放課後。
その日分の実習を終え八千代はいつも通り職員室でレポート用紙に向かっていた。
しかし今日も思うように進まず時間だけが過ぎていく。
八千代は作文が苦手だが、今朝ハンナから聞いた生徒の話が気になって考えがまとまらない事も作業の妨げになっていた。
ハンナが担当するクラスに立花さつきという女子生徒がいる。
その生徒が昨夜、八千代が包丁を持った不審者に襲撃を受けた現場付近で左目を負傷したのだという。
八千代は昨夜、ヨシノが不審者の左目にヘアピンを突き立て撃退させた事を思い返す。
偶然近場で偶然不審者に遭遇し偶然同じ部位を負傷したとは考えにくい。
だがそうすると、昨夜奇襲を仕掛けた不審者は立花という事になってしまう。
だとすると何故、という疑問が湧く。
立花は母親を亡くしたショックから立ち直れず、ここ数日学校へ登校出来ていないのだとハンナから聞いていた。
なので、八千代が実習に入ってから一度も顔を合わせた事はない。
名簿で名前を一方的に知っている程度だ。
顔も知らない。
立花さつきという名前に心当たりもない。
当然、殺意を抱かれる程恨まれる覚えもない。
母親を亡くしたのだ。自暴自棄になり八つ当たりで見境なく通行人に刃物を向けている可能性が頭を過ったが、それはさすがに突飛だと八千代は天井を見上げ溜息をついた。

「失礼しますわ」

ガラリと職員室の扉が開き、ノエルが入って来た。
誰かを探すように当たりを見渡している。
目的の人物がいなかったのだろうか、肩を竦めた後八千代にすたすたと近付く。

「ハンナ先生はいらっしゃいませんの?」
「ああ。立花さんのお見舞いに行ったよ」
「そうですか。ではこれを、ハンナ先生に渡しておいてくださいませ」

そう言ってノエルは八千代に白い封筒を手渡した。

「中には写真が入っております。丁重に扱ってくださいね」
「写真?」
「私が小学校低学年の頃に撮影した集合写真です。ハンナ先生にくるくるが写ってる写真を持ってないかと聞かれましたの」
「くるくる?」
「葛城くるの事ですわ」

今朝ハンナが生徒の保護者から子供の頃の写真は一枚もないと連絡がきて困った顔をしていた事を思い出す。
あれは葛城君の事だったのか。

「授業で子供の頃の写真を使うから持ってこいと言われていたので、既に用意していた物を確認したところ偶然一枚写り込んでいたのでお持ちしました。どうぞお使いくださいとお伝えください」
「分かった、預かっておくよ」
「宜しくお願いしますわ」

柔らかな動作でお辞儀をし、職員室を出ようと身を翻す。

「葛城君って」

思わず零していた八千代の呟きが聞こえたようで、ノエルが立ち止まる。

「葛城君って、家庭に問題でも抱えているのか?」

今度は独り言ではなくノエルに向けて発した。
ノエルがうんざりした表情を隠そうともせず八千代に向き直る。

「何故そう思いますの?」
「それ、は」
「子供の頃の写真が一枚もないから?今朝くるくるがヒステリックを起こしているのを見たから?八千代先生は安直ですわね」

ノエルが腰に手を当て小さく鼻を鳴らす。

「あの子の事情なんか知りませんわ。知っていても人の家庭事情をほいほい吹聴する趣味なんて持ち合わせていませんけど。そんなに気になるなら、本人に尋ねたら宜しいのに」
「そう、だな。すまない、人に聞く事じゃなかった」

あまりに軽率な失言だった。
目を逸らし歯切れの悪い八千代を面白がるようにニヤニヤしながらノエルは続ける。

「でももし本人に尋ねて家庭に問題を抱えていると聞き出せたならどうしようがあるのでしょう。どうしようもないのに一時の好奇心で生徒のプライベートを詮索なんて悪趣味ですわね。ああ、他人の不幸が蜜の味ってやつですか?」
「違う」
「あらあらそんな怖い顔なさらないで。確かに大声で言える事じゃありませんが他人の不幸は実に甘美ですもの、私も大好物ですのよ。……ねえ、八千代先生」

