八千代が目を開けるとその視界に映ったのは白い天井だった。
見慣れた自室の天井ではない事に気付き、微睡みは一気に冷め勢いよく身体を起こす。
壁に沿うように設置されているベッドの周りをカーテンが仕切っている。
どうやら実習校の保健室のベッドで横になっていたらしい。
しかし、何故、今、この場所で眠るに至った経緯を思い出せない。
八千代が混乱していると仕切りのカーテンが開かれヨシノが顔を覗かせた。

「おはよー」
「お、おはよ…」
「とは言っても、もうお昼なんだけどね」

にゃはは、と笑うヨシノの片手には箸が握られていた。
カーテンの隙間から覗く職員用デスクの上には今朝八千代がヨシノに用意した弁当が開けられていて、ますます状況が呑み込めない。
現状を把握しようと、八千代は混乱する頭で記憶を遡る。

今朝。
目を覚ますと月曜日になっていた。
土曜日に睡魔に負けたところまでは覚えているが、その後どう過ごしたのか記憶が一切なく、ここでも狼狽したのを覚えている。
八千代が突っ伏して眠っていた机の上には、土日に済ませようと予定していた実習の復習、教材研究や指導案制作が完成し片隅に積まれていた。
机に向かい作業に打ち込んだ記憶はないが、現にこうして済ませてあるのだから着手したのだろう。
倦怠感を感じる重たい身体を引き摺りリビングへ足を運べば、そこには到底一人で消費したとは思えない数の空になったアルコール飲料の缶やビンが散乱していた。
リビングが散らかっている理由が思い当たらない。
八千代には心当たりがないどころか、まだ二日間の記憶が思い出せずにいる状態だった。
ヨシノならリビングが散らかっているいきさつを知ってるかもしれない。しかし、訊ねようにもまだヨシノが起きてくる時間ではなかった。
ひとまず今日の実習から帰宅してから聞けばいいか、と。
思考力も判断力も低下している八千代はいつも通り行動する事で落ち着きを取り戻そうと、兎にも角にも実習校へと向かう支度をはじめた。
頭が痛む。
普段は気にならない生活音が、街の音が、まるで甲高い音を耳の近くで鳴らされ続けているかのように痛みを伴い頭に響く。
歩む振動で頭部を殴られているかのようだった。
起きた時から感じている倦怠感も抜けきらない。
体感重力が増したように身体が重い。気を抜けば膝を折ってしまいそうになる。
そして尋常ではない眠気。
いつものようにコーヒーを飲んでも晴れる事はなかった。
今から実習なのだと気を引き締め、身を引き締める。
一限目、二限目、三限目と記憶を辿ったところで、八千代の記憶は途絶えていた。
四限目に予定していた実習内容は覚えている。
しかしそれを行った記憶がない。
何度思い返しても、四限目開始前、教室に向かう途中で記憶は途切れてしまう。
保健室の時計を見ると、四限目の始業時間どころか終業時間をとうに過ぎ、昼休憩の時間を指していた。
実習中に気を失ったという最悪の可能性が脳裏に浮かび、血の気が引いた。

「三限目が終わった直後だったかな、さっちゃん廊下で倒れたんだよ。覚えてない?」

八千代の心のうちを見透かしたように、ヨシノが告げる。
体調不良により実習中気を失ったという想像が事実と合致した。
青ざめて、絶句する。
眩暈がした。
実習生として受け入れてくれているという事は、実習期間中、教育活動に実習生である八千代が参加出来るように取り計らい、指導案を組み立ててくれているという事だ。
それを体調管理が出来ていないという個人的な理由で台無しにするなど言語道断、情けないにも程がある。
かけた迷惑と負担を考えただけでも気が遠くなる。
忘れていた不調を思い出したかのように身体が重くなる錯覚に陥る。
たまらず八千代は起こしていた上半身を前に屈めたが、けれど不調には構っていられない。
すぐに職員室へと出向き、謝罪しなくてはいけないというのに、しかし身体が動かない。
呼吸が苦しくなる。
八千代の頬を汗が伝う。
事を荒立ててはいけない。
波風を立ててはいけない。
行動が目立ってはいけない。
そうやって生きてきた。
決して、自分の行動が、父親の目に留まってはいけない。
でないと、母親がまた嬲られる。
発端が八千代にあっても、父親は自らの妻を責める。
自分の子供の管理もまともに出来ないのかと、暴力を持って責めたてる。
理由などなくても父親は母親に暴力を振るうし、言動はいつだって理不尽で、乱暴だった。
だから八千代に出来る事は、息を殺して、機嫌を窺って、親に負担をかけない子供でいる事だけ。
自分がきっかけで母親に迷惑をかける事がなくなるようにと自殺を考え事もあったが、それで母親への暴力がなくなる訳がない。
寧ろ、いざという時に母親を庇う人間がいなってしまうだけだった。
母親は八千代を責めた事は一度もない。
父親を責めた事だって一度もなかった。
苦しかった。
ただ息苦しかった。
八千代の記憶に、小学生に入学するよりも前、仲睦まじかった家族の記憶がある。
今となっては自分の妄想だったかもしれないと疑うそれに、母親は縋っていたのだろうと思う。
自分も、あの頃に戻れる奇跡を夢想していた。
心のどこかで奇跡は起きると期待して、根拠なく思い込んでいた。
くだらない。
けれど、あの頃の自分は家族が大好きだったのだろう。
八千代は期待する事を、家族に戻れる事を諦めきれなかった。
父親が気まぐれに八千代に包丁を手渡して、度胸試しと銘打って飼い猫の耳を切り落としてみせろと言いだしたその時も。
切り落とせない八千代に対して、情けないと蔑みながら爪を剥がれた時も。
止めるようにと母親が父親に口を出して、口答えに対して母親を殴りつけた時も。
もう気を失っている母親を殴り続ける父親を眺めている時も。
八千代は心のどこかで、まだ家族に戻れると思っていた。
まるで夢を見ているようだったから。
あまりにも非現実的で、まるで悪夢を見せ続けられているようだったから。

