不審者に包丁で刺し殺されかけようが朝日は昇る。
いよいよ実践授業当日が迫った緊張感と突然の襲撃を受けた動揺が相まって、八千代は昨夜中々寝付く事が出来なかった。
睡眠不足なんて状態で実習に挑みたくない八千代は無理矢理眼を閉じ布団に包まるが、眠りに落ちてもすぐに目が覚めてしまう。
何度目かの覚醒を向かえ、空が白みはじめた事に気付いた八千代は熟睡を諦め身を起こす。
ブラックコーヒーを飲み下し、いつもより早く家を出た。
ヨシノとは家を出る時間が違う。
教育実習生である八千代も生徒であるヨシノも朝礼のチャイム前に校舎に到着していれば良いのだが、貴重な実習期間なので八千代は毎日早めに登校していた。運が良ければ教員達からの教育現場の話が聞けたり、時間外にも関わらず事務処理などの公務を教えて貰える。有難い厚意だ。
それに、ここは八千代の母校という事もあり、落ち着ける空間だった。
今日は実践授業当日。
ハンナとの事前打ち合わせはしてあるし進行内容はしっかり頭に入っているがもう一度進行の確認をさせて貰おうと思っていたが、睡眠不足も重なり身体が重く、気が付けば中庭のベンチに腰かけていた。
本館と別館の境にある中庭は学生の頃も一息つきたい時によく訪れた。
サクラソウやスズラン、マーガレットといった花が咲く花壇など八千代が学生の頃にはなかったが、夏場になると広葉樹の影が差し居心地が良かったベンチは学生の頃のままだ。
遠くで運動部が部活動をしている声が聞こえる。
それ以外は静かなものだった。
空を仰ぎ見ると今にも崩れそうな曇天が広がっていた。そういえば天気予報で今日は雨だと言っていた気がする。
ベンチの背もたれに体を預けて息を吐き出す。
昨夜の件があったばかりでヨシノを一人で登校させるのは些か心配だったが、件の不審者は自分を標的にしていたようだったので、行動を共にするよりは安全だと思いいつも通り家を先に出た。
殺意を向けられる程恨まれる覚えなどないが。
昨夜たまたま目をつけられたのが自分であっただけで、この想定が的外れであればヨシノの身に危険が及ぶ可能性が浮上する。
が、あんな大怪我を負わされた昨日の今日で出てくるとも思えない。
夜道で人を包丁で刺そうとするような人間の次の行動を常識に当てはめて考えた所で無駄な気はするし、常識を持ち合わせていた所で左目を負傷し復讐心に燃えるかもしれない。
俺だったら目にヘアピンを突き刺してくるような奴には二度と近付こうとは思わないけど。
帰宅後、包丁を持った相手に近付いた揚句何故あんな事をしたのかヨシノに問うたら

「帰りたいのにやたらしつこくさっちゃんに絡むからさー、撃退しなくちゃと思って」

とあっけらかんと答えられ絶句した事を思い出す。
今日ヨシノが登校する時不審者に襲撃されたとしても、身に危険が及ぶのは不審者の方かもしれない。
笑えない。
ヨシノは自由奔放で馬鹿正直だが、行動が突飛で未だに掴めない。
そこが楽しい奴ではあるけれど。

「何処へ行っても、物騒なんだな…」

幸い自分は巻き込まれた事はないが、八千代の周りでも殺傷事件は度々起こっていた。
ニュースで『同一犯による犯行か』などと毎日のように報道されていた殺人事件の見出しを思い出す。
近所でも被害が出て騒ぎになっていたと記憶しているが、そんな身近な事件さえ高校受験が控えていた時期の話だった事も重なりぼんやりとしか思い出せない。
傷害事件。失踪事件。殺人事件。
ぼんやりとしか思い出せないそれら事件の被害者の中に、ヨシノの両親が含まれる。
本人から聞いた話ではないが、殺人だったと家族葬に参列した際耳にした。
真偽は分からない。
ヨシノの両親の死体は未だ発見されていないのだから。
それでも葬式は執り行われたのだから、生存は絶望的だと、死亡だと断定するに足りるなにかがあったのだろう。
知りたいとは思わないけれど。
ヨシノとはじめて会った時の事を思い出す。
不思議と、はじめて会う気がしなかった。
おかしな話だ。
戸籍上は従弟ではあるけれど、実際血など一切繋がっていないのに。
ぽつりと頬に雨粒が当たった。
生徒も登校しはじめた時分だしそろそろ職員室に戻ろうと、八千代は立ち上がった。
雨が降りだした。



