「ただいま…」
夕食の時間だ、みんなで飯の時間だろう。静かに扉を閉めて、自室がある二階へと上がっていく。自室と言っても共同部屋だが同室者は今頃下の階で飯を食べているはずだ。
疲れた。昨日、今日と色々起こりすぎて感情がついていけない。
明日もあの男のところに行って、後ろを開発されてしまうのだろうか。
俺は自分の両親が死んだことも、親戚にたらい回しにされて結局児童養護施設に預けられていることも、自分のDom性が嫌いなことも悲観したことはない。
そりゃちょっとツイてないのかもしれない、と思うけれど。しかし、これ以上の地獄があったとは思わなかった。
両親が死んだ時なんてまず実感もなにもわからなかったから、涙なんてでてこなかった。でも、今自分がこんなにも泣きそうになっていることに腹が立つ。肉親の死よりも自分の身かわいさで涙を流すなんて、クソ野郎にも程がある。
「…しゅん兄?」
この部屋には俺一人しかいないはずなのに、弟の声がし振り返る。
弟と言っても血の繋がりはないが、俺の同室者であり、弟のような存在。俺はいつも通り笑みを浮かべた。
「ただいま、陸(リク)」
陸はやすらぎ園での滞在歴でいえば、俺よりも先輩だ。陸は高校二年生で、俺と一歳違い。兄なんて呼ばなくてもいいと言ったことはあるが、それでも頑なに俺のことを兄と呼ぶのだから、陸にとって俺は「兄」なのだ。
「どうして泣いてるの?」
暗かった部屋に明かりがついた。部屋の入口に立っている陸が電気をつけたのだろう。
しかし、その気遣いは今の俺にとっては酷だった。
「最近花粉が酷くてな、鼻水が止まんねえんだ」
そう言うと陸は、少し泣きそうな表情をした後に「そう」とだけ残して部屋を出て行った。
その晩、陸が部屋に戻ってくることはなく、俺は久しぶりに一人の部屋で寝ることになった。先程扉の前で物音がしてため扉を開けたら、夕飯の乗ったお盆が置いてあった。
弟の優しさだった。
食べた生姜焼きは少ししょっぱかったが、美味かった。
一人じゃ眠れないなんて子供じゃあるまいし、と思ったがやはり眠れない。いつもなら向かいの壁にあるベッドの上には陸がいるのに、今日は他の子の部屋で寝ているのだろう。
俺がここに来たばかりの時の記憶はあまり覚えていないが、陸と初めて会った時のことはよく覚えている。
俺よりも小さな男の子。俺達のような子供は常に大人に対して気を張ってしまう。それは仕方がないことだった。しかし、陸はそれ以上に人間という生き物に警戒し、怯えていた。
当時は俺もガキンチョだったから、そんなことわからない。人間に怯える子供との正しい接し方なんてわかるわけがなかった。
気配りのできる優しい陸は、今はもう身長も伸びて俺さえも抜かしそうなほどにデカくなった。兄として誇らしい。
一人の夜がこんなにも感傷的になるなんて、俺は知らなかった。カーテンの隙間あから漏れる月光が眩しくて布団に潜った。
ちょっとだけ、泣いた。
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