それでこの人は、今俺に何を言いたいのだろう。

と、佐伯縁は思っていた。

日本支部には、定時という概念がない。時給、残業、といった概念も、タイムカードに打刻する装置もない。月に1度、支部長たる彼が、全員分の出勤時間を適当に集計した勤怠表を提出するだけだ。改竄し放題だ。ゆえに誰が何時に来ようと、何時に帰ろうと自由なのだ。
仕事に区切りが付かない。観たい番組が今にも始まる。スーパーのタイムセールまで時間がある。もう少し待っていたら雨がやみそう。なんとなく人恋しい。どんな理由で残ってもいいし、どんな理由で帰ってもいい。彼自身が日本支部に入所した当時、まだ支部長でも何でもなかった頃、このゆるさに救われたと感じていた(16歳だった。まぁいろいろあったのだ)。己が支部長になった際にも、この社会的には悪習極まりない、というかありえない制度を守った。なので、支部員が支部に残っていること自体は大いに歓迎である。しかし。


「神崎さん起きてます?」
   

返事の代わりのように、ソファの陰からはみ出している足が揺れる。ソファにうつ伏せになって、足だけを立てているらしい。そのまま一定のリズムで揺らし始めた足が、猫の尻尾のように見える。
この人が20時、21時まで残っている、その理由が人恋しさなんて微笑ましいものであるはずがない。何か自分に話したいことがあるのだ。それならばさっさと話して帰ればよいものを、プライドなのかなんなのか、こちらから水を向けないと話さない。この年上の部下の性質を、面倒くさいともちょっとかわいらしいとも思う。


「中山さん、子供苦手なんですね。知らなかったとはいえ、悪いことをしました」

「なんで皆そう言うかな。そりゃ君たちは謝れば楽だろうけど、こっちはいっそういたたまれない。正しいことをしたんだから開き直ってよ」

「なんでなんでしょうね。知ってますか?」

「原因に心当たりはある。推測だし、勝手に聴いたことだから話せないけど」


能力によって知りえたことは他言しない。神崎の自身に定めたルールは鉄壁だ。意外だっただけで無理に知りたいわけではないので、引き下がって話題を変える。むしろ本題はこちらだし、神崎にとってもそうだろう。


「彼女、ナントカあかりちゃんの方ですけど。聴いてみましたか?」

「もちろん。でも子供はダメだね。思考が論理だってなくて意味不明だし、すぐ近寄らせてくれなくなったし」


背もたれに隠れているのだが、はっきり眉間に皺を刻んでいるのが目に見えるような、うんざりした声が返った。

他人の心を読む。一言でそう括れる超能力にしても、「読み方」は様々である。他人の意識を追体験するように丸ごと読み取るもの。言葉や映像として受け取る、そのどれとも微妙に違うもっと抽象的なイメージを感じ取るもの。
神崎の超能力は「他人の思考が音、声として聴こえる」という、比較的想像しやすいものではあったが、文章で以て思考する人間にしか使えないらしい。文章以外で思考するというのもピンとこない、と初めて聞いたときに思った佐伯ではあるが、子供の思考が整然とした文章でないのは納得できる。


「こっちだって近寄りたくないっていうのに」

「昼から思ってたんですけど。神崎さん、別に子供嫌いじゃないでしょう」

「子供だからどう、という考えがそもそもおかしい。好ましい人間が偶然大きかったり小さかったりするだけ」

「屁理屈ですねぇ」

「僕は子供全般が好き、という人間の方が異様に感じるよ。妹がいたせい?」

「どうなんでしょうね。好きというか、不幸にしてはいけない存在のように思えるんです」


妹。

亡くしたのは佐伯が12の時だった。当初は同じような年頃の幼児を見ることもつらかった。高校生くらいになれば、「生きていればこんなんだったかな」というような感傷が混じる余裕ができた。子供好き、と称される性格形成のもとになったかもしれないが、もう、その程度だ。妹の存在とその喪失は。もっと若い、触れたらまだ血の流れそうな別離の記憶はいくらでもある。

だから、訊いてくれたら話す準備はあったんだけど、まぁ聞いて気持ちいい話でもないし、昼間の一幕をぼんやり思い出す彼の意識を、


「でも、あの子は嫌いな方だな」


はっきりと、やや吐き捨てるようでさえあった台詞が現実に戻した。耳を疑った。昼間、ここで預かっていた女児。うるさく泣き喚いたり走り回ったりすることはなく、神崎に菓子か何かをもらい、礼を言っていたところも見た。大人しく、その年なりに礼儀正しく、人見知りはするが、懐く人には懐く子供。世間一般に好まれる、大人の求める、「子供」。にしか見えなかった。


「どこが気に障ったんです」

「気に障った、というか。変だと思わなかった?」

だからどこが、と訊くと、これだから、子供だと思って、と苛立ったような呆れたような口調が返る。


「この季節、空調もない環境にまる1日いたら子供はもっと消耗してるよ。彼女は清潔な服を着て、栄養状態も良く、脱水状態でも疲弊してもいなかった。少なくとも2、3日前まで誰かの庇護を受けていた。いくら4、5歳の子供でも、数日前のことを説明できないなんて記憶障害だ。意図的に隠したんだよ。昨日までのことを」


自分が疑われているのがわかったから、僕を近づけさせなかったんだろうね。
冷静に分析する、成人男子にしては高い声が、無機質なオフィスに響く。そんな、と思った。思ったが、そんな、に続く言葉が思い浮かばなかった。


「自分に好意的な人間に取り入り、敵対的な人間を謀る。大人子供の問題じゃない、悪巧みや隠し事をする人間としない人間がいて、彼女はする方の人間だ。それだけのことだよ」

「謀る……って」

子供だと思うな、と言われたばかりでも、子供のすることに不釣合いな動詞に思えるそれをやや呆然として繰り返す。


「あの子の狙いが何かなんて知るわけないけどさ。あまり長くも深くも付き合わない方がいいと思う。それだけ」


そんな自分をよそに、言いたいことは言い終えた、というように神崎がソファから身を起こす。蛍光灯の光を受けて輝く金髪が、黒いソファの背もたれから覗いた。自分だけすっきりしやがってと思いながら、タブレットを鞄にしまうだけの帰り支度を見た。こちらは今聞いた不穏な話に、仕事の進まないままこんな時間を迎えているというのに。

それはつまり、神崎の言う、悪巧みをするタイプの人間が、悪巧みのできないタイプの人間の家に上がりこんでいるということか。今夜。

とっさに、岸本愛に何か伝えようかと、机の隅をスマートフォンを手にとった。すぐに置いた。バカな。何を言えと。なんとなく嫌な感じがする、などと彼女に伝えても、無駄に心配させるか呆気にとられるかするだけだ。佐伯は自分を勘の鋭い方ではないと思っている。自分のする心配はほぼ取り越し苦労に終わるし、今回も多分そうだと知っている。

「じゃあね。また明日」

なんとなく嫌な感じ、を残したまま日本支部の夜は更けていく。






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