車と衝突し破損した案内板の破片がくるを直撃して首を抉った。
都内の病院にくるは運ばれ、施された縫合手術は無事成功し命に別条はないという。
事故現場から救急車に同乗し病院へ同行した八千代は、手術成功の報告を聞いたもののくるの顔を見に行く勇気が出ず、待合室の椅子に力なく腰かけていた。
全身雨に濡れていたので看護師からバスタオルを渡されていたが、身体が重く拭く動作すら出来ない。
椅子や床を濡らしてしまっている事を申し訳なく思いながら、思うだけで時間だけが過ぎていく。
医師や看護師は事情を聞いているのだろう、椅子に腰かけ3時間は経過したが誰も話掛けてはこなかった。
夜のとばりはおり、診察時間は過ぎているので周りに人の気配はない。
外は変わらず豪雨だというのに院内は外界と切り離されたかのように静かだ。
手が震える。
打ちつける雨はあんなにも冷たかったのに、抱き留めた子供から流れ出す血の生温さがこびりついて離れない。
何をやっているのだろう。
他にすべき事は沢山あるだろうに時間を無駄にしている。情けない。
一番苦しいのはくるなのだと、打ちのめされている場合ではないと頭では分かっているのに、自分の身体ではないように力が入らない。
まるで他人の意識の中に入り込んでしまったようだ。
掌に視線をおとす。
あの時くるを追いかけなければ。
あの時くるの名前を呼ばなければ。
あの時くるの手を掴まなければ。
後悔ばかりが押し寄せる。
昼休みにジェイソンと話をして、背中を押された気になっていた。
助けたいと思う事を恥じなくても良いと。
行動する事を戸惑わなくても良いと。
躊躇わなくても良いと言って貰えた気がした。
だから追いかけた。
これまでの自分だったらきっと駆け出したくるを追い駆けるなんて出来なかっただろう。
現実は何も変わっていないのに、何かが出来るような、変えられるような勘違いをしていた。
思い上がって、行動した結果がこれだ。
何をやっているのだろう。
こんな所で座っていた所で何も変わりやしないのに。

時間外受付の方からぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
その足音に重なるようにしてもう一人分、足早な足音が近づいてくる。
足音を聞きながら、病院から連絡を受けたくるの担任であるハンナが駆けつけていた事を思い出す。
ハンナはずっと何か声を掛けてくれていた。声は聞こえども断片的にしか言葉が脳に届いていなかったが、先程くるの父親と連絡が取れたと言って席を立っていたような気がする。
到着したのだろう。
八千代が顔を上げると、薄暗い廊下の奥からスーツに身を包んだ男性が視界に現れた。
身なりと不釣り合いなショルダーバッグを肩にかけている。
ハンナが隣にいる事とくるの面影があるその顔立ちから、彼がくるの父親なのだと確信すると八千代は思わず立ち上がっていた。
先程まで無気力感に襲われていた身体が嘘のようだ。
思わず立ち止まった男性と目があうとあからさまに訝しげな表情をされた。
全身濡れた男が診察受付時間をとう過ぎた病棟内にいるだけでも不気味だろうに、顔を見た瞬間立ち上がったのだから無理もない。
しかし意識とは無関係に立ち上がってしまったので二の句が告げない。
目を逸らそうにも逸らせない。
重たい沈黙が流れる。
八千代が言葉に詰まっていると、二人の様子を黙って見ていたハンナが話を切り出した。

「葛城さん、紹介します。教育実習生の八千代小夜先生です」

普段とは違う外行きの口調で紹介されると、葛城さんと呼ばれた男性が会釈した。
計算されつくされた指先まで隙のない整った会釈は、まるでお辞儀をプログラミングされたロボットの実演を見ているように感じられた。

「八千代先生、こちらくるさんのお父様。葛城叶さんです」

ハンナが男性をくるの父親だと口にした次の瞬間、八千代は紹介を続けようとするハンナの言葉を遮るように声をあげていた。

「申し訳ありませんでした!」

頭をさげると髪から乾ききっていなかった水滴がぱらぱらと飛散した。

「何故、貴方が謝るのですか」
「葛城君…お子さんに怪我を負わせてしまった一因が俺にあります」

震える声で事実を伝える。

「そうですか」

機械的で冷たい声色が静寂の中に落ちた。
責苦を負う覚悟でいた八千代だったが、それ以上叶が口を開かないのでゆっくりと顔をあげる。感情が読み取れない瞳と目が合った。
叶が首を傾げる。

