Schatz | ナノ






救われない男



 意識の浮上とともに開いた目に映ったのは木目の天井だった。暫しその不規則な模様を呆然と眺め、脳が働きはじめるのを待つ。此処がもし見知らぬ場所であったならそんな悠長なことは出来なかっただろう。私は木目の天井を見乍らの一呼吸で、此処がどこなのかを察することが出来ていた。
 京極堂の家だ。
 吸い込んだ空気に微かに香った古本の匂いが決めてである。
 私は店裏の住居区の一室で、夜具の中に寝かされていた。
 部屋を仕切る障子の和紙へ仄かに光が透けて薄明るい。まだ夜が明けて間もないようで、雀の囀りが遠くから耳に届いた。鳴きやむと忽ち静とした。
 緩慢な所作で身を起こす。
 ゆるやかに晴れていく部屋の中で、私は網膜にうっすら張りついている夢のワンシーンを虚空に映写して見入った。牢に囚われた私の前に立つ黒い男の姿。
 私はどうして此処にいるのだろう。
 そこへ、ツツ……と障子が開く気配がした。
 顔をそちらに向けると、やわい朝の光を背にして立つ紺色の着流しが立っている。
 京極堂だ。
 京極堂は平生の仏頂面ではなかった。他の人間が見れば無表情にしか見えないだろう。ただ、私の目には常より目つきが穏やかに見えた。

「多少顔色は良くなったな。気分はどうだい、関口君」

 穏やかな目のまま笑いもせず、淡々とかけられた言葉はいたく胸に沁みた。私は云とも寸とも答えず朝日のまぶしさに目を細める。障子の隙間からあふれる光と、逆光で影法師になっている男の視線から、全身で身の安泰を感じていた。

「その大層なミス・プリントはどうした?」

 襟元を人差し指で指し乍ら云われ、何のことだか分からずワイシャツの襟をつまんでみる。そして其処にあるものを見て戦慄した。
 薄汚れた赤黒いミス・プリント――かろうじて唇の形を保っている、口紅の跡。
 一気に昨夜の出来事を思い出し、感情の波に攫われる。
 あの女だ。あの女だ。
 私はワイシャツの釦を引き千切って辺りに飛ばし乍ら、まるでそれが恐ろしい病原菌であるかのように全力で脱いで前方へ投げやった。それでも足らずに背が壁に激突するまで後退りする。むき出しの背にごつごつした壁の感触を感じる。薄ら寒さが背骨を駆け上がる。焦点の合わない瞳、罅割れた唇、おどろ髪、脳裏に去来した忌わしい記憶が針の狂った蓄音機のように何度も何度も再生される。
 私は頭を抱えて呻いた。ただの記憶だったものは今や陰惨で悍ましい悪夢となって私を苛む。どうしてこんなに息苦しいのか。海底に沈められたように。嗚呼、視界が揺れる。目の前を黒幕が遮った。

――黒幕?

 音もなく唐突に、私の視界は濃紺の着流しの袖に遮られた。次いで頭を抱える手の上に痩せ腕が被さる。その腕が、男の平たい胸元へこの身を引き寄せ、混乱する私をおさめた。

「少し、落ち着きたまえ」

 低い声が私の耳を抜けていく。すると、頭の中でぐるぐる回っていた恐ろしいものが再生の速度をゆるめていった。息苦しさも幾分やわらぐ。深呼吸をくり返す内に正常な思考を取り戻す。
 そして眠っている時に見た夢と現状を重ねた瞬間、己の真実に気づいた。
 私の口は自然と開いた。

「悪い夢を見た」
「そのようだな」
「だが」
「うん」
「いい夢も見た」
「そうか」
「ああ。本当に」

 いい夢だったと云う私の目から涙が流れ落ちる。それは安堵からくるものではなく、殆ど絶望に近いものから湧き出る悲涙だった。
 牢の夢は、私が無意識に抱いていた願望そのものである。いつの頃からか定かではないが、私は京極堂に殺されることで救われたいと、そんな愚かで馬鹿々々しい夢を胸に秘めていたのだ。
 己の本心を見てしまった今の私は泣くより他はない。どうしたってこの男は私を生かす救済しか与えてはくれないのだから。





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