voice of mind - by ルイランノキ


 捨てた想い27…『とりあえず帰還』

 
背の低い山の樹上から、小鳥の囀りが聞こえてくる。涼しげな朝の風が木々を揺らし、アールを包み込んだ。懐かしい匂い。
 
「──良子ちゃん」
 懐かしい自分の名前を呼ぶ声に振り返ったアールは、目を丸くした。
「お……おじさん!」
 アールは駆け寄り、おじさんの顔をまじまじと見遣った。毎朝バス停へ向かう途中に会う近所のおじさんだ。
「な、なんだ? そんな驚いた顔をして。何かついてるか?」
 と、おじさんは顔をさすった。
「あははっ、いえ! なにも!」
「んー? 驚いたり笑ったり忙しいなぁ。今から仕事だろ? 頑張れよ?」
「はい! おはようございます!」
 
アールは嬉しさのあまり、会話が成り立っていないことに気づいていなかった。気持ちが舞い上がる。辺りを見渡して、毎日通っていた道や風景を懐かしく思う。ただあの時と違うのは、灰色だった空が青く澄んでいることだ。
 
「いってらっしゃい、気をつけてな」
 と、おじさんが言う。
「行ってきます!」
 そう挨拶をしながら自宅へ戻ってゆくアールに、彼は首を傾げた。
「忘れ物でもしたんかー?」
 
軽い足取りで家路を急ぐ。家族に会いたい。その気持ちでいっぱいだった。
玄関の前に辿りつくと、久々の帰宅に胸がドキドキと高鳴った。見慣れた玄関のドアノブに手を伸ばすだけで緊張が走る。台所にいる母へ届くように声を張った。
 
「ただいまーっ!」
「えっ?」
 と、驚く母の声がする。
 
蛇口の水をキュッと止める音がして、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関まで顔を覗かせた母。その懐かしい顔に胸が熱くなる。
 
「お母さん!」
「あら、どうしたの? 忘れもの?」
「え? ──あ……えっと……急にお腹が痛くなって……」
 
そうだ。自分が別世界へと行った日から時間は止まっていたんだ。自分が戻って来たことで、時計の針が動き出したのだ。
 
「えー、大丈夫? お薬あったかしら……」
 と、母の佐恵子は居間へ移動して、棚から救急箱を取り出した。
 
アールは、痛くもないお腹を摩りながら靴を脱ぎ、母の側に歩み寄った。
 
「あったあった。えーっと……」
 と、佐恵子は薬が入っている瓶のラベルを見ながら目を細めている。「成人は……1回4剰ね」
 
そんな母を、アールは後ろから笑顔で見つめていた。本当は背中から抱き着きたいけれど、恥ずかしくてできない。いつだって“年齢”が邪魔をする。懐かしい居間の香り、母の匂いに顔が綻んだ。
 
「はい、4剰。水持ってくるからちょっと待ってなさい」
 
アールは薬を受け取り、床に腰を下ろした。その際、思わず左の腰に手を伸ばした。いつも座る時は武器の鞘が邪魔だったからだ。腰に武器がないことに気づくと、思わず笑った。
自分の家なのに、新鮮な気分がする。辺りをキョロキョロと見回して、見慣れているはずの掛け時計やテレビの配置にさえ懐かしく思う。ゴロンと横になると、ポケットから携帯電話が落ちた。こっちの世界で使っていた携帯電話だ。はっと体を起こして、メールを確認した。
 
 雪斗……雪斗に返事を返さなきゃ!
 
アールは手慣れた速さでメールを打った。
 
【今日は休むことにしたよ。雪斗は頑張ってね!
 ねぇ、今日仕事終わったら会える?】
 
メールを打ち終え、すぐに送信した。今度はちゃんと送信することが出来た。嬉しくて思わずケータイを抱きしめた。母が戻ってくる足音に気づき、急いで携帯電話をポケットに仕舞って、お腹に手を添えた。お腹が痛いふりも大変だ。
 
「はい、お水」
 と、佐恵子は水が入ったコップをアールに渡した。
 
腹痛と嘘をついた為、薬を飲むことを一瞬ためらったが、まぁいいやと口に入れて水で流し込む。
 
「今日は休むの? 仕事」
「あ……うん、ちょっと辛いかな」
 と、苦笑してお腹をさする。
「じゃあ連絡しときなさい」
「……はい」
 
代わりに連絡してくれないんだ……と思ったが、いつもの母らしくて嫌な気分にはならなかった。
 
自室への階段を上がると、自分の部屋のドアが少し開いていた。それはいつものことで、『ちゃんと閉めなさい』と母によく怒られていたことを思い出す。部屋に入ると、また懐かしさに浸る。田舎を離れて都会暮らしをしていた人が久々に帰ってきたときの感情と同じだろう。──そうそうここにはこれがあって、あっちにはあれを置いていて。
 
