「…おはよ」
「さっちゃん、おはよー」

八千代はまだ睡眠が足りないと訴える重たい身体を無理矢理引き摺りリビングへと向かった。
睡眠不足とは縁遠そうな明るい挨拶を八千代へと送ったヨシノは、自分で用意した朝食を食べている最中だった。傍らでは山田さんがミルクを舐めている。
八千代は山田さんの頭を挨拶がてら撫でてから、隣接したキッチンへと向う。
冷蔵庫から取り出した飲料水をポットに入れて温めている間に、いつも眠気覚ましに飲むコーヒーを淹れるための用意を始める。

「なんだかまだ眠そうだね」
「眠い。寝てたい」
「だったら寝てたらいいのに。日曜日なんだからさっちゃんも休みでしょ?」
「休みを満喫したいのはやまやまだが、教材研究とか来週の準備とかしとかねえと。ほんとは昨日帰って来てからしようと思ってたんだけどな」
「さっちゃん昨日帰り遅かったもんね、事情聴取お疲れ様さまー」

昨日。
八千代はノエルが暴漢に絡まれている現場を偶然見かけた。
普段ならば素通りするところだが、教育実習で担当しているクラスの生徒という事もあり、見過ごす訳にもいかず割り込んだ。
数分後にはノエルの友人であるリオと撫子が呼んできた警察により場が治められるに至ったのだが、現場は暴漢がバールでノエルに危害を加えようとした所を八千代が応戦した直後であり、傍からみると八千代が暴漢に危害を加えているようにしか見えない状況だった。
そのため、八千代は最寄の交番で事情聴取を受ける事になってしまったのだった。
現場の有様を目撃した警察官ははじめ八千代を注視していたが、どうやらノエルに絡んでいた男達はこれまでにも何度か問題を起こし警察の厄介になった事があるらしく、ノエルの証言もあり口頭注意で済まされた。
日頃の行いは大切なんだなと教訓を得たところで、事情聴取から開放されたのは21時を過ぎた頃だった。
いつ事情聴取が終わるのか見当もつかなかったので、交番へ行く前ヨシノには夕飯は一人で済まして先に帰っていろと伝えてある。
なのでその後、交番の外で談笑しながらノエルを待っていた撫子とリオを含めた三人をそれぞれ自宅まで送って行く運びとなっても八千代は特に時間を気にする事なく行動する事が出来た。
そうして三人を無事自宅へ送り届けた八千代が自宅へ帰宅したのは23時。
自宅へ着いた途端それまで感じてなかった疲れが押し寄せ、夕食を食べる気にもなれず、そのまま自室へ向かい眠りについたのだった。
一日外を歩き回ったからといって根をあげる体力ではない。
寧ろ一般人よりは持久力には自信があったので、心当たりのない疲労感に八千代は首を傾げる。
実際疲労困憊だったのは主人格の方なので、今の八千代にはここ最近その生真面目な性格から身体に無理をさせて生活していた記憶も、周りで起こる出来事を引き摺り、気を張り、気を揉み、気に病み、気が晴れずにいた記憶は一切なかった。

「教育実習って大変なんだねー」
「大変だぞ。実習を通して一生の仕事としてやっていける自信がないっつって、教師になるのを諦める人だってたくさんいるんだからな」
「でもさっちゃんは毎日楽しそうだね」

ヨシノに指摘され、八千代の口角が柔らかくあがる。

「そりゃな。教師はガキの頃からの夢だから」
「そうなんだ。じゃあもうすぐ子供の頃からの夢が叶っちゃうんだね!凄いねやったね!」
「まだ通過しなきゃいけない関門はあるけどな」

八千代が沸騰したお湯をフィルターへと注ぐと室内にコーヒーの香りが漂い始めた。

「そういえば、紫乃は将来の夢とかあるのか?就きたい職とか、そういうの」
「ないでーす」
「だと思った」

元気よく即答するヨシノに八千代が苦笑する。

「高一の時点でこれはまずいかな?」
「そんな事ないだろ。そりゃ決まってた方が先を見通し易くはなるだろうけど」
「じゃあ俺も教師目指すー!」
「はは、紫乃が教師だったら生徒は楽しい学校生活が送れそうだな」
「そうかな」
「紫乃の教え子になる子が羨ましいぐらいだ」
「にゃはは、そんなにヨイショされると照れちゃうぞ」
「教師を目指すなら俺はお前にとって良い相談相手になれると思う!だから頼れ!」
「頼るー!」