八千代が職員室に戻る頃には雨は本降りになっていた。
雨足が強く、激しく窓を打ちつけている。
こんな土砂降りの中徒歩で帰る事に億劫さを感じながら職員室へ入ると、数人の教員達が席に着き談笑していた。
八千代は授業が始まる前に自分が行う授業の進行について再度確認をしておきたかったので、この時間ならいつも到着しているハンナを探す。
見回すと職員室の隣にある事務室にいるハンナをすぐに見つける事が出来た。
携帯で通話しているようだ。

「そうですか…一枚もありませんか?家族で写ってる写真とか…はい。そうですか。いえ、こちらこそお時間割いてくださり有難う御座いました。思い出した事があれば、また連絡をください。はい。宜しくお願いします」

通話を切るとハンナは肩をおとし大きなため息をついた。

「ハンナ先生、おはよう」

後ろから声をかけるとハンナが振り返った。
心なしかげっそりとしている。

「おはようなのです。さっちゃん先生今日は早いのですね」

懸念していた通りハンナにさっちゃん先生と呼んできたが、ここで反応を返すと面白がって連呼されそうなので八千代は無反応を貫く事にする。

「電話、何か困った事でもあったのか?写真が一枚もない、って聞こえたけど」
「ああ、来週授業で子供の頃の写真を使うから各自用意しておいてほしいと連絡してたのですけど、今親御さんから連絡があって、一枚もないって言われてしまったのです」
「子供の写真が一枚もないって…」

子供が成長するにつれ写真を撮らない家庭もあるが、一枚もないという話は聞いた事がなかった八千代は言葉に詰まる。

「そんな家庭もあるのです」

ハンナが肩を竦める。

「同級生に聞いて集合写真に運良く映ってたら良いのですけど。あの子写真嫌いそうなんですよねー」

はあ、と本日二度目の大きなため息をつく。
そんな時、廊下からばたばたと足音が迫ってきた。
隣の職員室の扉が乱暴に開く音が聞こえる。

「あの、ハンナ先生は」
「はいはいここなのですよ。どうしましたか?」

ハンナが職員室の方へ駆けていく。
事務室から職員室を覗くとクラス委員長がいた。

「葛城君が教室で荒れてて」
「あらー最近落ち着いていたのにどうしたんでしょうねえ」

ハンナは職員室にいる教員全員に聞こえる声で職員朝会に遅れるかもしれない旨を伝え、職員室を出る。
八千代は教室に向かい駆けるハンナの後を追った。
ハンナが担任であり八千代が実習として参加しているクラスは一学年。
一学年の教室が並ぶ校舎の2階を目指し階段を駆け上る。
教室の前には複数の生徒達が教室の中を窺うように騒然しく簇っていた。

「見世物じゃないのです!教室へ戻りなさーい!」

ハンナが口頭で注意しながら教室に入って行く。
そんな注意に耳を貸さず生徒達はハンナを視線で追う。
中で何が起きているのだろうと思いながら八千代も教室に足を踏み入れようとした矢先、教室内から勢いよく鋏が飛んできた。
八千代が踏み留まれなければ直撃していた事だろう。
鋏が壁に当たって床に落ちる。壁には鋏の刃が直撃した際に出来た傷がついていた。
怯まず八千代が教室に踏み入れる。幸い追撃はなかった。
教室の中は生徒用デスクや椅子が四方に横薙ぎにされ、それらに収納されていたのであろうプリントや教科書類が散乱していた。
嵐でも過ぎ去ったかのような教室の中で、膝を折って俯いている少年がいた。
生徒達は彼を避けるように教室の隅に退避していたが、慣れているのかほとんどの生徒が現場の惨状に関わらず他愛ない話に花を咲かせたり携帯を手持無沙汰に操作していたり読書をしていた。
そんな様子が八千代には異常に感じられ、戸惑う。

