Dream | ナノ

Dream

ColdStar

Engagement

2059年、極東。
その日、彼は――6歳のソーマ・シックザールは父であるヨハネスに連れられてフェンリル極東支部の一室にいた。
以前からこうして世界中の支部に連れて回られ、あれやこれやと検査をされるのはソーマにとっては慣れっことなっている事態ではあった。この極東支部にだって、来るのは初めてではない。
とは言え、何やら検査をされてほったらかしにされて……時に厳しい言葉を投げかけられるだけのこの場所が、このときのソーマはあまり好きではなかった。

 ――あなたのおかあさん、あなたのせいで……

以前にどこかで投げかけられた言葉をふと思い出し、ソーマは膝の上で掌をきつく結んだまま俯いていた。
この極東支部にいる間はその顔を決して上げることなどない――はず、だった。

「こんにちは」

聞こえてきた声にソーマが返事を返すことはない。同じように俯いているままだったソーマの耳に、もう一度聞こえる女の子の声。こんにちは、と。
もう一度聞こえた所でソーマの取る行動など変わりはしない。顔を上げもせず、答えることもなくただ座っているだけだった、が……不意に近づいてくる足音と気配、そしてソーマの耳はぐい、と誰かの手によって強く引っ張られていた。

「へんじ」

聞こえた声は先ほど自分にこんにちはとかけられた声と同じ。それに気付きはしたものの、ソーマはやはり口を開くことはなく……ただ、自分の耳を引っ張る手を振り払って視線だけを自分に声をかけてきた女の子に向ける。
きっとソーマが彼女に向けていた視線は相当に厳しかっただろう。だが、自分の方を向く翡翠色の瞳はきっとソーマのそれと同じくらいに厳しいようにソーマには見えていた。
その視線を真っ直ぐ向けたまま、女の子はもう一度口を開く。とても静かなようで、それでいてその奥にはっきりとした怒りの感情を秘めた声がソーマの耳には届いていた。

「あいさつされたらへんじしなきゃだめっておとうさんが言ってた」
「知らねえ」

しつこいな、なんて考えながらソーマはそれだけ言って再び目を反らす。
不満そうに唇を尖らせる彼女の表情はソーマには見えていなかった、が……気付けば、ソーマが座るスツールの隣に気配が移り、ソーマの視界の端で藍色の髪がゆらりと揺れた。

「君も『けんさ』?」

投げかけられた問いかけに、ソーマはやっぱり答えない。だが再び視界の端で藍色の髪が揺れ、ぐいと再び耳を引っ張られた。そしてまた聞こえる、へんじ。という短い言葉――このまま黙っているわけにはいかないのだろうな、なんて考えて、ソーマは小さく頷いてみせた。ソーマがここに検査を受けに来たのは間違っているわけではなかったし。

「わたしも」

ソーマの頷きに短く返された言葉は、その意味をソーマの幼い頭脳に伝えることなく耳からただの音として抜けていく。
別に彼女の話を聞いてやっているわけではない。ただ、黙っていてまた耳を引っ張られでもしたらかなわないとぼんやり思っているだけのことではあったが――そんなソーマの耳に届くのは、返事を待っているわけではなさそうな、彼女の言葉。

「おかあさんがびょうきで、おかあさんのびょうきがわたしにうつってないかときどき『けんさ』してる」
「びょうきでも……生きてるんだろ」

彼女の言葉は無意識に幼いソーマの心を抉る。
ソーマの母親はソーマを生んだことで、ソーマのせいで命を落としている。それに比べれば、病気だと言っても両親が揃っているというのならその方がよっぽど幸せじゃないか、なんて。
ソーマの言葉の意味は上手く伝わらなかったのだろうか。女の子はえーと、と短く考えるように口にして、それから更に言葉を紡いでいた。

「おれのかあさんは……おれをうんだせいで」

その先を口にすることは出来なかった。
自分に聞こえないようにしているのだろうか、小声でも確実にソーマの心を抉り続けていたその言葉を自分で口にすることなんて、幼いソーマに耐え切れるはずがなくて。
幼い子供がふたりで抱えるには相当に重いはずの沈黙はそれでも、ソーマの隣にいる女の子には伝わりはしなかったらしい。

「おかあさんも、わたしをうんでからびょうきがわるくなった。いっしょだ」
「いっしょじゃねえよ」

一緒になんてされてたまるか。その言葉はソーマの口から出てくることはなかった。

「いっしょだよ。おかあさん、わたしに言ってた。おかあさんのびょうきがわるくなったのはわたしのせいじゃないんだ、って」

目を反らしたままのソーマの耳に届くのはどこか無邪気で、それでいてどこかませているようにも聞こえる女の子の言葉。
何を言おうとソーマの心が動くはずなんてない。……はず、だった。

「だからね、えーと」

何を考えているのか一度首を捻った女の子の口から続いた言葉は再びソーマの耳に飛び込んでくる。
子供特有の無邪気な残酷さと、同じくらい無邪気な優しさを持って。

「君のおかあさんがなんなのか、わたしには分からないけどそれはたぶん君のせいじゃないんだ」
「……うるせえ」

初めてだった。
周りにいる子供たちにだって、母親が死んだのは自分のせいだと聞いたなんて言葉を投げかけられ続けて、傷つけられ続けてきた自分にそんな言葉を投げかけてきた人間は今まで周りにはいなかった。
そんな人間が存在することそのものを、そのときの――今までに見てきた世界が全てだったソーマには信じることが出来なかった。だからそんな、短い言葉で彼女の気持ちを跳ね返してしまったけれど。
君のせいじゃない――その言葉を聞いたとき、ソーマの心の中に僅かに芽生えたあたたかい気持ちの意味を理解するにはそのときのソーマはまだあまりにも幼すぎた。