「さっちゃん」

名前を呼ばれて顔をあげるとヨシノが自分の顔を覗き込んでいた。

「顔色悪いけどだいじょーぶ?」

首を傾げ、ヨシノが問いかける。
大丈夫。
そう答えたかったが声は出てこない。
代わりに、八千代はヨシノの腕を引き、縋るようにヨシノの胸に顔を埋めた。
涙が出そうな程あたたかかった。
大丈夫。
父親はもういない。
今の自分には弟がいて、新しい家族がいる。
だから大丈夫。
母親も自分も、怯える必要はない。
だからもう大丈夫。
あれ。
でもどうして。
どうしていなくなったんだっけ。

「先生呼んでこよっか?」

頭上からヨシノの声が降ってきた。
その声に現実へと引き戻される。

「大丈夫、だ」
「そっかー」

からからと笑いながらヨシノが八千代の背中を撫でた。
安心している自分が気恥ずかしくて、八千代は顔を上げられなかった。
八千代が母親と引っ越した先の隣人が、八千代の母親の今の再婚相手で、ヨシノと知り合ったのも、隣人との交流がきっかけだった。
弟がほしいと思った事がある八千代は、まだ幼く目を離せば何をしでかすか分からないヨシノを何かと気に掛けていた。
後に本当の弟になるとはこの時夢にも思っておらず、驚きと、嬉しさを感じた事を覚えている。
血が繋がっていなくとも八千代にとってヨシノは大事な家族だった。
ヨシノといる時八千代は肩の力を抜いて、自然体でいられた。
自分に対してヨシノは、八千代の母親のようにまるで腫れ物に触れるかのように接しない。遠慮はしないし、気遣わずに接してくれる。
八千代の身内の中で一番家族から遠い存在なのに、一番身近に感じる存在だった。
仲が良かった頃の家族に戻る事は出来なかったけれど、もう二度と戻る事は出来なくなってしまったけれど。
今は、ヨシノが。
家族が、いる。
だからもう息苦しくなんかない。

「ところでさっちゃん、俺はそろそろ弁当を食べたいから離してほしいんだけど」
「…悪い」

抱き寄せていた腕から開放すると、ヨシノは何事もなかったかのように弁当を置いてある職員用デスクへ向かい、着席した。
ヨシノが手を合わせていただきますと口にしてから箸をつける。
今朝八千代が用意しておいた弁当をもくもくと口に運ぶヨシノと目が合うと「おいしいよー」と笑顔を向けられ、自分が作った料理をおいしいと言ってもらえた事にこそばゆさを感じた。
これまでヨシノが飲食に対して口に合わないというような反応を見せた事はない。
おいしいと口にする事はよくあったが、ヨシノはわざわざ世辞を口にする性格ではない。どちらかといえば思った事を素直に口にする性格なので、褒め言葉は何度聞いても嬉しい言葉だった。

「ところで、さ」
「何?」
「どうしてお前はこんなところで昼飯を食べているんだ?」

目を覚ましてから疑問に思っていた事を尋ねる。
そもそも、何故この場にヨシノがいるのかも疑問だった。

「えっとねー、さっちゃんが目を覚ますとまず保健室で横になってる自分に驚くでしょ。で、どうして保健室にいるのかが分からなくって混乱して、倒れた事を思い出して凹むでしょ」
「……」

にこにこといつもの調子で答えるヨシノに物申したい気持ちが沸き起こったが、否定しきれず八千代は閉口する。

「そこで、目を覚ました時そばに俺がいたらさっちゃんは安心するだろうからついててやってって、ジェイソン先生に頼まれたんだー。お昼はここで食べてていいよって、ジェイソン先生が俺の弁当持って来てくれてね」
「…なんだそれ」

八千代が眉を顰める。

「お前、授業どうしたんだよ」
「にゃ?ああ、サボリじゃないからね。四限目は数学で、先生が用意した復習問題をひたすら解くだけだったから、ちゃんとここで全部終わらせたよー」

ヨシノが傍らに置いてあったプリント用紙数枚を八千代に向けて見せる。
確かに四限目は数学だった。そして単元の復習問題を解く予定だった事も覚えている。復習問題は八千代が用意したもので、意識を失う前緊張していた事を覚えている。

「そういう問題じゃないだろ」

確かにこんな状況下で目を覚ました時に身内がそばにいたら混乱を未然に防げるだろうが、だからといって授業を無視していつ目覚めるかも分からない人間のそばについているように指示して良いとは思えない。

