かつんかつん、さっきと同じ靴が鳴らしていると思えないほど、穏やかになったヒールの音が響く。肩甲骨下までくる長い黒髪にタオルを押し当て、水気を吸い取りながら、ナカヤマさんが階段から下りてきた。おっそろしく吊り上っていた目も眉も穏やかになっている。シャワーは女子の味方。
しかしシャワー前と同じ服を同じように着ていながらもやはりしっとりした色気があって、女の私でもなんだかドキドキしてしまうくらいで、ナカヤマさんちょっと無防備すぎるんじゃなかろうか。あの暴挙を見てもなお魅力を感じられるほどに魅惑的な外見をしているし、胸元の布を押し上げる体積もなかなかなのに、こんな男所帯で湯上り姿をさらしちゃうなんて……とどっちが危ないんだかわからないことを考えていると、彼女と目が合った。
アーモンド型の目は驚いた猫のように丸くなり、ルージュを落として健康的なピンクの唇が少し開く。あ、彼女は本当に気づいてなかったんだ。無視されたわけじゃなかった。よかった。
勇気を出して階段の下、固まっている彼女の元へちょこちょこ向かい、頭を下げる。
「こんにちは」
「貴方は……?」
ぽかんとした顔で、唇からこぼれるまま、という感じに話す彼女は可愛かった。キツめの美人はキレ顔の恐ろしさが尋常でなければ呆け顔の可愛さもまたしかり。しかしわざわざソファを後にしナカヤマさんのもとまで行ったのは、可愛い彼女と顔をつきあわせて話したかったから、というよりは神崎さんと話すのに不気味さを感じ始めたからである。そんな思考さえ読んだように、背後でフンと鼻で笑う音がする。怖い。
「初めまして。今日からお世話になります、岸本愛と申します」
「い、いつからいらしたの……?」
「えっと、ナカヤマさんが帰っていらっしゃる少し前に、面接が終わりました」
「そ、そう。そうなのね。えっと」
彼女は見るからに動揺し、ごめんなさい、見苦しいところを、とごにょごにょ言いながら、顔の周りの毛を耳にかけたり、胸のあたりで手をよじりあわせたりする。きれいな爪。真っ赤なネイルが似合いそうだが、卵形に整えられた爪は柔らかなピンクベージュをしている。
「え、いえいえ、全然気にならなかったです」
あなたが机を殴ったことなんて。気にならなかったです、とかいう感想もらしてる時点で「気になった」って言ってるようなもんですけどね。
嘘くさく響いた言葉だったが、ナカヤマさんをほっとさせるくらいのことはできたらしい。彼女はちょっと腰をかがめて私と目線を合わせ(ヒールを差し引いてもかなり長身だ。170センチあるかも)、ねぇ名前は何ていうの、愛? 可愛い名前ね、と親戚のお姉さんみたいな口調で話す。
「私、中山律。律って呼んで。敬語もいらないわ」
そう女の子なの、女の子だと思わなかったわ、嬉しい、にこにこ笑って続ける中山さんは湯上りのせいかつるっとした頬をほの赤く染めていて、思いがけず幼く見えた。最初は20代半ばから後半かなぁとあたりをつけていたが、話してみると大人っぽい同級生みたいな感じもある。ちゃんと仲良くなれそうです佐伯さん。
すると30前後っぽい佐伯さんが最年長になるんだろうか、平均年齢低い職場だなぁ、とか、やっぱりこれだけの美人だから職場でスッピンさらせるのかなぁ、私はキツイなぁ、とか、どうでもいいことを考えながら、ようやく味わえる和やかな空気に身を浸していると、涼しい声が水を差す。
「さっそく無視とか、すごい新人いじめだね。お局様ってそういう感じなんだろうね」
やるなぁ、と言って笑う声がソファから。
え? あなたがそれを言いますか? ガン無視のうえ初対面の人をヌケサク呼ばわりしたあなたが? 見上げた根性だ。見習いたくない根性でもある。当然というかなんというか、中山さん、こと、律の眉が動く。もう放っておけばいいのに、神崎さんの真向かいのソファに座る。
「気づかなかっただけよ。そう言ったでしょう」
