いつものように八千代は目を覚ました。
目覚めは良好。
身体を起こし外を見やると空が白んでいる。
窓を開け深呼吸をする。
早朝の冷たくて澄んだ空気が八千代はすきだった。
今日は二度目の実践授業がある。昨日何度も板書練習を繰り返し、指導案に何度も目を通した。
一度目の実践授業は集中出来ず上出来とは言えなかった。
今回こそは前回の反省点や改善点を生かし今後に繋げたい。
伸びをすると突然後頭部が痛んだ。
不思議に思い痛んだ箇所に手をやり触れると、打撲し出来た痣をおさえた時のような痛みが走る。
これまでにも自分が気づかぬ内に青痣や切り傷を作っている事があった。
きっと今回もそうだろうと、八千代は気に留めない。



八千代は通常よりも早めに登校する。
なので、普段八千代が職員室に到着する頃にはまだ教員はまばらにしかいない。
しかし今日は違った。
職員室にほぼ全員が集まり、皆慌ただしく動き回っている。
その中にハンナの姿を見つけた。声を掛けようとして八千代はぎょっとする。
いつもの元気なハンナからは想像出来ない程その顔は弱々しく青ざめていた。
声を掛けるタイミングを失っていた八千代の姿を見つけ、ハンナから声を掛けた。

「さっちゃん先生。おはようございますなのです」

その声には覇気が感じられない。

「おはようございます。えっと、何かあったのか?」

八千代が職員室を見回しながら尋ねると、ハンナが目を伏せて俯いた。
尋ねてはいけない事柄だったかと八千代が顔を曇らせるとそれを察知したハンナが慌てて口を開く。

「いえ、違うのです。違うのです…」

言いながらハンナの両目に涙が浮かんできた。
ますます分からない。
ハンナは零れそうになっていた涙を袖で拭い、呼吸を整える。
それでも気持ちを切り替えられないようで表情は晴れないままだった。

「さつきちゃんが」

さつきちゃん。
三日前の夜、包丁を持って自分を襲撃してきた張本人の可能性があると疑った生徒の名前だと八千代は思い起こす。
母親が死んで塞ぎ込み家に引き籠っているとハンナから聞いた。
名簿でしか存在を知らない生徒。
ハンナの教え子。

「部屋で自殺していたと、さっきお父さんから連絡があったんです」


その日の朝、全校生徒が体育館に集められ、全校集会が行われた。
立花さつき。
母親が他界し登校拒否を起こしていた少女。
父親がいつもなら朝食を共にとる時間になっても娘がおりてこないので、声をかけに部屋へ向かうと、首を吊って死んでいた。
踏み入り詮索していい事柄ではないので八千代は自ら立花に関して尋ねる事はしなかった。
なので、この情報は周りが電話対応をする際耳に入ってきた情報を寄せ集め整理したものだった。
その知らせを聞いた体育館がどよめく。
取り乱す生徒、泣き崩れる生徒、動揺し、冷静さを欠いている生徒がたくさんいた。
立花という生徒は皆に好かれていたんだな、と八千代は感じた。
黙祷を捧げる。
絶えず啜り泣く声が聞こえる。
止めどない嗚咽が体育館に反響する。


粛々とその日は過ぎた。
立花が在籍していたクラスであり、ハンナが担任を担当するクラスであり、八千代の教育実習の場であるクラスは、いつもより口数が少なかった。
他のクラスに比べ悲しみの色が薄いように感じたのは八千代の気のせいだろうか。
くるに対するクラスの態度を見てしまってから、クラスの表情を素直に受け取れないでいた。


放課後、いつものように八千代が日誌を書いていると、ハンナが立花の写真を見せてくれた。

「さっちゃん先生の一生に一度、教育実習生として教壇に立つ事になる記念すべきクラスの全員が、顔を揃えて迎えられなかったのは残念なのです」

写真に写っていたのは活発で、元気な笑顔の少女だった。
不思議と、はじめて見た気がしなかった。
けれど、やはり知らない顔だった。
授業で生徒が子供の頃の写真を集めている。
その中に姿を見たのだろうと、八千代は結論付けた。そうして自分を納得させる。
会った事など記憶にないのだから当然だ。
八千代は既視感を気に留めない。



ヨシノは帰宅後、居間に寝転がり飼い猫である山田さんと寛いでいた。
玄関の戸が開く音がすると、山田さんの耳がぴくりと動き、玄関の方へと駆けていく。
きっと八千代が帰って来たのだろう。
山田さんは八千代にとても懐いていて、彼が外出先から帰って来るとすぐに玄関へ向かい出迎える。
時計を見るといつも八千代が帰宅する時間だった。
一体どこで判断しているのかヨシノには分からないけれど、山田さんにしか分からない、八千代を八千代だと認識する判断材料があるのだろう。

