昔、父親が死んだ。
 フーの父親は、山中いのいちに負けずとも劣らぬ優秀な心転身の術の使い手であった。
 山中いのいちとは従兄弟関係にあり、一人っ子の彼にとっては兄弟も同然の存在だったらしい。父の殉職を惜しんだのは、フーより、母親より、いのいちだったかもしれない。尤も、当時フーは五才になったばかりの幼子だった。情緒は未発達だったし、悲しいと思うほどの思い出もない。

 父親について思い返すと、まずフーの脳裏にはこんもりと膨らんだ布団の図が浮かび上がる。
 任務に次ぐ任務で一年の殆どを里外で過ごす父は、たまに帰ってきても、任務中の気苦労から休んでいるのが常だった。全身を布団のなかに潜り込ませ、神経質に惰眠を貪る。
 真綿で出来た繭から少し距離を置いて、フーはいつも貝のように口を噤んで、大人しくしていた。眠る父親を揺さぶって起こすどころか、放任主義の父親に駄々をこねたこともない。
 フーは産まれてこの方、ただの一度も“子どもらしい甘え”を口にした覚えがなかった。元々寡黙な性質だったのもあるけれど、それにも増して母親から厳しく躾けられていた。「お父さんはこの里を影から支えていらっしゃるのよ」という言葉を、一体何度聞かされただろう。
 母親にとって、フーが父親を煩わせることは“とんでもない大罪”の一つである。そして幼児の殆どがそうであるように、当時のフーにとっても母親は絶対的な存在だった。

 物心ついたときには既に、フーは“父親の妨げになってはいけない”と強く感じていた。
 それは何もフーが“子どもにしては卑屈だった”とか、もしくは“父親に構って貰えなかったことを不貞腐れている”わけではない。フーは聡い子どもだった。両親が生きる上でフーを必要としていなかったのは、主観による勘違いではなく、疑う余地がないほど確かな事実だった。
 母親は世間一般に有り触れた“母親像”を真似ようと腐心していたものの、それでも言葉の端々にフーに対する苛立ちを滲ませた。客観的に鑑みて、フーは可愛げのある子どもではなかった。母親がフーを心底“可愛い”と思えなかったのは、きっと、その程度の理由なのだ。不運な事には、フーの母親は幾らか幼稚なひとで、夫を心から愛していて、専業主婦という職業に誰より不向きなひとだった。母親にとってのフーは、自分を家庭に縛り付ける重石だったに違いない。

 その一方で、母親はフーの聡明さを“夫に似ている”と言って愛した。
 愛したとはいえ、身勝手な愛情である。母親はフーに厳しかった。同い年の子どもたちが屈託なく遊具や玩具で遊んでいる間、フーは血豆が出来るほど手裏剣術の修行に励んだ。
 母親はフーに修行を付けるとき、一切の手抜きをしなかった。
 忍術の基礎を根気よく教え込み、体術理論を細々と説いて、毎日何らかの目標を課された。そして、目標を達成出来なかった日は夕飯を抜かれる。尤も忍才のあったフーが母親から課される目標を達成できないのは稀で、空腹を持て余すのは“わざと無理難題を押し付けられる日”に限った。
 幼稚な母親には、我が子を妬む気持ちがあったのだろう。夫に似て聡明な我が子を愛すると同時に、自分を踏み台に成り上がっていく我が子を妬んだ。つくづく面倒くさいひとだ。

 母親はフーのことを愛していたし、嫌っていたし、妬んでいたし、疎んでいた。
 とことんまで複雑な情緒を有する母親は、フーにとって厄介な存在だった。今になって「母親に翻弄されるのが辛かったか」と聞かれても、フーにはわからない。“如何でも良かったんじゃないか”というのが嘘偽りない本心だった。フーは母親のことも父親のことも、如何でも良かった。
 多分、自分は産まれついて不感症なのだ。フーは思う。それ故に母親は自分を愛せなかったのだ、とも。母親に自分の面影を見いだせなかったから、フーは父親のなかにそれを探そうとした。
 産まれついて不感症の――人として欠陥のある自分が如何生きるべきか、その指針を欲した。
 父親に抱いた“自分を導いて欲しい”という渇望がフーなりの“愛情”だったと言うなら、それはそれで間違ってはいないだろう。そうやって堂々巡りを続けたところで、フーはその正否に然したる関心がなかった。答えを見つけたところで、もう二度と“過去の自分”は満たされないからだ。

