ル イ ラ ン ノ キ


 4…調べ。



「せ……せんせ……すみません具合が……」

酷い寒気に襲われていた瑞江は、漸く動けるようになった身体を震わせ、席を立った。数分前には突然悲鳴を上げ、誰がどう見ても明らかに顔色が悪い彼女は、教師の児玉や周りのクラスメートの目に異常な光景として映っていた。

「あぁ……じゃあだれか一緒に……」
 と、児玉は生徒を一覧する。
「一人で大丈夫です……」
 震える声で席から離れた。その様子を有村ほのかの頭部にある眼が追っている。

瑞江は教室を出ると駆け足でトイレの個室に入り、ドアを閉める間もなく、嘔吐した。

──気持ち悪い……あれはなにッ?!

髪の毛の間から覗く充血した眼が脳裏にこびり付いている。目を閉じればそこにぎょろ目が浮かんでくる。時々瞬きをして、完全に人の眼だった。それが有村ほのかの頭部に付いている。

再び込み上げて来た汚物を吐き出そうとしたが、粘り気のある胃液だけが口から流れ落ちた。得体の知れない恐怖を払いのけることも出来ず、力なくトイレの床に倒れこんだ。自分が吐き出した汚物の匂いが鼻をつく。

暫くしてひやりとした床の冷たさに気づき、手の甲でその皮膚感覚に触れていると段々と気分が落ち着いてくるのがわかった。瑞江は個室のドアを背に、横たわっている。目の前には洋式の便器があり、その周りが黒く汚れているのを見て漸く“汚い”という感覚も戻ってきた。
むくりと身体を起こし、床に座ったまま便器に寄りかかる。また汚物の匂いに眉をひそめ、流さないとと思った。ふいに辺りが妙に静かであることに気づいた。まだ授業中とはいえ、誰の声も聞こえないのはおかしくないだろうかと耳を澄ませる。

ハァ、ハァ、と人の息遣いが微かに聞こえる。それもすぐ近くからだ。足元で何かが揺れた。黒い影が壁から床に下りてきている。人の息遣いは、影を辿った先の、頭上から聞こえてくる。

「や……やだ……」

瑞江は見上げて確かめることが出来ず。耳を塞いだ。

「やだ……やだやだやだ!!」
「だ い じ ょ う ぶ ?」
「──?!」

反射的に頭上を見遣った。ドクリと心臓が鈍い音を立てたが、個室の上から覗いていたのは同じクラスの女子、国枝いずみだった。

「び……びっくりした……」
「いや、それこっちのセリフでもあるんだけど」
「え……」
「次体育で、みんな移動したよ。先生に保健室まで赤井さんの様子を見て来いって言われて行ったけど赤井さん来てないっていうしさ。だからトイレ来てみたら誰か入ってて、ノックしたのに返事ないし、声掛けても返事ないからこっちから覗いてみようと思って。──で、覗いたら赤井さん倒れてるから何度も声掛けて、反応ないから先生呼びに行こうかと思ったら起き上がった」
「…………」

国枝は隣の個室の便器の上に立って、覗いている。

「大丈夫?」
「あ……うん、ごめん……私気づかないうちに寝てたのかな」
「まだ具合悪いなら早退したほうがいいよ」
「うん、ありがとう……」

瑞江は誰もいない教室に戻り、机の中の荷物を鞄に移し入れた。

「じゃあ私行くね」
 と、体育着姿の国枝が廊下から声を掛けた。「先生には私から言っといてあげる」
「ありがとう」

国枝を見送り、呆然と疲れきった身体を椅子に座らせた。
国枝いずみ。これまで殆ど話をしたことがなく、時々先生に楯突くところから気が強い女の子というイメージが強かっただけに、彼女の優しさが身に沁みる。

「…………」

顔を上げ、前を見た。もちろんそこには有村ほのかはいない。

「あれはなんだったんだろう……」

本当に気味が悪かった。自分の頭がおかしくなってしまったのだろうかと、頭を摩った。すると、後頭部で何かが指に触れた。ゾクリと目を見開き、恐る恐る指先でそれを確かめた。それはペリッと簡単に剥がれた。

「なんだ……絆創膏か」
 瑞江の手には丸まった絆創膏。トイレの床にでも落ちていたのだろう。

一時的なトラウマといえる。なにか怖いものや気持ち悪いものを見て不快感をきたし、もう二度と見たくないという思いが余計にそれを意識させ、警戒心が強くなるからなんでもないことも怖く感じたりするのだろう。ホラー映画を観た後にお風呂や鏡が怖くなるのと同じだ。

鞄を持ち上げ、席を立った。教室を後にして、グラウンドにいた生徒達の視線を感じながら帰り道を行く。すれ違う人と度々目が合う。人によって目の形も大きさも違う。前を歩いている通行人がいたら頭部に目が行く。髪の毛が揺れるたびにその隙間から不気味な目が見え隠れするんじゃないかと表情を強張らせた。

自宅に帰り着くと、早々と帰宅した娘を心配する母親に「具合が悪いから少し寝かせて」と言って自室に上がった。鞄を適当に床に置き、勉強机の椅子に腰掛けるとすぐにノートパソコンを開いた。検索バーに、『後頭部に目』と打ち込んでみる。しかしこれといってなんの情報も得られなかった。そもそも自分はなんの情報を知りたいのだろう。あれは本当にそこにあったのだろうか。有村ほのかの頭部に、ぎょろぎょろと動く眼が本当にそこに……。

瑞江は頭を抱えた。ありえないと思う。でも確かにはっきりと見た。それも目の前で、上瞼と下瞼もあって、中に眼球があった。それは意識を持っていて、“私”を見ていた。見間違いなんてことはない。でも現実に彼女の頭部に眼があったら、席替えをする前に有村ほのかの後ろの席だった子が気づくはずだ。後ろの席じゃなくても、クラスの誰かが気づいているはずだ。でも誰もそんな様子はない。あんな気色悪いものを見て平気でいられるはずがない。

「……幻覚?」

もしかしたら幻覚かもしれない。現実的に考えればそれが一番妥当だ。『幻覚』で検索をし直してみると、麻薬・精神病・ストレス障害などといった言葉が出てきた。麻薬なんかに手を出した覚えはない。精神病? ストレス? 幻覚を見てしまうほど悩んでいたことなどない。
検索結果の一覧をスクロールしていき、もっと詳しく調べてみる。正常人でも、時に幻覚を見る場合もあるようだ。ただそれは感覚遮断に近い状態であることが条件らしい。教室内は席替えに文句を言いながら机と椅子を持って移動している生徒たちが騒がしかった。一致しない。

脳の病気は考えられないだろうか。

瑞江はなにかに取り憑かれたかのように目じりを吊り上げ、額に汗を滲ませながら検索キーワードを打ち込んだ。すると──

アルツハイマー症・ハンチントン舞踏病・ウイルス性脳炎・統合失調症・てんかん・脳腫瘍・脳血管性認知症・進行性多巣性白質脳症・レビー小体型認知症……

「や……そんな……」

検索すればするほど、聞いたことのない病名がわいて出てくる。その症状は当てはまらないものが多いものの、幻覚を伴う可能性があるというだけで瑞江の不安を酷く煽った。

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©Kamikawa
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