「Congratulations!」

拍手が響いた。
音の発信源はその時間たまたま手が空き、ハンナのクラスへ八千代の実習を覗きに来ていたジェイソンだった。

「照れますやめてください」
「褒めてマス、素直に受け取ってくだサイ!」

教卓に広げた教材を片付け八千代が教室を出るとジェイソンがその後をついてきた。

「センセーがはじめて実習で教卓に立った時は緊張してましたけど今日はrelaxできてて、ちゃーんと授業が成り立ってて驚きましたヨ。成長しましたネ!」
「ありがとうございます」

褒められ思わず八千代の声が吃る。
何事もはじめからうまくこなせるとは思っていないが、八千代のはじめての実習授業は反省点の多い結果だった。
その分成長を褒められる事は努力を認められたようで、素直に嬉しいものだった。

「何か良い事でもありましたカ?」
「え?」
「昨日とは別人のように表情が明るいノデ」
「まあ、昨日は二日酔いでしたから…」

言いながら、二日酔いのせいで実習中に倒れた事を思い出し八千代の表情が曇った。
漂い始めた陰鬱な空気を、ジェイソンは明るく笑い飛ばす。

「ふふ、人間間違いからも多くを学べるモノデスヨ。間違いからしか学べない事もありマス。反省は大事デスが、気落ちするだけでは非生産的デスヨー」
「そうですね…」
「さっきまでの明るさはどこへ行ったんデスカー?ほらほら、昨日くるチャンと面と向かってお話が出来た事とか思い出して元気出してクダサイ!」

昨日くると会っていた事を知っている口振りに八千代が驚きジェイソンの見ると、ジェイソンは悪戯っぽく笑う。

「校長センセーの通話が漏れ聞こえてきただけなので詳しくは知らないんデスケドネ。昨日、くるチャンが入院してる病院から学校に連絡があったみたいなんデスヨ。この学校に八千代小夜という教育実習生が通っているか、って内容の電話ガ」

昨日。
八千代がくるの病室へと足を運んだ時ナースコールを押された。
その時、くるが八千代を指して知らない奴と言い放ったせいで看護師に身分証明を求められた。くるが通う学校の教育実習生だと話したので、看護師が実習先に確認の連絡をしたのだろう。

「すみません…」
「それは何に対しての謝罪デスカ?」
「ジェイソン先生やハンナ先生は俺の体調を気遣って早く帰れと再三促してくれたのに直帰せず葛城君の見舞いに行った事に対して、です」
「ふふ、怒ってませんヨ。ちょっと八千代センセーがどんな反応するかなって思って含んだ言い方してみただけデス」

ジェイソンが手で口元を隠しくすくす笑いを零した。

「実習時間外の行動にまで口を挟む気はありまセンヨ。だから謝らなくて良いデス。八千代センセーは、僕達に後ろめたさを感じまくりながらお見舞いに行ったんだろうナーって容易に想像出来マスシ。勿論見舞いに行ったせいで更に体調崩したりなんかしたら説教デスケド」
「…体調管理には気を付けます」
「Please do so!ところで、くるチャンは元気にしてましたカ?」
「ええ」

病室を抜け出し自宅へ食事の用意をしに帰っているようだったが、それだけ体力が回復している証拠なのだろう。
入院を必要としている身で病室を抜け出す事は止めてほしいと八千代は思うが、くるが聞き入れてくれるとは到底思えなかった。
くるの状態に、自分がそこまで踏み込んで口出ししていいとは思えない。

「ジェイソン先生は葛城君の見舞いには行ってないんですか?」
「僕が見舞いなんか行ったらくるチャンは病室の窓から飛び出しますヨ」
「確かに」
「おやおや納得されてしまいマシタ!」
「すみません、つい」
「そういう八千代センセーはくるチャンに鋏投げつけられたりしませんデシタ?」
「されてません」
「あの子は落ち着いてる時は人の話聞ける子デスからネ、無愛想は変わりませんケド。その様子から察するに八千代センセー、くるチャンといい感じに会話が成立したんデショ。ずっと気にかけていたみたいだから、良かったデスネ!」
「はい」

八千代の淀みない返事にジェイソンが笑顔で返した。

「あ、さっちゃん先生!」

二人の進行方向からハンナがぱたぱたと小走りで駆けて来た。
ハンナは普段八千代が実践授業を行う間指導教諭として教室で八千代の授業の進行を観察・サポートしているが、職員室から電話がかかってきたと途中で教室を出ていたのだ。
手にはこれから生徒に配布するのであろうプリントを抱えている。

「授業の途中で退室しちゃって心細い思いをさせてしまいましたね!」
「してません」
「むう、まったくかわいげがないのです。ジェイソン先生、さっちゃん先生の授業はどうでしたか?」
「落ち着いて進められてましタヨ!八千代センセーの実践授業って緊張しまくり噛みまくり生徒にからかわれて授業妨害受けまくりかと思ってましたけどスムーズに進行してて意外デシタ!That's wonderful!」