「さっちゃんは頭固いなー」
「そんな事ない」

にゃははと軽く笑ってヨシノは昼食を再開した。
八千代には何故ジェイソンがヨシノにそばについててやってくれと頼んだのかが分からなかった。
ヨシノが自分の弟だと確かに話したが、目を覚ました時ヨシノがそばにいたら自分が安心すると判断させるような素振りを見せた記憶はない。
教育実習生だからこそ、身内だからといって周りとの接し方に差が生まれないように注意して接しているつもりだった。
しかし、元はと言えば自分が倒れたりしなければ誰にも迷惑をかけなかった話なのだ。それにこんな事、考えたって答えに辿りつかない。
八千代はヨシノが昼食を食べ終わるのを待ってから、職員室へ向かう事にした。



八千代はヨシノを教室へ送り届けてから職員室へ向かった。
まずは養護教諭を探すが室内には見当たらない。
その日の日程が書き込まれている黒板には、養護教諭の名前の隣に出張と大きく書かれていた。養護教諭のデスクは片付いていて、もう校舎を経っている事が窺えた。
八千代は次に、自分の指導教諭であるハンナを探す。
すると、ハンナの方が先に八千代に気付き駆け寄って来た。

「さっちゃん先生!もう起きて大丈夫なのですか?!」

答えるよりも先に八千代が頭を下げる。

「迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした!」
「気にしないでください私も悪かったのです! 」

言いながらハンナも八千代よりも深々頭を下げたので八千代は思わず

「は?」

と間抜けな声を漏らした。
ハンナから謝罪をされる心当たりがない。

「どうしてハンナ先生が頭を下げるんだ?」
「のおおお!記憶まで吹っ飛んでいるのですね!そりゃそうなのです、昨日お酒を浴びるように飲んでたんですから!」
「酒…?」
「昨日ぼくと八千代先生とハンナ先生とで酒盛りしたじゃないデスカー!」

八千代が職員室内を見回した時には自分のデスクで仕事をしていたジェイソンがいつの間にか二人の傍まで寄って来ていた。
まるで八千代が飲酒をしたかのような二人の台詞に八千代は首を傾げる。
しかしすぐに今朝のリビングに散乱していたアルコール飲料の空き瓶を思い出し、八千代は青ざめる。

「さっちゃん先生、昨日の記憶がまるでないみたいなのです」
「oh、ハイスピードで飲んでましたもんネー」
「ジェイソン先生と八千代先生で競うように飲んだりするからです。お酒はもっとゆっくり味わって楽しまないと」
「八千代センセーがなかなか酔わないのでついつい勢いに乗ってしまいまシタ。ぼくもこう見えて二日酔いで頭痛なんデスヨー」
「調子に乗った自業自得なのです」
「うちのリビングが散らかってたのって…」

軽い調子で話す二人の会話を聞きながら、八千代は震える声で呟く。

「だから、私とジェイソン先生が最近余裕ない八千代先生の気分転換になればとお宅に突撃して、結果昼から夜まででどんちゃん騒ぎしたのですよ。ちっとも覚えていないのですか?」
「覚えてない…」

リビングにアルコール飲料の空瓶が散乱していた原因を知り、八千代は脱力感を感じていた。
言葉に力が入らない。
気が遠くなりそうだった。

「飲みっぷりの良い二人を面白がってストップをかけなかった事、本当に申し訳ないと思っているのです。さっちゃん先生も二日酔いなのでしょう?今日は朝から顔色悪くって気になってはいたのです」

八千代はアルコールが苦手な訳でもなく、体質上飲めない訳でもない。
単純に飲酒を嗜まないだけだった。
そんな自分がジェイソンと競うように、浴びるように酒を飲み、記憶が飛び、実習校で実習中に二日酔いで倒れるなどという結果を招いたとは信じたくなかった。
顔を両手で覆う。
情けなさで泣いてしまいそうだった。

「Don't cry!」
「泣いてません」

土曜日、日曜日の記憶がないのは八千代の人格が切り替わっていたためなので、今の八千代に二日間の記憶がないのは当然だった。
けれど今の八千代にそれを知る事は出来ない。
異常な睡魔も疲労感も、分裂した人格が満足な睡眠をとらず活動していたため感じるものだった。
二つの人格を保有していても、活動する身体は一つ。
疲労も睡眠時間も摂取したアルコール成分も、積み重なり共有する事になる。

「養護の先生は疲れてるんじゃないかって言っておりました。そりゃそうです、実践授業がはじまったところにくるちゃんやさつきちゃんの件が立て続けに起こって、先週は大変だったのですから」

不運や不幸に見舞われた生徒の名前を口にして、ハンナの表情が一瞬曇った。
八千代がその表情の変化に気付く前に、ぱっといつもの笑顔に戻る。

「大変だったのは、俺だけじゃない」
「それはほら、さっちゃん先生は人一倍抱え込む人ですから」
「ストレス発散も下手そうデスシ」
「背負い込まなくてもいい事まで背負い込みますし」
「もっと肩の力抜いていきマショー」
「なんでもかんでも、うまくいかなくて当然なのです。間違えない人なんていません。前にも言いましたがどんどん迷惑はかけて良いのです。そこから学ぶ事が大事なのです。私も二人をお酒の場に誘う時は、翌日が休日の日にすべきだと学びました!」

昨日は八千代の家に集まり酒盛りで盛り上がったという。
きっと自分を元気づけようと企画してくれたのだろうと八千代は察した。
ハンナとジェイソンが八千代に笑いかけている。
八千代も笑い返した。

「お騒がせしました。それから、酒盛り、有難う御座いました」

八千代が改めて気持ちを込め直して頭をさげると、御礼を言われるとは思っていなかったハンナとジェイソンは顔を見合わせてはにかんだ。
ハンナが嬉しそうに腕を組みふんぞり返る。

