ぐんと体にかかる重力に逆らい、背中を壁につけたまま、ずりずり立ち上がった。もう大丈夫なの、律に優しく問われて、力ない笑みを返した。もう大丈夫も何も、私何もされてないしな。自分の蒔いた種で、恐がって、腰抜かしてただけ。ああ。なんか思考が卑屈だ。佐久間も立つ体力はあるのだろうが、もう魂の抜けた人形のように足を投げ出して動かない。


「あの、」


そんな姿を見ているうちに、唇が動いていた。なんでって言われると困る。


「10階で何があったのかっていうのは、私たちしか知らないわけだよね」


言うことを察したのか、神崎さんが細い眉を寄せた。


「包丁持ち出して云々のとこ、伏せるっていうのは……ダ、ダメかな、やっぱり。説得に応じて出てきてくれました、って、報告するのは……」


あっ違うよ、私の手柄にしたいとかそういうのではないの、そうとられる可能性があるのに気づいて、慌ててぱたぱた手を上下させた。わかってるからいいと言うように神崎さんが軽く手を振る。頭が痛い、と言わんばかりの渋面で、眉間に細い白い指を当てる。


「その人の罪軽くしたいわけ」


投げやりに言われて、まぁ、うん、と口の中でもぞもぞ言う。多分うまく答えられなかったから、なんで? と訊かれなかったことをよしとすべきなのかもしれない。でも神崎さんは、もうほとほと呆れかえったような、疲れたような顔をするので、やっぱり問い詰められた方がマシだったかもしれない、と思う。下手な説得で無駄な仕事を増やしたあげくに、その無駄なとこをなかったことにしよう、と言っているのだ。首が縮む。律も、普段の親しさを排した厳しい横顔で言う。


「そういう情け、誰のためにもならないわよ」

「情け、とか、本当にそんなんじゃなくて……やっぱり今でも、怒りのやり場がなくて爆発することってあるよなぁと思う、し……本当に、私が逆撫でした部分も、あると思うし」


ようやく意識が現状に戻って、自分が議題になっていることに気づいたのか、佐久間の虚ろな目がゆるゆると上方に向けられた。私たちの顔を窺う視線から、逃れるように今度は私が下を向いた。ほら。私はまだ彼と目を合わせられない。殺されかけて、何してくれたんだと詰め寄ることも、ひたすらに怯えることもできない。なんというか。それはやっぱり、自分にも後ろめたいところがあるからだ。と思う。
私は確かに、あなたの気持ちはわかりますみたいな傲慢なことを言ったのだろうし。うまくこの事件を収めて、支部のみんなに感心されたい下心もあったし。そういうのが糾弾されずに、彼の一時の逆上だけが責められるのは、なんか。不公平、っていうか。

私のとりとめない思考は聞こえただろうか。神崎さんは長く息を吐いた。一言一言区切るように、子供に言い聞かせるように言う。


「そんな偽証してあげても、そいつが君に感謝したり改心したりすること、多分ないよ。頑張れば応えてくれるとか、本当は悪い人じゃないはずとか、そんな期待するなって言ったでしょ」

「感謝されたいとか、もうそういうプラスのモチベーションじゃないんだ。私のせいで怒らせたなら、その怒りでしたことは帳消しにしたいっていうか……ゴメン。その怒りの尻拭いしたのはりっちゃんなのに、あの、勝手で、ゴメン」


やっぱり語尾は情けなさに細くなって消える。ものすごく長く感じた10階からの下降も終わり、ぐっと一際大きい加重が襲う。ポン、と鳴ってドアが開いた。誰も何も言わず、動かなかった。ドアが閉まる。「ご利用になる方は、行き先フロアを指定してください」無機質で朗らかな機械音声が響く。長い長い沈黙の後、神崎さんがようやく重い口を開いた。


「個人的には僕も賛成できない。自分で責任のとれない優しさなんて甘さでしかない。でも多分支部長だったら君のしたいようにさせるだろうし。彼の意志がこの組織の意志だし」


エレベーターの床に落ちたままの万能包丁を拾い、それを見ながら、どう見ても衝動的犯行だし、と言う。確かに。台所から引っ掴んできた感全開。そのまま証拠物件になるはずだったソレを、パン屋の紙袋で適当に包んで自分の鞄に入れる。これが使用された事実は、閉まったエレベーターの中で、私たち4人の記憶にのみしまわれる。隠蔽。律はまだしばらく何か言いたげな顔をしていたが、自分を納得させるように何度か頷いて、開のボタンを押した。佐久間を片手で引き立たせながら。


佐久間の上着を脱がせ、頭にかぶせ、マンションの避難住民の中を歩く。すっと割れるギャラリーの中から、安堵の声と、すごい、あんな若い子たちがなんで、みたいな驚きと称賛の声が聞こえる。安堵は、率直に良かったと思うけど。称賛されるのは、ひどく虚しかった。このまま引き渡し作業に残るという律と別れ、神崎さんと帰路につく。

マンションを去る前に、もう1度だけ振り返った。パトカーに乗せられる佐久間が見えた。上着の隙間から目が合ったような気がする、けど、何も言うことが思いつかなくて、会釈とかするのもなんか変だし、何もせずに、その場を離れた。





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