誇大妄想 | ナノ




夜のおやつ

 扉の開く音が聞こえて、関口は半ば無心でキーボードを叩いていた手を止めた。作業用の眼鏡をテーブルに置き、リビングに姿を現した同居人を裸眼で見る。
「おかえり」
「ただいま。珍しいね、仕事?」
 帰ってくるなり失礼な、と関口は思ったが、考えてみれば機械類が不得手な関口は積極的にパソコンを使うことが少ないので、そう言われても仕方がないのだった。小説家のような仕事をしている関口だが、原稿は未だに手書きなのだ。時計を見るとまだ六時を僅かに過ぎたばかりだった。
「珍しいのはそっちじゃないか。こんな早く……あ、飲み会か? 君が出かけるなら僕は適当に食べておくけど」
 箱買いしてあるカップラーメンを探しながら言う関口の頭からコートを被せ、中禅寺は提げていたビニール袋をテーブルにドンと置いた。その中から出てきたのは生クリームと、アルミかスチールか知らないが缶が数本。その表面に「アルコール分3%」の文字を見て取って、関口は珍しいこともあるものだと再度驚いた。この中禅寺という男は敬虔なカトリックというわけでもないのに普段全く酒を呑まないのだ。それは単に彼が極度の甘党で、酒よりもケーキや和菓子といった甘味を好むからなのだが。関口も甘党であるので、中禅寺との同居を始めてから酒を飲んだのは数えるほどしかない。
「出かけないよ。夕飯は作るからちょっと待ってろ。――今日は金曜日、しかも月末だ。たまには酔うのも悪くないだろう?」
「ああ――」
 カレンダーを確かめると、確かに中禅寺の言う通りだった。十月の最終日、10/31――そういえば今日はハロウィンとかいうイベントの日ではなかったか。大学を卒業してから久しく縁のないイベントだが、中禅寺は意外とこうしたイベント事が好きなので何かしてやれば喜ぶかもしれない。
 キッチンに消えていった同居人の背中を見送って、関口はさてハロウィンとはどんな行事だったか思い出そうとする。大学ではテンションの高い連中が仮装をして騒ぎ立てる日という印象だったが、中禅寺はそういった馬鹿騒ぎには否定的で、元々の意味はどうだとか宗教的なことがなんだとかいうことばかり聞かされた記憶しかない。ぐるぐると考えているうちにキッチンから美味そうな匂いが漂ってきた。「皿、出してくれ」という中禅寺の声に呼応するかのように腹が鳴った。