「ってゆーか、さっちゃん先生が私達に負担を掛けないように振る舞おうなんて100万年早いのです!」
「分かった。これからもどんどん迷惑をかけるので、宜しくお願いします」
「ふふーん!臨むところなのです!ではでは、さっちゃん先生の容態も回復した事ですし、午後の打ち合わせをはじめましょう!」
「はい、宜しくお願いします」
「午後には目を覚ますだろうと踏んでいたので、午後からの実践授業もそのまま行えるようにしてあります、忙しいですよ!」

ぱたぱたと足音を立ながらハンナが資料を取りに自分のデスクへと向かう。

「八千代センセー、頑張ってくださいネー」

そう言って、ジェイソンも自分のデスクへと足を向けた。

「あの、ジェイソン先生」

八千代に呼び止められ、ジェイソンが向き直る。

「なんデショ?」
「えっと、俺が目を覚ますまで付き添ってやれってヨシノに言ったのはジェイソン先生だと聞いたんですが、本当ですか?」
「Yes!突然保健室で目を覚ましたら誰だって驚くデショ」
「それはまあ、そうですけど。だからって、どうしてヨシノを」

校内では実習の事で手一杯で、ヨシノと言葉を交わした事はあまりない。
確かに先日ジェイソンにはヨシノが自分の弟だと伝えた。
しかしそれだけの事実から、どうして自分が目を覚ました時弟がそばにいたら安心するという判断が出来たのか謎だった。

「そりゃ、昨日の話を聞けば誰だって八千代センセーがヨシノチャンの事大好きなんだなって分かりマスヨー」
「昨日…」
「ああ、アルコールで記憶が飛んでるんでしたネ!昨日八千代センセーがぼくたちにヨシノチャンとの事をたくさんお話してくれたんデスヨ!いやはや、実に熱い弟自慢デシタ」
「そりゃ、まあ、家族ですから」

八千代は目を伏せた。
まさか自分がジェイソンにヨシノの事を話していたとは思っていなかった。
しかも弟自慢とジェイソンは口にした。どんな内容だったのか全く想像出来ない。

「どうやら八千代センセーは酔うと普段溜め込んでいるものが噴き出すタイプみたいデスネ」

ジェイソンが笑う。

「ジェイソン先生が俺を気遣ってくれた事分かります。確かに保健室で目を覚ました時俺は混乱したし、ヨシノがいたからすぐに平静になれました。けど」
「八千代センセーが言いたい事は分かりマスヨ。ヨシノチャンに迷惑かけたくなかったんデショ」

図星を疲れた八千代が言葉に詰まる。

「そして八千代センセーは、ヨシノチャンに迷惑を掛けてしまったのは自分の不摂生が原因だと思い詰めていマス」

顔をあげない八千代を見ながらジェイソンは肩をすくめ苦笑した。

「八千代センセー。センセーが頑張って頑張り過ぎて空回って頭抱える事になってるの、皆知ってマス。ハンナ先生がちゃんと八千代センセーの実践授業の時間を確保していたように、ぼくたちはあなたが学ぶ場を提供したいのデス。だから大丈夫デス。あなたがしょげてる間に実習期間が過ぎていく方が、ぼくたちはつらいのデスヨ。そしてヨシノチャンがあなたに付き添う事は、八千代センセーの性格を考えると午後からの実習のためには必要な事デシタ」
「…はい」
「支える事もまたぼくたちの務めデス。失敗したと思うなら挽回してくだサイ。実習期間は有限デス、落ち込むのは大学に帰ってからにしてくだサイ!センセーが実習期間しょげて過ごしたって、ぼくたちは痛くも痒くもないんデスカラ!」
「はい」
「ほーら顔が強張ってマスヨ!リラックスリラーックス!肩の力を抜く事も大事デスヨー!」
「ジェイソン先生の言う通りなのです。さっちゃん先生はなんでもかんでも悪い方に解釈し過ぎなのです」

資料を抱え、ハンナが戻って来た。

「養護の先生が出張で留守なので、付き添う人が必要だったのも事実なのですよ。ヨシノちゃんにお願いしたのはそりゃさっちゃん先生の身内だからですが、テストなどでしたら当然付き添いなんてさせていないのです。さっちゃん先生に特別対応した訳じゃないのです!」
「ハンナセンセーの言う通り、八千代センセーが一人前に振る舞おうなんて100万年早いデスヨ!」
「ほらほらお昼休みが終わってしまいます。打ち合わせなのですよー」

ハンナが八千代の背中を押して、いつも打ち合わせを行っている待機室へと促す。

「頑張ってくだサイネー」

ジェイソンが二人の背中にひらひらと手を振った。



五限目は予定していた通り八千代の実践授業が行われた。
実践授業は打ち合わせ通りそつなくこなせ、ハンナは

「前回の失敗からキチンと学んでますね!」

と、素直に褒めた。
親指を立てながら「ナイス挽回なのです」と付けたし、自分の事のように嬉しそうに笑う。
もっと自信を持てと言われているようで、八千代には心強く感じられた。

退勤時間になり、八千代は校舎を出た。
ハンナやジェイソンからは早く帰って安静にして寝ろと何度も言われたが、八千代はくるが入院している病院へと向かった。
自己管理が出来ていなかったせいで迷惑をかけた手前後ろ暗さはあったし、くるの容体は快方に向かっているとハンナから聞いていたが、自分の目で確かめたかった。
最後に見たくるの姿が脳裏をよぎる。
血に塗れていていた。
何度も大声で名前を呼びかけても反応はなく、まるで死んでいるかのようだった。
自然に足運びが早くなる。
無事だったのだと、どうしても自分の目で確かめたかった。