ノエルが口角を上げて笑う。

「かわいそうだと思ったのでしょう?」

大きな音を立てて八千代が椅子から立ち上がった。
周りの教員の視線が八千代に集まる。
何か言いたげなのに何も言い返せない八千代を見て、見下げたと言いたげに眼を細め、愉快と言いたげな笑みを零したノエルは、まるでダンスのターンを披露するかのように八千代に背を向けた。

「ごきげんよう」



二限目が終了した後、そろそろ頭が冷えた頃だろうからくるの様子を窺いに行くというハンナに同行した時の事を思い出す。
特別教室が大半を占めるため足を運ぶ生徒数も少なく、本館に比べ静かで薄暗い別館の奥にその部屋はあった。
開錠する音がやけに大きく聞こえる。
ハンナが扉の横に設置された照明スイッチを操作した後、そろりと慎重に扉を開けた。
部屋の隅、力なく横たわるくるがいた。
扉の開く音が聞こえたのだろう、顔を傾け視界に捉えたハンナと八千代を睨む。
今にも噛みつかんばかりの形相で機嫌は頗る悪そうだったが、教室で荒れていた時に比べその表情に落ち着きが見られ八千代は安堵した。
室内を見渡す。
ハンナが説明していた通り室内に窓はなく、物もなく、ただ壁に囲まれているだけの何もない部屋だった。
刃物で切り付けたような跡や殴りつけた跡などが壁一面にいくつもいくつも点在し、嫌でも目に留まる。
確かにあのままくるを教室に留まらせると怪我人が出かねないし本人のためにもならないのだろうが、落ち着かせるためとはいえこんな部屋に2時間も閉じ込める必要があるのか。
今にはじまった事ではないのだろう、周りは見慣れていた。
だからこの2時間という時間は、これまでを鑑みてくるが落ち着くために必要な時間なのだろうという事は分かる。
それでも。

『かわいそうだと思ったのでしょう?』

ノエルの言葉が脳裏に蘇る。
息が詰まるのは、図星だからだろうか。

「はあ…」

八千代は溜息を一つついた。
いくら蟠っている今日の出来事を振り返り考えようと、堂々巡りをするだけだ。
何も出来ない現実は変わらない。
俯いていた顔をあげると、目の前に盛りつけられた夕飯が飛び込んできた。
そういえば今日は帰宅したらヨシノがパエリアが食べたくなったからと夕飯を作っていたのだ。
夕飯は週交代で担当しているが、八千代が担当の週だろうとこうして気まぐれにヨシノが作る事もある。
魚介類を中心に用いたパエリアとポテトサラダは実に美味しそうで、考え事をしていたら冷めてしまったなど作ってくれた人に失礼極まりない。

「にゃ?さっちゃんパエリア苦手だっけ?」

顔をあげると、向かいの席でヨシノが首を傾げていた。視線は口をつけていない八千代の分の夕飯に向けられている。

「悪い、考え事してた」

いただきます、と手を合わせてからパエリアを一掬い口に運ぶ。
やはり若干冷めてしまっていたがおいしい。
ヨシノは思い付きで行動する事が多々あって、失敗した所を見た事がないから器用な奴だと思う。

「教育実習生はお悩みもたくさんで大変そうだねー。今日の授業もなんか気が散ってるっぽかったし」

ヨシノにも察されていたとは情けない。

「さっちゃんの事だから、くるちゃんの事が気になっちゃってるのかなー?」

八千代が咳込んだ。

「くるちゃん朝荒れてたじゃん。さっちゃんはあんなの見たらやっぱほっとけないでしょ」
「いや、そんな、事は…」
「大方くるちゃんがかわいそうだと思っちゃって、そう思っちゃった自分を責めてるってとこでしょ。さっちゃんは捨て猫とか見ると一度は見なかった事にしてその場を通り過ぎるけれど気になって気になって結局拾ってきちゃうタイプだもんね」

ヨシノがにゃあと鳴いた。
まるで心を読まれたんじゃないかと疑ってしまう程的確に思考パターンを分析されていて八千代の目が泳ぐ。
そうだ。
その通りだ。
かわいそうだった。

「さっちゃんがそんな人柄なのは今にはじまった事じゃないじゃん。気にするだけ無駄だよー」
「でも、良くはないだろ…」

八千代はこれまでに捨てられた猫を見掛けた事は一度しかない。
そしてその時、ヨシノの言う通り放っておく事はできなかった。
かつて捨てられていた猫に山田さんと名付け今では家族の一員として生活を共にしている。あの時拾った事を後悔などしていない。
だからといってこの先捨て猫を見掛ける度拾って飼う事などできない。
全て平等に手を差し伸べる事などできない。
分かっているのに、手が届く範囲だったならつい伸ばしてしまう。
伸ばしたくなる。
ひどい自己満足だと思う。
無意識にスプーンを持つ手に力が籠る。
俯き暗くなる八千代の表情など見えていないかのように、ヨシノはにこにこと笑いながら