以前ジェイソンから『逃げ出さず努力して空回りして自爆しそうなタイプ』と言われた事を思い出し、八千代は苦笑する。
周りには余裕がないように映っているらしい。
八千代自身否定出来るとは思っていないが、せめて実習を終える時、そんな印象が少しでも良い方向へ変わっているように努力しようと思う。
葛城くると面と向かって会話する事が出来たように、遠回りをしながらでも自分の選択を信じて、大丈夫だと言い聞かせながら。



その日の夕方、八千代は都内にある学生会館を訪れていた。
男女共用の館内。エントランスロビーでは、実習校で見掛けた顔や他校の制服に身を包んだ学生達で賑わっている。
エントランスロビーの右手にある管理人室の窓口から声をかけると、管理人が快く出迎えてくれた。
八千代が通う実習校から実習生が一人会館へ訪問するという連絡を受け取っていたらしく、話はスムーズに進んだ。
用件を済ませた八千代が管理人に会釈する。
玄関へと足を向けた時、

「あ、八千代先生じゃないっすかー!」

と、聞き慣れた声に呼び止められた。
八千代が振り返る。

「九重君と、ノエルさん」

そこにいたのは教育実習で担当させてもらっているクラスの生徒二人だった。

「うっす!こんちは!」
「あらあらどうして八千代先生がこんなところにいらっしゃるの?」
「仕事っすか?」
「ああ。相楽さんへプリントを届けに」
「パシリも教育実習生の仕事なんですの?」
「緊急で職員会議が行われる事になってハンナ先生が出られなくなったから任されただけだ」

今日、撫子は学校を休んでいた。
生徒が休む度学校側からそれぞれの自宅へその日の配布物を届ける事はしていないが、今回、撫子が所属する写真部の顧問から撫子に急いで確認して貰いたい書類があるとハンナが相談を受けたのだった。

「撫子には会えましたか?」
「不在だと言われたよ」
「だったら、俺もここで部屋借りてるんで預かっときましょうか?撫子が帰ってきたら渡しますよ」
「有難う。でももう管理人さんに預けたから大丈夫だよ」
「そっか、じゃあ今帰るとこだったんすねー、引き止めちゃってすみません」
「いや、いいんだ」

校外の外で先生と呼び止められた事は、教師を志す八千代にとってはまるで本当に夢が叶い教師になれたような体験だった。
数日前にも同じようにリオに呼び止められた事はあったが、今の八千代にその記憶はない。

「そーだ!俺ら今から夕飯食べに行くとこだったんすけど、一緒にどうですか?ノエルが選んだとこだから絶対うまいですよ!」
「ルミネにあるビュッフェですわ。デザートが豊富と聞いたので一度行ってみたいと思っていましたの」
「誘ってくれて有難う。気持ちだけ頂いておくよ」

生徒から誘われ心が跳ねるような嬉しさが込み上げてきたが、教育実習生が校外で生徒と親しくし過ぎるのは控えるべきだと判断した。
残念、とリオが肩をおとす。

「そっか。ま、先生にも都合あるよなー」
「八千代先生を誘うならまずはヨシノを誘っておかないと」
「ヨシノ?」

八千代は何故、今、ここでヨシノの名前が会話に浮上したのかが分からず小首を傾げる。
文脈からはヨシノを予め誘っておけば自分も同行するといったニュアンスを感じた。

「だってほら、先生はブラコンでしょう?やっぱりかわいい弟が私達と一緒に食事に行くなんて聞けば、気になってついてくるんじゃないかと思って」
「ヨシノが俺の弟ってどうして知ってるんだ?」

一部の職員を覗いて、ヨシノが自分の弟だと告げた記憶はない。

「は?先日ご自分で弟だと仰ったんじゃありませんか」
「え」
「覚えてないっすか?ブラコンって呼ばれて、先生嬉しそうにしてましたよ」

記憶を辿っても思い当たらない。
そもそも、目の前の二人とゆっくり会話をするのはこれがはじめてだったように思う。
ノエルとは何度か棘のあるやりとりをしたが、ノエルは過去に諍いがあろうと引き摺らずらず相手と接する事が出来る。リオは人懐っこい。
そんな人柄を教育実習を経て把握しているからこそ、別の人格が表に出て二人と親交を深めていたため親しげに声を掛けて来たところで八千代が違和感を感じる事はなかった。
けれどヨシノに関しては記憶になく、戸惑う。

「あ、そういえばその日先生具合悪そうにしてたよな。睡眠不足って言ってたっけ。だから覚えてないのかも」
「ぼんやりして生徒との会話内容が飛ぶなんて間抜けですわね」

二人が言う通り自分が忘れているだけなのだろうかと思うも、話した記憶の断片すら、前後すら浮かばない。
けれど二人は八千代から聞いたと言い、実際ヨシノが弟だという事を知っている。
ならばそれが事実なのだろう。自分が忘れてしまっただけ。
そういえば。
先日も、ジェイソンとハンナにヨシノの話をした時の事を忘れていた。
八千代はまるで記憶が零れ落ちているかのようだと思った。


