ほしいものはひとつだけ

5


「セリ――、」

「ねぇ、冗談というのなら、もうやめて。本気だと言うのなら……、ちゃんと見て…っ」



 先程までの弱々しさが嘘のように、痛い程彼女に掴まれた腕は突然強い力で引き寄せられた。
 思わぬ行動によろめくと、そのまま彼女の方へとのめる形となって。

 その勢いのまま、間近に迫った口許に何かが触れた。


 なにか、が。


 …セリスの口唇、が。






「―――…!」



 一体何が起こったのか。

 考える間もなく、触れ合っただけのそれは仕掛けられた時とは裏腹に、触れていた余韻だけを残してゆっくりと離れていく。
 お互いの顔が認識できる距離まで離れると、セリスは訴えるように言い放った。



「私を…見てよ…っ」



 今にも零れ落ちそうな瞳に映し出された、その表情。
 それを見て。





 ―――思い出した。





 同じだ、あの時と。

 セリスがオペラ座でマリアに成り代わり、舞台の直前に袖で会話した時に投げ掛けられた言葉、


『私は…あの人の代わりなの…?』


 …あの時の表情と、同じだった。





 すべてのパズルのピースが合致して、俺はようやく理解した。
 自分に対するこれまでのセリスの言動、態度、表情の意味。
 そのすべてが、あの日、あの時に、はぐらかしてしまった自分のせいだったのだと。





 何やってんだ、俺。





 ずっと曖昧だった、セリスとの関係。

 いや、"曖昧だった"んじゃない。
 "曖昧にしていた"んだ、俺が。




 あの時も。
 セリスの問いには答えずはぐらかして。

 そして今も。
 あの時の問いに答えも出さないまま、言わなきゃいけない大事な言葉さえも削ぎ落として。



 レイチェルに心を残していた事で、いい加減な態度を取って関係を曖昧にしていた。




 それはすべて、俺のせいだったんだ。




 それなのに、自分の身勝手な嫉妬心を振りかざして強引にセリスを追い込んで……セリスを傷つけているなんて思いもしないで。



 何ひとつ伝えられていないのに。
 何ひとつ答えられていないのに。







「…代わりなんかじゃない」



 言わなければ、と思った。
 セリスが今も、あの時の沈黙が無言の肯定だと勘違いしているのなら。



「そんな風に思ったことなんて、一度もない」



 今更…なのかもしれない。
 けれど、言わなければ何も始まらない。
 過去に縛られたままじゃ前には進めない事を、俺は誰よりも知っているから。



「…嘘」



 けれど、返されるのは頑なな否定の言葉。



「嘘じゃない」

「…嘘よ」



 尚も聞き入れようとしないセリスに、苛立ちが募る。
 …いや、違う。
 苛立っているのは、信じさせてやれない自分に、だ。



「―――信じないなら、それでも構わない」



 意図せず低くなった声に、思わず振り仰いだセリスが小さく息を飲む。

 理不尽だとは判っている。

 けれど、その苛立つ気持ちをぶつけるように、今度は俺がその細い手首を強引に引き、勢いのまま口唇を重ねた。





*prev next#
back

- ナノ -