八千代がサーバーに抽出されたコーヒーをカップに移して一口啜る。
特にコーヒーが好きという訳ではないが、カフェイン摂取は八千代にとって睡魔を撃退させる手っ取り早い手段だった。

「教師に拘らず、お前が本気で目指す夢ならどんな無謀でも俺は応援するよ」
「えへへ、ありがとー」
「色々考えるといい。人間、何がきっかけで将来の展望が見えるか分からないもんだからな」



「おやおや、八千代センセーじゃないデスカ!」

仕事のため学校に来ていたジェイソンは、職員室に八千代の姿を見つけ声を掛けた。
声に振り返った八千代は心底うんざりしたような気怠そうな表情をしている。見慣れない八千代の表情にジェイソンは一瞬ぎょっとしたがすぐに気を取り直す。

「どーしたんデスカ?今日はsunday、お休みですヨ?」
「校長からの呼び出し。今済んだ」
「だるそうなお顔の原因はそれデスカ。休日にまでお疲れ様デス!」

軽快に笑うジェイソンとは対照的に、八千代は重苦しい溜息をついた。
数時間前、朝食を済ました八千代の元に一本の電話がかかってきた。
実習校の校長からの電話で、昨日交番で事情聴取を受けた件で話があるので本校に出向いてはもらえないかという用件だった。
昨日手を付けられなかった実習の準備や復習の遅れを取り戻すつもりだったが、実習校の校長からの呼び出しを断れる訳もなく、素早くいつもの身なりに着替えた八千代はこうして実習校に訪れたのだった。

「今度はどんなaccidentに遭遇したんデス?」

八千代が校長室へ呼び出されるのは今回で二度目だった。
一度目は、先日、葛城くるが校外で巻き込まれた事故についての質疑応答。
この時校長と話をしたのは主人格だったので、まるで自分がアクシデントに見舞われ校長室へ呼び出されたのがこれがはじめてではないような言い回しをするジェイソンの言葉に八千代は一瞬違和感を覚えたが、どうでもいいかと気に留める事はなかった。

「それはですね!」

突然割って入った第三者の声にジェイソンが振り返ると、後ろにはプリントの束を抱えたハンナが二人に駆け寄ってくるところだった。

「さっちゃん先生ったら昨日暴力沙汰で警察の厄介になって事情聴取を受けたのですよ!それに関してのお説教なのです!」
「Really?!」
「微妙に歪曲されてる気がする」

八千代も昨日の件で長時間の説教を聞かされるのだろうと思っていたが、校長は警察から大方の事情を聞いているようで、実際聞かされた話は、教育実習生として自分の行動に責任を持てという注意と、暴力行為に至った理由が生徒を暴漢から助けるためだという事実から誤解が生じないように保護者・大学側に昨日の件を正しく連絡するという事前報告のみだった。

「何一つ歪曲していないのです!まったく、教育実習生の身でありながら二人も病院送りにするなんて、さっき校長先生から話を聞いた時は気が遠くなったのです!とんだお馬鹿さんなのです!」
「昨日ちゃんと正当防衛だったって認められた筈だ」
「それはただの結果です!暴力を振るった事が問題なのです!」

髪を逆立て全身から怒りの感情を露わにしているハンナと、ハンナとは目も合わせずめんどくさいという感情を隠そうともしない八千代の間にジェイソンが割ってい入った。

「まあまあハンナセンセー一旦落ち着いて。正当防衛って、トラブルに巻き込まれたって事デスカ?」
「そんなとこだな。昨日、ここの生徒が暴漢に囲まれて絡まれて揉めてるとこに居合わせたもんで」
「oh…」
「その暴漢共がうちのかわいい生徒に鈍器で殴りかかろうとしたのをさっちゃん先生が助けてくれたと聞きました」

ハンナが頬を膨らませて補足する。
八千代がただ一方的に、理不尽に暴力を振るったのではなく、生徒を助けるために暴力という手段を選んだ事情をハンナは校長から聞いて知っている。
八千代が助けなければ病院送りになっていたのが生徒だったかもしれない事も分かっている。

「ハンナ先生があの場にいたならもっと賢いいざこざの回避方法を披露してくれたんだろうけれど、生憎俺はハンナ先生と違ってお馬鹿さんだからそんな短絡的な方法しか思いつきませんでした。ごめんなさい」

八千代が台詞をなぞるように感情を込めず謝罪文を口にする。
心にもない事は明白だった。その態度にハンナが顔を赤くしてわなわなと震え出したので、ジェイソンがハンナの肩をぽんぽんと叩いて制する。