「くるちゃん、どうしたのですか?」

ハンナが少年に近寄ると、くるちゃんと呼ばれた少年が俯いていた顔を勢いよくあげ威嚇するように鋏の刃をハンナに向けた。
ハンナの動きが止まる。
よく見ると八千代が実習を受けさせてもらっているこのクラスの生徒の一人、葛城くるだった。
憤っているような、怯えているような、今にも泣き出しそうな表情をしている。
平常ではない事は一目瞭然だった。

「ハンナ先生、危ないですわよ」

堂々と生徒用デスクに座り足を組んでいる生徒がハンナに教室の端から声を掛ける。
実習初日、名簿を読み上げる際本名では呼ばずノエルと呼ぶようにと指摘してきたこのクラスの生徒だ。

「ハンナ先生は鋏なんか恐れはしないのです!」
「突然キレて人様に迷惑かけてる自分勝手野郎なんて放っとけば宜しいのに」

ノエルがくるに聞こえるように溜息をつくと、くるがノエルに向かって鋏を投げつけた。
先程教室から飛び出した鋏は、やはりくるの仕業のようだ。
鋏はノエルの横を通過し壁に突き当たった。うまく狙いがつけられないのだろうか。

「まあ確かにこの場を収めて頂かないと授業どころじゃありませんけど」
「そうやってくるちゃんを刺激するものではないのです!意地悪ですよ!」
「黙れ!」

くるが怒鳴った。

「黙れ、黙れ黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!!」

くるは両手で耳を塞ぎ、一心不乱に黙れと繰り返し叫び散らす。
次第にただの悲鳴に変わっていく様子を見て、周りがくすくすと笑った。
八千代が眉を顰める。
教室中に木霊する微かな笑い声がくるの耳にも届いたようで、厭わしそうに近くに転がっていた椅子の足を掴み方向を定めず勢いに任せて投げつけた。
椅子は倒されたデスクの群れの中に派手な音を立てながら落下する。

「滑稽」

ノエルが鼻で笑うとくるが立ち上がって机を蹴飛ばした。

「ぁぁあああああ!ああああああああ!!」

息苦しそうに掠れた絶叫だった。
まるで空気を求めて水面をもがくように転がった机や椅子を蹴飛ばす。でたらめな入射角によりデスクなどの角が容赦なく下腿に当たっていた。
このままではくる自身が怪我をしてしまいそうで、何よりまずこの教室から出してやらねばいけないと思い、八千代がくるに近寄る。
しかしハンナが八千代の進行を遮るように左腕を真横に突き出した。

「近寄ると危ないのですよ」
「そんな事言ってる場合じゃないだろう!」
「じゃあ、何ができるのですか?」

ハンナはくるから視線を逸らさず前を向いたまま、八千代に言い聞かせるように繰り返す。

「さっちゃん先生に、何ができるのですか?」

八千代は反論出来ない。
動けない。
拳を握り歯を食いしばる。
教育実習生である立場では、そうでなくとも、この場で感情的に動く事などできない。
目の前で苦しんでいる生徒がいるのに、駆け寄った所で何も出来ない。
掛ける言葉もない。
自分の無力さを実感する。
くるが新たに取り出し握りしめた鋏でカーテンを裂く。布が引きちぎれる音が盛大に響くと、突然くるの肩が跳ねてぴたりと動きが止まった。
教室の中には雨音だけが響く。

「ぅ、あ…」

鋏がくるの手から零れ落ちる。
くるはゆっくりと耳を塞いで膝を折る。俯いて震えているようだった。
雨音に混ざり嘲り笑う周囲の声が八千代の耳に響く。
不快だった。


くるは押し黙り蹲っていた。
微かに息苦しそうな呼吸音が聞こえて八千代は不安になる。
他の生徒はその場から動かず、くるには目もくれず他愛ない話を再開していた。まるで見慣れた光景であるかのようだ。
職員朝会が終わったようで、男性教諭が教室にやってきた。様子を見に来たらしい。
ハンナが事情を話す。
何度か相槌を打った後、二人がくるに視線を向け会話を続ける。

