平和なキョウチクトウの並木道から1本入ると、もう問題のビルだそうだ。確かにビルに切り取られた空から注ぐ光は少なく、路地全体が薄暗くはあるが。別段、空気が格段におどろおどろしくなったとかそういうことはない。室外機とちっちゃい植木鉢がごてごて並んだ、普通の、路地。これならむしろ日本支部周辺の方が殺伐としてるかもしれない。恐怖は日常のすぐ傍にこそ潜んでいる、みたいなことかもなぁ、などと呑気に構えていたが、


「抗争もあったようですね。7、8年前」


サラリと言われて肩がビクついた。そ、そんなこと言われたら。そこの道路のシミも凹みもなんだかイワクありげに見えてきちゃうじゃない。いや、7、8年前の血溜まりや銃創が残ってるわけないじゃん、ねえ、って、血溜まり? 銃創? ナチュラルに出てきちゃったけど自分の発想が恐いよ!
1人恐慌状態な私をよそに、彼らは白い紙を広げた。組織図とかビルの見取り図とか? 広げた、が、それに額を集めて協議することはなく、じゃあいつも通り正面からで。と頷き合えばそれで話はすんでしまった。いつも通り! 正面から!


「さて。ここまで連れてきておいてなんなんですが。岸本さん」


広げたばかりの紙を丁寧にたたみながら、佐伯さんは私にだけ言う。その声のトーンに、パニックだった頭がすっと冷えた。


「お察しかもしれませんが、仕事は組員の検挙です。最低限組長及び幹部4名。最善は全員」


パラ、とババ抜きみたいに数枚の写真を見せる。刑事ドラマで見るような、前科者リストに載ってるような写真。の中から睨みを利かせてくる男たち。恐いか恐くないかって言われりゃ、そりゃ、恐いんだ、


「恐いですか。なら今からでも、この辺の喫茶店で待っててもらいますが」


けど。


「……恐くない、ですよ」

「無理しなくていいですよ。契約時の説明と大いに話が違う自覚はあります。最近まで普通の女子高生だった人に、こんな所に付き合う義理も権利も責任も、」


佐伯さんの話を遮るように言った。このまま彼を話させておくと、彼は勝手に自分の中で結論を出してしまいそうだった。彼は多分そういう人だ。


「恐くないです」


なんでって言われたら、説明できないけど。面接のときと同じような気持ちが、今、していた。久賀原さんとのやりとりでも思ったことだけど。彼は私に何か、何かもわからないんだけど、何かを期待してる。それを裏切ったら。私が今この仕事を否定したら、ここから逃げたら、彼をひどい世界に置き去りにするようなそんな気が。またしてしまったから。自分の身の安全より、それが一瞬重く思えちゃったから。一瞬。


「守ってくださるって、言ってましたよね」


聞いてたんですね、と佐伯さんは照れたように苦笑する。いや、むしろ聞こえてないと思ってたのか。この人は見た目こそ完璧で所作も如才ない、けど、こういうところがある。こういうところが結構愛しい。



「こ、こちらが正しいこと、するんですし。正義は勝ちます」


重くなってしまった空気を払拭するように、拳をぐっとして冗談めかして言った。が、佐伯さんはやはり苦く笑うだけだった。さっきみたいな恥ずかしさの混じった苦笑ではない、ただ苦い顔で、力なく、そうですね、と答えた。な、何かまずいこと言った? やっぱりちょっと幼稚すぎた? 不安になる私の視線を振り切るように佐伯さんは背を向けてしまう。


「まとまったか。話は」


この人は私がついて来ようが来まいが心底どうでもいいようで、パーカーの裾から手を入れてポリポリお腹を掻いていた刃心くんが言う。


「入る前に喫いたい」

「もちろん構いませんが。女性連れですよ」

「……そうか。そうだったな。岸本。すまんが風上に居ろ」


私の肩をとんと押し、尻ポケットからクシャクシャの煙草の箱を出す。底を叩いて出した1本に火を点け、特においしくもなさそうに咥える。私と逆方向に流れる煙が白くぼやかす中学生フェイス。
うーん。どうしてもこう、いけないものを見てるような気がしちゃうんだけど。24歳。24歳か。1週間前に知ったけどまだ受け止めきれてない事実を頭の中で転がす。コレも超能力なのかな。不老不死? まだそこそこ長さのある煙草を落として踏み消そうとした、先に佐伯さんが携帯灰皿を差し出す。彼喫煙者じゃない(少なくともこの1週間で喫煙シーンは見ていない)のに持ち歩いてるのか。涙ぐましい。


「では、1分したら中に入ります。片付いたら呼ぶので、それまで待っていて下さい」


質問は受けつけないというように言い切り、佐伯さんは壁にもたれ目を伏せる。そんなことをされなくても、何をどう片付けるんですか、とはとても訊けない。
打ちっぱなしのコンクリートに背をもたせかけ、銀時計に細めた碧眼を落とす異邦人。ブランドのポスターみたいな画である。そんな彼に対し、刃心くんはまたあくびをしたりまた腹を掻いたり、私でも、ちょ、もうちょい緊張感を、と言いたくなるほど落ち着きがない。むしろ大物っぽいような、ライオンの毛づくろいでも見ているような感じもあるけど。