「八千代センセーの判断もハンナセンセーの気持ちも、ぼくは正しいと思いますヨ。でも、正解はないデショ」

ハンナが何か言いたげにジェイソンを見上げると、ジェイソンは笑顔を返した。
ぐっと言葉を飲み込み、視線を落とす。熱くなっていた自分の気持ちを落ち着ける。
暫くして、顔を上げたハンナは先程とは違い落ち着いた表情で八千代を見据える。

「感情的になり過ぎました。ごめんなさい」

言ってからと八千代に向かって頭を下げる。

「気にしてねえよ」
「ここは俺も言い過ぎたってさっちゃん先生も頭を下げるところなのです」

顔を勢いよく上げ再びわなわなと震え出したハンナにはおかまいなく八千代は続ける。

「謝罪を要求される程の事を言った覚えがない」
「うがー!謝るんじゃなかったのです!大人の対応した私が馬鹿だったのです!」
「なあ、もういいだろ。俺の用事は済んでるんだから帰らせてくれ」

自分へ小言を並べているハンナを無視して八千代が職員室を出て行く。

「話はまだ終わってないのです!」
「今感情的になって喚いてるだけだったって認めて謝ったじゃねえか、そこで話は終わってる」

呼び止める声に八千代は振り返らず、扉へ向かう歩みを緩めない。

「終わってからならいくらでもあの時ああすれば良かったこうすれば良かったって言えるんだよ」

吐き捨てるようにそう言って、八千代は職員室から出て行った。
足音が遠ざかる。
職員室に残されたハンナとジェイソンは暫く八千代が出て行った扉を眺めていたが、暫くしてどちらからともなく顔を見合わせた。

「今日の八千代センセー、物凄く荒れてましたネ」
「たまにあるのですよ。ほっとけば落ち着きを取り戻すので私は合わせる事にしてますけど。私は大人なのでスルースキル発動なのです」
「そうだったんデスカ。彼、いっつも余裕なさそうにしてますからネ。その反動でしょうカ」

ハンナがふん、と鼻を鳴らした。

「だとしたら、まだまだお子様の証拠なのです!」



八千代が足早に校舎を出る。
職員室を出る前確認した時刻は正午前。
本来ならば昨日の内に済んでいる予定だった実習の事前準備。その遅れを取り戻すためにあてるつもりだった時間を、想定外の出来事に取られてしまった。
帰宅してすぐ作業に着手出来るように取り掛かる算段を頭の中で組み立てながら校門を出る。

「あ、八千代先生!」

名前を呼ばれ、反射的に声がした方向とは真逆の方向へと足を向ける。
これ以上時間を割きたくない八千代は自宅へと延びる道とは正反対の方向へ、立ち止まらずそのまま駈け出そうとしたが、再び、今度は先程よりも大きな声ではっきりと名前を呼ばれた。
周りにいる通りすがりの人達の視線が集まる。
周りの目がなければ聞こえなかったの一点張りを通したところだったが、これでは聞こえないふりを通す訳にもいかない。
八千代は渋々振り返る。

「おはよう、九重君」
「おはよーございます!」

声の主である九重リオは元気よく挨拶をしながら、顰め面を隠そうともしない八千代に駆け寄る。

「日曜日の朝にこんなとこで先生と会うなんて奇遇だなー!実習すか?」
「そんなとこだ」

本当は教育実習とは関係のない別件で校長に呼び出されたのだが、話を早く切り上げたい八千代はリオに合わせる。

「俺に何か用でもあるのか?」
「用はないんすけどね。たまたま先生を見掛けたから挨拶しとこうと思って、でも声掛けたら聞こえてなかったみたいで、つい大声で呼んじゃったって訳ですよ」

なはは、とリオがしまりなく笑う。

「そうか、それは済まなかったな」

無視をした事に対して悪びれず、八千代は申し訳なさそうな顔を作り口先で謝る。

「こっちこそ呼び止めちゃってすみません」
「別に謝る事じゃないだろ」
「それもそっすね」
「じゃあ、俺はこれで…―」

この場から立ち去ろうとした八千代だったが、しかしそれは第三者の声に阻まれた。

「ごめんリオ、待たせた!」

校舎から勢いよく飛び出して来たのは相楽撫子だった。
通学用鞄を脇に抱えて全力疾走で校門へと向かってくる。

「部室に行ったら顧問の先生と話し込んじゃって、君を待たせてるっていうのに…!」

校門に近付いた撫子は、リオの隣にいる八千代に気付き急ブレーキをかけて硬直した。

「や、ややや八千代先生じゃないか!どうしてこんなとこに!」
「撫子、八千代先生は教育実習生だぞ。休む暇なんてないって事だよ」
「そ、そうか。お疲れ様。教育実習って大変なんだね」
「もう終わったとこだよ」