ノエルとリオが目指すルミネと八千代の自宅は学生会館から同じ方角にある。
進行方向が同じだと知ったリオとノエルが八千代を左右から挟む形で並んで歩く。

「八千代先生聞きましたか?くるくるの父親、事故に遭ったんですって」
「そんな話どこから耳に入るんだ」
「ふふ、壁に耳あり障子に目あり、ですわ」

今朝の職員朝会で、くるの父親が交通事故に遭ったと聞いた。
昨夜の出来事らしい。
くるの見舞い後、院内の総合受付で叶と顔を合わせていた八千代は驚いた。
詳しい事は不明だが、どうやら叶は帰宅途中に車と接触したらしかった。
今日、八千代の実践授業中ハンナは教頭に呼ばれ退室した。
その時葛城くるの父親が意識を取り戻したと連絡が入ったのだと放課後聞いたばかりだった。

「葛城君の負担にならないといいけど」

八千代が無意識に呟いた独り言はリオとノエルの耳には届かなかった。

「くるも交通事故に巻き込まれて入院中だし、よくない事ってのは続くなー」
「八千代先生が実習にやって来てからやたら続きますわね。貴方が死神なのかしら」
「ノエル、失礼だぞ」
「ごめんあそばせ」

謝罪の言葉とは裏腹にノエルの口元は弧を描いている。
ノエルは人をからかうのがすきなのだとこの短期間で理解した八千代は、ノエルのペースに巻き込まれないよう聞き流す。

「二人共、事故には気を付けて」
「こちらがどれだけ気を付けていた所で事故はあちらからもやってくるものですわ。先生こそ抜けているのですから事故を起こさぬように…あら、そういえば、先生は運転免許はお持ちなのかしら?」
「持ってはいる」

ふと湧いた疑問に対する八千代の回答に二人が目を輝かせた。

「あらあら!それは一度八千代先生の運転でドライブを楽しみたいものですわね!」
「入用になった時免許持ってないと困ると思って取っておいただけで、車は持ってない」
「車なんてレンタルなどでどうとでもなるでしょう、頭の固い人!電柱と正面衝突して途方に暮れる先生、見物ですわー」
「人の不幸を妄想するな」
「でも面白そうだな先生の運転でドライブ!その時は撫子も誘ってさー」
「ちゃんと二人っきりにしてあげないといけませんわね!」
「俺と相楽さんと二人っきりに?どうして」
「そりゃ撫子は先生の事がすきだからっすよ!演出してやんないと!」
「…え」
「あれ?先生もしかして気付いてなかったっすか?撫子の態度、あんなに分かりやす……」

目を丸くしている八千代の反応に気付いたリオの表情が固まる。

「え!てっきり先生は気付いているものかと!だって俺ですら分かるのに」
「リオ、余計な口が更に滑ってますわよ」
「うおおお、先生!今の話忘れて!あ、冗談!そう、冗談って事にしといて!」
「冗談にされても撫子が困るでしょう」

ノエルがこめかみに手を当てて嘆息した。

「ま、耳に入ってしまったものは仕方ありません。どうですか、八千代先生から見て撫子は恋愛対象になりますか?」
「え」
「え、じゃありませんわ。大事な話です。お聞きになった通り撫子はあろうことか八千代先生なんかに好意を寄せているのですよ」

生徒が自分に好意を寄せていると耳にした八千代は二人の勘違いかはたまた冗談かと半信半疑だった。しかしノエルの射抜くような鋭い眼差しに考えを改める。
相楽撫子。
一見おとなしいが積極的に授業に参加する素直な子だ。
休み時間になると授業で分からなかった箇所を質問しに八千代の元を訪れた事もあったが、他の生徒と比べて撫子と特に親密という事はなく、接点といえばそのくらいのものだった。

「一目惚れだって言ってたっすよ」
「…一目惚れ」

人並み外れた整った顔立ちでもなければ、身体的にも頭脳的にも際立つ特徴もない。
一目惚れされるような要素を持ち合わせていない自分に不釣り合いな単語で説明され、八千代は再びからかわれているだけじゃないかと疑いはじめる。

「理由がいりますか?理屈じゃないんでしょう。まあ、貴方側からすれば、自分のどんなところを好ましく思うのか知りたくて仕方がないものでしょうけど」
「そんな事はない」

八千代の否定をノエルは聞き流す。

「先生だってヨシノのどこがすきかなんて聞かれても答えられないでしょう?それと同じですわ」
「どうしてそこでヨシノが出てくるんだ」
「八千代先生にとって一番想像しやすい人物かと思いまして」

八千代はヨシノの事を家族として誰よりもなによりも大切に想っている。
傍にいたい。幸せを共有したい。大切にしたい。
その気持ちは強く、ノエルの言う通りどうしてヨシノなのか、どこに惹かれているのか挙げろと言われても言葉で言い現す事は出来ない。
家族だから。
では家族になる事がなければヨシノに惹かれていなかったのだろうか。
分からない。
考えたくもない。
一つ言える事は、親が再婚する前。ヨシノが弟ではなかった頃。
その頃から明るくて無邪気で突飛な言動が目立つヨシノの事は楽しい存在だと思っていた。
すきだった。
個人に向ける好意的な感情とはいえ、撫子の恋愛感情であるところの好意と一括りにして考えて良いものなのか八千代には判断がつかなかったが、ノエルが言いたい事は理解した。

