支部の玄関に入ると、ソファに座っていた刃心くんが目を上げた。珍しく起きていたらしい。いい年をして人に手を引かれ、どんな顔をしているのかわからない、多分一生で一度もしたことないような顔をしているであろう私を見て、さらに珍しいことに微かに目を瞠った。


「いじめたのか」

「バカ言わないで」


愚直な問いに、神崎さんはうんざりしたように返した。彼も疲れているのかイライラしているのか、ジャマだから煙草でも吸ってきて、と刃心くんをソファから手で追い払う。かなりひどい言い草だったが彼は気を悪くしたふうもなく腰を上げた。去り際まで私の顔を、気のせいでなければ心持ち気遣わしげに見ていた。朝いたあの子供はどうした、とは、訊かなかった。


「さて」


刃心くんをどかして手に入れた、ソファのスペースに神崎さんが座ったので、私も向かいに座った。特に何も考えていなかった。考えられなかった。脳が熱の余波でまだ茹でられてるみたいに、水を吸ってぼうっと膨らんでるみたいに、鈍い。神崎さんが何か言った気がする。私は何をすればいいのだろう。今は午後4時過ぎだ。今日はいろいろあったし、今からできる仕事もないから、帰って、明日また普通にここに来て、掃除を、


「ねぇ、って」


ぱん、と軽く目の前で手を叩かれて我に返った。

ローテーブルに、公園に出かける前に、あかりちゃんが描いた絵がのっていた。おうちの絵。赤い屋根の家の前で、お父さんお母さんらしき人と、あかりちゃんが笑っている、絵――……を見ていると、じわぁと視界が歪んだ。あの子は、あかりちゃんは、本当にこうやってずっと家族と遊んでいたかっただけなんだ。そりゃだからってそんなことしていいわけないけど、けどさ。

なんで、と口から、零れる。


「なんで、死ななきゃいけなかったんですか、あの子」


言ってはいけないことを、彼にぶつけるべきでないことをぶつけている、という感覚はあった。でももう止まらない。

なんとなくはわかる、あかりちゃんはあの現象を引き起こしたから殺された、というのはわかる。でもそれは故意なの? 彼女の罪なのか? なんで彼女にそんなことができてしまったの? 私があかりちゃんと過ごした2日間とか、そもそもあかりちゃんの4、5年の人生とかは、どうして失われなくちゃいけなかった? この湧き上がる疑問を、うねる感情を、誰かにぶつけたい。誰かに、何かのせいだと、これを憎めばいい、糾せばいいと言ってほしい。そうしないともう、もう私が、


「何なんですか、超能力って……いったい、何なの」


私が限界だ。

神崎さんは表情のない顔でしばらく私の顔を見ていた。永遠にも思えるような数秒が過ぎた。無表情なまま、そんなの、と唇が動く。


「そんなの僕らが聞きたいよ」


我知らず掴んでいたTシャツの胸元を、ぐっと握った。握りこんで、引っ張られるようにして俯いた。どんな顔をして彼がそう言ったのか、見る勇気がなかった。


「君も被害者だ、責められる謂れはない。でも『どうして殺した』なんて、君にだけは言われたくない」


聞きたくない、ととっさに思う。卑怯だ。自分が尋ねたくせに、聞きたくないってことは、ある程度答えがわかっているくせに、


「君を助けるため以外に何があると思うの?」


Tシャツが胸元でグシャグシャになっている。言うべき言葉を搾り出すみたいに強く掴んでも、喉の奥からは嗚咽みたいな息のかたまりしか上がってこない。またあの額の黒い穴を、光のない黒い目を思い出しそうになって、うっと吐き気がこみ上げた。こらえたら、背中にどっと気持ち悪い汗がにじみ出た。


「もう『変えられてしまった』人間のことは、言葉は悪いがどうしようもない。とりあえず園山あかりと引き離して、治るか治らないか様子を見るしかない。だから園山あかりにも猶予はあった。これ以上新たには人を同化させない、という証左を示せれば、生かしておくこともできた」


今、思い返したら、彼らが踏み込んできたときの私は、私の思考は異常だった。私を見たときの彼らの反応から察するに、多分外見も、今の私のものではなかったのだろう。わかっている、本当はわかっている、


「『今まさに変えられている』君がいなければ」


私だけが、助かるか助からないかの、瀬戸際だったのだ。あの瞬間。
だから、殺した。私を助けるために。

他に、万に一つでも、あかりちゃんを殺さずに済む方法があるなら、佐伯さんはそれを選んだはずだ。それがどれだけ自分に対してリスキーだったり、面倒極まりなかったりしても、絶対。そのくらいわかる。そういう人だ。でも殺した。私がいたから。支部員のひとりで、守るべき部下である私が、いたから。私があかりちゃんにされて、もう一生元に戻らないかもしれないことと、あかりちゃんを殺すこと。岸本愛の一生と園山あかりの一生を天秤に乗せて、私を確実に救う方を、選んだ。

そんなことわかってる、と怒鳴りかった。誰にでもいいから。理不尽だと自分でも思うけど。ふっと息を吐く気配があった。神崎さんも少し気が立っていたらしい、再度口を開いたときはもう、言い募ったときとは違う冷静な声を取り戻していた。


「配属数週間であんな能力に見舞われたことは不幸だと思う。まさか、普通に生きていて1回も目にしない人の方が多い超能力に、よりにもよってここに就職して早々出遭うはずがない、という見通しの甘さがあったことも認める。申し訳なかった。あの子供に不審を抱きながら、君の元に預けた手落ちを心から恥じる」


神崎さんは両膝に両手をついて肘を折り、私に頭を下げた。2週間見ただけで、多分かなりプライドの高い人だと思わされた彼が。驚いたし、やめてください、と言うべきだったのかもしれない。でも何も思わない。彼の言っていることもしていることも、私に響かないというか、理解できない。ぐあっと瞬間的に血が上って沸騰していた頭が、反動のように、石のように冷えて固まっていく。シャットダウンしている、と他人事のように思った。脳が心を守れと判断している。

単純に彼も自分の感情のためにそうしたようで、特に私の反応がなくても頭を上げた。目にかかった金髪をすっと払って続ける。


「訊きたいことはいくらでもあると思う。でも先に、僕からひとつ尋ねさせてほしい。答えによっては、こちらも誠心誠意君の疑問に答える」


赤い瞳が私を見る。簡潔な一言を、吐き出す。


「君、明日からもここに来る?」






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