「……あ。それで。ありがとうございます」


ぽんと思い至り、呟くと、彼はまた問い返すように小首を傾げた。そういえば1メートル以内にいたままだけど、まぁ、いいのか。彼がイヤと言わないなら、いいや。Tシャツの首の後ろ辺りに指をひっかけ、ぐいーんと引っ張って見せた。ああ、納得したように彼が頷く。

エレベーターが到着した、あのとき。神崎さんは私の首の後ろを引っ張って、扉の前から退かした。そのまま突っ立っていたら、間違いなく顔面が血塗れになっていた扉から。
今思い返せば、エレベーター上昇中、神崎さんは扉に耳を付けるようにしていた。10階に差しかかるとき、10階で鼻息荒く待機している佐久間との距離は1メートルを切るのだろう。「他人の思考を聴く」というのがどのくらいの精度かわからないけど、とにかく私への憤りと殺意を聴いて、逃がしてくれたと。そういうことで間違いなかろう。


「普通そうするでしょ。人が顔面砕かれるとこなんて、見たいものじゃない」


う、うーん。そう言われたらそうなんだけど、でもこの人は、例えかすり傷ですむような傷でも、ああやって、助けてくれたと思うんだよなぁ。こんなこと言ったら、「また根拠もなく他人を信じる」って、言われちゃうんだろうけど。それに、


「それもそれなんですけど、さっきとかも」

「さっき」

「私が落ち込んでるの聴いて、言ってくれたんですよね。説得悪くはなかったって」


ありがとうございます。

何か、内からこみ上げる温かな感情に胸を満たし、しみじみ目を閉じた。足も止め、斜め前に会釈をして言った。目を開けると、彼は微かに眉を寄せて首だけでこちらを見ていた。え、な、なんだ。外したの? 小走りで追いつく。


「だからそういう能力者なんだって」

「いや、心を読んだのは、超能力者だからかもしれないですけど」


けど、


「それで、慰めてくれたのは……超能力者だから、ではないです」


そういう超能力者だから心がわかった、は、そうかもしれないけど、心がわかったから慰めてあげた、は、違うじゃん。違うと思うの。私は。人が落ち込んでいるのを悟って、面倒くさいなぁと思うでも、もっと傷つけてやろうと思うでもなく、ちょっと優しい言葉をかけてやろうと思うのは、超能力のおかげなんかじゃなく、


「だから。ありがとう、とか……言ってみたり……」


彼の優しさであった、はずなのだ。

なんかまた呆れるような甘っちょろいこと言っちゃってるんだろうか。自分に浸ってるみたいな? 言葉が尻すぼみに小さくなってゆき、


「ぶ」


妙な音とともに消える。痛い、鼻が。押さえながら前を向くと視界がネイビーだった。立ち止まった神崎さんの右肩辺りに激突したらしい、カーディガンの紺にくっきりファンデーションの跡が。ついてますがな。どうしよう。


「……何を考えてたかっていうとね」


まぁいいや。私の肩だっていまだに彼につけられたブルーベリージャムの匂いしますし。おあいこです。うんうん頷いて自己正当化する。自分の肩の惨状に気づいていない神崎さんが、私の顔を見ないままぽつりと言ったことは聞き漏らした。


「あ、なんて言いました」

「だからさっき、何を考えてたかっていうと」


さっき、と言われても一瞬何のことだかわからなかった。私のだーいぶ前の台詞、「何、考えてるんですか」に対する返答だとようやく気づいた。そう見えないし、彼本人も否定しそうだが、神崎さんも結構律儀だ。と思う。


「先輩から後輩へのアドバイスが、人に期待しない方がいいよ、なんて、イヤな職場だと思ってた」

「……ああ、」


「他人に期待するな」。またこのワードである。苦い気持ちで、また自分を抱くように二の腕を抱く。止めていた歩みを再開し、私もそれに続いた。彼の斜め後ろ辺りを保つ。

でも、意外だった。「他人に期待するな」というのは彼にとって当たり前のことで、その考えについてこれない私の方がどうしようもない甘ちゃんだと思われている……と思っていた。だから彼がこんなふうに、現場を離れてからも考えるほど、自分自身の発した「他人に期待するな」を気に病んでいるとは思わなかった。

彼だって、本当は他人に、期待したいんじゃないの。とか。思わなくもない。





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