約四年前、この国そのものが謎の病に犯され、突然苦しみから解放された。だからと言って止まった時間というのはあまりに長く、豊かな国は一気に衰退した。謎の病は人間の身体だけではなく、国のすべてを蝕んだ。
 玉得 前(タマエ マエ)…この男もまた職を失い、放浪しているところを現在の勤務先でもある学園の理事長に拾われたと言っても過言ではない。

「あ、前くん。これから本棟に行くの?」

 国語科準備室のある旧棟と多くの生徒・職員が利用する本棟の間には草木が生い茂っており小さな森と化している。ちゃんと人が通れるような小道があり、そこを歩いていると正面から歩いてきた男に話しかけられた。

「長谷(ハセ)理事長…」

アラフォーのくせに若々しく、上等な着流しの着物を着た男。玉得が流浪していた四年前から世話になっている人物であった。縁の細い眼鏡はキツい印象を与えるが、話し口調は柔らかくこちらの毒気を抜かれてしまう。

「森先生に呼ばれてるんで…なにか急ぎ用でしたか?」
「クス、また前くん、怒られるようなことしたの?」

 三十の男をファーストネームでしかも君付けで呼ぶなんて痛いが、今更である。
 そう言ってニコニコとしている理事長の手には、なにか箱が入った手提げ。玉得の視線に気が付いたのか、理事長は目元を綻ばせて、中身の箱を出した。

「えへへ、お客さんから美味しいお菓子をもらってね。丁度良いお茶があるから一緒にどうかなって誘いに来たんだけど」

おじさんにしては随分とかわいらしい誘いに、周囲の人間は「もうしょうがないですねえ」と言ってしまうことがしばしば。しかし、今の玉得には無理な願いである。

「……あとで理事長室に向かうんで、待っててくださいよ」

玉得は、少しめんどくさそうに溜息をつき、返事をする。「じゃあ待ってるね」と少しスキップ気味に元来た道へと戻っていく理事長の背中を眺めて、玉得はまた溜息。

 普段はその優しそうな目元を、さらにふにゃふにゃにしている理事長だが、ああ見えてあなどれない人物なのだ。

『僕と一緒においで』

 雨すら降らなくなってしまったこの国の空は暗く、不気味な月がこちらを見ていた。道に人が倒れていても素通りする人間。細い路地に入れば、犯罪がそこかしこに落ちている。自分がするべきことをただひたすらにやっていただけなのに、自分の手にはなにも残っていないという絶望感を背負って、ただひたすらに夜の街を歩いていた。

『あなたについていけば、俺は変われますか』

 今思えば、あの時と寸分変わらない容姿の男に手を差し伸べられた。理事長に、「実はぼく不老不死なんだよね」と言われたら信じてしまうかもしれない。

『うーん、それはどうかな。君次第。…でも、このままここにいたい?』

 気が付けば男のあとを縋りつくようについていっていた。そこから、教員免許をとるために四年間勉学に励んだ。生まれて初めて、学校というものに行った。新鮮だった。
 いつの間にか、国一番のエリート校の非正規雇用教員として働いている。

 玉得 前、三十歳。好きなものは納豆ご飯とわさび。嫌いなものは朝。今から、三学年主任に怒られに行く。時計の針は「日常」をまわっている。



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