「藍音」

自分の中にある、自分が今まで感じたことのないような気持ちにソーマが僅かに抱いた躊躇いをどう言葉にしたらいいのか分からずにソーマが再び目を伏せたのと、遠くから誰かの声が聞こえたのは殆ど同時。
男性のその声に、自分の隣に座っていた女の子はスツールを飛び降りて声の主の方に駆け寄る。

「おとうさん、おはなしおわった?」
「ああ。早く帰ろう、お母さんも兄ちゃんも待ってるからな」
「うんっ」

そのまま、一度遠ざかりかける足音。だがすぐにソーマの耳に、離れていきかけたはずの足音が届く。
それに釣られるように顔を上げたソーマは、目の前にあった女の子の笑顔が真っ直ぐに自分を捕らえていることにやっと気付いていた。

「またね。こんどは君のおかあさんのこともきかせて」

彼女の言葉に、ソーマは黙ったまま目を反らす。だがすぐに聞こえる言葉――へんじ、と。
目を反らしたままのソーマが彼女に向けて呟いた言葉は……

「……ああ」

自分の心とは裏腹のようなその言葉に一番驚いていたのはソーマだった。
嫌だと突っぱねるはずだったのに、どうしてそんなことを言ってしまったのかソーマには自分でも分からないまま……じゃあね、という短い言葉と共に再び遠くなっていく足音に耳を傾けていることしか、ソーマには出来なかった。
それからややあって開く扉の音。それに顔を上げるとそこにあったのは……ソーマの父、ヨハネスの姿。

「待たせたな。行くぞソーマ」

先ほど彼女を呼んだ彼女の父親のそれとは違うどこか冷たい呼びかけは、何故かあたたかくなりかけていたソーマの心を再び冷やすには十分すぎた。
だがそんな感情を口にすることはなく、ソーマは立ち上がって父親の傍らへと歩み寄る。歩き出したヨハネスの隣で自分も足を動かし始めたソーマだったが、ふと「あること」が気になって顔を上げ、自分よりも遥か高い所にある父親に真っ直ぐに視線を向けた。

「あいつのかあさん、何のびょうきなんだ」
「櫻庭の娘と会ったのか」

ヨハネスが放った言葉はソーマの問いかけの返事にはなっていない。だが、僅かの静寂の後にヨハネスは再び口を開く。
その言葉は多分、幼いソーマに理解など出来ないだろうと思っているのか……父がわが子に告げる言葉としてはあまりにも淡々としすぎている。ただ、それが当たり前になっているソーマはそのことに取り立てて何かを思うわけではなかったが。

「アラガミが現れた頃に僅かな数ながら発生した奇病がある。研究をしていく中でアラガミが発生したことによる目に見えない環境の変化に身体が適応できなかった、一種の環境病だと判明している。そして、あの娘の母親はアラガミ発生直後に仮称アラガミ環境病を患っている」

いくつかの言葉の意味は難しすぎて、6歳のソーマに理解することはできなかった。ただなんとなく、その病気の遠因にアラガミがあるのだと言うことがなんとなく伝わってくるだけで。
勿論ヨハネスの側もソーマが理解できると思って話しているわけではないのだろう、その言葉はまだ淡々と続いていく。

「アラガミそのものへの対策のほかに、仮称アラガミ環境病が遺伝するのかどうか……それを確かめる必要があった。だが、あの娘を調べる限り仮称アラガミ環境病に遺伝性の性質は認められない。また、産まれたときからアラガミの存在する環境にいる人間にはある種の免疫が出来ていて今後新たな発症者が出る可能性も否定された。それが、6年間あの娘の検査を続けてきた結論だ」

やはりヨハネスの話はソーマには難しすぎて全てを理解することなどできなかった。
ただ、あの女の子がフェンリルに何かの検査を受けに来て、その結果何かが分かったのだと言うことがうすらぼんやりと伝わってくるだけ。

「後は今発症している人間の延命措置についての研究が進めばそれでいい。あの娘の役目はひとまず終わったよ」
「じゃああいつ、もうここにはこないのかよ」

ソーマの問いかけにヨハネスはああ、と短く答え……それに対してソーマが何かを言うことはない。
だがソーマの心の中だけで短く言葉は続いていた――うそつき、と。
またね、と言ったのは彼女の方だったのに、もう彼女がソーマの目の前に現れることはない。折角、気が向けば彼女が聞きたいと言った自分の母親の話をしてやってもいいと思っていたのに。

「みんな、きらいだ」

僅かに光が差しかけた、その光を瞬時に奪われたことで余計に頑なに閉ざされたソーマの心。
彼の言葉の意味はきっと誰にも――血を分けた父であり誰より近く、隣を歩くヨハネスにも伝わらないままなのだろう。


嘘になってしまった約束が幼いふたつの心から掻き消えて……本人たちすら与り知らぬままに果たされるその日まで、あと12年。


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