「めんどくさい自意識だね!」

八千代が抱え続けてきた蟠りを一刀両断した。



次の日も雨だった。
雨が激しくコンクリートを叩く低温が校舎内に轟き渡り、気分を陰鬱にさせる。
昼休み。八千代は待機室で昼食をとっていた。
普段なら聴こえてくる生徒達の賑やかな声は雨音に掻き消され、八千代しかいない空間に雨音だけが響く。
弁当を機械的に口へ運ぶ。
味があまり感じられない。
昨日、ヨシノに自意識過剰だと指摘されてからどうにも物事がうまく脳に届かないでいた。
折角教育実習生として受け入れて貰ったのに時間を無駄にしている。
情けない体たらくだと苛立ちながら、思いに反して頭は回転しない。
そんな時、突然待機室の扉が勢いよく開いた。

「八千代センセー発見デス!」

現れたのは英語教諭のジェイソンだった。
そこにいるだけで空気が明るくなるようなオーラを放っている。
待機室は八千代のような教育実習生が休憩をとる時に使う部屋で、普段教員も生徒も利用しない。勿論資料を置く倉庫代わりに利用している訳でもないので、わざわざこの部屋に足を運んだという事は自分に用があるからだろうと八千代は察する。

「I am sorry、まだ食事中でしたか!ではまた出直す事にするデスネ!」
「いえ、大丈夫ですよ」
「ノンノン!八千代センセーみたいな育ちざかりはしっかり食べないと駄目デスヨー」

食べかけの弁当に蓋をして席を立とうとする八千代を、ジェイソンが彼の肩を掴んで離席を止めた。

「では食べながらお話しまショー!」

ジェイソンがテーブルを挟んで真正面の椅子に腰かけた。
食べにくい事この上ないと心の中で思いながら、八千代は苦笑いを返し昼食を再開した。
ここで遠慮して口を付けないとジェイソンは無理矢理弁当を口につめてくる人間なのだ。
ジェイソンは3学年の担任であり高学年の授業を担当しているので、1学年相手に教育実習を行っている八千代とは校内での行動範囲が異なる。
なので、こうして面と向かって話をした事はなかった。
ハンナに教員の紹介を簡潔にしてもらった時、ハーフ!長身!金髪!明るい笑顔を絶やさず生徒・保護者からの人気が高い我が校が誇るモテ男なのです!と説明されていた事を思い出す。
そんな彼が一体何の用だろうか。

「ズバリ!八千代センセーお悩みを抱えてますネ?!」

ジェイソンがしたり顔で八千代を指差しながら切り出した。

「な、何を」
「顔に書いてマスヨー!浮かない顔、溜息。それでは幸せがescapeしてしまいます」

教職と言う仕事柄か、よく見てる人だな。

「実践授業の結果に落ち込んで教育実習続ける自信がなくなってきましたか?それとも対人?LOVEのお悩み?人生の先輩であるこのジェイソンが何でも聞きます相談乗ります、話してクダサーイ!」
「えっ、と」

突然やって来て何を言いだすのだろうか。
現状の把握が追い付かない八千代を置いて、ジェイソンは話を続ける。

「八千代センセーが5限目に見学予定の授業、ぼくが代理で教壇に立つのデスヨ」
「はい」

職員朝会の時、諸事情で一日休む事になった先生の代わりに、その先生が担当する授業の時間、その時間手が空いている先生が代役を務めるよう割り当てられた。
八千代が見学授業をさせてもらう予定だった5限目には、確かにジェイソンが入る予定になっていた。

「ぼくの授業に、そんな辛気臭い顔持ち込まないでほしいのデス」

単刀直入に告げたそれが、ジェイソンの用件のようだった。
実習に身が入っていないという指摘に情けなさと恥ずかしさが込み上げてきたが、今はそんな気持ちに呑み込まれてる場合じゃないと押し殺す。