「あ、チイ!」
 
ベッドの上に、猫のチイが丸くなって眠っていた。アールに気づいたチイは背伸びをしてベッドから降りると、体を擦り寄せてきた。
 
「ふふっ、チイ、こんな甘えん坊だったっけ?」
 そう言いながら、チイの頭を撫でた。
 
ふと、部屋の隅に置いている姿見に目を向け、そこに映っている自分の姿に驚いた。別世界へと飛ばされる前の、家を出たときの服装だった。花柄のワンピースがまた懐かしい。髪型も、メイクも元通りになっている。思わず顔を近づけて自分の顔を見た。メイクをしている自分の顔さえも懐かしい。自分の顔を見て懐かしむのはおかしなものだけど。
 
「あれ……? じゃあ鞄は……」
 と、辺りを見回すと、洋服ダンスの横にあるポールハンガーに掛かっていた。「……変なの」
 
チイが足元に体を擦り寄せてくる。アールはしゃがみ込んでまた頭を撫でてあげた。
一階から、「ただいまーっ」と、声がして、アールは反射的に立ち上がる。
 
姉の美鈴だ。複雑な感情がわき出て挙動不審になる。部屋から顔を出して、階段の下を眺めた。
 
「あら、美鈴おかえり。珍しいわね、どうしたの?」
 と、佐恵子が美鈴と会話をする声にアールは耳を傾けた。
「帰ってきちゃいけない?」
「そんなことないわよ。まさか彼氏と喧嘩して家を出てきたんじゃないでしょうねぇ」
「ないない。順調だから……って、あれ? これ良子の靴じゃない?」
「お腹が痛いって帰ってきたのよ」
「マジ? どーせ仮病じゃないのぉ?」
 そう言って笑う美鈴の声に、アールはドキリとした。図星だったからだ。
 
アールは部屋へ戻り、ベッドに横になった。下から階段を上がってくる足音が近づいてくる。
姉のことは苦手だった。でも、今はそうでもない。姉は恋人と同棲中でなかなか実家に帰って来ず、会えなくて寂しいなど一度も思ったことはなかったが、自分が遠い別世界へ飛ばされ、一生会えないかもしれない不安を抱いたときから、姉に対する思いは変わっていった。
 
「美鈴、あんた今日仕事は?」
 と、階段を上がっていた美鈴に母の佐恵子が声を掛けた。
「休み取ったの。たまにはいいでしょ?」
「あらお母さんも今日は休みよ」
 
階段の下から聞こえる会話は、ベッドで横になっているアールの耳にまで届いている。
 
「まさかお父さんも休みー?」
「残念だけどお父さんはお仕事。でも今日は残業ないから、9時か10時くらいには帰るわよ」
「ふーん」
 と、美鈴が階段を上がってくる。美鈴の部屋はアールの隣の部屋だ。
 
アールは変な緊張から、布団を頭まで被った。──たぶん……私の部屋に来るだろうなぁ。
その予想は的中し、美鈴はノックもせずにアールの部屋のドアをガチャリと開けた。
 
「良子、寝てんの?」
「…………」
「どーせ起きてるんでしょ? 久々に帰ったんだから顔くらい見せなよ」
 
美鈴の喋り方は、いつもどこか偉そうで、以前のアールなら苛立っていたところだ。アールは気まずそうに布団から顔を出すと、笑いながら美鈴は言った。
 
「ほーら、やっぱ起きてんじゃん」
「ひ、久しぶり……」
「なーに? よそよそしいなぁ」
 
アールは美鈴が厭味でも言ってすぐ部屋を出て行くだろうと思ったが、美鈴は部屋のドアを閉めて近づいてきた。アールは体を起こし、目を逸らした。
 
「具合、悪いの?」
「まぁ、ちょっと……」
「ふーん、仮病かと思ったのにぃ」
 と、意地悪げに笑いながら、ベッドの横に座り込んだ。
「……お姉ちゃんはなんで帰ってきたの?」
「なにその言い方ー。帰ってきちゃ悪いのー?」
「そうじゃなくて……めずしいなと思って」
 
部屋にいたチイが、美鈴の膝に乗って喉を鳴らした。
 
「実はねー、喧嘩しちゃって」
「え? 彼氏さんと?」
「うん。まぁ別に浮気とかじゃないんだけどさー、マンネリ化してきたせいで小さいことも鼻につくっていうかねー」
「……順調だって言ってたけど」
「えー、聞いてたの? まぁ、お母さんにはあまり心配掛けたくないからさぁ。ね? チイちゃん」
 と、美鈴はチイを優しく撫でた。
 
──こんなにまともに話したの、何年ぶりだろう。
アールはチイをなでている美鈴を眺めた。顔を合わせればいつも嫌味を言い合っていた。久々に会った姉は、随分と穏やかになっていた。
 
「ねぇ、あんた腹痛治ったら夜みんなで食事行こうよ」
「えっ」
 アールは耳を疑った。まさか姉から誘われるとは思ってもみなかったからだ。
「嫌ならいいけど?」
「そんなことない! みんなで……?」
「うん、お父さんも今日は早く帰るみたいだしさ、こんな機会滅多にないじゃん? あ! あんた彼氏いるんでしょ? 彼も誘ったら?」
「えっ、いいの?」
「そりゃあ、いつかその彼もマジで家族になるかもしれないし?」
 と、美鈴は笑いながら言った。
 

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©Kamikawa
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