voice of mind - by ルイランノキ


 秋の扇10…『救いの手を』

 
自分たちが泊っている部屋のすぐ隣にある20号室。アールは部屋の電気をつけた。
 
「やっぱ部屋の造りは同じか……。ミシェルさん、お腹空いてませんか?」
 ミシェルは部屋の出入口に立ち、下を向いたまま首を左右に振った。
 
アールはカーテンを開け、外を眺めた。
匿うようにミシェルを引き止め部屋へ招いたが、明日恋人のいる家へ戻れば意味がない。なにも出来ないのなら見て見ぬふりをしたほうがよかったのだろうかとさえ思えてきた。
 
「……彼のことが好きなの」
 黙って俯いていたミシェルが口を開いた。
 アールはミシェルに目を向けた。彼女の言葉に耳を傾ける。
「彼は暴力を振るうけど……それは私が鈍臭くて迷惑ばかりかけるから……彼はね? 私のためを思って叱ってくれるの。だから……」
「うん……でも、暴力は……」
「私がいいって言ってるの! それに、暴力を振るっても、彼はちゃんと謝ってくれる。私が悪いのにごめんねって言ってくれる。彼は優しい人なの。私がダメなだけ……私がしっかりしていないだけ……」
 ミシェルは自分ばかりを責め続けた。
 
ドメスティック・バイオレンス。名前は知っていても、ニュースやドラマで見たことがある程度で、身近にそんな経験をした人はいなかった。暴力を受けても尚、好きだと言い続けているミシェル。アールは彼女の心理状態を理解することが出来なかった。
それほどまでに好きなのか、単なる依存か、深い思い込みか……。
 
「ミシェルさん……」
 あなたは酷いことされて平気なの? そう訊こうとしたとき、誰かが部屋をノックした。
「誰だろ……見てきますね。あ、ミシェルさん椅子に座っててください」
 と、アールはドアに向かった。
 
なんとなく嫌な予感がした。ミシェルの恋人ではないかと一瞬頭を過ぎったのだ。
 
「どちらさま?」
 と、ドアを開けずに訊く。
「アールさん、僕です」
 ルイの声に、ホッと胸を撫で下ろす。
 
ドアを開けると、ルイは2人分の夕食を持って立っていた。
 
「お腹空かれたのではないかと思いまして……」
 ミシェルは食欲がないようだったが、ルイを部屋へ通した。
 
ミシェルは部屋の左奥に置かれた丸型の小さいテーブルの椅子に座っていた。ルイから目を逸らし、俯いた。
 
「よろしければ、お召し上がりください」
 テーブルに夕食を並べる。
「ルイが作ったんですよ。少しは食べてくださいね」
 アールが笑顔でそう言ったが、ミシェルはずっと自分の手元を見たまま、頷くこともしなかった。
「では僕はこれで。食事が終わりましたら廊下に出しておいてください。僕が片付けますから」
 ルイはアールを一瞥し、傷を治す薬を無言で手渡して玄関へ向かった。
「彼はね……本当は優しいのよ」
 ミシェルが再び口を開いた。
「優しい……?」
「本当は暴力を振るいたくはないんだって言っていたの。でも彼はとても弱い人だから、感情を抑えきれずに爆発しちゃう。でもそれは私のせいなの。私がしっかりしていれば、彼を怒らせることもないの……」
 
理解してもらおうと話を続けたミシェル。けれどアールにはどうしても理解できなかった。
部屋を後にしたはずのルイが、ドアを開けたまま立っていた。部屋を出ようとしたとき、ミシェルの話が聞こえ、思わず足を止めたのだ。彼女の頬にあった痣や様子から、薄々そうではないかと思っていたが、やはり彼女は恋人から暴力を受けていた。
 