「すみません」

八千代が席を立ち頭を下げると、ジェイソンが着席するよう促した。

「ぼくは八千代センセーの謝罪が欲しいんじゃないデスヨ。気持ちが沈むなんて誰にでもあります人間ダモノ!でもそれはそれ、実習は実習。ぼくにとっては大事な授業。落ち込むのは後でも出来マス。分かりますか?」
「はい」
「八千代センセーとはあまりtalkした事ありませんが、だからこそ話せる事もあるデショ!話せば楽になるならドーゾ!ぼくこう見えても口は堅いデスから安心してくださーい!」

八千代は苦笑いを返す。

「余計なお世話なのは百も承知デス。八千代センセーが切り替えられるならぼくはこのまま退散しますヨ」

教員にとって昼休みは休憩時間などではなく貴重な準備時間である。
その時間を割いて来てくれているのだから余計なお世話などとは思わない。
こうして、自分に気付いてくれる事は有難い事なのだから。

「でも、教室に今にも茸が生えてきそうなじめじめしたその顔見せたら放り出しマス。Is it OK with you?」

ウインクしながらジェイソンは八千代に選択を委ねた。
時間を作ってくれたのだから応えられるならば好意に応えたいとは思う。
けれど、自分が蟠っている事をうまく言葉に出来る自信がなかった。
ジェイソンはじっと待っている。
時計の音が大きく聞こえた。

「猫を、拾った事があるんです」

ぽつりと、

「雨に打たれていて、凍えていて」

八千代が探り探り零す。

「まだ両親と暮らしていた頃の事で、俺の一存で拾うなんて出来ないし、動物を飼う責任を負う自信もなくて、その時はその場を離れたんです。見なかった事にしよう、忘れようって。でも結局、拾いに戻ってしまって」

目を瞑り思い出すのは抱えた子猫の冷え切った体温。
戻って良かったと、そう思った。

「俺が全部世話をするって事で両親も納得してくれて。勿論拾った事を後悔なんてしてません。かわいいんですよ。家族なんです」
「そうなんデスか、今度是非紹介してくださいネ!」
「はい。是非」

快く答えてから、一呼吸置く。

「昔からそうなんです。放っておけないんです。また捨てられた猫を見つけたら、きっと俺は助けたいと思う」

それは紛れもなく本心だった。

「けれど拾えない。自分の生活もありますし、二匹の面倒を見る自信はありません。一匹目は助けられるのに、他は助けられないんです。おかしな話でしょう、同じ捨て猫なのに」

いつの間にか膝の上に置いた両手が爪を立てていた。

「昨日、教室で癇癪を起こしている葛城君を見ました」
「葛城……ああ、くるチャンデスネ。そういえば昨日八千代センセー教室にいましたネ!」

ジェイソンは昨日くるを教室から連れ出しにきた男性教諭であった。
最終的には担ぎ上げて運んでいたようだったが、くるに抵抗された際負った傷なのだろう、シャツの袖をまくっている事で見えている前腕部分に切り傷や痣が見られた。

「かわいそうだと思ったんです」

自分で言葉にして、喉が熱くなるのを感じた。

「癇癪を起して喚いてる事も、周りから嘲笑されている事も」

声が震える。

「助けたいと思いました」

どうもしてあげられない事を頭の隅で理解しながら、それでも捨て猫がかわいそうだから助けたいと思うように。
思った。

「俺一人の力でどうしようもないってのに。だけならまだしも、無力な自分にショックを受けたんですよ」

なんて汚い。

「そんな自分が悍ましくって」

八千代が自嘲するように笑って、静寂が訪れた。
ジェイソンは八千代が言い終えたと判断し、彼が吐露した言葉を反芻しながら言葉を選ぶ。

「それは、そんなに悪い事デスか?」
「…は?」
「Let's see…、ぼくもくるチャンをかわいそうだと思うし、癇癪起こされると正直面倒だと思う事もありますヨ」
「え」
「それは勿論宜しい事ではないし、口にする事でもありまセン。開き直る訳じゃないデスが、そう思ってしまう事を誰が咎められますカ。んむ、ぼくが言いたいのは、思ってしまうのは仕方ないって事なのデスけど」