「他に、何か私に伝えたい事はありますか」
「え、」
「ないのでしたらこれを預かって下さい」

そう言って叶は抱えていたショルダーバッグを八千代に手渡した。思わず受け取ってしまた八千代はバッグと叶を交互に見る。

「着替えです」
暫くくるは入院する事になる。その着替えという事だろう。

「は、はい。確かにお預かりしました」
「宜しくお願いします」

事務的に、先程と同じ角度同じ動作で会釈する。

「それでは私はこれで失礼します」
「え、」

踵を返し来た道を戻ろうとする叶の行動を見て思わず戸惑いの声が漏れてしまう。聞こえていたようで、叶が立ち止まり向き直った。

「まだ何か」

子供が縫合手術が必要な程の大怪我を負って入院する事になって、その一因が目の前にいるのにどうしてこの父親はこんなにも平然と冷静なのだろうか。
今だってそうだ。荷物を預けて帰ろうとしている。
まるではじめて目にする生き物を前にしている錯覚に陥る。

「葛城さん、お子さんに会っては行きませんか?くるさん、まだ意識は戻っていなくて手術回復室で休んでおりますが、顔を覗く事は出来る筈ですよ」

言葉を失っている八千代の代わりにハンナが切り出した。

「命に別状はないと、伺っています」
「はい」
「ならば必要ないでしょう」
「葛城さんはいつもドライですね」
「手術や入院手続きに関する必要書類は自宅に送ってください」
「今用意出来ると思いますよ」
「仕事を抜けてきているのでそんな暇はありません。後日でお願いします」

この話題はもう終わりだと言いたげに淡泊に言い切って、叶がハンナに頭を下げた。

「愚息がいつも迷惑をお掛けして申し訳ありません」

低く冷たく感情を伴わない事務的な台詞が八千代の耳を舐る。鳥肌が立つ。
この父親は自分の子供の心配を欠片もしていないのだと八千代は直感的に理解した。


「さっちゃん先生!さっきのあの態度は何なのですか!」

叶が退室した待合室。
外行きの仮面を外したいつもの調子でハンナが八千代を叱責した。

「今回の事故でショックを受けるのも分かりますが、教育実習生とはいえ貴方は我が校の一員なのですよ!相手は生徒の親御さんなのです。しゃんとして!もっと自覚を持ってください!」

ハンナの言う通り八千代はショックを受けていた。
しかしそれは事故を目の当たりにしたショックではない。
くるの父親の、子供に対する無関心に対してショックを受けていた。
子供が事故に遭った一因が目の前にいるのに怒る事も責める事もしなかった。
気丈に振る舞っている訳でもなく、冷めていた。
容体を口頭で伝えただけで納得し、事故の経緯を聞く事もなく、入院生活に必要な最低限の物を詰めたバッグを置きに来ただけだった。
千差万別。十人十色。
それぞれが築くものなのだから家庭の数だけ家庭があるなんて当然だ。
家族に括りなんてない。
分かってはいても、今目にした父親が理解が出来ない。
父親とほんの少しの時間対面しただけでなのに、家庭を想像してぞっとした。
そんな家庭の中で過ごす子供を想像して、ぞっとしたのだ。


八千代の今の父親は、実母の再婚相手である。
ヨシノの父親の兄弟らしいが、どちらが兄でどちらが弟なのかまでは知らない。
会話に上ったかもしれないが覚えていない。
再婚の話を聞かされたのは八千代が高校に入学してすぐの事だった。
母の幸せに口出しするつもりのない八千代は素直に二人を祝福した。
親の再婚なんて経験ははじめてだったけれど、新しい父親が家族に加わるという事実に抵抗はなく、素直に受け入れられると思った。
けれどどうにも馴染む事が出来なかった。
気が合わなくて、息が合わなくて、通じ合えず、噛みあわず、嗜好に共感出来ず、心が通う事はなかった。
歩み寄る努力をすればする程相手にも気を遣わせていた。
振り返ってみれば窮屈な家庭だったと思う。
自分にとっても。父親にとっても。母親にとっても。
そんな時期がトラウマにでもなったのだろうか、八千代は家庭に関して敏感に感じ取るようになってしまっている自覚はあった。


