恋から愛へ変わる時
離れてからその大切さに気付くことってあるんじゃないかと思う。
彼女の存在がまさにそうだった。
あれはまだ学生の頃だった。色んな女の子と付き合った中の一人、それがなまえだった。
「私、神宮寺君が好きです」
そう告白されて、顔も好みだったから深く考えずに、
「いいよ」
とだけ答えて付き合い始めた。
学生の頃特有の甘酸っぱい交際。
最初は好奇心で付き合い始めたはずなのに、一緒にいる度に惹かれていった。俺の横にいる彼女は、いつも心から楽しそうに笑っていた。
手を繋ぐだけで顔を真っ赤に染めて、キスをしたら慌てふためいて。
そんな彼女を見る度擽ったかったし、なんだか幸せな気持ちになれた。
「懐かしいねぇ」
仕事の空き時間、カフェでコーヒーを飲みながらひと休憩する。
何故突然彼女のことを思い出したのだろうか…スマホのロック画面を見ると、10月2日。そうか、今日がちょうどあの日だからか。どうして日付まで覚えてしまってるのかな。あぁ、なんてらしくない。
「神宮寺君が何考えてるか分からない」
「…え?」
「神宮寺君は私の神宮寺君じゃなくて、みんなの神宮寺君だもんね」
どうやら、なまえと付き合っている間にも、他の女の子とデートしていた事が気に障ったらしい。
涙も流さず、ただ冷静に彼女はそう言った。
「ごめんなさい。ずっと我慢していたけどもう限界です」
そう、別れを告げられたのがちょうど今日と同じ日付だった。
その時は物分りの良いフリをして、あっさり別れた。そんなに未練もないと、自分でもそう思っていた。
しかしそれからどんなに綺麗な子と付き合おうと、思い出すのはなまえの事だった。
どうしてあの頃、彼女だけを見てあげなかったのだろう。そんな風に今更後悔している自分が滑稽だ。
だけどいつまで経っても、何年経っても。彼女の事だけは何故か忘れられない。
何年も前の、たった一つの淡い恋が、ずっと俺の心の中に残ってなくならないんだ。
「420円になりますー。ありがとうございましたー!」
カフェを出てスタジオへと向かう。これからまたレギュラー番組の収録だ。
人が多く、騒がしい街中。気付かれないように帽子を被りサングラスをかけた。
スタジオに向かってしばらく歩いていると、暗くなった視界の中で、ふと一人の女性が俺を見て立ち止まったのが分かった。しかも目が合ってしまった。まずい、気付かれてしまったか。
とりあえず、あまり騒がないでもらいたいのが本音だ。このような仕事をしている以上致し方ない部分はあるが、あまり大事になっても面倒だしね。
彼女に最低限のファンサービスだけしておこう、と思い歩みを進める。
彼女は声を上げることもなく、じっと俺を見つめて立ちすくんでいた。
彼女との距離が縮まる。
サングラス越しにその顔を確認して、俺も同じようにその場に立ち止まってしまった。
「神宮寺君…」
昔と比べ驚くくらい大人っぽく、そして美しくなっているが、そこに立つのは紛れもなくなまえだった。
スローモーションのように時間が流れている気がした。周りのざわつきも一切耳に入らないし、他の通行人も目に入らない。
「なまえ…」
「びっくりした…久しぶりだね」
「そう、だね…」
俺と同じように、目を泳がせるなまえもひどく動揺しているようだった。何と言葉を発したら良いか分からない。いつもならそれなりに気の利いた言葉が自然と出てくるのに。
「神宮寺君、すごいね。すっかり有名人になっちゃって」
「ありがとう。なまえも、元気そうだね」
「うん…普通に社会人してるよ」
優しく笑ったその顔も、随分と大人びた。
きちんとしたメイクも、身に付けているアクセサリーも、学生の頃とは違う。すっかり大人になったなまえの姿に、つい見入ってしまった。
「それじゃ、」
気まずそうに肩を竦めて、俺の横を通り過ぎようとしたなまえの肩を、咄嗟に掴んでしまう。
驚いた顔をして振り向いた彼女を、そのまま抱きしめた。人目もはばからず、俺は何をしているんだ…そう思いつつも、動く身体は止められなかった。
「神宮寺君、」
「……」
「神宮寺君はみんなの神宮寺君なんだから。こんなことしちゃダメよ」
「そうやって昔と同じセリフを言うんだね」
「覚えてた?」
「もちろん。あんなにフラれてショックだったことはないからね」
少しビクッと肩が動いたのが分かった。
それでも構わず、俺は言葉を続けた。
「忘れられなかったんだ、君の事が」
「神宮寺く…」
「まだ好きだよ、って言ったら笑うかな?」
呆れられるか笑われるかすると思ったのに、彼女は俺の腕を振り払うことなく、真剣な声で呟いた。
「笑わないよ」
ずっと忘れられなかったなまえへの想い。
それはいつの間にか、本当の愛に変わっていたんだ。
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