「…相楽さんが恋愛対象になりえるかどうかは、分からない。分からないし、分かってても二人に答える事はしないよ」

八千代の回答をノエルは最後まで茶化さずに聞いていた。

「八千代先生らしい答えですわね。リオが口を滑らせてしまったのだからこれを機に、せめて撫子に有益になる情報を聞き出せたらと思いましたが、美しくない質問でしたわ。まあ、女子高生が恋愛対象になると言い切られても鳥肌が立つだけですけど」
「なら聞くなよ」
「もしかしたら答えてくれるかもしれないでしょう?脈なしでも脈ありでも、八千代先生と撫子の仲を進展させるための後押しはしまくろうと思ってますので」
「ノエル、俺も協力するからな!」
「当然ですわ!」

どちらからともなく片手を上げたノエルとリオが息の合ったハイタッチをきめた。

「二人は相楽さんの事がすきなんだな」
「友達ですもの」
「妹みたいなもんすよ」
「あら、どちらかというとリオが弟っぽいですわよ」
「そっかー?ま、どっちでもいーけど!」

そんな他愛ないやりとりを交わしているうちに、八千代の自宅へ向かう方向と二人の進行方向が別れる地点までやってきた。

「じゃあ俺はこっちだから。二人共気を付けて」
「んじゃ、また明日な!先生!」
「今度は撫子がいる時に誘うので予定は常に空けておくように!」
「そうそう、また四人でごはん一緒に食べに行こうなー!」

八千代は立ち止まり、後姿からでも引き続き会話に花を咲かせていると分かる二人の姿が人混みで見えなくなるまで見送ってから、自宅への道を歩きはじめた。
リオが別れ際に言った『また四人でごはん一緒に食べような』という言い回しに違和感を感じたが、今度こそ一緒に、という意味だったのだろうと納得いく解釈をすぐに導き出して、感じた違和感はすぐに消えた。



ヨシノと家族になった日の事を今でも覚えている。
八千代の母親は再婚する際相手と式は挙げず、婚姻届を提出して夫婦になった。
それは八千代が学校に行っている間の出来事で、新しい家族との新しい生活がはじまる実感はなかった。
その日八千代は元隣人であり、新しい父親の自宅であり、今日から八千代の帰る家になるアパートの部屋へ直接帰る事になっていた。
部屋の扉の前に立ったこの時やっと、八千代は新しい生活がはじまるのだと実感しはじめていた。
ヨシノの家庭教師をやめてからもこの部屋には何度も足を運んだ。
幼い頃のヨシノは一人で留守番する事も多く、目を離せば何をしでかすか分からなかったので何かと気に掛かったのだ。
八千代とヨシノを見ながらまるで兄弟みたいだと母親が微笑みながらこぼしてた事があった。自分に弟がいたらこんな感じなのだろうかと八千代自身意識していたところもあったのだろう。
弟。
新しい家族。
向き合えるだろうか。
ちゃんと家族になれるだろうか。
ドアノブに手を伸ばす手は震えていた。

「あ、さっちゃん!いらっしゃいー!」

居間へ進むと自分を迎えるヨシノのいつも通りの声が耳に届いた。
テーブルの上に教科書とノートを広げっ放しで放置したままソファに寝転んで寛いでいたらしいヨシノが身を起こす。

「あ、そういえば今日から俺のおにーちゃんなんだっけ?ならおかえりだね、おかえり!」

花が咲いたように笑うヨシノからは新しい生活への不安や緊張を一抹も感じられない。
ヨシノらしくて、身構えているのは自分だけだったと緊張が解れる。先程まで感じていた指先の震えが和らいでいく。

「にゃ?さっちゃん泣いてんの?どしたの?」

ヨシノが首を傾げる。
言われて八千代が自分の目尻に触れると指先が涙で濡れた。

「どっか痛いの?救急車呼ぶ?」
「救急車は大袈裟だろ。大丈夫だ、これは」

これは、嬉しかったからだ。
おかえりと言ってもらえた事が。
まるで自分を家族が受け入れてくれているようだったから。
八千代の表情は自然に綻んでいた。

「ただいま」



帰宅すると室内にヨシノの姿がなかった。
帰宅時間が遅くなるという話は聞いていなかったが、放課後クラスの子と遊びに行くなどして帰宅時間が遅くなる事はたまにある事だった。
夕食を外で済ませる時はちゃんと連絡をくれるが、今日はその連絡がない。
時計は19時を過ぎたところで、日はもう沈んでいた。
夕食の支度をしていれば帰って来るだろう。
部屋に荷物を置きに行こうとすると、リビングの方から異臭が漂っている事に気付いた。
昔どこかで嗅いだ覚えがあるが思い出せない。
臭いの発生源を探しに行こうとする意識に反して足が竦む。まるで探しに行くべきではないと身体が訴えているかのように。
しかしそんな無意識も、八千代はただ歩き疲れたのだろうかと思っただけだった。
荷物をリビングのソファに置く。
リビングから繋がったダイニングへ。ダイニングから対面カウンターで仕切られたキッチンへと向かう。
キッチン奥にある電子レンジの中からその異臭は漂っていた。
昨日食材を電子レンジに入れっぱなしにしてしまっただろうか、なんて考えながら扉を開けると臭いが濃くなった。
電子レンジの中には猫が入っていた。
山田さん。
八千代の飼い猫。