「周りが見えなくなるほどのヒステリーなんて、新人の子によく見せるよね」
「なあに、それ。誰のせいだと思ってるの」
「誰のせいなの? 君が勝手におこしたんだと思ってたけど。頼んでない」
こうして目の前で小競り合いをされるだけならまだいい、いやよくはなくともまぁ受け流せる範囲なのだが、
「女の子って感情で物を言うところが嫌なんだよね……君はこんなふうになるんじゃないよ」
「じゃあ貴方は論理的に自分が正しいと思ってるわけね。呆れた……愛、この人の怠慢だけは真似ないようにしてね!」
こちらにふるのはやめてほしい。どちらの言葉にも頷けないまま4つの目にさらされる。目が思いきり泳いでいるのが自分でもわかる。助け舟を待っていると、それは思わぬところからくる。
「騒がしいな」
ぼそりと呟く声、頭をかきながら、足音もたてず階段を下りてくる小柄な人影。確かにずいぶん長い一服ではあったが、あれだけのインパクトを与えた彼のことをすっかり忘れていたことに驚いた。
コウガミ少年の「騒がしい」という言葉は迷惑だ、でも静かにしろ、でもなく「騒がしい」という意味だけを持つようだ。苛立ったふうもやめさせるそぶりもなく、コウガミくんは渋い声にと口調に似合わない大あくびをして、私の横を通り過ぎかける。また自己紹介の機会を失いそうで、私は焦って口を開く。
「あの、今日から入る岸本っていうんだけど、」
だからなんだ、と言われても仕方ないようなつっけんどんさだったが、彼は何も言わなかった。足を止め、振り返り、黒い目でじっと私を見つめる。えっもしかして私のことを。お忘れなのでは。
「……ああ」
明らかに思い出す間があった。来る人来る人私に気づかないわ忘れるわってなんなの。私の来訪どれだけ些末なトピックスなの。
「ここでよかったのか」
「はい?」
「退けと言ったから入ったのかと思ってな。取り次いだものの、これでよかったのかと思っていた」
思っていた、って。忘れてたジャン。言えないけど。
真っ黒い彼の目の中に、所在なくもじもじする私が映っている。支部の前で会ったときは、ヒー怒っていらっしゃる! 苛立っていらっしゃる! とこの目の奥の感情を想像して怯えたが、今はただ眠たそうに見える。恐れるから怖いのだ。手汗をふいて、笑顔を作ってみた。そういえばこの子に敬語使うべきなのかな、いいやタメ口いっちゃえ。なんか、勘だけど、そんなに恐い子じゃないような気がする。
「ううん、ここに用があったの。取り次ぎ、ありがとう」
「そうか。よかったな」
自己完結したように、はたまた他人事のようにかくりと頷き、ソファの方に向かおうとする、ちょっと待ってよくないから、私まだ自己紹介も終わってない……と肩に手を伸ばしかけて、コウガミくんがまた振り向いた。
「鴻上刃心という。好きに呼べ」
ぼそりと言い捨て、何もなかったようにソファに向かう。しばしぽかんとし、ようやくそれが彼の名前だと気づいた。よろしくね、刃心くん、背に追いすがるように言ってみると、振り向いてまたかくりと頷く。
不思議な子だ。穏やかだが愛想がいいとはとても言えない。愛想はないが、思春期の少年らしい無愛想さ、という感じでもない。なんだか世捨て人とか仙人とかみたいな朴訥さ。推定15、6歳で仙人って。つかめない。なにもの。ていうかあのマフラーして寝るの。想像するだけで首じっとりする。
彼がソファに歩み寄れば神崎さんは当然のように席をゆずり、鴻上くんはやはり当然のように空いた2人掛けのソファに寝転がる。すぐに規則正しい寝息が聞こえ、これを機にやめるのかと思いきや場所を隣どうしに移して男女2人の口論は続く。誰も仕事してるように見えないんだけど。これが彼らの日常なんだろうか。つかめないのは彼だけじゃない、としみじみ思う。
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