「授業が始まるので、外に出しましょうカ?」
「落ち着いているとは思うのですけど」
「また暴れて授業が止まるのは困るデショ?」
「ん、そうですね…では、一旦クールダウン室に連れて行って貰えますか?」

断片的にしか聞こえなかったが、どうやらくるを一旦教室の外に出すらしい。
八千代はくるを見る。
一体何をどう見たらあれが落ち着いているように見えるのだろうか。
落ち着いてなどいない。
八千代には、くるが落ち着こうと必死で激情を抑えようとしているようにしか見えない。
それにあんな状態の子供がおとなしく従う訳がない。
しかし八千代は口出し出来る立場ではないので、順調に事が運ぶ事を祈りながら見守る事しか出来ない。
一体どうやって連れ出すのかと見ていれば、無理矢理腕を掴んで引っ張り出そうとしていた。
案の定くるが抵抗して鋏を振りかざすも、大人の力任せには適わず、廊下中に響きわたる声で怒鳴りつけられながら、教室から徐々に引き摺り出されていった。
八千代が言葉を失っていると、くると擦れ違いにヨシノが教室に入って来た。

「おはようございまーす!遅刻しました!」

散らかった教室を気に留める事なく、張りつめた空気を気にする事もなく、いつもの陽気な声で重苦しい空気を容赦なく切り裂く。

「ヨシノちゃん、遅刻届は持って来ましたか?」
「勿論だよ、どーぞ!」

ヨシノがハンナに遅刻届の用紙を手渡す。
デスクや椅子が散乱する中、ヨシノはあれれ俺の机がないーなどと言いながら自分の席の辺りをきょろきょろ見回しはじめた。
誰かが何かを発した訳ではないが、自分のデスクを探すヨシノに釣られて生徒達が散らかった室内を黙々と片付け始める。
まるで、いつもの作業であるかのように。
八千代はヨシノに「さっちゃんも手伝ってよー」と声をかけられるまで、呆然と立ち尽くしていた。


教室内が片付き、ショートホームルームが終わろうとした時、くるを連れ出して行った教諭が教室に戻って来た。
ハンナと幾つかやりとりを交わした後、教諭がハンナに鍵を手渡しているのが見えた。



「お疲れ様なのですー!」

一限目が終了し職員室に戻った八千代はデスクに伏せていた。
今しがた人生初の実践授業が終了した。
一限目前に起こった出来事があまりにも強烈で、八千代はこの一時間授業に身が入らなかった。
何を話したのかも今となってはおぼろげだ。
教育実習生として受け入れてもらいながらなんて失態だ、と心の中で舌打ちをする。
色んな子供がいる。色んなクラスがある。色んな指導方法がある。
当然だ。
そんな事分かりきっていたと思っていたのに。
いざ目の前にすると動揺した。
教職を目指す以上、あのような事は、これから幾度となく対峙しなければならないだろうに、自分は何を甘えた事を言っているのだろうか。
分かっていても、飲み込めない。
叫び散らすくるの声が頭から離れない。

「さっちゃんせんせーい」

先程から何度声を掛けても俯いたまま反応のない八千代の背中を思い切りハンナが叩いた。
顔をあげじろりと睨む。

「痛い」
「さっちゃん先生が返事しないのが悪いのです」
「それは確かに俺が悪かった。でももっと優しい声のかけ方ってものがあると思う」
「分かりました。次はお尻を優しく撫でる事にするのです」
「やめろ」

両手を胸の前に持ってきて指をわきわきと蠢かせるハンナから八千代が身を引く。

「はい。冗談は置いといて」

ハンナがぱん、と手を叩いた。

「改めて、お疲れ様なのです。しかし心ここにあらずでしたね。指導案は良かっただけに実に勿体ない授業でした。緊張するのも分かりますが、もっと生徒の表情を良く見てあげましょう!質問したそうな子もおりましたよ」

八千代は苦笑いを返す。

「まあそう落ち込まず。はじめから満点なんてとれないのです。うまく出来なくて当然なのです。どんまいなのです!」

他の職員もうんうんと頷いた。

「ぶっちゃけさっちゃん先生には指導も事務も期待しておりませんので、私達にはどんどん迷惑をかけておっけーなのです。さっちゃん先生はここで遠慮せずたくさん失敗してください」

