家のダイニングテーブルで、おじさんと、おばさんと、泰裕と、俺。 まるでこの家族の一員になったみたいな時間。 おばさんはおやつも絶品だけど、料理も上手で、レパートリーも豊富だし、どれもこれも本当においしかった。 おじさんはクイズ番組が好きで、夕食後に見るテレビを何より楽しみにしていた。 家族をすべて亡くしている一人暮らしの俺にとって、泰裕の家族と過ごす時間は、すごく、心が和む時間だった。 泰裕の部屋へ戻って、他愛もない会話の合間に短いキスを交わす。 小さな音を立てて唇を離した泰裕が、男っぽい掌で俺の頬をするりと撫でた。 「那津、今日泊まっていきなよ」 「え? でも――」 終電にはまだ早い。 これまでも、泊まったことがないわけじゃないけど、それはいつもうっかり電車に乗り遅れて、高校生が外をうろつくのにふさわしくない時間になってしまったときで、こんな風に誘われたことは今までなかった。 「那津」 泰裕は、俺の名前をよく呼ぶ。 熱いまなざし。 次いで首を撫でた手がするりと滑り落ち、腰を抱いて俺を引き寄せた。 「那津――」 「………!」 知らないわけじゃない。知識だってある。 今までだってそんな雰囲気になったことは、一度や二度じゃない。 でもあえて、それから目を逸らし続けてきたのは、俺。 知らないフリで拒否し続けてきたのは、俺。 一緒にいられるだけでよかったのに。 キスをして、触れ合って。 本当は、それ以上を望む自分にとっくに気がついている。 たぶん泰裕も同じ。それどころか、俺のためにきっとたくさん我慢、している。 でも怖い。 体を繋げてしまったらもう、後戻り、できなくなる。 それに加えて男同士、ということが、俺の恐怖感に拍車をかけていた。 もしも、もしも泰裕を失ってしまったら俺は、自分がどうなるかわからない。 怖い、怖い――。 それならいっそ――。 「………ごめん」 俺は泰裕の肩を掴むと、ゆっくりとそこを押して、泰裕から体を離した。 「ごめん」 「那津?」 とてもじゃないけど、目を見てなんて話せない。 「ごめん」 「那津」 繰り返す俺の顔を、泰裕が下から覗き込むから、慌てて目を瞑り、ぶんぶんと首を横に振った。 俺には無理。 だけど俺も同じ男だから、そういう気持ちは、わかる。 でも無理。嫌われたくない。もしも、途中で泰裕が止まったら? やっぱり俺なんて嫌だと表情に出たら? 今までの付き合いや、泰裕の性格を考えれば、そんなことないって頭ではわかってる。 でも信じきれない。この関係を変える一歩が踏み出せない。 今以上に泰裕を好きになるのが怖い。好きになりすぎるのが怖い。愛されるのが怖い。自分に愛情を注いでくれる人を失うことが、一番、怖い。 ごめん泰裕。 好きだよ。 好きだから。 「――別れよう、泰裕」 震えながら、言葉を搾り出す。 「那津」 「お互いのためには、こうするのが一番いいんだ」 「那津!」 「泰裕にはきっと、俺よりも泰裕にふさわしい子がいるよ」 心にもない言葉は、搾り出すたび、鋭く、深く、自分の胸をえぐる。 ごめん泰裕。 俺は、弱い。 きっと、俺は、耐えられない。 だから―――。 俺はゆっくりと立ち上がり、一度も泰裕を見ないまま、部屋の扉を開けた。 「――サヨナラ」 「那津!!」 背中に掛けられる言葉を振り切るように、早足で階段を駆け下りる。 靴を履いて、他人の家だというのに乱暴にドアを開けて外へ飛び出し、走って走って、めちゃくちゃに走って見つけた電話ボックスに飛び込んで、コンクリートの床にうずくまって、声を殺して泣いた。 『サヨナラ』 今まで一度だって言ったことのなかった四文字は、俺の胸にどうしようもない罪悪感と後悔を嫌というほど刻み付けた。 END 2008/08/14 [戻る] Copyright(C) 2012- 融愛理論。All Rights Reserved. |