だからこそ、くるの父親を見て怖気を感じた。
子供の写真一つない家庭だ。家に帰ると実は家庭を顧みる父親なんですなんて妄想する余地はない。
家庭に踏み入って口出し出来るなんて思っていない。
自分なんかが何をしたって現実が変わらない事は、何も出来ない現実は理解している。
かわいそうだと思った。
放っておけないと思った。
力になりたいと思った。
助けたいと手を伸ばした結果がこの事態を招いた現実を受け入れた上で、それでも、無力な自分にも何か出来る事があるんじゃないかと妄想せずにはいられない。



八千代が自宅に着いた時には日付が変わっていた。
室内は消灯し静まり返っている。ヨシノはもう寝ているのだろう。
以前、どうしても帰宅時間が遅くなってしまう事になり、その旨をヨシノに連絡する暇すらなかった事があった。
その時急いで帰って見れば、ヨシノは一人で家事を全て済まして就寝していたのだった。
翌日顔を合わせるとヨシノは何事もなかった顔で「おはよー」と言い、帰宅が遅くなる連絡が出来なかった事を謝ると「さっちゃん帰って来てなかったんだ」と笑った。
正直心配させたかなどと思っていたので脱力した。
それからはその日のように連絡出来ず遅くなる時は気にせず一人で済ませてくれと伝えてある。無駄な気を遣ってほしくはない。
きっと伝えなくてもヨシノはそうするだろうし、気など遣わないのだろうけれど。
ヨシノはいつだって一人で何でもこなしてしまう。
一人でも大丈夫な人間だ。
もっと頼ってくれてもいいのにと思いながら、そういう強い所は見習わねばと思う。
八千代はなるべく足音を立てないように廊下を進み、物音を立てないように自分の部屋に入る。
いつの間にか雨は止んでいたようで、雨戸が閉まっていない窓からは月明かりが差し込み、室内を淡く照らし出している。
いや、病院を出た時点でもう止んでいたような気がする。
くるの父親と会って動揺していたのか、今日の出来事のせいで混乱しているのか、うまく思い出せない。
もっとしっかりしなくてはと八千代が首をふる。
洗濯もシャワーも朝にしようとクローゼットから着替えを取り出し袖を通す。
今から指導案を書かねばならない。
くるを追いかけるために学校を飛び出して、そのまま病院から帰ってきたので荷物を全部学校に置いてきてしまっていたので日誌は書けないが、指導案なら自宅でも作成出来る。
生徒が事故に遭い、その事故現場に居合わせたからといって、それらは教育実習生としての本分を疎かにする理由などにはならない。
決して、それが理由で疎かになどしてはならない。
それに、教育実習の期間は限られている。
実習生として学べる機会は一度しかないのだから一分一秒無駄には出来ない。
後悔しないように。



夜が明けた。
指導案は無事完成したが、家を出る時間から逆算すると睡眠時間はなかった。
30分程度なら睡眠時間を確保出来る余裕はあったが、八千代は短時間睡眠が退室に合わないらしくいつも仮眠を試みては余計疲れを感じ身体が重くなってしまう。
時間があったところで眠れる気分ではなかったので、このまま登校する事を選んだ。
八千代は実習中スーツを着用している。昨日雨に濡れたままスーツを放置してしまった事に気付いたが今更考えても仕方ない。
帰宅してからクリーニングに出すかと隅に置き、他の衣類を洗濯機をまわす。
シャワーを済ませ朝食を取る。
食欲は湧かなかったが無理矢理飲み込んだ。
予定通りの時間に支度を終わらせ、玄関を出る。
昨日まで豪雨により騒がしかった街は静かで、空気は水気を含んでいた。
水たまりに朝日が反射して眩しい。