数十分後。
迷う事なくくるの病室まで辿りつけた八千代は、しかし扉を開けられずにいた。
無事であった事を確かめたい一心で足を運んだが、いざ病室を目の前にすると足が竦んだ。
扉の前に立ちドアノブをじっと見つめたまま、時間だけが過ぎる。
八千代は、くるが事故に巻き込まれたのは自分のせいだと思っていた。
あの時くるの腕を掴まなければと何度も自分を責めた。
そんな自分が、くるを前にどんな顔をしたら良いのか分からない。
どんな言葉をかけたら良いのか分からない。
自分が顔を見せる事で不快な思いをさせてしまうかもしれない。
事故に遭った時の事を思い出させてしまうかもしれない。
同時に、逃げる口実ばかりが浮かぶ自分に、尻込みするなと叱咤する。
そのまま、そこから数分が経過した時、八千代が静かに顔をあげた。
ひとつ深呼吸をして、勢いに任せて扉を開ける。
表情や掛ける言葉の具体案は浮かんでいないが、一つだけ確かな事は、ここで逃げればこの先誰にも顔向け出来ないという事だった。
ハンナやジェイソン、自分を支えて助けて成長を願ってくれている人達に失礼だ。
弟に、恥じる事はしたくない。
室内へと足を踏み入れる。
充分一人暮らしが出来そうな個室の広さに驚きながら奥へと進むと、ベッドの上で上半身を起こし、プリンを頬張っているくるの姿を見つけた。
目が合う。

「こんにちは」

八千代の突然の訪問に特に驚く様子もなく、くるが挨拶を口にする。
淡々としていて毒気がない声色に、顔を見せた瞬間鋏を投げつけられ帰れと怒鳴られる可能性まで想定していた八千代は、目の前の少年が記憶にあるくるの印象と重ならず困惑する。

「こ、こんにちは」
「どちらさまですか?」

こてん、と首を傾げてくるが問いかける。
学校でのくるはもっと刺々しく、近寄り難い印象を周りに与えるようなイメージだった。実際攻撃的で職員を困らせてしまうような子だったが、まるで別人のような柔らかい態度に、八千代は部屋を間違えたんじゃないかとすら思い始める衝撃を受けた。
混乱して二の句が告げられずにいると、後方から物音がした。
驚き振り返ると、学校指定の制服に身を包んだくるの姿があった。
訝しげな表情でこちらを見ている。

「……」
「……」

室内に視線を戻すと、ベッドの上で上半身を起こし、八千代がその場にいる事を忘れたかのように食事を再開しているくるの姿があった。
そこで八千代は、プリンを口に運ぶ少年の左目の色素が薄い事に気付く。
もう一度振り返る。
こちらの少年の目は両目とも黒く、首には包帯を巻いているのが見えた。
先程脳裏を掠めた、病室にいる少年がくるではない別人という想像が正しかった事に気付いた時、八千代が口を開くよりも先にくるが口を開いた。

「くず兄、ナースコール押して」
「わかりました」



本来非常時に利用するナースコールを受けて病室に駆け付けた看護婦から、非常事態に陥った訳ではなかった三人は厳重注意を受けた。
八千代は看護婦に見舞いに来たと説明をしたところすんなり信じてもらえたが、くるの方はそう簡単には話が終わらなかった。
病室にいたのはくるの兄で、葛城くずはという。
双子だろうかと、八千代は思った。
くずはとくるを交互に見る。
表情や態度が攻撃的なくるとは違い、くずはは柔らかな雰囲気で口元には小さな笑みを浮かべている。左目の色素が薄い以外は外見がくるととてもよく似ていた。
くるとくずはの年は2つ離れていたが、その事実を八千代が知る術は今ない。
看護婦の話では、兄と入れ替わり、くるが外へと抜け出していたのはこれがはじめてではないと言う。
双子の入れ替わりなんて小説で読んだ事があるような話だったが、八千代自身くずはとくるを勘違いしたばかりだった。
くずはとくるはそれ程までによく似ていた。
看護婦の注意を聞いていると、どうやら他にも問題を起こしているようだった。
くるは看護婦から目を逸らし反抗的な態度を貫いている。
看護婦が病室から出て行ってもその不機嫌そうな表情は変わらない。
八つ当たりだろうか、くるが傍らにあった椅子を蹴り飛ばした。
八千代が慌てて倒れた椅子を起こす。
そこで、入室した時は全く気付かなかったが、よく見ると、壁や室内の家具には物がぶつかった跡や鋭利な物を突き立てた跡など、最近ついたのであろう真新しい傷跡が部屋のあちこちに点在している事に気が付いた。
起こした椅子にも凹んだ跡が複数ある。数日前見たクールダウン室を思い出して、この部屋でもくるは荒れているのだと察した八千代の表情が曇った。
くるへと視線を移すと、くるとくずはがお互い着ていた衣服を交換して、くるは病衣に、くずはは学生服に袖を通しているところだった。
視線を感じたのか、くるが八千代の方へと視線を向けた。
目が合った途端くるの表情が険しくなる。

