誇大妄想 | ナノ




桜の森の満開の中

『また、いつか。必ず』
 誰のものかも覚えていないその声が、時折耳の中で蘇っては、僕をひどく切なくさせた。


 その日は休日で、関口は冷蔵庫の中身と相談した結果、朝食を諦めてリビングのカーペットに横たわっていた。突然チャイムが鳴って慌てて飛び起きる。宅配ではないし、休日訪ねてくるような友人もいないはずだが、と訝しみながら玄関を開ける。
 一瞬、懐かしい匂いが風と共に吹き込んできた、ような気がした。都会では久しく感じなかった、緑と水の匂い。
 そこには全身黒尽くめの男が立っていた。パンクやゴシックという感じではなく、とても自然な雰囲気が尖った印象を与えない。表情は厳しいが、それを怖いとは思わなかった。
「今日から君とこの部屋で暮らすことになった中禅寺秋彦だ。よろしく頼むよ」
 にこりともしないで差し出された手をおずおずと握る。そういえば先輩の伝手を頼って格安で借りたこの2LDK、一部屋余っているなら貸してやってほしいと大学の後輩の鳥口から聞いて(というか、押し切られて)貸すことになったのだ。やけに冷たい掌はこちらの手をぎゅっと握り返し、すぐに離れた。すらりと長い指が玄関の外を指す。
「少し荷物が多いんだが、手伝ってもらえるかい?」
「あ、ああ」
 今日から居住空間を同じくするのだから、そのくらいは手伝うべきだと判断して、玄関前に積まれた幾つかの段ボール箱を見た。――確かに、去年まで一人暮らしをしていたというわりには、少し多いかもしれない。聞くと、
「殆どが本だから重いんだ。捨てられなくてね。すぐに溜まってしまう」
と言って苦笑した。

 中禅寺の本を部屋の中に運び込むと、元々広くはない部屋の面積が半分になってしまったようだった。持ち主は申し訳なさそうに眉を下げて関口を散歩に誘う。
「見たところここ数日外出していないだろう? 桜が綺麗に咲いているんだ、見に行こう。昼は奢るよ」
 気乗りはしなかったが、暫く外出していないことは事実だったし、昼食奢りは魅力的で、結局関口は新しい同居人に連れられて狭い部屋を出た。
 屋外に一歩踏み出した途端、春の陽気に包まれる。むせ返るほどの花の匂いと陽光の眩しさに頭がくらくらする。ふらついた関口の腕を取って、中禅寺は心配そうに顔を覗き込んできた。
「ほら、何日も家に籠っているからだよ」
 ……いや、馬鹿にしている。真正面から見た中禅寺の貌は綺麗に整っていて、こうして人を馬鹿にしたような厭な笑みを浮かべていなければ、さぞ魅力的に映ることだろう。男にしては少し長い黒髪も艶やかで、ある種の人間を強く惹きつける不思議な美しさがあった。そして深い闇のような瞳に、関口は囚われて目を離せない。

 今の住居に引っ越してからもう二年になるが、近所にこんなに見事な桜並木があることなど知らなかった。素直にそう感嘆すると、中禅寺はまたあの厭な笑みを浮かべて「きみはもう少し出歩くべきだね」と痛いところを突いてくる。
「昔はもっと外で遊んでいたじゃないか。自然の中で育ったのだ、こんなところでは息が詰まるだろう」
「――え?」
 確かに関口は田舎の育ちで、幼い頃はよく山や海で遊んだものだ(もっとも、自然以外の遊び相手がいなかったからである)。しかしなぜ、初対面のはずの中禅寺がそれを知っているのか。初対面のはずなのに初めて会った気がしないのはなぜか。人見知りをする性質の関口がこんなにも心を許してしまっているのは――なぜ?
 ぶわりと風が吹いた。また、あの懐かしい匂い。桜の花びらが風に散らされて、視界いっぱいが桜色に染まる。その中に佇む黒い人影――中禅寺。
 関口はその人を――ずっと昔から知っていたのだ。
「きみ――きみ、秋彦なんだね」
「うん――久しぶりだね。巽」
 幼い関口にはその少年以外には遊び相手も、心を許せる相手もいなかった。彼だけが唯一の友人だった。関口が両親について村を出ることになったとき、満開の桜の下で、約束をしたのだ。
「言っただろう?『また、いつか。必ず』きみを見つけて、迎えに行くと」
「ああ――覚えていたよ。きみはあんまり変わっているものだから、わからなかったけど」
「良かったよ、忘れられていたんじゃなくて。きみは忘れっぽいから。――迎えにきたよ。一緒に帰ろう」
――帰るって、どこへ?
 関口なりにこの街で居場所を作ってきたのだ。それらを捨てて、どこへ行けというのか。生まれ育ったあの村へはもう帰ることができないのに。
「僕ときみが出会ったあの森に。僕たちの生きるあの山に」
 風が止む。青い空に白い月が浮かんでいる。中禅寺の黒い影がすう、と伸びて、やがて人ではない形になった。


「関口先輩、まだ見つからないんですか?」
「ああ。知り合いの刑事に聞いた話では、退去の手続きはされてて、普通に引っ越しただけじゃないかって話だ」
「でも誰も引っ越し先なんて知らないし、そもそも引っ越しするなんて聞いてないじゃないですか」
「――神隠しかもな」
「神隠し?」
「あいつ、時々昔の話をしてた。神隠しに遭ったことがあるんですよって」
「……それじゃあもう、会えないんですかね」
「――それこそ、神のみぞ知るってやつだろうさ」

2015/04/04

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