職員室に入ると真っ先に校長室へ呼ばれた。
昨日の事故の事を聞かれるのだろうと八千代が想定した通り、事細かに聞かれた。
事故に至った経緯、時刻、場所。確認と補足。
八千代は把握している限りを正直に話した。
昨日病院で警察や医師に囲まれ長々と話を受け答えしたので出来事の整理はついている。
ハンナからある程度情報が伝わっているようで、学校側もある程度事態を把握しているようだった。
校長室のデスクの上には災害保険の書類が見える。生徒が学校の管理下である授業時間内に敷地外での事故なので、様々な手続きがあるのだろう。
授業中生徒を追いかけ校舎外へ出た事へは少々熱心過ぎると遠回しな口頭注意をされたが、けれど八千代が生徒の傍にいたおかげで救命のための事が迅速に運べたと頭を下げられたりもした。
会話中、教育実習生としてここには置いておけないと言い渡されるのではないと内心冷や冷やしていたが、そのような話題が上る事はなかった。
最後に、標識に衝突し大破した車の運転手も無事一命を取り留めたとの報告を聞き、校長との対談は終了した。


校長室を出た八千代をジェイソンが出迎えた。

「お疲れ様デシタ」

昨日の件は既に全教員が連絡を受け周知の事実だった。

「俺は別に何も。一番つらいのは、葛城君ですから」

ジェイソンは苦笑する。

「八千代センセーはいなくなりませんよネ?」
「は?」

ジェイソンの言う意味が理解出来ず八千代が首を傾げる。

「教育実習って心労は絶えないし疲労は溜まるしとっても大変デショ。ぼくが前にいた学校でのお話ですが、途中から突然来なくなっちゃった実習生がいたのデス。疲れちゃったんデスネ。諦めちゃったんデス。大騒ぎでしたヨ、大学のセンセー達が揃ってやって来て、謝罪してまわってました」

大きなため息をつき大袈裟に肩をおとすジェイソンを見て、今度は八千代が苦笑した。

「心外です。私がそんな常識外れに見えますか?」
「hmm…八千代センセーは、逃げ出さず努力して空回りして自爆しそうなタイプデスヨネ」
「ひどいイメージですね…」

そう言うと、ジェイソンが

「本当の事じゃないデスか!」

と笑いながら八千代の背中を軽快に叩いた。
八千代は、昨日の事故の件で腫れもの扱いされ距離を置かれるんじゃないかとどこか構えていた。
けれど、変わらない接し方に身体の緊張が解れる。

「大丈夫です」

緩やに笑って答える。

「私は逃げたりなんかしません」

自分に言い聞かせるように繰り返す。

「大丈夫ですよ」


職員朝会前にハンナと八千代はいつも通りその日の打ち合わせを行った。
くるの容体は安定しているので安心するのです、という報告以外に昨日の件をハンナが持ち出す事はなかった。
いつまでも昨日の事を引き摺ってはいられない事は八千代自身が一番よく分かっている。
事故を目撃したショックから実習に身が入りませんでしたでは、それこそ誰にも顔向け出来ない。
顔をあげ、教室を目指す。

くるが事故に遭った件は昨日のHRで「入院する事になった」とだけ生徒に伝えているとハンナが言っていた。
特に昨日の事故に触れる事なく授業がはじまったが、当然いつも通りという訳にはいかなかった。
生徒達の好奇な視線が八千代に集まる。
授業中、休憩時間問わずくすくすと笑い、ひそひそと押し殺した声で八千代に視線を向けながら囁き合う。
漏れ聞こえる内容から、八千代はくるが事故に遭った事は既に生徒達の間で広まっている事を理解した。
教育実習生が教室を飛び出した生徒を追いかけた。
そして、その先で生徒が事故に遭った。
生徒達にとっては美味しいネタでしかないのだろう。
特に他人の不幸は蜜の味と豪語するノエルはあからさまだった。

「傑作ですわ、八千代先生。昨日は雨の中飛び出した生徒を追いかけるなんていう青臭くて安い青春シーンを見せられ吐き気を催したものですけれど、事の顛末を聞いてお腹を抱えて笑ってしまいました」

妖艶な笑みを浮かべながら楽しそうに、教室中に聞こえる澄んだ声色で侮蔑する。

「八千代先生が事故の次の日のこのことここに顔を出せたのは意外でした。あまつさえ律儀に教育実習生なさってるだなんて。私、八千代先生の事だから自宅で膝を抱えて御自分を責めてるのだとばかり思っておりましたわ」
「期待に沿えられず申し訳なかったね」