「君の赤い唇に口付けしたらさぞかし甘いのだろうな」
 嘗めるようにちびちび飲む関口と違い中禅寺は弱いくせに飲むとなると馬鹿のようにぐいぐい飲むので、関口が一本の半分も飲まないうちに缶二本を飲み干し、すっかり出来上がっていた。酔った中禅寺は人が変わったようにへらへらと笑いながら、好きだとか愛しているだとか歯の浮くような台詞を並べ立てるのでとても心臓に悪い。どうせ翌日には言ったことの半分も覚えていないのだからいちいち真に受けるだけ無駄だとわかっているが、囁かれる甘い言葉に胸を高鳴らせてしまうのは――微かな恋の残滓の悪戯か。
「よし、やろう」
 不穏な言葉を口走り、突然中禅寺が立ち上がってキッチンに消えた。普段から何を考えているのかわからない男だが、酒が入ると表情豊かになる代わりに表情と行動が一致しないので予想もつかないことをし始めるのだ。ガタガタと何かを出しているらしい音が聞こえる。
 何をしているのかとキッチンを覗くと同時に、ハンドミキサーの作動音が響き始めた。そういえば酒と一緒に生クリームも買ってきていたが、酔っているのに菓子作りを始めるつもりらしい。中禅寺の甘党は食べるだけではなく作ることにまで及ぶ。趣味の範囲ながら完璧主義者のその腕前は素人とは思えないほどだ。
「何作る気なんだ?」
「これか?これはメレンゲだ。卵白に砂糖を入れて泡立てるとこうふわふわになってな」
「そんなの聞いてないし見ればわかる」
 言いながら中禅寺は泡立て終わったらしいメレンゲを置いて別のボウルを取った。
「君も手伝うといい。これはバターに砂糖と蜂蜜、卵黄、牛乳を混ぜたものだ。君は砂糖より蜂蜜の甘さが好きだから、蜂蜜を多めにしておいた」
 ボウルの中に生クリームを入れ、それを混ぜながら関口の手に篩と白い粉を入れた器を押し付ける。おそらく薄力粉なのだろうけれど、これは問答無用すぎるのではないだろうか。選択の余地がない。
「それをここにふるいながら入れて。間違っても君の可愛い手を真っ白にするんじゃないぞ」
「はいはい。頼むから二人で食いきれないほどは作らないでくれよ」
 関口はボウルの中に粉をふるい入れる。さらさらと粉を落としていくこの作業は(とても、というほどではないけれど)好きだ。小さい頃よく砂遊びをしていたのを思い出す。当時は一人だったが今は隣に中禅寺がいる。それが幸せというものなのだと思う。
 薄力粉をすべて入れ終わるとゴムべらで軽く混ぜ合わせ、中禅寺が先程泡立てた卵白を三分の一ほど入れて更に混ぜる。しっかり混ぜると残りを加え、今度は泡を消さないようにさっくりと混ぜる。最後にバニラエッセンスを数滴混ぜれば生地は完成である。
「さて。これを焼いていくわけだが、関口君、君は絶対に焦がすからテーブルでお皿とトッピングを用意して待っている係だ。いいね? 冷蔵庫にジャムと冷凍庫にアイスがある、好きなのを出していいよ」
 油をひいたフライパンに丸いケーキ型をセットし、ガスコンロの火を点ける中禅寺の背後で関口は冷蔵庫から食べかけのジャムの瓶をいくつか取り出す。黒いように見えて深い青色なのがブルーベリージャム。鮮やかな赤色は苺ではなく薔薇のジャムだ。こちらは高校の先輩である榎木津からの貰い物だが、あまり食べる機会がなくほとんど手を付けていない。それと中禅寺お手製の文旦マーマレード。今年の三月頃作ったものだ。瓶の数だけスプーンを用意しテーブルに並べる。飲みかけの缶を端に退ければお膳立ては完璧だ。
 陶磁器の皿を持ってキッチンに戻るとちょうど焼きあがるところで、皿を差し出すと丸くて分厚いパンケーキが乗せられた。とろりと蜂蜜をかけ、冷凍庫から出したアイスもついでに。酔っているとは思えない見事な仕上がりである。本来ならば紅茶かコーヒーが相応しいのだろうが、生憎夜も遅い今からカフェインを摂取するのは躊躇われた。牛乳を電子レンジで温め、これにも蜂蜜を垂らす。少量のブランデーを加えれば大人のホットミルクになる。
「ほら、早く食べてごらんよ。おいしいよ」
「美味しいのは知ってるよ。君が作ってくれたものが美味しくなかったことなんてないじゃないか」
「君への愛が入ってるからね」
 危うくミルクを吹き出すところだった。素面ならば絶対にこんな気障ったらしいことは言わない。聞いているこっちの方が恥ずかしいくらいだ。うっかり照れてしまったのを誤魔化すためパンケーキを切って一口頬張った。
「すごい、相変わらず売り物クオリティだな。榎さんのところで出されるやつより美味しいよ。ふわふわだし、蜂蜜の味がするのも好き」
「よかった。君がおいしそうに食べてくれるから僕もうれしいよ。そのアイスは豆腐アイスで甘さ控えめだから、君のその柔らかいおなかが更にぷにぷにになる危険性は少ないぜ。まあジャムかけてる時点で意味ないだろうけどな」
「うるさいな! 君の作る料理が美味しいんだから仕方ないだろ! ばか! 好き!」
 思わず本音が口に出た。3%とはいえ酒は酒だ、関口も酔いが回り始めているらしい。恥ずかしくて言えないような素直な言葉が堰を切って溢れてくる。
「君の作ってくれる料理も、お菓子も、すき。作ってくれる君もすき。――作ってくれなくても、きみがすき」
 顔が熱い。今、中禅寺はどんな顔をしているんだろう? 関口は俯いているので視界いっぱいに映るのはパンケーキの上でゆっくり溶けていくアイスクリームだけだ。
「せきぐちくん」
「っ、なに」
 呼ばれて反射的に顔を上げた関口は、中禅寺を見て一瞬驚きに硬直した。中禅寺の頬を濡らしている透明の液体、それは間違いなく涙だった。さっきまであんなに笑っていたのにと関口は困惑するしかない。おろおろしていると中禅寺は急に真剣な表情になって、
「けっこんしよう」
と言った。
「は……待っ、待て、きみ、自分が何を言ってるのかわかってるのか? 結婚って、きみ、僕のことなんか好きじゃないだろ?! いや、友人としてはわりと好きな方なのかもしれないけど、結婚だぜ?! そういう意味で好きなわけじゃないだろ?」
「すきだよ。巽」
 不意打ちで名前を呼ばれて、中禅寺に突きつけていたフォークが手から抜け落ちてテーブルに墜落した。このタイミングでそれは狡い、と声にならない悲鳴をあげる。友愛の意味で受け取るには、ほとんど吐息のようなその声は艶めきすぎている。中禅寺が狙ったかどうかは知らないが、関口はその声に名前を呼ばれるのがどんな言葉より好きだった。
 一夜明ければ覚えてもいないくせに、好きだよとか、あまつさえ、結婚しよう、なんて。
「ばか、君は冗談で言っていいことと悪いことの区別もつかないのかい?」
 冗談にしても酷すぎる。関口がかつて中禅寺に恋をしていたことを――あるいは今も恋をしていることを、知ってか知らずか、否、知らないはずだが、こんな期待させるようなことを言っておいて、朝になれば魔法が解けたようにいつもどおりの「友人」に戻ってしまう癖に。
(それでもこんな奴を好きな僕はさらに馬鹿だ)
 行き場を失くした関口の手を中禅寺は両手で包み込む。冷たい手。きっと関口と溶け合うことのない、低い体温。
「信じてくれないの?」
 関口の目を真っ直ぐに見つめ、傷ついたような顔をして中禅寺が言う。そんな顔をされたら、突き放すことなんてできやしない。
「……キスしてくれたら、信じてあげる」
 一夜の夢で構わないから、と、パンケーキよりも柔らかく、アイスクリームよりも冷たく、ジャムよりも蜂蜜よりも甘い口付けを求めた。
 中禅寺の手が関口の頬を包んで、二人の顔が近づいて、唇が触れ合って、それから――それから? そこから先のことは、よく覚えていない。