「暴力は……おさまらないと思います」
 アールは胸が締め付けられる思いでそう言った。「認めたくはないかもしれないけど、暴力を振るい、後悔して苛立って、また暴力を振るい、その繰り返しだと……」
「そんなことない!」
 ミシェルは声を荒げ、立ち上がった。
「彼は自分と闘ってるの! ダメな私を叱って当然なのに、いつも自分を責めて、『もう殴ったりしないから』って……」
「ダメな私って?」
「……料理、なかなか上手くなれないの。彼が私を頼ってくれてるのに、美味しい料理を作ってあげられない」
 そう言ってミシェルは苦痛の表情を浮かべた。
「……他には?」
「彼が寝ているのに物音を立てて起こしてしまったり、何時までに帰ってこいって言われてたのに遅れてしまったり……」
「それで暴力? それだけで?」
「嫌がることなんて人によって違うじゃない……。彼が不快に感じているのに私は──」
「なんでも相手に合わせるのっておかしくない?」
「なにがおかしいの? 私が彼のそばにいたいと思ったの。彼のそばにいさせてもらってるんだから、合わせるのは当然のことよ!」
 
「そうでしょうか」
 と、ルイはドアを閉めて部屋へ戻ってきた。
「ルイ……」
「すみません。部屋を出ようとしたときに、話しが聞こえてしまったので」
「…………」
 ミシェルはまた口を閉ざして俯いた。
「ミシェルさん、暴力はお付き合いをする前からあったのですか?」
 ルイの問いに、ミシェルは黙ったまま首を横に振った。
「では、付き合いを始めてから、暴力を振るわれるようになったのですね。彼のことを好きになったときは、暴力を振るう人だとは知らずに、好きになったのですよね」
「……そうだけど、彼もきっと私がこんな人間だなんて知らなかったはずだから。それでもそばにいてくれてるの」
「きついことを言うようですが、彼が貴女を愛しているようには思えません。愛する人を傷つけて平気でいるわけがありません」
「だから彼は謝ってくれるの! 酷いことしてごめんねって!」
「暴力を振ったあとに謝るのは、暴力を振ってスッキリしたからですよ。謝っても、また苛立ったときに繰り返します。そう簡単に治るものではありません」
「そんなことないわ!」
「そう思いたいのでは?」
 
アールはルイの腕を掴んで止めようとしたが、躊躇った。ルイがキツイ言い方をするのは、彼女のためだとわかったからだ。
 
「彼は私を必要としてくれてるの……」
 と、ミシェルは両手で顔を覆い、力無く椅子に座った。
「“使われている”だけですよ……」
「ルイ」
 と、アールは声を掛けた。「もうやめよう」
「彼女の為です。目の前に辛い思いをされている人がいるのに、見過ごすわけにはいきません」
「そうだけど……」
「私は別に辛くても平気よ!」
 と、泣きながらミシェルは言い放った。
「彼が好きだから! 暴力は私のせいなんだから私が我慢すればいいことなの!」
「じゃあなんで泣いたの……? 平気なのに、ホテルの前でなんであんなに泣いたの? なんであんなに怯えていたの? 本当は平気じゃないからでしょ? 本当は──」
 
アールが話している途中で、ミシェルは堪らず逃げるように個室へと入り、鍵を閉めた。個室の中から、啜り泣く声が漏れ聞こえる。
 
「ミシェルさんは……矛盾している感情を自分でもわかってるんだと思う。どうしたらいいのかわからないんじゃないかな」
 そう言ってアールはうなだれるように椅子に腰かけた。
「そうですね。しかし、このままだときっと暴力はエスカレートしてしまいます」
「うん……。それにミシェルさんも、暴力を振るわれて当然だと思ってる。暴力を“仕方ない”で済ませるなんて、間違っているのに。それも頭ではわかってるのかもしれない」
「……アールさんに泣き縋っていた姿を見ると、暴力を振るわれても傍にいたいと思う反面、助けて欲しいと願ってるように思えます。どうにか救いの手を差し延べたいのですが……」
 
暴力を振るう彼からミシェルを引き離すには、彼女の考えを変えなければならなかった。例え力ずくで引き離しても、彼女が彼を求めてしまえば意味がないからだ。
 
アールは、ルイが用意してくれた夕食に箸をつけた。
自分にも恋人はいる。けれど、暴力を振るわれたことなど一度もない。愛する人に暴力を振るわれるって、どんな感じだろう。普通に考えたらその時点で愛情はなくなりそうな気がするのだけど。
 

──この時ばかりは、何度も何度も、君のことを思い出したの。
 
ミシェルの恋人を君に置き換えて考えてみたけれど、君が暴力を振るうなんて想像すら出来なかったよ。
 
君が怒った顔すら
思い出せなかったから……。

 

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©Kamikawa
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