「山田さん、どうしてこんなところに。危ないぞ」

入り込んで出られなくなったのかと手を伸ばすが、指が猫に触れる前に八千代の動きが止まる。
寝ているのかと思ったがそうではない。呼吸をしていない。
猫は死んでいた。
幼い頃。
八千代が拾ってきた猫が父親に爪を立てた。
怒った父親は電子レンジへと放り込み作動させた。
父親の制止を振りほどき八千代が電子レンジの扉を開けるとどさりと猫が床に落ちた。
慌てて抱き抱えた時にはひきつけを起こしていた。
その時の記憶と重なる。
その時の光景が今目の前にあるかのようだった。
あまりにも鮮明で、八千代はたまらずその場で嘔吐した。
両足で体を支えきれずに膝をつく。脳を揺さぶられたかのようにくらくらとする。
込み上げてくる胃酸に喉を圧迫されて苦しい。
口の中は胃酸の鼻をつくにおいと粘液でぐちゃぐちゃと不快感に溢れていた。酸素を求めて開いた口からは涎が垂れる。

「………ッ」

しかし八千代は口を拭うよりも先に収納棚を乱暴に開けはじめた。
ペーパータオル、ビニール袋、消毒液を素早く取り出す。
震えがおさまらない身体を無理矢理動かして吐瀉物の処理をはじめる。
床を汚してしまった。
父親に見つかる前に片づけを済まさないといけない。
父親を刺激する要因を作ってはいけないのだ。
でないとまた母親が責められてしまう。
怒鳴られる。
殴られる。
蹴られる。
折られる。
剥がれる。
吐瀉物の処理を素早く済ませ、シンクで口を漱ぐ。
これでもう大丈夫だとゆっくり呼吸を整えると、八千代は落ち着きを取り戻しはじめた。

「…はぁ」

シンクの淵に両手をついて項垂れる。
父親の幻影に取り乱してしまう事が情けない。
時間の経過と共に忘れられると八千代は思っていたが、未だ過去に憑りつかれてしまっている。
もう怯える心配などないのに。

「……」

顔を上げ、まだ帰宅しない弟の、ヨシノの姿を探す。
いる筈がないのに、いない事を改めて実感して物悲しい気持ちになった。
ヨシノの顔を見たら気分も晴れるのに。
八千代は首を左右に振る。
寧ろヨシノが帰宅していなくて良かったと思い直す。
ヨシノに飼い猫が電子レンジの中で死んでいる姿を見せたくはない。
そこでふと、八千代の脳裏を疑問が過った
猫がどうやって電子レンジの中に入ったのだろうかと。
仮に扉を開け入る事が出来たとして、内側からネコが扉を閉める事までは不可能だろう。
誰かが猫を電子レンジに閉じ込めた?
誰が?
なんのために?
八千代が帰宅した時玄関の扉は施錠されていた。
八千代が住むマンションは都内にあるマンションの中でもセキュリティが強固で、住民ではない人間が部屋に侵入する事は容易ではない。
それでも絶対ではない。
ヨシノが来訪を許可したのならば各ロックは解錠される。
汗が頬を伝う。
ヨシノの身にもなにかあったんじゃないだろうか。
次の瞬間弾かれたように八千代は外へと駆け出していた。

「ヨシノ…ッ!!」

エントランスゲートを飛び出し弟の名前を叫ぶ。周りの視線が集まるが気にしてはいられない。
辺りを見回しヨシノの姿が見えない事を確認してから走り出す。
何処へ向かえば良いかは分からない。けれどじっとなどしていられない。がむしゃらだった。
何処かにはいるのだ。
いったい何処に。
夜の街は人工の光で照らされて行き交う人の顔を判別する事は可能だった。
何処まで行っても人の波が引く事はなかったが、ヨシノの姿を見謝る筈も見逃す筈も見落とす筈はない自信が八千代にはある。
ヨシノが行きそうな施設、訪れた事がある場所、片っ端から店内を探す。
携帯にヨシノからの連絡はない。こちらから電話を掛けても繋がらず留守番に切り替わってしまう。着信に気付いてくれる事を祈ってメッセージを何度か残す。送受信の不具合で届いていなかったらどうしようかと不安になりメールも何度も送ってしまう。
走り続けて、捜し続ける。
声を張り上げて名前を呼ぶ。
心臓は早鐘を打ち身体は熱く胸は痛い程苦しいが一息つく暇などない。立ち止まらない。
一度探した場所でも、八千代が通り過ぎた後にヨシノがその場に訪れる可能性がある事を考えると焦りばかりが加速する。
ヨシノからの連絡はまだない。一言声が聞けたら安心出来るのに。
身の安全を確認したい。嫌な予感ばかりが脳内に溢れて消えない。
ヨシノになにかあったらと考えると泣いてしまいそうだった。
代替できない大切な家族。
ヨシノがいるから毎日が楽しい。
幼い頃の自分がずっと欲してずっと望み続けてずっと夢見ていた家族と過ごす穏やかな時間。
それら全部をヨシノはくれる。
幸せに全部繋げてくれる。
ヨシノがいてくれたから一度は絶望した人生が色付いた。
ヨシノがいない人生ならばいっそいらない。
そのヨシノがいない。
見つけられない。
日付はとうに変わっていた。

