早々に自分の至らなさを突きつけられ、しおしおと始めた子守だったが、以降はウソのように順調だった。私がもしやこれがマイ超能力? と思わんばかりの子守スキルを発揮したから……ではなく、あかりちゃんが天使のように扱いやすかったからである。

遊び道具がナイなんてまったくバカな悩みだった。彼女は私が湯飲みを洗うだけで、布巾を熱湯消毒するだけで、仮眠室のシーツを洗いマットレスをはたくだけで、目を大きくし口を開けて見入ってくれた。私でさえ、普段私のしてることってもしかして大変意義深いミッションなのでは? と思ったくらいだよ。気のせいだけど。
世の3〜5歳児を知らないけど、こんなに傍にいて苦のない子、稀じゃないだろうか。あかりちゃんの親御さん、あまりにも手がかからなすぎて、いなくなったことに気がつかなかったのでは、なんてバカなことさえ思えてくる。ダメな子ほど手をかけてもらえる、それが悲しきこの世の定めだ。

さすがにあのやり取り以降階下には降りられなかったので、基本2階以上の、主に給湯室・仮眠室・屋上にいたのだが、さすがにやることは尽きてきた。当初の予定通りガーデニングに移行しようか、と1階に下りる。手を引いてそそくさと1階フロアを横切る。ちらりと見ると律のデスクは空席だった。早退したのかな。胸が痛む。玄関先に出て空を仰ぐと薄暗く、


「7時て」


腕時計を見て思わず呟いた。ちなみに私の普段の退所時間は5時前後である。あかりちゃんと遊ぶのが楽しくて時を忘れるとは、どっちが子供かわかったもんではない。さすがにガーデニングは中止して佐伯さんのデスクに近寄った。あのう、と言うと、帰られますよね、そろそろ、と返される。彼も気になっていたらしい。


「申し訳ありません、遅くまで……しかもそれだけ待ってもらったのに、いい知らせはないです」


机の隅のスマフォに触れながら言う。どうやら私はいい知らせを待って今まで残っていた、と思われているらしい。じゃあそういうことにしておこう。
……しかしいい知らせがないてことは、つまり今の今まで、うちの娘がいないんです! と交番に駆け込んだ人はいないってことか。うーん。夕方遅くまでの仕事だとか、事情はいろいろあるだろうけれど、さすがに何してんのよ親御さん、と思わなくもない。私が幼少期にコレをされたら高校生くらいまで根に持つぞ。


「……じゃあ、どう、します……? あかりちゃん……」


待ってて見つかる保障があるなら、いつまででも私はここに残るし、なんなら泊まってもいいんだけど。給湯室も仮眠室もあるし……いや無理かな。廃墟の立ち並ぶ中、廃墟と大差ないここに泊まるのは無理か……いやでもそうしたら私はその廃墟と大差ないここにあかりちゃんを一人置いていくと? ありえん。


「今日泊まっていきません?」


へ!? と声をあげそうになった。さ、佐伯さんそれはさすがにちょっと大胆では、と思ったが、彼の顔は完全に90度右、応接スペースの方を向いていた。


「イヤ」

「神崎さんはどうせ断るから誘ってませんー。鴻上さんに言ったんですー」


ああうん。岸本さんも誘われてないよね。当然だよね。


「構わんが、何故だ」

ソファから身を起こすことなく、刃心くんが尋ねる。ちなみに彼は、あかりちゃんに敵対的でも友好的でもなかった。おそらく煙草を吸いに2階を通る度、あかりちゃんがいることを忘れていたかのように目をぱちぱちさせ、納得したように頷いて去っていった。なんとなく動物っぽい人である。


「今夜、その子、ここで預かることになると思うんですけど。なんか……俺と幼女2人きりってどうなのかと思って……」

「やましく思われるとむしろ不安だよ支部長」

「というか、それに俺が参加したところで特に事態は好転しない」

「ね。大の男2人でいたいけな幼女に何をするのか、って感じだよね」

「言い方だろ! 何もしねーわ!」


佐伯さんはツッコミ時だけたまに敬語でなくなる(初めて聞いたときは、本気でキレているのかととてもビビッた)。私以外に対するときの一人称は、俺、である。2週間弱で得た知識。
何も言わない、やはり頭上で交わされる言葉に興味すら示していなような、あかりちゃんの頭を撫でた。親元を離れて初のお泊まりって、私は何歳が初めてだったろう。5年生かな。臨海学校。それでも、夜になると寂しかった記憶があるよ。