とぼんやり想像していると、彼らは同時に動いた。今から数えて1分、はいせーの、と示し合わせてもいなかったし、刃心くんにいたっては時計も見てさえいなかったが、それは見事に同時だった。

佐伯さんは塀に手を掛け、刃心くんは爪先で地面を蹴る。それぞれ手の力と跳躍力だけで塀に登る。細い塀の上に器用に降り立つシルエットは、水面に舞い降りる水鳥のようにしんとしている――と思う間もなく、鉄条網をまたいで彼らは塀の向こうに消えた。

逆光に目を細めてそれを見送る。同じ入り方を要求されたらどうしよう、と密かに案じながら背を向けると、がらんとした路地が目に入った。当たり前だけど、1人。

普段さんざん心中で、なんだこの人たち、ついていけない、などと言ってきたが、当たり前と言えば当たり前なことに私は彼らをめちゃくちゃ頼りにしていたらしい。どうしよう。恐い。かも。佐伯さんがもたれていた箇所にそっともたれてみる。あれだけの時間では体温も移らず、ただ冷たさと硬さがじんわり背中に染みる。後ろ頭ももたせかけて、


「出入りやぞォ――……!!」


壁の向こうの狂騒を聞いた。

右から左へ走る音が聴こえる。左から右へ走る音も聴こえる。狼狽えながらも威嚇しているような、男の野太い怒号の中、どこのもんや、とか、組長に知らせぇ、とか、意味のある言葉が切れ切れに聞こえる。その中から彼らの音、足音でも声でも何でもいいからそれを聞き分けたくて、強く耳を押し当てた。足音なんて誰のものかもわからないに決まってるのに。そうでもしないと。恐かった、さすがに。恐くないとか。嘘に決まってるじゃん。固く目を閉じて研ぎ澄ました耳、に、お腹に響くような音が届いた。頭が真っ白になって耳を離し、壁から飛びのく。

銃声だ。

と思うと心臓が耳元に移動したみたいに、ばくばくうるさかった。どっちの? 撃ったの? 撃たれたの? 彼らは銃を持っていただろうか、耳を覆うような、頭を抱えるような姿勢で固まっていたが、左手からかけられた声に弾かれるようにそちらを向く。


「岸本さん?」


胸に手を当て、目を見開いて飛びのいた私に、佐伯さんもちょっと驚いた顔をする。ビビりながらも、私は素早く彼の全身に視線を走らせていた。怪我はないように見える。返り血を浴びている様子も――……と考えてから、自分が想像したことにぞっとした。彼は歩きかけて振り返る。私の顔をじっと見てから、迷ったように口を開く。


「やっぱり、」

「恐くないです! 置いていかないでください!」


今更ここに1人放置される方が恐い!
頷いて歩き出す彼の後を追い、角を曲がる。鉄格子でできた、高校の校門と似た門をくぐった。今となっては呑気で些細な悩みだが、彼らのように塀を超えろと言われたらどうしようと思っていたので安心した。ちょっと。わずかに。そのわずかばかりの安堵も門の向こうの光景に即吹き飛ばされたけど。


正直。銃声も聴いたし。死体が束になって積み重なっている、みたいな事態も、心のどこかでは想像していた。覚悟はしてなかったけど。とにかく、だから、4、5人の男がうずくまって呻き声をあげている、というのはそれよりマシだと思わなければならない。でも想像は想像だ。リアルとは違うのだ。大の男が痛がる姿なんて、映画やドラマ以外で初めて見た。これはドラマじゃない。画面の向こうじゃない。痛みも血も今ここにある。それだけで、私を怯ませるには十分で。

刃心くんは敷地の真ん中に立ち、昼寝から覚めたときとなんら変わらない、ぼーっとした目でこちらを見ていた。私たちが追いつくのを待ってはいるが急いた様子はなく、ひたすら眠そうにしていた。広い敷地の中で見る彼はいつもにも増して子供のようだったが、その手には抜き放たれた鈍い銀色がある。先端から、ぽたぽた、赤黒いものを垂らしている。刃先から垂れたものが、コンクリートに暗い染みを作る。
さっき、道路のシミにビビったのが、今や平和な思い出だ。これは今、まさに、流れた血。血は鉄臭いと思い込んでいたが、実際にそこらに立ち込める空気はひどく生臭かった。


「死んでは、いないんですよね」


尋ねた自分の声が、遠くから響いてくるみたいに聞こえた。彼らはあまりにも落ち着いていて、それは怪我させるとかそんな中途半端なことじゃなく、何かをやりきってしまった人みたいな落ち着き方だったから、いいえ、殺しましたよ、と言われても驚かなかったかもしれない。嘘。まさか、入院程度ですよ、と言われて死ぬほどほっとしたから。


「け、検挙すべき、幹部とやらは」


そんな甘いことはないと思いながらも、これで任務完了だったら、という一縷の望み。


「奥でしょうね。早く行かないと逃げられるので」


は、即座に絶たれる。
膝ががくがくして、座り込みそうになるのをこらえた。絶対に前には出ないで下さい、と佐伯さんが言うのを意識の端で聞いた。頼まれても出ません、と心の中で茶化す気力もなかった。私のせいで、取り逃がす羽目になるのだけは、いけない。そんな気持ちだけを支えに、ふらふらした足取りで、精一杯急いで彼らの背を追う。数歩の差のはずなのに、背中はひどく遠く見えた。





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