じゃあなと手を振り、今度こそ帰路につこうと二人に背を向けると、今度は撫子に呼び止められた。
振り返ると撫子は八千代と目が合った途端視線を地面へと逸らす。しかしすぐに視線を八千代へと戻し、すぐにまた他へと視線を移し、落ち着きがない。

「何だ?」

八千代が促すと撫子は彷徨わせていた視線を八千代へと定め、意を決したように声を絞り出した。

「あの、私達今からランチ食べに行くんだけど、良かったら八千代先生も一緒にどうかな!気分転換にさ!」



八千代はリオと撫子に連れられ、繁華街を貫通している大通り入口前にあるカフェを訪れた。
休日の正午という事もあり店内は賑わっている。
疲労が抜けきらない八千代の体にはあらゆる物音がうっとおしく頭に響き、無意識に眉間に皺がよる。
先程八千代は、校門前で偶然遭遇した撫子からランチに誘われた。
元々二人はカフェでランチを予定していたのだという。
八千代ははじめ適当にその場で思い付いた理由を並べて断ろうとしたが、撫子の隣にいたリオも八千代の同行に乗り気になり、断りきれず今に至る。
周りを歩く生徒の目がなければ振り払って直帰するところだったが、校長先生に口頭注意を受けた直後だった事もあり、目立つ行動は控えるしかなかった。
生徒と学校外で食事など交流は控えるべきだが、「教育実習生が生徒に冷たい態度をとっている」などという噂が立ってはたまったものではない。
考え過ぎだと自分で思いつつ、どこで誰が見ているか分からない。
現に八千代は先日、目撃されてるとは思っていなかった殺害現場を見られ、復讐心から殺されそうになったばかりだった。
今回誘われたのはランチ。何時間もカフェに居座る事もないだろう。
長居する気配があれば先に席を立とうと決め、二人の後に続く。
店内を奥へと進むと、テーブル席で頬杖をつきメニューを眺めているノエルが座っていた。

「ノエル!お待たせ!」

リオが近寄りながら声を掛けるとノエルが顔をあげた。

「あらこんにちは。学校に寄ってから来るって言ってましたけど用事はもう済んだんですの?」
「ごめん、私が部室に忘れ物しちゃって」
「思い出して良かったですわね。ちゃんと遅れるとメールをくれたのですから気にしてませんわ。さ、二人共席について…」

ノエルがリオと撫子の後ろにいる八千代に気付き目を丸くした。

「あらあら大変!二人共、八千代先生に後をつけられていますわよ!」
「人聞きの悪い事言うんじゃねえよ」
「教育実習生の仮面を被って裏では女子高生や男子高生を物色し、目を付けたかわいい生徒をストーカーしていただなんてとんだ変態ですの!」
「お前わざとでかい声で思ってもない事口走ってんじゃねえよ!」
「まあ!かよわい生徒を怒鳴るだなんて野蛮ですの!」

ノエルがニヤニヤと八千代を嘲る。
いつもの八千代なら小馬鹿にされようがからかわれようが気に留めないが、今日は抜けきらない疲労感と刻一刻と時間が経過する事に対し焦る自分に憤りを感じているため流せる余裕はなく、不愉快に苛立つ感情が表に出る。
八千代の前方に立っているリオには八千代の表情が見えないが、今にも自分を押しのけノエルに掴みかかりそうなビジョンが見えそうな程八千代が苛立っている事は顔を見なくても分かった。
一触即発の空気がリオの背中を刺す。
体感温度が下がったような錯覚さえした。

「ノエル、先生をからかうのが楽しいのは分かるけど、程々にしとかないと!」

ひきつった笑顔でリオが仲裁に入る。

「リオの言う通りだよ、今からこんな調子じゃ折角のランチが台無しになるじゃないか」
「だって八千代先生の顔に『責めてくれ』って書いてあるんですもの」
「あ?」
「もうストップ!」

リオが弱々しい悲鳴のような声をあげたので、ノエルがくすくすと笑いながら口を噤んだ。
張り詰めていた空気が緩和されリオが大きくため息をつく。

「じゃあ先生、どうぞどこにでも座ってください!」
「八千代先生もここで食べるんですの?」
「私が誘ったんだ」
「あらあらまあまあ」

リオと撫子の後について八千代がいるのを見た時二人が誘ったのだろうと想像していたノエルは、誘ったのが撫子だと聞き目を輝かせる。

「八千代先生と目が合っただけで赤面して情けない声をあげて蹲ってたような初々しい姿からは想像出来ない思い切った事をしましたわね!」
「そんな事してない!話を盛るのはノエルの悪い癖だよ!」
「癖じゃありません、わざとです」
「余計質が悪いよ!」
「何事も面白くなるように舵を取らなくては勿体ないですわ。ほら先生、ぼさっとしてないでお座りなさい」