「まだいたのかよ」

くるの言葉から出ていけというニュアンスを感じ取ったが聞き流す。

「えっと、こんばんは。俺は」
「うちに来てる教育実習生だろ」

ナースコールを押した事に対して「知らない奴が部屋にいたから」とくるは答えたので、てっきり顔を覚えられていなかったのだと八千代は思っていた。
しかしどうやらそうではないらしい。

「顔を覚えられてないものだと思って…葛城君、看護婦さんに俺の事知らない奴って言ってただろ。…あれ?じゃあ、どうしてナースコールを押したりしたんだ?俺が誰か分かってたんだろ?」
「看護婦呼べば連れてかれてそのまま帰ると思った」
「そんな事のためにナースコールを押すもんじゃないよ」

思わず肩をおとす。
八千代がくるを最後に見たのは事故直後。
まるで死んでいるかのように力が抜けた身体と、生温い血に塗れた姿だった。
溢れ八千代の衣服を赤黒く染めあげた血の生暖かさは未だに生々しく肌に残っている。
元々健康色ではなく白かった肌は血が足りていないかのように白く、傷口を覆った包帯は痛々しい。
けれど、今、こうして何事もなかったかのように目の前で立ち歩き会話を交わし病室を抜け出せるまで回復した姿は、看護婦には申し訳ないが嬉しさが込み上げてくるものだった。

「今日は葛城君の見舞いに来たんだ」
「なんで」
「なんでって…」
「教育実習生が俺の見舞いに来る理由が分からない」

着替え終わったくるが八千代に向き直る。
数日前教室でくるが癇癪を起こしているところをはじめて見てから、どうしたら目の前の子供の助けになれるのかを考える事が多くなった。
八千代の記憶にあるくるは、人を寄せ付けない印象の生徒だった。
接触を露骨に拒否していて、人と関わるのが苦手な子なのかと思っていた。
これまで八千代が関わった人間にもそんな人間はいたが、くるのそれは、生まれ持った性格だけではないように思えてならない。
癇癪を起こして、切羽詰まり、今にも泣きだしそうな表情をして喚き散らしていた姿が、目に、耳に、焼き付いている。
かわいそうだと思った。
助けたいと思った。
その時の気持ちも焼き付いて離れない。
幸いな事に、今目の前にいるくるは落ち着き、会話に応じてくれている。
他人を寄せ付けない鋭い目つきは変わらないが、聞く耳を傾けてくれている。
教室で鋏を向けられ、手を払いのけられ、逃げられた事を思えば万々歳だった。

「心配だったから」

口にした通り、心からそう思った。
くるはどうして八千代から身の心配をされているのか理解できないと言いたげな表情をしている。じとりと眼を細めた。
八千代は先日くるが癇癪を起している様を目の当たりにしてから気にかけ続けているが、くるにとっては通う学校に出入りしている赤の他人でしかない。
生徒とはなるべく接しようと心がけていたが、くるとは目が合った記憶もない。
八千代が見舞いに来た事に怪訝そうな顔をするのは当然だった。

「くる」

兄に呼ばれ、くるがぱっと八千代から視線を移す。
学生服へと着替え終えたくずはの姿は、先程学生服に身を包んでいたくるととてもよく似ていた。

「くず兄、何?」
「帰ります」

ベッドの傍らに置かれていたスクールバッグを肩にかけくずはが扉へと向かう。
口元には微笑を浮かべているのに淡々とした口調で、感情が読み取れない声色が父親の面影と重なった。

「ちょっと待って」

兄を呼び止め、くるは病室に戻って来た時手に持っていた手提げ袋をくずはへと渡す。

「食品、足りてないの買って来た。帰ったら冷蔵庫に入れといて」
「分かりました」
「ん、宜しく」

くるの、くずはと接する時の表情や醸し出す雰囲気は、学校での刺々しく冷たく近寄り難いものとは違い、落ち着いたものだった。
こんな表情も出来るのかとくるの一面を知ると同時に、八千代は、校内で癇癪を起していたくるの姿を思い出していた。
くるが常に不機嫌そうに、息苦しそうにしている様子にはどこかに理由があっての事なのだと理解して、心憂さを感じる。

葛城くるは聴覚過敏だった。
生活を送る中で特に気にならないような音がくるにとっては大きく異常な音に聞こえ、頭に響き頭痛を伴う。
周囲が耐えられる音量が、くるにとっては耐えがたい苦痛を伴うものだった。
特に雨音や喧噪、スノーノイズといった類の音が苦手で、雨の日には体調を崩し、豪雨にもなれば寝込み、起き上がる事が困難になる事も少なくない。
耳を塞いでも不快な不協和音は纏わりついて離れる事はない。
くるは幼い頃からそんな聞こえ方の中で生きている。
そんな聞こえ方がくるにとっての普通だった。
だから異常を自覚する事が出来ない。
加えて、くるは、生まれつき感情が昂ると抑制がきかず、自分をコントロール出来なくなる子供だった。
本人の意思ではどうする事も出来なくなる。
聴覚過敏から受ける刺激が癇癪を引き起こし、暴れてしまう事は少なくなかった。
周りからは短気で攻撃的で手のかかる子供だとしか思われていない。
事故に遭う前、くるが教室で癇癪を起していた日も雨だった。
誰も何も気付かない。
気付けない。