「小夜君!」

突然聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。
声のした方を向くと、八千代がよく知っている人物が歩道に寄た車のドアガラスから顔を出していた。

「…義父さん」

ヨシノの親代わりであり、母親の再婚相手。
八千代紫呉。

「こんばんは」
「…こんばんは」

ヨシノをまだ見つけていないので立ち止まっている余裕などなかったが義父相手にすぐ立ち去る訳にもいかず、八千代は逸る心を抑え込み立ち止まる。
途端、身体の疲労を顧みず長時間走り続けた身体は突然立ち止まった事によりよろけた。歩道と道路の境に設置されている手すりに掴まる。

「フラフラじゃないか。どうしてこんな時間にスーツ着て外走るってるんだ?ランニングって訳じゃないだろう?」
「ヨシノが帰って来ないので探してるところです」

端的に答える。
心配を掛けると思ったが言葉を選んでいる余裕が八千代にはなかった。一刻も早く話を切り上げてヨシノを探しに行きたかった。

「小夜君やっぱ私からのメール見てないよね」
「…メール?」

携帯を取り出し確認すると画面にはメールや電話の着信が複数件表示されている。
そのほとんどは紫呉からのものだった。
着信には気付いていたがヨシノからのものではなかったので宛先すらも確認しなかった。紫呉からのものだと分かっても、ヨシノが見つかるまでは内容を確認する事はなかっただろう。

「ヨシノは今私の家にいるよ」
「!」

八千代が逸らし気味だった視線を素早く紫呉へと向ける。
その表情には想像もしなかったヨシノの居所への驚愕と、居場所が分かった事への安堵と、どうして実家にいるのか見当がつかない戸惑いが混ざり合っている。

「私も君を探していたんだ。乗って、家まで送るよ」

八千代は後頭部座席に乗り込んだ。
シートベルトの着用を確認してから紫呉が車を発進させる。
車の中で改めてメールを確認すると、紫呉からヨシノは今うちに来ているという内容のメールが届いていた。それ以降はメールを見てくれたかと確認する内容へと変わっていく。
着信も同じ用件でかけたのだろう。

「やっぱメール気付いてなかったんだな。ヨシノの事心配だっただろ、ごめんな」
「俺も連絡くれてたのに気付かなくって、すみません」

受信時間は紫呉からのメールが家を飛び出す前に届いていた事を指している。帰宅してすぐにヨシノを探しに家を出たのでメールのチェックはしていなかった。

「午後に所要でこっち来てんたんだけど帰る時ヨシノに会ってさー、話し込んでたらうちに泊まってくって事になって」
「あいつ明日も学校あるのに…」

紫呉の家からヨシノが通う高校まで近くはなかった。
紫呉はヨシノらしいよなーと笑う。

「来てみてよかったよ。メールに気付いてなかったら突然弟が帰って来ない事に小夜君がパニックになってるだろうなって思ったんだ。そしたら案の定」
「すみません。こんな時間に」
「いいよいいよ急な話だったし。ヨシノの携帯からかけたら確実だったんだろうけど、あいつ部屋に携帯忘れたらしくってさ」
「そうだったんですか」
「小夜君は相変わらずブラコンまっしぐらだな」

紫呉がからからと笑う。


駅前にある公共地下駐車場まで車を走らせてから二人は徒歩で八千代の自宅へと向かった。
医療関係の仕事をしている紫呉は忙しい身で、引っ越し前共に部屋の下見に来て以降この部屋へ来る事はなかった。
紫呉はリビングのソファに腰かけると背もたれに体重を預けた大きく伸びをする。
疲れているのだろう。二度も実家から車を走らせたのだから当然の疲労だった。

「こんな時間に来てもらう事になってすみません…」
「気にするなって、ドライブなんていい気分転換になったよ。久々に小夜君にも会えたしね。今は教育実習期間中だっけ。どう?」
「毎日大変ですが楽しいですよ。至らない事ばかりで勉強の毎日です」
「そっか。教師は君の子供の頃からの夢だもんな」
「はい。あ、ちょっと待っててください。ヨシノの携帯部屋から持って来ます」
「有難う。頼むよ」

紫呉は血縁関係がない八千代に対しても分け隔てなく、まるで自分の子供のように接している。
けれど八千代は新しい父親という存在に馴染めなかった。
親が再婚して新しい生活が始まってからたくさん気を遣わせてしまったと、八千代は今でも後ろめたい。
それでも紫呉はいつだって今みたいに柔らかな笑顔を崩さない。
気を遣って笑顔を取り繕っている訳ではない。実際紫呉は新しい家族としての生活がスタートした頃も、今も、迷惑など微塵も感じていなかった。
八千代の事もヨシノの事も、自分の子供として受け入れている。
紫呉は八千代の実父の話を八千代の実母―妻から断片的に伝え聞いている。
これから先どれだけ時間をかけたところで、『父親』という存在の自分に八千代が心を開けない可能性だって覚悟していた。
けれど近付く努力を、向き合う努力を怠るつもりも諦めるつもりも毛頭なかった。
これから先、例え拒絶される事があったとしても。
八千代が小走りでヨシノの部屋へと向かう。部屋の灯りを付けるとベッドの上にヨシノの携帯が置きっぱなしにしてあった。
手に取りすぐに紫呉の元に戻ると、紫呉はキッチンへ移動していた。