ノエルが自分の向かいの席を指差した。
早く昼食を終わらせて帰ろうと、八千代は無言でノエルが指定した席へと移動する。

「リオは私の隣にお座りなさい…ああそれとも撫子は八千代先生の正面に座りたいかしら?ごめんなさい気付かなくって!」

言いながらノエルは椅子から立ち上がった。

「そういうのはもういいよ!物凄く座りにくいじゃないか!」
「下心があるから誘ったんでしょう?!遠慮なく八千代先生の隣か正面か、すきな方を選びなさい!」
「下心とか言うなあ!」

数分後。
ノエルが撫子をからかいその反応を楽しむというやりとりは、リオが用意したあみだくじで座席を決める事で決着が着いた。
八千代の隣に座る事になった撫子は、昨日のカラオケのように耳まで顔を赤くして俯いている。
八千代の正面に座ったノエルは頼んだパスタを口に運ぶ手を止め撫子に声を掛ける。

「撫子、出来立てワッフルの熱で添えてあるアイスが溶けてますわよ」
「わ、分かってるよ…」

目の前に置かれたワッフルプレートへとぎこちなく手を伸ばす撫子を見ながら、ノエルが溜息をついた。

「撫子、緊張するのは分かりますしそんな余裕を失くし挙動不審な貴方を眺めるのはとても楽しい事なのですけど」
「楽しい言うな」
「人の話を遮るんじゃありません。八千代先生の隣に座って緊張するのは分かりますが、誘ったのは貴方なのでしょう?」
「そ、そうだよ」
「だとしたら今の貴方の振る舞いは美しくありません。隣に八千代先生が座ったから食事が進まない貴方を見て、隣に座る八千代先生は良い気分にはならないでしょう」

ノエルの言葉に撫子はハッとし、顔をあげ八千代を見る。

「ご、ごめん先生!私誘っておいてさっきから先生に失礼な態度取ってた…!」

今にも泣きだしそうな顔で撫子が謝罪する。

「気にしてねえよ」

八千代が口にしたのは本心だったが、気を遣ってくれていると受け取った撫子は深く頭を下げる。

「ほら撫子、先生も気にしてないって言ってるんだから早く食べなよ!」
「そうですわ。済んだ事は引き摺るもんじゃありません」
「うん」

気を取り直した撫子はようやくワッフルに口をつけた。

「おいしい!」
「それは良かったな!俺のピザも食いたかったら持ってけよ!」
「ありがとう、じゃあ遠慮なくいただくよ」
「先生もどうぞー。それだけじゃお腹空くっしょ」

八千代の目の前に置かれた皿には小さなクロワッサンが一つ置かれていた。撫子がクロワッサンと八千代を交互に見る。

「先生、それだけ…?」
「いや、これで3つ目」

そう言って八千代が皿に残っていた最後のクロワッサンを口へと運ぶ。

「ダイエットでもしてるんですか?断食はやつれるだけですわよ」
「ダイエットなんかしてねえよ」
「でも貴方の体躯でその食事量は足りないでしょう。あ、節約期間中とか?」
「先生!ピザ食う?!」
「私のワッフルも良かったら!」
「私のパスタは分けませんよ」
「節約もしてねえよ。ただ食欲がないだけだ」
「体調が良くないのか…?」
「ただの睡眠不足だ」
「まあ!教育実習生ともあろう御方が自己管理がなってないだなんて情けない!」
「そんな事言うもんじゃないよ、ノエル」

撫子に窘められノエルはくすくす笑いながら肩を竦めた。
八千代は他人事のように聞き流し、エスプレッソを一口啜る。

「今日も朝から学校で実習だったみたいだし、先生はいつも本当に忙しそうだよな」
「でも、先生に今日学校で実習があったから、ランチを誘う事が出来たんだけどね」
「あらそうでしたの」

実際は実習ではなかったが、リオに校門で鉢合わせした時実習だと肯定するようなやりとりを交わした覚えがあるので、八千代は特に訂正しない。

「休日に学校でばったり会えるなんて、撫子は部室に忘れ物してラッキーでしたわね」

ノエルの言葉に撫子が頬を膨らませる。

「そうだ!撫子さ、折角だから先生に写真見せてやったら?」
「は?!」
「写真?」
「撫子は写真部なんすよー」
「いやいやいや見てもきっと面白くないよ!」
「自分の作品を卑下するもんじゃありません」