力なく八千代が答える。

「まったくですわ。私が直々に負け犬と罵ってさしあげようと思っていたのに」

ノエルが優雅に笑い、吐き捨てる。

「つまらない男!」



夕景に包まれた放課後。
生徒が皆下校した教室で、八千代は板書計画を実際黒板に写す練習をしていた。
教員達は職員会議で職員室に集まっている。
昨日の時点でそのような予定はなかったので、昨日の事故の件を話し合っているのだろうと八千代は推測する。
チョークが黒板を叩く固い音だけが響く。
日中、ノエルに膝を抱えて自分を責めているのかと思ったと笑われた事を思い出す。
確かに、今こうして教育実習に身を置いていて良いのかと心は苛まれていた。
けれど落ち込む事は実習期間が終わってからでも出来る。
昨夜から何度もその決断を自分に言い聞かせている。
自分を責めたところで、事態は何も好転しないし起こった事実は変わらない。
きっと、責めてくれた方が楽だった。
周りの大人達は一言も八千代を責めない。頑張れとも言わない。
これからどうするか、選択を八千代自身に委ねている。
八千代は手を休め窓の外を眺める。
昨日の鉛色が嘘のように、一面眩しい程のオレンジ色が視界いっぱいに広がる。
自分が追いかけなければくるは事故に遭わなかったのではないか。
あの時こうしていれば、そうしなければ、そんな妄想が八千代の頭に浮かんでは消える。
けれど、飛び出したくるがそれから素直に帰って来るとも思えず、それこそ追わなければどうなっていたかなんて想像もつかない。
後悔はいつだって先に立たない。
それでも、これからも選択をしなければならない瞬間が何度もあるだろう。
人生は選択の連続だ。
せめてその時、どんな結果を伴おうとも、自分が正しいと思う選択肢を選べる人間になりたいと、八千代は思う。

「あれーさっちゃん、まだ帰ってなかったの?」

振り返るとヨシノがいた。

「お前こそ帰ってなかったのか?」
「にゃはは、忘れ物しちゃって」

そう言って自分のロッカーの鍵を開けて中から本を取り出した。

「図書館で借りた本、今日が返却予定日なのすっかり忘れてたんだー」
「思い出せて良かったな」
「ほんとにね」

からからと笑いながらヨシノが本を鞄の中にしまう。

「気を付けて帰れよ」
「うん。さっちゃんはまだ先生のお勉強?」
「ああ」
「大変だねー」

ヨシノが何とはなしに板書を眺める。

「そうしてるとさっちゃん、先生みたいだね」
「どうも」
「じゃ、頑張ってね」

ヨシノがひらひらと手を振り教室から出て行く。
その背中を見送って、再び八千代は黒板に視線を移す。
ハンナの指導のもと制作した板書計画。
自分の字で黒板に書かれた指導内容。
明日は再び実践授業がある。
これを見て、生徒がノートに書き写す。
生徒が学校生活で積み重ねる知識の一つになる。
とても貴重な経験をしていると改めて実感する。

「先生みたい、か」

なれたら良いなと思う。
そのための尽力は惜しまない。そう決めた。
奇しくも、事故現場に居合わせた事でこれまでよりも一層強く意識するようになった。
八千代は自嘲する。
事故現場に居合わせたショックから気持ちが折れたのだと、事故が起こった一因であり被害者でもあるくるにだけは絶対思われたくない。
そんな事思うような子ではない気がするが、それは八千代自身自己満足だと理解している。
幼い頃からの夢でありながら、明瞭な理由もなく、漠然と教師を目指していた。
まだこうなりたいと望む教師像はまだ見えないけれど、まずはそれでいいと思った。
カタン、と背後から物音がした。
ヨシノが戻って来たのかと思いながら八千代が振り返ると、フードを目深に被った人影が教室の後ろに佇んでいた。
八千代は既視感を感じた。
場所は違うが似たような光景を見た事がある。
夜。
自宅への帰宅途中。
脳裏を過るそれは二日前の出来事。
昨日の出来事が強烈で失念していた、生徒だと思しき不審者に襲撃された記憶。
よく見ると右手にはあの夜と同じ包丁が握られていた。
放課後の校舎、教室に、二日前自分の刺し殺そうとしてきた人物が再び凶器を持って目の前にいる。
現実味のない光景に、八千代はすぐに事態を飲み込む事ができない。

