もうやめてよ、とまず思った。今そんなこと考えられない、とりあえず何も考えず独りになって休みたい、と思った。心の声が聴こえている、という神崎さんには伝わっているはずだったけど、彼は目を逸らさなかったし質問を撤回しなかった。許してくれる気はないようだった。仕方なく考える。明日。明日もまたここに来る? いつも通り9時頃出勤して、とりあえずみんなにお茶をいれて、佐伯さんと今日のことを、話したり、


「ごめんなさい、」


考えることなく、口が動いていた。言い切った後、喉がひくっとなる。あ、泣く、うそ、と思っているうちに、目のふちにじわっと熱い水が盛り上がる。瞬きをすると睫毛のところでちぎれて落ちる。もうむり、自分の口から喘ぐような言葉が漏れた。泣こうとも、言おうともしてないのに。自分が被害者みたいに泣くのはなんか違うと思うのに。止まらない。自分の心と体がちぐはぐだ、自分の心が受けているらしいダメージがわからない。涙をこらえようとすると鼻の奥と眉間がぎゅっと痛む。

俯くと、神崎さんが一瞬こちらに腕を伸ばしかけたのが見えた。涙を見て、とっさに、という感じに。手はこちらに届くことなく、膝の上に戻されて握りこまれる。


「謝ることはないよ」


彼は私を責めも慰めもしなかった。もともと感情を表に出さない人だけど、今私に向けられている感情も一切わからなかった。その伸ばされかけた手の意味も。


「でもこれで君は部外者だ。明かせることはほとんどない。わかるよね」


わかるよね、と言いつつ私のリアクションも待たず席を立つ。ギシ、とソファのスプリングが戻る音がする。そのまま奥のデスクスペースに向かう足音、引き出しを開けて何か探すようにガサガサ紙を鳴らす音、なんかを聴いた。何も考えずに。だらだら出る涙と鼻水をただ袖で拭いながら。


「辞めるのに要る書類がわからないな……後日郵送で届くと思うけど、まぁそれくらいは我慢して返送して、って、聞いてる? 聞いてないよね?」


もう彼が何を言ってるのか斟酌することもなく、うんうんと頷いた。郵送、我慢、返送、ちゃんと聞いておかなければと頭の一部で思うのに、その他の大部分が考えることを拒否している。頭がグズグズに汚い水を吸って冷えたスポンジのようだった。俯いたつむじに呆れたような視線を感じる、気がする。


「じゃあね。サヨナラ」


話は済んだとばかりに、神崎さんは奥、自分のデスクのある方へ帰った。サヨナラ、という言葉を、うなだれた後ろ頭で聞いた。バイバイとかまたねとかじゃない、さようなら、という言葉を久しぶりに聞いた気がする。彼はもう、私の人生に関わる気はないのだ、ということを強く感じた。面白半分に職場を掻き回して、というような憎しみさえ、彼は私に持っていない、ということも。

のろのろとソファから立ち上がった。どうしたらいいかわからなかった。私も少し奥に入り、とりあえず自分の椅子に置いていた鞄を取った。しばらく立ちすくんだ後、玄関に向かう。振り返って支部内を見回す。明日からも来る? と訊かれて、来ない、と答えたのだから、私はもうここには来ないのだろう。他人事のように思った。刃心くんにも、りっちゃんにも……佐伯さん、にも、何も言わずに、もう2度と会わない他人になる。そのことに対してどんな感情を抱いていいのかわからなかった。何かお礼とかお詫びとか、せめてこれだけ言っておきたい、しておきたい、ということも全然わからなかった。わからないまま背を向けて、約2週間勤めた職場を出た。まだ涙が止まらなくて、コンクリートにいくつも黒い丸い水滴跡ができる。

1ブロック歩いて、1度振り返ってしまう。灰がかったオレンジの夕闇を背にして、もう他の建物と見分けのつかない、無機質な灰色の塊として、超能力対策機関日本支部は佇んでいる。私の影だけが、支部の方に、名残を惜しむように長く長く伸びている。






Contd.


→あとがき。








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