voice of mind - by ルイランノキ


 捨てた想い25…『バケモノ』

 
新たに出現したドアに手を掛けた瞬間、アールはジャックたちを思い出していた。人の命を奪うことや、人の命を奪われることの痛みと苦しみ、そして悲しみや後悔が心全体に染み渡る。
 
 お前の一生は最期のトビラにて終焉を迎えよう……
 
地響きのような重低感のある声が、アールのいる場所に響き渡った。いつまでも消えない残響が、彼女の繊弱な心をいつまでも脅かしていた。
 
──私の人生は次の部屋で終わる……? そんなことさせない。自分の人生、他人に終止符を打つ権利なんてない。
 
霧が舞い、アールを包み込んだ。視界が遮られ、高まる不安感。ギリギリと痛む胸を拳で押さえた。黒い影がゆっくりと近づいてくる。微かに鼻をついたケモノの臭い。アールは震える手で、モーメルから授かった剣を構えた。
 
 次に殺されるのは……私ってわけ……?
 
漂っていた霧が引いていく。影の正体を目の当たりにしたアールは、逃げ出したい衝動にかられた。恐怖と心細さが、握った剣を小刻みに揺らした。
20メートルはある奇怪な獣。ごわごわとした灰色の毛で覆われ、裂けた口からはボタボタと唾液を垂らしている。二本足で立つその獣の手は、人の顔を簡単に握り潰せるほどの大きさだった。
獣は両腕を掲げて雄叫びを上げた。
 
思わず身体が怯んでしまう。自信が全く湧いてこない自分。心のどこかで無理だと諦めている自分が悔しくて、涙が滲んだ。けれど、アールは直ぐに袖で拭い、しかとバケモノを見据えた。──ダメで元々。なにもしないで死ぬよりは、立ち向かって死ぬほうがまだいい。
 
剣を強く握り直し、左足で地面を蹴り上げて向かっていく。獣の唸り声の振動を体で感じた。
 
 それくらい一人でやりなさい
 
剣を振り上げながら、母親に言われた言葉が突然脳裏に浮かんだ。
 
 もう大人なんだから
 
大人だから、頼ることを許されないの? 大人になったらもう、一人で歩いて行かなきゃいけないんだね。
 
 情けない……
 
呆れたように言う姉のセリフ。なんでも出来てしまう姉には、わかりっこない。
 
 そんなことも出来ないの?
 
私は姉とは違うんだから、比べたりしないでよ。私だって私なりに一生懸命で……。
 
 しょうがないだろ。末っ子なんだから
 
父が言ったその言葉で片付けられた。末っ子だから甘えん坊でしょうがないとか、諦めている言い方だった。
 
大人になっても、人に頼りたくなることはある。大人になっても、大声で泣きたくなる日も、頭を撫でて褒められたい日もある。
でも出来ない。簡単には出来ない。そんなこと、出来るわけがない。
 
 もう大人なんだから
 
──そう。もう大人だから。
 
振り払われた獣の片腕だけで、アールは軽々と突き飛ばされてしまった。宙を舞った体は背中から地面にたたき付けられる。拭ったはずの涙が、頬を伝った。
 
「助けて……」
 
誰にも届かないこの場所で、誰にも届かない声で、弱音をこぼした。
誰にも届かないから、口に出せた。
 
 情けないね……
 
「うるさい……わかってる……言われなくても自分が一番わかってるッ!!」
 
ちっぽけな体と心。虫けらのように弾かれては体を起こして剣の刃を向けた。獣の太い腕がアールの頭上から振り下ろされようとしている。アールは全速力で獣に向かって走り交わすと、滑り込むように獣の足の下を潜って後ろへ回った。
アールの体力は、殆どない。魔力も使えない彼女は、物理攻撃を繰り返すしかない。その攻撃力も乏しい。シドのようなジャンプ力もなく、攻撃出来るのは獣の脚と地面にまで伸びた腕だけ。
獣は獲物が視界から消え、周囲を見回している。
 
 頭が悪いから、頭を使うことも出来ないや……。
 
アールは自分の情けなさと、無力さを痛感した。それでも、死ぬことへの覚悟はしなかった。息を思いきり吸い込み、奥歯を噛み締めた。剣を両手で握って力いっぱい獣の脚を斬り付ける──
獣は突然走った脚の痛みに暴れ出した。踏み潰されそうになったアールだったが、獣から離れることはしなかった。一度離れてしまうとまた近づく自信がないからだ。
耳を塞ぎたくなる獣の唸り声。斬り付けた脚からはドクドクと黒い血が流れ出している。初めて魔物を殺したときのような、罪悪感など、もうどこにもなかった。そんなことを感じている余裕もない。
 
獣は怒りで腕を振り回し反撃しようとしている。アールは暴れ回る脚を死に物狂いで交わしてゆく。一瞬の油断も許されない。そしてタイミングを見計い、再びまた同じ脚を斬りつけた。アールの体より倍はある太い脚。半分は斬り傷をつけることが出来た。
 
 シドならきっと一撃で脚を斬り落とせるのに。
 
傷を与えた左脚から離れ、重心となっている右脚へと移動する。小さい身体が大きな獣の視覚に隠れて役に立つ。ただ、体力はそう長くは持たない。
 
 シドは力が強いから一撃で脚を斬り落とせるのかな。 本当に力だけ?
 