ノエルがテーブルに置かれた食器を端へと寄せて中央に空間を作り、ここに置けと言うように空いたスペースを手でぱしぱしと叩いた。
撫子は身体を縮こませあたふたと落ち着かない。見兼ねたリオが足元に置かれた撫子のスクール鞄を持ち上げて中身を漁る。

「お、あったあった」

そう言ってリオが鞄から取り出したのはアルバムだった。テーブルの上に3冊並べる。

「お、おおおお女の子の鞄を勝手に漁るなんて君は非常識だな!」
「見られてまずい物でも入ってるんですの?」
「そういう問題じゃない!ノエルも鞄の中身覗くんじゃない!」

撫子が立ち上がりリオから鞄を奪い取る。
顔を赤くはしているが気が知れた仲だからだろう、本気で怒っている様子ではなかった。

「ほらほら八千代先生、御覧なさい」

ノエルが八千代から見てアルバムが正面になるようアルバムを差し出す。
覗くと様々な写真がアルバムを彩っていた。

「部活中の俺を撮ってくれた写真もあるんすよー!」

リオが別のアルバムを八千代の前に広げる。
そのページにはグラウンドを駆けるリオが映っていた。真剣に、それでいて楽しそうな表情をしている。

「俺陸上部なんすけどね、これなんか陸上選手!って感じでかっこいいっしょ!」
「う…その写真は足まで入れたかったのにうまく入らなくって…」
「被写体本人がかっこいいって絶賛してるんですからそれで良いじゃありませんか」
「ああ、お気に入りの一枚だぞ!」
「あうう…」

撫子は照れたようにリオが指す写真から視線を外しワッフルを口へと運んだ。
そんな時、八千代がアルバムを捲っていると、台紙に貼り付けられていない写真が一枚のど部分に挟まっているのを見つけた。
何とはなしに写真を手に取り捲ると、僅かに八千代の目が見開いた。

「どうしました?何か興味が引かれる写真でもありましたか?」

目敏くノエルが八千代の様子に気付き、八千代の視線の先にある写真を抜き取る。
その写真を見たノエルも固まる。硬直は一瞬で解け、ゆっくりと撫子へと顔を向ける。
視線に気付いた撫子は首を傾げた。

「どうしたんだ二人共、なんか固まってないか?」

ノエルが何も言わず、手に持っている写真を撫子へ見せた。
撫子の表情がさっと青ざめる。
今にも悲鳴をあげるかのように口を開け、しかし声が喉から出ないようで言葉にならない途切れ途切れの掠れ声が撫子の口から漏れる。

「何の写真?」

リオが写真を覗く。

「あ、八千代先生じゃん」

撫子の身体が強張る。
写真に映っていたのは八千代だった。

「なーんだ、撫子ってばこの世の終わりみたいな顔するから何事かと思えば、八千代先生の寝顔写真持ってるのバレたのが恥ずかしかっただけか!」
「ぁ…あぅ……」
「それもあるでしょうけど、リオ、よく見なさい。この写真の八千代先生を」
「机に突っ伏して眠ってるようにしか見えないけど。あ、もしかして実習中居眠りをしていた証拠写真とか?!」
「だったらだったで面白い写真ですが、違いますわ。まず写真に写る八千代先生がいる部屋は待機室です」
「待機室?」
「普通に学校生活送ってたら貴方みたいに部屋の名前を耳にしない生徒もいる程マイナーな部屋ですわ。八千代先生のような教育実習生が休憩する部屋、とでも言えば通じるでしょうか」
「でもノエルは知ってるんだな」
「自分の通う学校の事くらい隅々まで調べるのは当然ですわ」
「さすがだな!」
「さて、そんな、普通生徒が訪れる事はまずない待機室でおやすみしている八千代先生が写っていますね。つまり、これは恐らく、目的があって待機室へ行った撫子が、本人に内緒でこっそり撮影したという事以外考えられません」
「それってつまり」
「盗撮ですわね」

ノエルの歯に衣着せぬ物言いに、たまらず撫子は顔を両手で覆う。

「まさか撫子にこんな趣味があったとは。人間は見かけによらないですわね」
「ち、違うんだ…」

撫子が今にも消え入りそうな声を漏らす。

「先生の授業で聞きたい事があって、放課後聞きに行こうと思って、職員室に行ったら八千代先生は待機室で休んでるって言われて、行ってみたら八千代先生が寝てて…」
「シャッターチャンスだと思ったんだな!」
「盗撮で合ってるじゃありませんか」
「撮影目的で待機室に行った訳じゃないもん!」
「盗撮は盗撮ですわ」
「うぐうううう!」

