ル イ ラ ン ノ キ


 22…「勝敗」



私は落下してゆく中、慌てて手を伸ばした。下から鞭のように次から次へと身体に打ち付けてくる枝に掴まろうとしたが、重力の重さもあって直ぐに折れてしまう。
何度も必死に枝に掴もうとしたせいで手の平が焼けるように痛かったが、一本の太い枝が私の右腕と身体の間に挟まり、枝を脇で挟むようにして一瞬だけ落下するスピードを落とすことが出来た。
けれど同時に、骨が折れる鈍い音がして、右腕が真後ろにへしまがってしまった。
少しだけスピードが落ちた私の身体はそのまま地面へと叩き付けられる。
お狐さまは、助けてはくれなかった。

「う"ぅ……う"……」

うめき声を出しながら、私は身体を曲げてうずくまった。全身を斬り刻まれたような痛みと、地面に打ち付けた痛みが一気に襲ってくる。

「りん、よかった。生きてるな」
 いつの間にか地上に下りていたお狐さまは、平然とそう言った。
「う"ぅ………」
「じゃー最後の要求だ」

お狐さまは私の身体をひょいと抱き上げると、ひとっ跳びで本殿の裏まで移動し、私を地面に寝かせた。

「いいものを拾ったんだ、りん」

お狐さまは地面に横たわる私の顔の前に立つと、しゃがみ込んでキラリと光るものを差し出してきた。それは、くだものナイフだった。

「誰か人間、刺してきて。人間の苦痛に歪む顔が見たい」

漸くわかった。はじめからお狐さまは私を解放する気なんかなかったのだと。
木の上から飛び降りたときも、本当は死んだら死んだでよかったと思っていたに違いない。

「そんなこと……できない」
「出来ない? 刺せばいいだけだ。腕でもいい。脚でもいい。人間が騒ぐ顔が見たいんだ。人間のいろんな表情が見たいんだ。──りんが困る顔、見たいんだ」

きっと最後の一文だけが本心だ。私を困らせたいだけ。約束を守らなかった私を困らせてやりたいだけ。
全身の痛みに顔を歪めながら、ゆっくりと上半身を起こした。ズキンッと右腕に強い痛みが走り、顔が歪む。

「痛そうだな、りん」

そう無邪気に言ったお狐さまに、私は思わずつかみ掛かってしまった。右腕は動かず全身が痛むから、バランスを崩してお狐さまを押し倒してしまう。

「うわっと?!」
 お狐さまが声を上げた。

身体を起こそうと、動く左手を地面につき、お狐さまの胸元から顔を離したそのとき、私はそれをハッキリと読み取った。

    ≪保坂 尚人≫

「ほさか……なお……と?」

それは、お狐さまが着ている浴衣の衿に書かれていた名前だった。なにか模様が書かれていると思っていたが、しっかりとそう読み取れた。

「あなた……保坂尚人っていうの?」
 私はお狐さまにそう尋ねたが、お狐さまは首を傾げた。
「なんだ? それ」
「その浴衣、あなたのじゃないの?」
 そう訊き直すと、お狐さまは自分の浴衣を見て、再び私に視線を戻した。
「俺のだ」
「じゃあそこに書いてあるのはあなたの名前じゃないの?」
 と、浴衣の衿を見遣る。
 しかしお狐さまはそれをまじまじと見遣ってから、
「なんて書いてるんだ? 読めない」
 と言った。

決してお狐さまが嘘をついているようには思えなかった。

「さっきも言ったけど……ほさかなおとって書いてある。聞き覚えないの?」
「知らないな」
「その浴衣、拾ったの?」
「俺のだ」
 と、お狐さまは明らかに機嫌を損ねたように言った。
「いつから着てるの?」
「りん。最後の要求、聞かないのか」
「お願い答えて。どうせ最後なら最後に答えて。いつから着てるの? その浴衣」
「…………」

お狐さまはしばらく考えたあと、答えた。

「わからない。気づいたときにはもう着ていた」

私はその答えに首を傾げるしかなかった。
気づいたときとはどういうことだろう。もっと訊きたかったが、これ以上質問するとお狐さまを怒らせてしまいそうだった。

お狐さまは立ち上がり、言った。

「りん。人を刺して来るんだ。それが出来たら解放してやる」
「……そんなことしたら私は捕まる」
「俺には関係のないことだ」
「鬼。悪魔っ」
「俺はキツネだ」
 と、お狐さまは子供のように笑った。

お婆ちゃんが私のために参拝してくれていた姿がフラッシュバックする。
お婆ちゃんはお狐さまのことを教えてくれた。それに、「大丈夫。りんは強い子だ」って、言ってくれた。それが人を刺してもいいということにはならないけれど。

「りん、降参する? 降参して俺の仲間になろう。毎日遊べて毎日楽しいんだ」

──仲間?

「りん、俺といれば寂しくない」
「あ……」

数年前、いつまでも話し込んでいる母から離れて本殿の裏へ回った。なぜそんなことをしたのか、明確な理由を思い出した。寂しかったからだ。
私がいなくなれば、さすがにお母さんは気づいて捜しに来てくれると思ってた。私を見つけて、ホッとして、ひとりにしてごめんねって謝ってくれると思ってた。
でも、待っても待ってもお母さんは捜しに来てくれなくて、そんなときに“白い犬”と出会って、夢中になって遊んでいたんだ。

「りん、仲間になって。もう寂しくない」
 と、手を差し延べるお狐さまを、私は振り払った。

そしてナイフを受け取って言った。

「私はもう……寂しくないの。あなたがいなくても寂しくないの。学校には友達がいるし、家に帰れば口煩いけどお母さんもいる。だから……仲間にはならない」
「じゃあー誰か刺してきて」

絶対に無理だと言わんばかりにそう言ったお狐さまは、ひょいとまた本殿の屋根に上り、参道を行き交う人々を眺めた。

「みんな笑っている。一気に青ざめる顔が見れるのかな。出来るだろ? りん」
 と、お狐さまは私に視線を戻し、青ざめた。
「──りん?! 何してるんだ!」

私はくだものナイフを自分のお腹に突き刺していた。ドクドクと熱を感じる赤黒い血が溢れ出てきた。屋根から飛び降りたお狐さまは、倒れこむ私の身体を咄嗟に支えた。

「どうして……」
「人を刺せって言ったじゃん……自分も人だし、自分は刺しちゃいけないなんて……言ってない……」
「りん……りんッ!!」

意識が朦朧とする中で、私は最後の力を振り絞って言った。

「このゲーム……私の勝ちかな……」

これでやっと解放されると思ったけれど、まだ解決していないことがある。

保坂 尚人。

あなたは一体、誰なの?

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©Kamikawa
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