なんだかなぁ。たまらないなぁ。


「私のうちに、連れて帰ってはダメでしょうか」


猫を撫でるようにあごの下をくすぐりながら、自然と言っていた。さすがに出しゃばりすぎ、と自分でも思ったのだけども、乗りかかった船じゃん、という気もした。


「だって、佐伯さんもここに泊まることになっちゃうんですよね」

「私はもともとほとんどここに住んでます。家が遠いので」


……廃墟と大差ないとか思ってごめんなさい。

私への負担が大きすぎるというのが問題ならそれは気にしなくてよいこと、責任がどうというのはどこで預かっても付きまとう問題だということ、佐伯さんや刃心くんに大して懐いているとも言えないし、私といるのがあかりちゃんにとってまだマシなのではということ、などを話した気がする(最後の項目に佐伯さんはやや傷ついた顔をした。申し訳ないが事実は事実だ)。あわや昼間の預かる預からないの第2ラウンドかと思ったが、彼は意外とあっさりと頷いた。佐伯さんももうどうにでもなれという気持ちなのかもしれない。


「すみません。本当に助かります。通るかわかりませんが、何らかの手当てをつけます」


そんなものがほしくて言ったわけではないことは佐伯さんもわかっているだろうから、アハハ育児手当ですね、と軽く笑って流した。貰ってみて高額だったらその時断ればいい。じゃあ何がほしくて私はこんなに必死にこの子の面倒を見たがるのかなぁ、とちょっとだけ思った。あかりちゃんが不憫、という理由以外に、何か。


「彼女には、替えの服や下着が要りますね。すみませんが、帰りに買ってあげてくれますか。とりあえずコレで」


確かにこの季節、肌に触れる服を1日替えないのは耐え難いだろう。言ってくれてよかった、お風呂から上がって気づくところだった。さすがに服は貸せない。ところでその財布から無造作に出した万札は経費で落とすんでしょうね。この人は簡単に身銭を切るのだ。受け取りかねて手を胸のあたりでさまよわせてしまう。


「後になってから意外と入り用なものも出てくるものですし……外で夕食食べてもらってもいいですし。今日のねぎらいと思って下さい」


いやあなた(のポケットマネー)にねぎらわれる謂れはないのだ……と思いながら、できるだけ安くあげて残りは返すことを誓いながら受け取った。受け取らないと終わらないもん。駅前まで車で送りましょうか? という提案は丁寧に、だが固く辞する。この人は底なしに甘い、応じていたらキリがない、ということを学びつつある。何か新しい情報を得たら、夜中でもすぐに連絡する、ということを約束しあって、支部を出た。

東京近郊の夜空は、といっても東京近郊のしか見たことないけど、完全に黒くはない。もやもやと淡いピンクを混ぜたような小豆色だ。柔らかな夜の中、朝、あかりちゃんがうずくまっていた植え込みの陰には、ただ暗闇が滞っている。あれが約10時間前で、私は朝見たその子を家に連れて帰る。そう思うとなんだか、笑い出したいような気持ちになる。体は普段より疲れてるけど、気持ちが子供に引っ張られたように、妙に元気だ。エネルギーに満ちている感じ。


「せっかくああ言ってもらったし、ご飯も買って帰ろっか」


一人暮らしもこの春始めたばかりである。普段のチャーハン・焼きそば・野菜炒めのローテーションをこの子に食べさせるのはなんだか気が引ける。どうせ子供の下着なんてコンビニに売ってないし、駅前のデパートに行っちゃおう。8時くらいに閉店だよね、急がないと。つないだ手をぶらぶら揺らすとあかりちゃんは不思議そうに首を傾げる。


「あかりちゃんは、ご飯、何が好き?」

「……グラタンとか」


うわあ子供っぽい一面を見た気がする。一面っていうか、全面的に子供でもいいはずなんだけどね、子供だし。胸の中に灯がともるような温かい気持ちと、きゅーんと悶えるような愛くるしさが込みあげた。本当に天使だな、この子は。恐ろしく扱いやすく大人しいくせに、たまに子供らしいかわいいことを言って。

私にやることをくれた、天使だ。

私はなんであんなに必死にこの子を預かろうとして、今家にまで連れて帰ろうとしているのだろう。ずっと考えていた。今、胸に満ちる温かい気持ちと一緒に思い出すのは、佐伯さんの、本当に助かります、と言う、声だった。あかりちゃんが不憫だった、それは確かにある。でも、一番は。

私は彼ら、というか、主に彼、佐伯さんの役に立ちたかった。

違うかな、役に立ちたかった、と言う言い方は美化しすぎかもしれない。認められたかったとか、必要とされたかったとか……はっきり言おう、岸本さんがいてよかった、と思ってほしかった。就活でボロボロになった存在意義を回復したい、雇ってくれた恩を返したい、というのよりももっと、自分勝手な動機。私は多分、彼と仲良くなりたい。信頼されたい。そうしたらいつか過去の話だって――……


「いたいよう」


ささやかな決意とともに、柔らかな手をこころもち強く握ってしまったらしい。ヒィ! ゴメン! と謝ると許すように穏やかに微笑まれた。どちらが大人かわかったものではない。温かな柔らかな手は、握るだけで胸のうちに、勇気というかやる気というか、そういうポジティブなものを灯すようで。いまだに彼女のことを警察に届けていないという点では親御さんに眉をひそめるしかないものの、彼女を、

あかり、

と名づけたことだけは、すばらしいな、と思った。






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