撫子がテーブルに突っ伏して呻く。

「八千代先生、盗撮されたと知った今の気分はいかがですか?」

ニヤニヤしながらノエルが八千代に尋ねると、テーブルに伏せたまま撫子の肩が大きく跳ねた。
ノエルの質問への解答は気になるが聞きたくないという相反する気持ちを胸に抱えながら、恐る恐る顔を八千代の方へと向け顔色を窺う。

「どうも思わねえけど」
「まるで他人事みたいに言うのですね」
「そりゃ撮られた覚えのない自分の写真が生徒の私物に挟まってるのを見つけたら驚きはするけど」
「うぅ…か、勝手に撮ってごめんなさい…」

撫子は八千代に背を向け、震えながら細い声を絞り出す。
リオが席を立ち、撫子の背中を撫でた。

「実害があった訳じゃねえし気にしない。謝るくらいならもうするな」
「元気出せよ撫子!先生の写真が欲しいんだったらさ、ちゃんと本人に頼めばいくらでも撮らせくれるって!」
「ま、先生はカメラを向けられたら緊張して強張りそうですけど」
「あー確かに強張りそう」
「盗撮で正解だったかもしれませんね。自然な寝顔ですもの」

二人のやりとりに撫子が苦笑した。
すかさずリオが話題を切り替える。

「そうだ!八千代先生は高校生の頃、部活は何してたんすか?」

話題に惹かれたのであろう撫子の顔色が変わる。
先程まで落ち込んでいた撫子の瞳に輝きが戻っている事に気付き、リオが話題を唐突に変えた意図をノエルは察した。

「八千代先生の事ですからどうせどこの部にも所属しておらずぼっちだったに違いありません」
「ぼっちだったかは置いといて、部活に入ってなかったっていうのは正解だ」
「もしかして、教師になるための勉強が忙しくって部活に費やす時間がなかったのか?」

盗撮写真が八千代に見つかったダメージから持ち直したようで、撫子が八千代に自ら質問を投げかける姿を見て、もう大丈夫だろうとノエルとリオは目配せをした。

「それもあるし、バイトしてたから部活動しようなんて発想自体なかったな」
「一生に一度の高校生活を部活ではなくバイトに捧げていたのですか」
「いいだろ別に。楽しかったし」
「何のバイトしてたんすか?」
「家庭教師」
「お!おお!八千代先生が家庭教師!でも、高校生で家庭教師ってなれるものなのか?」
「派遣じゃなくって個人請け合いっつーか…口コミの影響力って凄いよな」

八千代の父親が他界し母子家庭になったのは、八千代が中学生の頃だった。
父親が他界した事をきっかけに引っ越した先の隣人、今の八千代の母親の再婚相手である男性から、親戚の子供の勉強を見てやってくれと頼まれた事がきっかけで、とんとん拍子に評判が広まり、気が付けばシフトに空きがある日はなくなっていたのだった。

「家庭教師っつっても最初は小学生相手だったんだけどな。そのバイトをはじめた事がきっかけで教師って将来の展望が見えたんだから、本当、人生何がきっかけでどう転ぶか分かんねえな」
「へえ、そうだったのか。教師を目指していたから家庭教師のバイトをはじめたのかと思ったよ」
「そこで紫乃に先生みたいって言われたのがきっかけでな。我ながら単純だと思うよ」

はは、と八千代が軽やかに笑う。

「紫乃?ヨシノの事ですか?」
「どうしてそこでヨシノが出てくるんだ?」
「ああ、一番はじめに家庭教師担当した小学生ってのが紫乃なんだよ」
「え、アイツ家庭教師なんかついてたんだ?!」
「以外ですわね。ヨシノはアホ面に似合わず成績優秀ですけど」
「小学生の頃の話だ。お前らの言う通り紫乃はその頃から俺なんかいなくても勉強出来て、どちらかと言うと家庭教師っつーかお守りだった気がする」
「確かにあのトラブルメイカーから目を離すのは怖いですからね、親の気持ちは分かります」

八千代がヨシノの名ばかり家庭教師をはじめた時点でヨシノの両親は他界していたが、八千代は訂正しない。

「そっかー、先生とヨシノはそんな昔からの知り合いだったんすね!昨日も二人揃ってカラオケ誘われて来るし、仲良いんだなーとは思ってたんすよ」
「知り合いっつーか、弟なんだけどな」