「まだいたのかよ」

退室する兄を見送ったくるがじとりと横目で八千代を見ながら呟いたが、八千代は聞こえなかったふりをした。

「葛城君は、家に帰ってたのか?」

くるは答えない。

「冷蔵庫の中身を見てきたかのような話をしてたから。何か外せないような用事でもあったのか?」

くるが病室に入って来た時買い物袋をさげていた。
その中身は食品で、自宅の冷蔵庫に入れるよう兄に頼んでいた。
つまり足りない食品とは葛城家の冷蔵庫に必要な食品という事になる。
くるは自宅の冷蔵庫の中身を把握した上で、自宅から病院へ戻る過程で買い物を済ませ、病室に戻って来たのだろうと八千代は推測していた。
一旦食品を冷蔵庫に入れに戻らなくても、病室には自宅へ帰る兄がいる。

「理由もなく、お兄さんと入れ替わってまで病室を抜け出したりしないだろ」
「…アンタには関係ない」

眉を顰めながら小さく短く吐き捨てるようにくるが言うと、八千代は口元を綻ばせた。
その表情の変化に気付いたくるが、何故そんな表情に変わったのか理解出来ず、得体の知れないものを目の前にしているかのように身構える。
一歩でも八千代がくるに近付けば部屋から飛び出して行きかねない。
警戒する姿を見た八千代が笑みを零したので、くるは半歩後ずさった。

「はは、ごめん。うち猫飼ってるんだけどさ、葛城君見てると飼い始めた頃を思い出すなって。警戒心が強くってさ」
「馬鹿にしてるのか」
「そんなつもりはなかったけど、そう聞こえたのならごめん」

謝罪を口にしながらも、八千代は微笑んだまま表情を変えない。
くるは首を傾げる。
学校で癇癪を起しているくると対峙した時、何と声をかければ良いのか分からなかった。くるが入院してからここへ足を運ぶまで、ずっと、何と声をかければ良いのか考えていた。
結局何一つ言葉が浮かばないまま顔を合わせる事に不安はあったが、いざ顔を合わせてみると、ぎこちないなりに対話が成立していて、ただただ八千代は嬉しかった。

「葛城君とちゃんと会話出来て嬉しいなって思って」

もうくると接する事に対して不安はなかった。
癇癪を起こし、泣き喚いて、鋏を向けられても、きっともう戸惑わない。
迷惑だなんて思わない。
助けたいと思った。
目の前の子供を助けたいと、改めて、強く、八千代は思った。
八千代がまっすぐくるを見ると思い切り目を逸らされた。
その様子に思わず笑ってしまうと今度は思い切り睨まれたが、八千代は気にしない。
ひとしきり睨まれながら笑った後、緩んだ頬を引き締め、くるに頭をさげた。

「怪我をさせてしまって、ごめん」
「…」

くるに会って、謝りたかった。
ずっと謝りたいと思っていた。
伝えたところで、くるの傷は癒えない。
自己満足だと分かっている。
けれど、どれだけ八千代が一人自責に苛まれたところで現実は変わらない。
起きた事実は何も変わらない。
くるの首の傷は一生跡が残ると、ハンナから聞かされた。
一人自分の行動を猛省し、自分の中で気持ちを整理して、気持ちの着地所を見つけて自己完結したところで、それこそ自己満足だ。
なにも変わらない。
だから言葉にして伝えるべきだと思った。
目を逸らしたくても耳を塞ぎたくてもくると向き合うべきだと思った。
目を逸らされても耳を塞がれてもくると向き合うべきだと思った。

「俺は別に、アンタのせいだなんて思ってねえよ」
「そっか」

くるは素っ気なく返す。八千代を気遣った訳ではなく、本心なのだろう。
謝罪を口にする前はうまく言葉に出来るか不安だったが、素直に口にする事が出来て良かったと八千代は内心胸を撫で下ろした。
くるに怪我を負わせてしまう結果を招いた事は後悔している。
けれど、あの時追いかけた事を後悔はしていない。
思い上がりでも、間違った行動だったとは思いたくない。
あの時追い掛けたからこそ、くるは今こうして会話に応じてくれているのだろうと思った。

「きっと俺は、君がまた教室から逃げ出したりしたら、また追いかけると思うんだ」
「アンタには学習能力が備わってないのか」
「備わっているから、次はもっとうまく立ち回るよ」
「そうかよ」

くるがなんとはなしに窓の外へと視線を向ける。
八千代もつられて視線を追うと、外は日が落ち暗くなっていた。

「…帰れよ」

くるがぽつりと呟いた。
夜道を帰る事になる八千代を気遣ってかこれ以上長居してほしくなかったのか真意は分からなかったが、八千代は素直にその言葉を受け取る事にした。
どちらにせよ、長居はくるの身体に障る。

「そうだな、また来るよ」

そう言って笑いかけると、くるはいつものように眉を顰め、不機嫌そうに八千代を見上げて短く返した。

「もう来るな」



八千代がくるの病室を出て正面玄関に向かっていると、総合受付で見覚えのある姿を見つけた。

「葛城さん」

名前を呼ばれ静かに振り返ったのはくるの父親だった。

「貴方は、確か」
「八千代です。先日葛城君の件でお会いした」
「その節はどうも」

八千代に向き直り頭を下げたので、八千代も頭をさげた。

「葛城君のお見舞いですか?」
「いえ、息子の入院に入用の物を渡しに来ただけです。もう済みました」

そう言って叶は窓口から離れ、迷う事のない足運びで病院を出る。
これから病院を出ようとしていた八千代も、叶の後に続く形で正面玄関を出た。
夜間ではあったが、歩道は行き交う人で溢れていた。