 幸せな夢をみたような気がする。
「――甘い匂い……」
 ケーキのようだけれど、少し違う。カスタードのような、そして古いインクのような、日焼けした紙のような――シーツにくるまって匂いを分析していた関口は、そこでハッと目を開けた。嗅ぎ慣れた匂い。これをいつも纏っているのは、今キッチンで甘い匂いを漂わせている友人。古書の匂いに満ちた此処は、中禅寺の部屋だ。
 起き上がってぐるりと室内を見回す。中禅寺の部屋の中禅寺のベッド。どうして自分はこんなところに寝ているんだろう、と首を捻る。ベルトとシャツは入口付近の本棚に引っかかっていた。ズボンはベッドの脇にくしゃくしゃのまま落ちていて、――つまり関口はパンツ以外何も身に着けていなかった。
 寝起きの頭には衝撃が大きすぎてうまく現実を処理できない。驚くべきなのか怒るべきなのか――とりあえず全身の調子を確かめて(ついでにパンツの中も)、どうやらセックスまではしてないらしいという結論に落胆しておいた。昨夜何があってどうなったのかよくわからない。どこまでが現実でどこからが夢だったんだろう。検証しようにも、時間を共有した唯一の証言者は酒の力ですっかり記憶が抜けてしまっている。それなら――すべてが夢だった、ということでいいかもしれない。きっと全部夢だったんだ。好きだと言ったことも、プロポーズされたことも、キスしたことも、全部。そうしてただの友人に戻ろう。
 拾い集めた衣服をもぞもぞと着直してリビングに向かう。中禅寺はいつもの白シャツとジーンズにいつものエプロンを着けて紅茶を淹れていた。甘い匂いの発生源は既にテーブルの上だ。
「おはよう。二日酔いになってないかい? もう昼になるぜ。昨日の残り物で悪いが、パンケーキをフレンチトーストにしたよ。食べるだろう?」
「ああ……おはよう。食べるよ、その前に顔を洗ってくる」
 中禅寺があまりにいつも通りなので、あれはやっぱり夢だったんだと関口は決めつけ、洗面所に行くために中禅寺のいるリビングに背中を向けた。それを見送る中禅寺が僅かに顔を赤くしていることに気づくはずもなく。

Fin.

材料(8個分)
小麦粉(薄力粉):150g
ベーキングパウダー:小さじ1/2
重曹:小さじ1/2
溶かしバター:大さじ1と1/2
卵黄:2個
牛乳:100cc
生クリーム:60cc
砂糖:小さじ2
卵白:2個分
バニラエッセンス:少々

小麦粉・ベーキングパウダー・重曹はホットケーキミックスでも代用できると思います
参考:「オーブンを使わない手作りのおやつ」婦人生活社

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