「紫乃、ただいま」

ヨシノが予測した通り来訪者は八千代だった。
抱えられた山田さんが嬉しそうに喉を鳴らしている。

「おかえりー」

身を起こしながらヨシノが挨拶を返す。

「寝てたのか?」
「んにゃ、休憩してたの」
「休憩?」

八千代がローテーブルに広げられた複数のプリントに気付き、覗き込む。

「宿題か?」
「うん」

見ると国語の読解問題のようだった。

「分かるか?」
「だいじょぶだよー」
「そっか、分からないとこがあったら聞けよ」
「頼りになるお兄ちゃんだにゃー。ん?でもさっちゃんって国語苦手って言ってなかったっけ」
「そんな事ないぞ。誰かと勘違いしてるんじゃないか?」
「にゃー、そっかー」

そういえば。
ヨシノは、八千代が先程自分の事を紫乃と呼んでいた事を思い出す。
自分の事を紫乃と呼ぶ時は、国語が苦手ではない時だった。

「今日は早く帰って来れて良かったね」
「ほんとにな。昨日は大変だったから」

八千代がスーツの上着を脱ぎ、ジャケットハンガーにかけ所定の場所に吊るす。

「今朝の集会でツッキーが自殺したって聞いた時は驚いたよ」

ヨシノの言うツッキーとは、立花さつきの愛称だった。

「俺も昨日放課後襲われた時は驚いたし本気で殺されると思った」

ヨシノの向かいに腰かけながら苦笑いを浮かべる。
山田さんは八千代に膝の上に移動した。

「遺書があったって言ってたけど、どうやって用意したの?組み伏せられて、その後反撃して首の骨折ったでしょ?書かせる暇なかったじゃん?」
「職員室に作文集があったから、立花さんの書いた作文見ながら書いた」
「なんと!さっちゃんには筆跡擬装なんて特技があったの!?」
「なんと、あったんだよ」

いつもの調子で会話が続く。

「警察を欺いちゃうなんて凄いね!」
「娘の身体を傷つけたくないっていう父親の意向で司法解剖が行われないおかげもあってな」

八千代は視線を落として山田さんの頭を撫でる。

「それにしても、どうして立花さんは俺を殺そうとしたのかヨシノは知ってる?」
「お母さんの敵討ちじゃない?」
「敵討ち?」
「さっちゃん、ツッキーのお母さん殺したじゃん?」

軽蔑も恐れも含まずヨシノが事実を口にする。

「そうだっけ」
「殺した相手を覚えてないなんて珍しいね?」
「それは覚えてるけど。一人一人の身辺まではさすがに知らないさ」


八千代小夜には攻撃的な一面があった。
それが如実に表れ出したのは、父親が亡くなった事がきっかけだった。
実の父親が実の妻を殴り、嬲り、苛む姿を毎日のように見てはその行為に、殺意に近い憎しみの感情を抱く日々から解放された日。
自らその憎しみを湧き起こす原因の息の根を止めた日。
安堵した。
その解放感に、高揚した。
殺人という手段によって強制的に遮断し安息を得る事が出来ると学んだその日から、加速度的に歪んでいった。
残虐に、猟奇的なものへと変貌していった。
人を殺す事で得られる解放感と高揚と興奮と快楽を、純粋に求めてるようになっていった。


それは普段の八千代とは別の一面であって、異なる一面ではあるけれど確かに本人であるのに、本人自身が自覚していない一面であった。
自分が殺人を犯した事を自覚している時と、殺人を犯した事を認知していない時がある。
記憶を共有してはいないようで、かと思えば記憶が混濁している時もあるし、辻褄を合わせるために記憶を無意識に改竄している事も多々あった。
深層心理は繋がっているのか、そこから生じる感情はそれぞれ異なったが蟠っていたり強く意識している事柄は共通に認識しているようだった。
そんな八千代の性質にヨシノは別段気にする事はなく、区別して接してはいなかった。
ヨシノにとってはどちらも八千代小夜だった。
今目の前にいる、平然と人を殺せる人格に対して、恐れを抱いた事だって一度もない。

「顔、見られてたって事なんじゃない?」
「かな。今度から気を付けないと」
「さっちゃんってツメが甘いよね。俺の父さんと母さん殺した時も俺に顔見られてるし」
「そうだったな」

二人共思い出話に花を咲かせているかのように笑う。
ヨシノの両親の葬儀の場で顔を合わせた時、八千代はヨシノにはじめて会う気がしなかったと感じた。
当然だった。
ヨシノの両親を殺害した現場で、八千代はヨシノと顔を合わせている。

「お前は俺に敵討ちをしようとは思わないのか?」
「?別に思わないけど」

変わり果てた両親を目にした時も、葬儀の場で両親を殺害した張本人と顔を合わせた時も、ヨシノの表情は変わらない。
悲しみや怒りといった感情をまるで知らないかのように、いつだって朗らかに微笑んでいる。
今だって。

「そっか」
「うん」
「俺はお前のそういうとこすきだよ」
「どうも」

ヨシノがぺこりと頭を下げた。その仕草に八千代がくすくすと笑う。

「ねえ、俺の事は殺さないの?」
「変な事聞くんだな」
「俺がさっちゃんを警察に突き出さないかって不安になったりするんじゃないかと思って」
「お前はそんな事しないだろ」
「そうだね、めんどくさいもんね」

八千代は笑う。

「殺したりなんかしないよ」

一拍置いて、まっすぐに答えた。

「大事な弟だからな」


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