さらりと放った八千代の一言で、その場の空気が一瞬固まった。

「お、弟だったのか!」
「そういえば苗字同じですわね」
「成る程、あの仲の良さは兄弟間からくる仲の良さだったんすね…!」
「つまり先生はブラコン野郎だったって事ですわね」
「俺がブラコンに見えるか?」
「そうですね。兄弟だと知ってから昨日のお二人を振り返ると、トラブルメイカーから目が離せないお人よしから、弟にべったりなお兄ちゃんって印象に変わりますわね」
「そうか」
「って、何でそこで嬉しそうにするんですの」

訳が分からないとノエルが眉を顰める。
ノエルが指し示す通り、八千代は心の底から嬉しそうに笑っていた。

「周りから家族に見られてるって事が実感出来て、嬉しくって」



カフェを解散した時刻は13時を過ぎていた。
三人からこれから街で一緒に遊びに行かないかと誘われたが断った。
足早に自宅へと向かう。
マンションに到着し、自室に向かい内階段を進んでいると、携帯が鳴った。
ジェイソンからだ。
いい加減自分の作業に着手したい八千代は着信を無視しようかと考えたが、学校から教職員全体への連絡という可能性もあるので、用件を聞き終ってから電話の電源を切ってしまえばいいと思い直し、着信に応じる事にした。

「もしもし」
『Hello!八千代センセー、午後からお暇でスカ?』
「暇じゃない。じゃあな」

即答して通話を着ると、すぐにまたジェイソンから着信が入った。

「もしもし」
『なんで電話きっちゃうんデスカ!』
「質問には答えただろ」
『つれないデスヨ!』
「暇なら他を当たってくれ」
『人の話は最後まで聞くものデス!』
「さっきも言った通り暇じゃないんだ、きるぞ」

ジェイソンの返事を待たずに通話を切り、携帯の電源をきった。
午後からの予定を尋ねるという事は、用件が職員への連絡ではないという事だ。
個人的な用事ならばこれ以上話す必要はない。
自室の扉を開けると、中から賑やかな話し声が聞こえてきた。
玄関に視線を落とすと自分の物でもヨシノの物でもない靴が二人分整えて並べられている。
ヨシノが友達でも呼んで遊んでいるのだろうか。
玄関の戸の扉が開く音を聞き付けた山田さんが八千代に駆け寄って来る。八千代を見上げてにゃあ、と鳴いた。
山田さんを抱き抱えてリビングへと足を運ぶと、ヨシノの他にジェイソンとハンナがいて、三人でトランプをして遊んでいるようだった。

「あ、さっちゃんおかえりー!」
「お邪魔してるのです」
「八千代センセー、電話きっちゃうなんてひどいデスヨー!」

出て行けと叫びたくなる衝動を腹の底に抑え込み、八千代は深呼吸をして自分を落ち着かせた。

「何の用だ」

やっと帰宅し自分の作業が出来ると思っていたのに、うまく事が運ばない事に苛立ち、声のトーンが落ちる。

「そんなに怖い顔しないでくだサイ、ぼく達は遊びに来ただけデース!」
「…遊びに?」
「Yes!八千代センセー、うちに実習に来てから余裕なさそうでテンパりっぱなしで息つく暇もないんじゃないかってハンナセンセーと話したんデス!だから、一度パーッと賑やかに弾けてみてはどうだろうって話になったんデス!」
「気分転換は大事なのです」
「いらない。帰ってくれ」
「八千代センセーに午後から外で用事があったらおとなしく帰ろうと思って確認の電話をいれたのですけど、こうして帰ってきた事デスシ!じゃーん!お酒も買い込んできまシタ!真昼間から飲みまショー!」
「聞けよ」

ジェイソンが座る隣に買い物袋に包まれたアルコール飲料とつまみが大量に見えた。
どうやら本気でここで酒盛りをする気らしい。
自分を気遣って開いてくれている事は分かるが、今の八千代にとっては迷惑でしかない。
なんとか帰せないかとあれこれ思考を巡らせていると

「良かったね、さっちゃん」

なんて言いながらヨシノが屈託なく笑うので、帰れと言えなくなってしまった。
自分の作業は徹夜すればなんとかなるさと、八千代は腹をくくった。


八千代を気分転換させようと開かれたジェイソンとハンナによる酒盛りは夜まで続いた。
20時過ぎ。酔いが回り、泊まっていくと言いだした二人を廊下へと放り出した八千代は、ようやく実習の事前準備に着手する事が出来たのだった。


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