「…立花、さん?」

かろうじて発する事が出来た言葉は、目の前にいる人物のものと思われる苗字だった。
呟きが聞こえたのか肩がぴくりと動いた。
次いで、八千代に向かって机間を駈け出した。
駈け出した衝撃で被っていたフードが脱げると、左目を眼帯で覆った少女の顔が露わになった。
左目。
それは二日前の夜、不審者にヨシノがヘアピンを突き刺した箇所だった。
八千代は目の前の少女が立花さつきだと確信する。
母親に先立たれた事で塞ぎこみ、家に引きこもってしまった生徒。
その彼女が何故刃物を自分に向けるのか八千代には分からない。
血走った右目が八千代を捉えて離さない。
一度ならず二度目の襲撃に遭い、そこに明らかな殺意が感じられた。
冗談で済む話ではない。
とにかくこの一撃目を避けなければと無理矢理頭を回転させるも背には黒板がある。
執拗に追ってくる事は容易に想像が出来るので廊下に出て良いものか悩む。
だからといって素手で応戦出来るような心得は八千代にない。
都合よく助けなどくる筈もない。
目の前に立花が迫る。
八千代は傍らにあった教卓を力任せに蹴飛ばした。
立花の進行方向上に転がり、卓上に置いてあったプリントが舞い上がる。立花が一瞬怯み動きを止める。
教壇を踏み超えて、八千代は立花の手首を掴んだ。

「!」

八千代の手を振り払おうと立花が身を捩るが力比べでは八千代に分がある。

「どうしてこんな事をするんだ!」

手を離せば包丁が届く範囲に踏み込んでいるため恐怖心もあったが押し込め、八千代が怒鳴る。
立花の目が見開かれ、その顔が怒り一色に染まる。
何故彼女はこんなにも怒っているのか。
八千代の記憶に立花と顔を合わせた記憶はなく、そんな彼女が何故自分の命を狙うのか見当もつかない。
立花は何も答えず八千代を睨んだまま手首から抜け出そうともがく。
とにかく相手の動きを封じねばと咄嗟に手首を掴んだので、この先どう動けば良いのか考えてはいなかった。八千代は頭を悩ませる。
その時、八千代の耳に教室に近付く足音が届いた。
顔をあげると、今度こそヨシノが再び教室に顔を出した。

「聞き忘れてたんだけどさっちゃんさー、今晩……にゃ?」

教室内の有り様を目にしてヨシノが目を丸くする。
ヨシノが教室にやってきた事で注意が逸れた八千代の隙をついて立花が手首を振り払う。
八千代が視線を戻した時には包丁が眼前に迫っていた。
後方に下がりながら頭を包丁の弾道からずらして交わす。
八千代の頬を包丁が掠めた。
避けられはしたものの後の事を考えていない咄嗟の行動により八千代の重心はずれて身体が傾く。
しまった、と思った瞬間には立花が八千代を押し倒していた。床で強く頭を打ち痛みに呻き声が出る。

「わあ」

遠くでヨシノの呑気な声が聞こえた。
立花が八千代の腹の上に馬乗りになり、包丁を振り上げる。
ああ、これはまずいな。
他人事のように八千代は思う。
殺される。
どうして殺されるのかも分からないまま殺される。
殺される。
このまま死んだらヨシノはどうなるのだろう。危険が及びやしないだろうか。
きっとこんな所で殺されればたくさんの人間に迷惑をかける。
ジェイソンに逃げだしたりしないと言った矢先なのに、実習からどころかこの世からいなくなろうとしている。
殺される。
振り下ろされた包丁の切っ先は八千代を捉えている。
殺される。
非常時世界がスローモーションになったように感じると聞いた事があるけれど、正にそのように感じられた。
刃物が近付くのが見える。
殺される。
このままでは間違いなく死に至る。
殺されてしまう。
殺される。
殺される。
殺される。
殺される。
殺される。

殺さないと、殺される。


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