「あ、勝手にごめん。喉乾いちゃってさー、飲み物貰っていい?」
「はい、こちらこそ気が利かなくてすみません。飲み物なら冷蔵庫の中に」

八千代の言葉が途切れる。
不自然な所で言葉が詰まった八千代を不思議に思い紫呉が八千代の方を見ると顔面蒼白で肩が震えていた。

「どうした?どこか気分でも悪いのか?」
「い、いえ、あの、猫が…」
「猫?」

紫呉が立っている冷蔵庫の隣には電子レンジがある。
電子レンジの扉を閉めずに外へ飛び出したため開けっ放しになっていた。猫の死体が姿が見えて八千代は視線を逸らした。
紫呉がその場をきょろきょろと見回す。

「なにもいないよ?」
「電子、レンジの、中に、いて…」

震える指で電子レンジの方を指す。紫呉が電子レンジの中を覗き込む。

「いないよ」

紫呉は同じ言葉を繰り返した。

「見えないんですか…っ」

八千代には扉が開いた状態で内側に横たわる猫の死体が見えていて、紫呉には扉が閉じた状態の電子レンジが見えていた。
八千代は紫呉の言っている事が理解出来ず取り乱す。

「だって、そこに猫の死体が…」
「猫っていうのは、君が幼い頃飼ってたっていう?」

紫呉が八千代を刺激しないように穏やかな口調で話し掛ける。

「そうです、山田さん。雨の中捨てられてて、俺が拾って…飼ってた…飼ってて…飼って、いて…」

父親に殺された。

違う。
だって山田さんは今でも一緒に暮らしてる。
帰宅すれば玄関までやって来て擦り寄って来る。
じゃあこの記憶はなんだろう。
山田さんが死んで悲しくて悲しくてたまらなかった。
まるで胸を引き裂かれたように痛かった。
違う。
山田さんは生きてる。
生きてた。
今目の前にいる電子レンジの中で死んでいるのが山田さん。
あの時みたいに。

「……ッ」

八千代が頭を抱えて蹲る。
鈍痛。
これ以上考えるなと脳が警告しているかのように記憶がはっきりしない。
過去の出来事だったのか。
夢で見た光景だったのか。
混濁する。

「小夜君」

紫呉が蹲る八千代の隣にしゃがみこみ背中をさすろうと手を伸ばすと、その手は勢いよく払われた。八千代は下を向いていたまま息苦しそうな呼吸をしている。

「小夜君」

返事はない。

「落ち着いて。疲れてるんだよ」

返事はない。

「そうだ。飲み物、持って来るね」

返事を待たず紫呉は立ち上がりキッチンへと向かう。
八千代はその後ろ姿を目の端で追いながら、手を振り払ってしまった事を後悔していた。
心配してくれている相手への態度ではなかった。
分かっている。
咄嗟に拒絶してしまった。
きっとその反応こそが嘘偽りのない自分の本心なのだろう。
あんなに歩み寄ろうと、理解しようとしてくれている人相手に心を開く事が出来ない。
どうしても一歩引いてしまう。紫呉は近寄り難い。身体の距離が近いと不快感にも似た抵抗感を感じる。
あんなに気にかけてくれているのに手を振り払ってしまった。
取り乱していた事は理由にならない。気をつけなければならない。
家族なのだから。

「…はぁ」

八千代の携帯の着信音が鳴った。
指先すら動かすのが億劫で携帯に触れる気にはなれなかったが、メールを確認しなかったために紫呉に迷惑を掛けた事を思い出し、緩慢な動作で携帯を上着ポケットから取り出す。
内容を確認さえしておけば同じ過ちを繰り返さずに済む。
新着メールを開く。
知らないアドレスからだった。件名も本文もなく、動画ファイルが一つだけ添付されていた。
いつもの八千代ならば怪しんでそのまま削除していたが、立て続けに精神的にも身体的にも負担が掛かり判断力が鈍っていた八千代は再生ボタンを押す。
携帯で撮影した映像のようだった。撮影した時間が夜だったのだろう、画面は暗い。路地裏のような場所を写している。画面中央に二つの人影がある。
はっきりしないが、一人は今日学校を休んだ相楽撫子のように見える。
一緒にいるスーツを着た男性は、八千代に似ていた。
八千代自身自分が映っている、と思ったがこんな時間こんな場所に撫子と行った記憶はない。他人の空似。自分である筈がない。
次の瞬間画面の中の男は流れるような動作でもう一人の口を塞いで慣れた手つきで心臓を一突きにする。
ぷつりと、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れた身体を男が受け止めた。
動画はそこで終わっていた。

