周りが試合開始の合図と共に動き始める中、俺はその場から動くことができない。目の前であの嫌な笑みを浮かべている男が恐怖心を抱く。なぜこの男がこんなに怖いのか、まったくわからない。自分の汚いところまで見透かされたような気がして、全身を隠してしまいたい衝動に駆られる。

「そないに怯えて…かわいそうやんなあ…」
「…怯えてなんか…」
なんとか虚勢を張り言い返す。

自分の武器を強く握り直して、目の前の男を睨みつけた。
俺は、シキの役に立ちたいんだ。こんなひょろっちい男に負けている場合ではないのだ。

「あの平凡がそんなにええか?」
「え?」

また俺の考えていたことを見透かされた気がして、情けない声が漏れた。

「あの平凡の側におっても、なーんもええことないやろ」
「そんなことない」

即答する。お前に何がわかるというのだ。

「君の周りは優秀な子ぉばかりやし、平凡の傍に君はいらんのとちゃう?」

否定できなかった。シキは第七師団三番隊隊長だ。
元々クロは自警団の人間だったから、俺の護衛が終われば戻っていくだろう。
シノは機械に強いし、頭が良いからシキにとっては欲しい人材なのではないか。

…じゃあ、俺は?

成績は悪い訳ではないが、シノには負ける。俺ができるのは、猫を被って上手く人の間をすり抜けて生きていくことだけ。飛びぬけてできるものが、ない。

だからこそ、シキが学園にいるあいだ少しでもサポートできるように、自分のために手に入れていた権力をシキのために使いたかったのだ。

「君は君らしく、いればええのに」
うるさい
「もう疲れたやろ」
うるさい
「お家もいろいろ大変やもんなあ」

「うるさい!!」

息を吸うたびに肩が上がり、心臓の音が耳元で鳴っている。握りしめた手の内は汗で濡れていた。悔しい、なんでこんな男に踏み抜かれなきゃならないんだ。
早く目の前の男に勝って、この場を去りたいのに足が上手く動かない。

さらに言葉を続ける男のせいで、上手く前が向けない。
「君は役に立たへん臆病者で」
ちがう
「大事な友人を守ることもできへん」
俺だって
「挙句の果てに、自分の身ィかわいさで友人をも売る」
そんなつもりじゃなかった…!
「それが人間やで」
少しトーンが落ちた声。ハッとして顔を上げると、男の憐みを帯びた表情が見えた。
「君は”普通”の人間だっただけで、何も悪人になったわけやないで」

「友人を裏切ったわけやない、君はもともとそんな人間やっただけで相手が勝手に期待していただけやろ」

「背伸びはよくないで」
すでにひび割れていた地面が、ボロボロと崩れ落ちていく感覚に襲われる。手を伸ばせば伸ばすほどに光が遠ざかっていく。

「ノアッ!!」
諦めた手の先を引っ張り上げられ、光に包まれる。

そこは、暗闇の中ではない。講堂のステージ上で、今は実戦授業の決勝トーナメントの真っ最中だ。

俺の伸ばした腕を掴んでくれたのは、シキだ。
またしても、シキに助けられてしまった…感謝と同時に、自虐がこみ上げてくる。

「ノア、俺はお前が利用できる人間だから、仲良くしているわけじゃない」

あの男を睨め付けたまま、シキは俺に向けて言葉を発した。彼の小さな背中を見つめて、縋りつきたくなるのを必死に堪える。

「お前が猫被って、上手く生きているのもわかってるし、ホントは良い性格なのも知ってる」
「なっ…」
「いくらぶりっこしてたって、人に助けてって言うのが下手なことも」
「…」
「お前は俺の友達だろ…俺がお前を助けることに理由なんてない」

俺はその一言がほしかったのかもしれない。理由もなく、ただ俺を見つめてくれる人。

「あちゃあ…解けてしまったなあ。平凡君、お前ほんとめんどくさいわ」
「いい加減、俺の周りをコソコソと嗅ぎまわるのはやめろ、ハス。他人の尻尾ばかり追ってると、自分の尻尾が掴まれるぞ」
「そりゃ、堪忍やわ」

両手を上げ、降参のポーズをした男。周りを見れば、シノとクロの足元には、図体のでかい男が二人気絶させられており、離れたところにも男がひとり転がっている。

その瞬間、相手チームの負けが認めらた。
あっさりと終わってしまった決勝戦に、観客席からはブーイングが上がっている。

「ノア、大丈夫か」

駆け寄ってきてくれたシノとクロの顔が上手く見れない。羞恥心に襲われ、顔を上げることができなかった。この試合で俺ができたことは何一つとして無い。

シキが俺に言ってくれた言葉を反芻し、泣きそうになるのを堪え、いつもの猫を被って笑った。
「うん、僕は大丈夫!みんなごめんね?」
「ばーか、ごめんじゃないだろ」
「あ、ありがとう…?」
ハハッと軽く笑ったシノにつられて俺も笑う。クロの方を見ると、微笑まれその目で「よかったな」と言われた気がした。俺の傍にずっといてくれたクロ。俺なんかの傍でずっと護衛してくれていたクロを見て、ちょっと泣きそうになった。

シキにもお礼を言わなければと、後ろを振り返る。

「シキッ…!?」
痛みを耐えるようにうずくまるシキがいた。制服の襟元から見える白い首に、なにかが這ったような黒い跡がついている。異変に気が付いた周囲が騒ぎ出し、近くにいたクロがシキを背負って保健室に連れて行く。

それを見ていた糸目の男が、口元を隠すことなくにっこりと笑っているのを見た。


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