シドの戦いぶりをよく見ていたが、力任せに魔物を斬っているようには見えなかった。確かに腕力も必要とされるだろうが、もっと軽々と、美しいと思えるほどに軽やかだった。
剣は、自分の一部と思え。──確かシドがそんなアドバイスをしていた。
 
と、その時、ふらついていた獣の脚がアールの体を掠めた。驚いた拍子に武器を落としそうになり、バランスを崩して地面に尻をついた。そうしている間に振り回された腕が巨大な振り子のように迫ってくる。アールは転げるように交わした。
 
 呼吸が落ち着かない。
 片脚だけでも斬り落とせば動きを鈍らせることが出来るのに……。
 
剣を握る手にも力が殆ど残されていなかった。その状態で斬りつけようとしても、衝撃に耐え切れず、武器を落としかねなかった。
 
 そんな力任せにしても切れないよ
 
誰かの声が思い出の記憶から蘇る。誰が言ったんだっけ。なんだっけ……なんの話をしている時の……誰の……?
 
 ほら、肩の力は抜いて、手前に軽くスーッと引くの
 
──料理だ……。記憶の中の、母の声。あまり料理を教わった覚えはなかったけど、なかなか切れない肉に苦戦して……でもなんでこんな時に。
 
アールは膝を押さえながら立ち上がり、全体重をかけて獣の右脚に剣を突き立てた。獣は叫び声を上げた。突き立てられた右脚を思いきり振り動かし、アールを蹴飛ばした。
蹴り飛ばされるときに咄嗟に両腕を構え、防護服を着ていたおかげで骨を折られるほどのダメージはなかったものの、衝撃でますます息がしづらくなった。酸素不足で頭が朦朧としてくる。しかも獣から離された上に、自分の居場所を獣に気づかれてしまった。
 
「ゲホッ……ゲホッ……」
 
胸を押さえながら体を起こすが、アールの手に武器は握られていなかった。あろうことか、剣は獣の右脚に突き刺さったままだ。獣は右脚を引きずりながらじりじりと歩み寄ってくる。最後の力を振り絞って獣に走り寄ったとしても、腕で潰されかねなかった。
アールは愕然と膝をついた。血がどくどくと流れ出ている獣の足を遠目から眺める。
 
あれを切りづらかった牛肉とでも思えって? 包丁と剣は違うじゃない。でも、滑らかに切る感覚は似ているのかもしれない。
 
獣の荒い呼吸が大きくなってくる。目の前まで迫って来る毛むくじゃらの巨大な脚。
 
──お母さん。
料理下手なあなただったけど、もっと教わっていればよかった。姉には、もっと素直になればよかった。苦手だったけど、それは羨ましかったからなんだ。お父さんとも、もっと会話をしていればよかった。いつの間にかあまり話さなくなったよね。嫌いになったからじゃないんだよ。知らないよね、私の気持ちなんか。伝えてなかったんだから。
本当は私……もっとみんなに──
 
獣は腕を振り上げ、アールを目掛けて拳を振り下ろした。地面を叩き割るような鈍い音が響き渡る。獣はゆっくりと腕を上げると、そこにアールの姿はなかった。アールは目の前まで接近した獣を目で捉えた後、力を振り絞って脚元へ走り抜けたのだ。敵から近づかせたことで、無駄な体力を使わなくて済んだ。腕を振り上げて下ろすまでの隙をついたのである。一か八かの賭けだった。自分から向かって行くよりは、その方が可能性が見えていた。
 
倒れ込むように獣の足元へ移動したアールは、休む間もなく突き刺さったままの剣を握って引き抜こうとした。──が、なかなか抜けない。今のアールには剣を引き抜く力すらも残ってはいなかった。
残り少ない力で胸に抱くように剣の柄を握り、体重を使ってグリグリと剣を動かした。
獣は苦痛の叫びを漏らし、脚を上げた。剣を抱き抱えるようにして握っていたアールは剣を握ったまま振り落とされてしまった。獣はバランスを崩して後ろに倒れ込もうとしている。アールは弱った右脚を目で捉えていた。脚を斬り落とすイメージが浮かんでくる。それは握った武器が体の一部となる瞬間だった。
 
「一休みくらい……させてよッ!!」
 
アールは血が滲み出ている獣の右脚を、重みを感じることなくスゥッと斬り落とした。巨大な獣の体はドシンと低い音を立てて後ろに倒れ込んだ。苦痛に悶え暴れる姿は迫力がある。
アールは、倒れるようにガクリと膝をついた。
 
 まだ終わってない。とどめを刺さなきゃ。
 
出血多量で死んでくれることを望んだが、脚一本斬り落としたくらいでは難しそうだ。
アールは熱い息を切らしていた。やる気がなくなってしまう前に立ち上がると、剣と一体化する感覚を忘れないうちに反対側の脚もすんなりと斬り落とした。力は殆どいらなかった。両脚を失った獣はそれでも腕だけで起き上がろうとしている。
 
「や……休ませてって……」
 
疲労困憊で重い足を引きずるようになるべく獣から遠ざかると、獣からは目を離さないようにバタリと横になった。
 
「ハァ……ハァ……ハァ……」
 
死の淵に立たされると、様々な思いが浮かんでくる。
死を覚悟した覚えはないのに、これまでの人生を振り返っていた。人は、極限に立たされて初めて気づくものがある。自分でも気づけないほど、心の遥か奥底にあるもの。
 

[*prev] [next#]

[しおりを挟む]

[top]
©Kamikawa
Thank you...
- ナノ -