ジェイソンはむむむ、と額に手を当て呻る。

「八千代センセーが言いたい事分かりますヨ。でもそれは誰にでもあって、要するに八千代センセーは気にし過ぎなのだと思いマス。猫を拾った事も、拾えない事も、くるチャンを助けたいと思った事も、何も出来やしない事も、誰も八千代センセーを責めはしませんヨ。猫を拾った事、後悔してないと言いましたネ。家族だと」
「はい」
「それでいいじゃないデスか。一匹の猫を拾ったのに他の捨て猫は助けられない事を無責任だなんて。それは一体誰の都合デスか。例え偽善だ不合理だなんて言われても気にしちゃノンノン!マザー・テレサも言ってマス、自分の行動にいちゃもんつけられても自分が最良だと思ってした事なら胸を張れと!」
「言ってません」
「ぼくなりの意訳デス」

ジェイソンが腕を組んで八千代を見据えた。

「そうやって周りを気遣って自分を責めるの、八千代センセーのお人柄なのでしょうネ、悪い事ではないと思いマス。でも、助けたいって気持ちだけで皆を救うなんて無理なのデスから、思い通りにはいかなくて当然なのデスから、自分が出来る範囲で出来る事頑張りまショ」

ネ!とジェイソンが笑う。
未熟な事を告白した自覚はあったが、そんな自分の言葉を真摯に受け止め回答をくれた事が素直に嬉しかった。
胸のつかえが先程より楽になった気がする。
話したからか、聞いて貰えたからか、悪い事なんてないと言って貰えたからだろうか。

「前向きに、ですね」

うまく御礼の言葉が見つからず、笑って返した。

「YES!」

ジェイソンは幾分明るさを取り戻した八千代の表情を見て、満足そうに何度も頷く。
素敵な教員に囲まれて自分は幸せだと八千代は思った。

「昨日同居人にも気にし過ぎだと言われました。自意識過剰だって笑われてしまいましたよ」
「ほう、八千代センセー親元を離れて暮らしてると聞いてましたが、同居デスとな?」

ジェイソンが変な所に食いつき興味津々だと目を輝かせながら身を乗り出した。

「まさか恋人デスか!」
「いえ!いえ!弟です!」
「Oh!八千代センセー弟さんがいらっしゃったのデスか」
「ええ、この学校の1年にいる紫乃って奴なんですけど」
「紫乃…紫乃……ああ、ヨシノチャン!そうデスねそういえばあの子苗字が八千代でした!」

ハンナもヨシノと呼んでいたし、どうやら教員相手にもヨシノで通じるようだ。

「確かにそう言われれば似………ん?お顔似てませんね?言われないと分かりまセンヨ」
「母親の再婚相手が、ヨシノの父親の兄弟なんですよ」

だから血は繋がっていない。
それでも八千代はヨシノを本当の弟のように、家族だと思っている。

「ナルホド」

ジェイソンはそれ以上聞いてくる事はなかった。



ジェイソンから指導案作成のアドバイスを貰いながら談笑していると、5限目の予鈴が鳴った。

「さて、八千代センセーも元気になった事ですし!5限目張り切っていきまショー!」

ジェイソンが椅子から勢いよく立ち上がり、握り拳を天に向け突出しながら気合の掛け声をいれる。

「あの、ジェイソン先生!有難う御座いました!」

呼び止め深々と頭をさげると、ジェイソンはにこやかに八千代の頭をぽんぽんと撫でた。

「welcome.」

ジェイソンは教材を持ちに職員室へ一旦戻って行った。
待機室に授業見学に必要な一式を用意してあった八千代はそのまま教室へ向かう。
自分はここに学びに来たのだから、立ち止まっていてはいけない。
泣き言は後でも言えるのだ。今は一つでも多くの事を吸収したい。
気に掛けてくれる、言葉を掛けてくれる先生達に報いたい。
気持ちを新たに頑張ろうと顔を上げる。
と、目的地である教室の開いた扉から飛び出してきた机が視界を横切った。廊下の壁に当たり中身を撒き散らしながら廊下に落下する。
机が飛び出してきたのは今自分が入室しようとしていた教室で、昨日のデジャブを感じながら室内を覗くと、教室の中でやはりくるが頭を抱えてしゃがみこんでいた。