「その動画…」

飲み物を注いだコップを持って紫呉が戻って来ていた。
紫呉の位置から八千代の携帯の液晶の中身が見えたのだろう、眉間にしわが寄っている。

「悪趣味な悪戯メールですよ」

そう言って削除ボタンを押す。
紫呉は八千代にコップを手渡してから自分の携帯を取り出す。暫く考え込んだ後、八千代の顔の前に携帯を持って行く。そこに映し出されたのは先程八千代に届いた動画と同じ物だった。

「今朝、私の携帯に届いた動画なんだけどね」
「出回ってるんですね」
「…うん」

紫呉が言い淀む。
八千代は悪戯メールだと思っている。けれど紫呉はただの悪戯メールだとは思えなかった。

「この動画に心当たりはあるかな」
「どういう意味ですか、それは」
「この動画に映ってるの、君によく似てるなと思って」
「それは俺も思いましたけど、俺みたいな背格好の人間なんていくらでもいるでしょう。そもそもこんな趣味の悪い動画作ってばらまく趣味なんてありませんよ」
「本当に記憶にないんだね?」
「何が言いたいんですか。というか貴方、こんな作り物信じるんですか。これが本物なら事件でしょう」
「そうだね、殺人事件だ」
「それはつまり義父さんはこの動画に映っているのが俺だと?俺が人を殺した現場の映像だと言いたいんですか?馬鹿らしいにも程がある」
「そうは言ってないよ」

自分の感情を押し殺すように口を真一文字に結び八千代は黙り込む。コップを握る手に力が入る。

「小夜君、私は君が殺したとは思っていないよ」

君じゃない。
でも。

「…すみません。ちょっと、顔洗ってきます」

紫呉との会話を遮るように八千代がふらりと立ち上がる。
覚束ない足取りで廊下へと出て行くので紫呉は肩を貸そうかと思ったが、今の八千代には余計なストレスを与えるだけだろうと背中を見送るだけに留める。
八千代の事は自分の子供のように思っている。
少しでも心を開いて貰おうと紫呉なりに努力をしてきた。八千代も歩み寄ろうと努力をしてくれていた。
しかし八千代の『父親』という存在に対する心的外傷はあまりにも根が深かった。
紫呉は溜息をひとつつきながら携帯に視線を落とし、動画を再び再生する。
映っている子供は知らなかったが、一緒に写っている男性は八千代にしか見えない。
八千代に言った、君が殺したとは思っていない。それも本心。
紫呉は別の可能性を疑っていた。
とある病名に心当たりがある。
解離性同一性障害。
本人にとって堪えきれないような精神的苦痛から精神崩壊を防ぐために防衛本能から痛みへ繋がる回路を切り離し、切り離したそれらの記憶が成長し独自の二次的人格として形成される病態。
これまでの数年、八千代と接している間何度も違和感を感じた。
まるで別人だと感じる瞬間は何度もあった。
八千代に別人格が存在していたとして、その別人格が表に出ている時の記憶を共有してはいないのだとしたら。
幻覚を見るのも症状のひとつだった。
先程の猫の死体も、子供の頃の記憶がフラッシュバックしたのだとすれば納得出来る。
その八千代が新しい家族として受け入れている存在であるヨシノを突然連れ帰るのは軽率だったかもしれない。
八千代があんなにも取り乱しているとは思わなかった。
しかし八千代に別人格がいたとして、それが動画のような行為を平気でするような攻撃的な人格なのだとしたら。そうと考えると紫呉は八千代の元にヨシノを預けておく事が出来なかった。
不安要素はもう一つある。
あの動画は一体誰がどんな意図があって送って来たというのだろうか。
嫌な予感がする。
背後から足音が聞こえた。八千代が戻ってきたのだろう。紫呉が振り返ると、八千代はその後頭部を金槌で殴りつけた。

「ッ?!」

殴りつけられた衝撃で紫呉が床に倒れ込む。
何が起こったのか分からない。殴られた箇所が割れるように痛い。これまで感じた事のない鋭い痛みに呻く。手を当てれば生温い液体に触れる感触がした。

「小夜く…っ」

もう一度頭を殴られ紫呉は意識を失った。
頭部からの出血で床に赤い水溜りが広がっていく。
八千代は金槌をその場に投げ捨て、テーブルに置かれた紫呉の車のキーを手に取る。
倒れた紫呉を一瞥する事なく八千代は外へと駆け出し、車を停めてある公共駐車場へ向かう。
ヨシノは実家にいる。
迎えに行かなくては。
突然ヨシノが実家に泊まると言い出す突飛さは理解出来るが、その連絡がつかないからといってわざわざ深夜に実家から車を走らせて自分に会いに来るなんておかしな話だった。
紫呉は動画に映っているのが八千代だと疑っていた。
義父は。
あいつは。
自分と弟を引き離したのだ。
あんな作り物を真に受けて。
ヨシノの身が危険だとでも思った?
くだらない。
くだらない。
くだらない。
八千代は歯軋りをする。
父親という存在はいつだって、自分から家族を奪っていく。
駐車場に辿り着く。
素早く紫呉の車に駆け寄り鍵を開け、乗り込もうとドアの取っ手に手を伸ばした。
その時。

「Congratulations!」

拍手が響いた。


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