「葛城君の顔、見ていかないんですか?」
「経過は良好だと聞いています」

叶は八千代と会話を交わしながら、しかし八千代に視線を向ける事なく自分の進行方向を見据えて歩き続ける。突然八千代が会話を切り上げ進行方向を変えても、気にする事なく叶は歩みを進めるだろう。
話掛けられているから返しているだけで、そこに話題への関心はないように感じられた。

「そうですね、顔色はあまりよくありませんでしたが、元気そうでしたよ」
「八千代先生は、息子の見舞いに来ていたのですか」
「ええ」
「わざわざ」

感情の起伏を感じさせない平坦な口調はそのままだったが、呆れたと言いたげに肩をすくめた。

「あの子の怪我は自業自得です。先生が気に病む事ではありません」
「お気遣い、有難う御座います」
「ただの事実です」

言い捨てる。

「昔から落ち着きのない子です。今日も病室を抜け出したと看護婦が言っていました」
「心当たりは、ないんですか?葛城君、自宅に帰ってるようなんですけど」

八千代は、くるが病室を抜け出している事を自分が知っていた所で、叶は何も気にする人間ではないと分かった上で口にした。
想像通り、叶は八千代が特に気にした様子を見せず質問に淡々と答える。

「食事の用意、ではないでしょうか」
「食事…ですか」
「ええ。あの子はいつも家事を担ってくれているので。あの子が入院してから暫くは家内が用意してくれていましたが…ああ、そういえば、最近の味付けは家内のものではありませんでしたね」

葛城家では食事が用意されている事は当たり前なのだろう。
それぞれの家庭の在り方に八千代は口出し出来る立場ではない事は分かっているし、するつもりはない。
ただ、くるがどんな家庭環境で育ったかを考えると頭が痛んだ。

「あの子が用意出来なかったら出来なかったでどうにでも対処出来るのだから、周りに迷惑をかけてまでこなす必要はないのに。まだまだ、浅はかですね」

叶が横断歩道の前で立ち止まった。
目の前を重低音を響かせながら車が通り過ぎていく。
八千代の自宅がある方向は違ったが、八千代も立ち止まった。
そして、目の前にいる叶の背を、思い切り前方へと押した。

「っ」

傍から見れば八千代が叶へと伸ばした手は、バランスを崩し道路上へと転がりそうな叶の腕を掴もうとしているかのようだった。
叶の身体は勢いよく無防備に道路上へと投げ出される。
薄暗さと人混みによって、周りの人々には叶が転倒したように見えただろう。
事態に気付いた周囲の人々の中から悲鳴が漏れる。
叶が持っていた手提げ鞄は走行中の車輪に巻き込まれ、タイヤと擦れ焼ける臭いを放ちながら千切れ飛ぶ。
クラクションや急ブレーキ、衝突音があちこちから響き辺りを一斉に混乱が包み込んだ。
信号が青に変わり、人々が横断歩道上へと身を乗り出す。
救急車を求める声、叶に駆け寄り必死に声を掛ける声、周囲が悲鳴のような音で溢れかえる。
叶は頭と腹部から出血し意識がないようだった。
車に直撃されたのか巻き込まれたのか引き摺られたのか、目の前で目まぐるしく車が行き交っていたため叶の身が何によって負傷したのか誰にも分からない。
八千代はその場から近寄る事なくぼんやりと瀕死状態に陥った叶を眺めていた。
舌打ちをする。
殺し損なった。
衝動に身を任せるだけでは中途半端な結果にしかならない。
葛城くるを助けたいと思った。
心からそう思った。
その気持ちはもう一つの人格にも強く深く浸透していた。

八千代は幼い頃、父親の思いつきで、金槌を手渡され母親を殴るよう言われた事がある。
実行しないと自分がその金槌で殴られるであろう事は経験からすぐに分かった。
もっとひどい仕打ちを母親にしている場面を何度も見てきたし、そんな思いつきだって今更だった。
だから単純に、ただの限界だった。
次の瞬間にはその金槌で父親の頭を砕いていた。
赤黒く変色した頭部が拉げ、元の形状が分からなくなるまで砕いた。
縋っていた家族との思い出を自ら砕くように、二度と奇跡なんて夢想しないように執拗に金槌を振り下ろした。
あの頃には絶対に戻れないのだと自分に言い聞かせるように。
叶わない期待を持つな甘い夢を見るなと自分を叱責するように。
自分の意思で八千代は人を殺した。
殺した事による罪悪感はなかった。
これで終わった。
開放されたという気持ちに溢れていた。
だから八千代は笑顔を零した。
頭部の中身を撒き散らした父親の死体を前にして八千代は返り血に塗れながら心から幸せそうに笑ったのだ。
この記憶は抱えきれず、後に分裂し形成されるもう一つの人格に押し付ける形で今は忘れてしまっているが、確かに八千代の身に起こった出来事であり、記憶だった。

八千代は幼い頃、父親を殺すことで、救われている。
だから、くるを助けるためには、まずは父親を殺さなくてはいけないと本気で思っての行動だった。
殺した事でどんな事態をくるに招くのか、そこまで考えは及んでいない。
自分がかつて父親を殺した事で確かに救われたという事実が八千代を突き動かしたのだった。

「八千代先生…?」

呆けたような声で自分の名前を口にする声が聞こえて振り返った。
そこには荷物を取り落とし、目を丸くして八千代を見つめる、撫子がいた。


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