「あら八千代先生、グッドタイミングですわ。それ、教室の外に出してくれます?」

教室の窓辺にもたれ掛かりながらノエルがくるを指差す。

「くるくる、貴方、もう少し辛抱強くなれませんの?癇癪を起こすのは勝手ですが、私の目の届かない所でやって下さいませ」

くるがノエルを睨みつけながら床に鋏を突き立てる。

「何ですか、お怒りですか?怒りたいのは私の方です。迷惑かけてるのが分かりませんか?構ってほしい意思表示か何か知りませんが、うざいです」

その言葉を皮切りに、くるは鋏を持ったままノエルに向かって駈け出した。
押し退けられた机が派手な音を立てて転がる。
ノエルが溜息をつき一歩前へ出ようとすると、二人の間に八千代が割って入り、両手を広げ立ち塞がった。
しかしくるは止まる事なく、鋏を八千代に向け突き出した。
その手首を掴んでなんとか止める。

「離せ!」

くるが掴まれた手を振りほどき、後方に下がり距離を取った。
ふらついていて、呼吸が荒い。癇癪以前に、体調が優れないように見えた。

「ノエルさん、そうやって相手を刺激するのは良くない」
「あら、私は正論を述べただけのつもりだったのですけど」
「さっきの君の台詞がそうだったとしても、言い方ってものがあるよ」
「あらあら、失礼しました」

謝罪を口にしながらくすくすと人を小馬鹿にしたような笑い声を漏れ聞こえる。
八千代はくるから目を離していないので背にしたノエルの表情は見えないけれど、愉快そうに笑っているであろう表情は想像出来た。
くるは苦しそうに肩で呼吸している。かける言葉が見つからない。
教室に響く雨音が耳に痛かった。
くるがゆっくりと両手を持ち上げ耳を塞ぐ。
張り詰めた、今にも泣き出しそうな表情をしていて、八千代は思わず手を伸ばしていた。
伸ばして触れた先、彼が抱えている何かを和らげる事が出来る訳でもないのに動かずにはいられなかった。
再び手首に触れそうになった八千代の手に気付きくるが払いのける。
そして、踵を返して駈け出した。教室を飛び出していく。
昼休みにくるを気に掛ける事を、助けたいと思う事を、ジェイソンに悪い事ではないと言われて、思い上がっていたのかもしれない。
胸を張れと言われて、浮かれていたのかもしれない。
逃げ出したくるを追いかけ八千代は駈け出していた。

想像以上にくるの足が速く、追い付けないまま八千代は校外に出ていた。
身体が雨に濡れる事は気にならない。
土砂降りのせいで視界が悪い事の方がよっぽど腹立たしかった。
当たりを見回そうにも激しく打ちつける雨のせいでまともに顔をあげられない。
見知った土地ではあるので現在地含め周囲を把握出来てはいるが、くるが何処に行ったかなんて想像がつかない。
逃げるように飛び出したのだ。目的地などなくやみくもに駆けている可能性の方が高い。
けれど立ち止まる訳にはいかない。
どう思われても構わない。
あの子を放っておくなんてできない。

走り回って、駆け回って、捜し回って、八千代は歩道に佇むくるを見つける事が出来た。
平日の昼間に傘を差さず走り去る少年を目にしたら覚えているだろうと、目撃した人がないか聞いて回ろうと人通りが多い大通りに向かおうとした判断が功を奏した。

「葛城君!」

八千代は思わず叫んでいた。
自分が呼びかけたらどんな行動に出るかなんて容易に想像がつくのに、見つけた事に気が緩み、何故探しているのかを失念していたのだ。
名前を呼ばれた事でくるは振り向く。
そして八千代の姿を視界に捉えると、脇目も振らず再び駈け出した。
自分の進行方向すら見ていない。
くるが大通りに飛び出す。
雨が視界を奪う白い世界の中、赤信号の点灯がやけにはっきりと見えた。
「馬鹿!戻れ!」
叫んで八千代も大通りを横断する。
視界が悪くくるが見えないのだろう、速度を緩める事なく何台もの車が往来する。
その中の一台がくるに気付き、くるを避けるようにハンドルをきった。
傍らを勢いよく水しぶきをあげながら車が通過した事で、くるの足が一瞬もつれた。その瞬間、くるの手を八千代が掴む。
くると目が合って、
同時に、
後方からくるを避けた車が歩道脇にある案内板に勢いよく激突し地響きのような轟音が大通りに響き渡って、
衝突の衝撃で破損した案内板の破片や車のガラス片が飛び散って、
その内の一つがくるを直撃した。
八千代の目の前で赤色が弾ける。
ぷつりと糸が切れたように崩れるくるの身体を八千代が抱き留める。

「葛城く…」
見ると、くるの抉れた首からは止めどなく血が溢れだしていた。


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