ハンナが胸を張りながら続ける。

「そこから何を学ぶかが大事なのです」
「…まるで、先生みたいな事言うんだな」
「先生なのですよ。人生の先輩なのです!」

ピースサインを目の前に突出し力強く言い放つので、八千代の頬が緩んだ。
緊張を解そうとしてくれようとしているのが分かる。
けれど実際は緊張している訳ではなく、実践授業の事を引き摺っている訳でもなくて、今朝の教室での出来事が気掛かりになってるのが本当だった。
あの場の対処や会話から察するに、くるが教室で暴れた理由などきっとハンナ達も把握していない。
なので八千代が気になっているのは、あの後くるをどうしたのかだった。
どう、対処、したのか。
気持ちの良い答えが返ってこない事は分かっていた。
けれど、このまま蟠りを抱えていたのでは次の授業にも支障が出てしまいそうで、こうして自分にエールを送ってくれる教員達に申し訳なく思い、切り替えるためにも、思い切って八千代は疑問をハンナに投げかける。

「さっきの子さ、結局授業戻ってこなかったけど、どうしたんだ?」
「さっきの?くるちゃんの事ですか?」

八千代が頷く。

「ああ、なるほど!さっちゃん先生が授業に身が入らなかったのはくるちゃんに一目惚れをしてしまってあの子の行方が気になって仕方がなかったからなのですね!」

冗談に付き合う気にもなれず無言を返す。

「くるちゃんは気持ちが昂っちゃっていたので、クールダウンさせるために別の部屋に連れて行ってもらったのです。あのままだとくるちゃんも私達も怪我しちゃいますからね。実際、今日連れて行ってくれた先生も両腕やらに痣や切り傷作ってお戻りになられましたよ」
「よくある事なのか?」
「小中学の頃に比べ落ち着いたと聞いてるのですけどねー。いつもひょんな事から暴れ出してしまうのです。何なのでしょう。心の病気なのでしょうか」

そこまで言って「なんて、適当な事言ってはいけませんね」とハンナが前言を撤回する。

「いつも、落ち着くまで、閉じ込めて待つのか」

ハンナが鍵を受け取っていた事を思い出す。

「前にくるちゃん部屋から逃げ出しちゃった事があったのです。ずっとついてる訳にもいかないので、施錠は仕方ない事なのです。したくてしてる訳じゃないのですよ」
「それは、そうなんだろうけど」
「クールダウン室は壊す物も撤去してありますし窓もありませんので、くるちゃんにとって安全なのです」
「そう、か」

今頃そのクールダウン室とやらに葛城君は一人でいるのか。
胸の奥がざわつく。やはり納得出来る答えではなかった。
黙っていると、空気を変えようとしたのかハンナが唐突に「そういえば!」とわざとらしく話題を変わる。

「安全と言えば、聞きましたかさっちゃん先生!」
「何を」
「さっちゃん先生の自宅近くでなんと障害事件が起きたのです!」
「え」

昨日不審者に包丁で襲われた事が八千代の脳裏に浮かぶ。
そういえば昨夜の件を警察に連絡していない。
あまりに突然の出来事だったので茫然自失となっていた。警察事情に詳しくはないが、通報しておけば見回りなどしてくれていたのではないだろうか。

「今日のホームルームでお話する予定なのですけど、今日うちで欠席してた子いたじゃないですか」
「あ、ああ。確か、立花さつきさん…だったっけ」
「その子が被害に遭ってしまったのです…」

ハンナがしょぼんと肩を落とす。

「さつきちゃんの家、さっちゃん先生の家の近くなんですよね。犯人はまだ捕まっていなくって不安なのです。私は今日授業が終わり次第さつきちゃんの様子をお聞きしに行くので、レポートは一人で頑張ってくださいね」
「ああ、分かった」

始業ベルが鳴ったので慌てて席を立つ。
教室に早足で向かう途中、ハンナが頬を膨らませて教え子を襲った犯人へ恨みの言葉を吐いた。

「まったく。おんなのこの左目を突き刺すなんて、とんでもない奴なのです!」


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