 父親の死から少し経って、彼が“根”という組織に属していたことを知った。
 精神的支柱を失ったことで母親は荒み、小さい家のそこかしこに不穏がはびこっていた。フーに修行をつけなくなったのは勿論、食事もカップラーメンや惣菜類で済ます。
 元々フーは母親の手料理が好きではなかった。料理音痴の嫌いがある母親の手料理より、スーパーのお惣菜のほうがずっと口に合う。フーは半ネグレクトにも、淡々と順応した。流石に最低限の衣食住は保証してくれたので、母親が悲嘆に暮れようと、フーの生活には何ら支障はない。それでも、フーの生活には常に母親の掠れた泣き声が付き纏った。影法師のように、ぴったりと。
 襖一枚隔てた隣の部屋で、母親が泣いている。幼いながら、そう思うと嫌な気持ちがした。母親が不憫だとか、父親を失ったことへの悲しみがあったわけではない。かつての母親が自分に“母親”を強いる我が子を疎んだのと同じで、“哀しみ”を強いる母親が疎ましかった。
 そういう諸々のことを見抜かれていたのだろう。香典を供えに来ただけのダンゾウが、父親について――“根”について語ってくれた。子ども相手に話すには不自然なほど微に入り細を穿つ。
 “根”には就学前の幼児から三十代のベテラン忍者までが属し、表に出回らない任務をこなす……もしくはこなせるよう、日夜修行に励んでいる。構成員には孤児だった子どもも少なくない。本拠地には寮があり、身よりのない子どもはそこで暮らす。もし里内に帰る家があっても、希望するなら部屋を貰える。フーは年よりずっと聡明で、父親と同じかそれ以上に優れた忍者になるだろう。もしもフーにその気があれば、今すぐにでも“根”の一員として招き入れたい。
 母親は無気力で、幼い我が子を引き留めようとはしなかった。それがフーの人生を決定づけた。

 アカデミー入学の少し前、フーはダンゾウに誘われるまま“根”に属した。
 それ以来、フーは“山中フー”としての人生と、“根の構成員の一人”としての人生を使い分けて暮らしている。父親の死で心を病んだ母親は無口になってしまったけれど、二重生活を送るには却って好都合だった。原則的に、“根”の構成員は“自分が根の一員だ”と明かさずに暮らすことになっている。それ故に日常生活において“根”と無関係な人物像を演じることを求められたが、元々里内に暮らすフーにとって、それは容易なことだった。アカデミー生も、下忍も、そう多忙ではない。時折家へ帰り、親類の前で“普通の子ども”を演じるだけで、フーの二重生活は呆気なく成立した。
 ダンゾウの見込み通り、適性があったということだろう。フーは“根”の構成員としての生き方が好きだったし、“山中フー”として振る舞っている時の自分は“まやかし”だとさえ思っていた。
 父親の死後も何くれと無く良くしてくれたいのいちや、その娘のいのには幾らかの情がある。しかし、それ以外の人間は、アカデミーで出来た友人も、同班の仲間も、母親も、皆如何でも良い。

 “根”に属する人間は、何れもフーと似たり寄ったりの変人だ。
 変人の例に漏れず、フーは幼い頃からずっと“ここは自分の居場所ではない”と感じて生きてきた。その違和感が“根”に属することで拭われたのを鑑みるに、フーは恵まれているのだろう。
 産まれついて不感症な自分は、人間としての何かが狂っている。それは製造不良で、パズルの枠にきっちり収まらないピースと同じ。自己卑下でも何でもなく、フーはそんな風に考える。ダンゾウのおかげで、フーはどんなに努力しても完成することのないパズルから解放されたのだ。
 ダンゾウの理想に従っている時だけ、フーは“自分の生”を実感することが出来た。

 ただまあ、それで何でもかんでも言われるままに引き受けたのは無策過ぎたかもしれない。
 己の浅慮についてぼんやり思い馳せながら、フーは立ち尽くしていた。目の前には、両手を腰に当て、偉そうに踏ん反り返ったセンリがいる。三十分前からずっとだ。飽きないのだろうか?
 式台と三和土の高低差から、ほんの少しだけセンリを見上げる形になる。
 フーは無論年も背丈もセンリより上だったが、彼女を見上げるのには慣れていた。勿論フーは、自分の視線が上だろうと下だろうと如何でも良い。しかし妙な矜持を拗らせているセンリは、どうしてもフーを見下ろしたいらしい。フーの第二次性徴期が始まって以来、やたらと三和土で足止めされるようになった。それでセンリが満足なら、フーは構わない。そもそもこの世の殆どのことを“如何でも良い”と感じるフーにとって、センリの駄々もまた如何でも良いことの一つだった。
 その“如何でも良い精神”のせいでまたセンリの駄々に巻き込まれるのだけど、根本的に主体性に欠けるため、如何あしらったらよいものが見当もつかない。それで結局「任務に差し障るわけでもない」と流されてしまうのが常だった。負のループと言う他ない状況が完成されている。
 相手がダンゾウのセンリで、そもそもダンゾウ経由で出会ったからという理由もある。それでもいい加減、長期任務から帰ってきて早々振り回されるのは些か鬱陶しい。

「遅い」
 フーの心中などどこ吹く風で、センリは本日百六十七回目の“遅い”を口にした。
 飽きないのだろうか。百六十八回目の“遅い”を漏らすセンリを見上げ、フーは心底呆れた。飽きないのだろう。自分で結論を出す。フーは些か自己完結癖があった。悲しいかな、センリは語彙に乏しい。実際に量ってみたわけではないから確たることは言えないものの、フーはそう思っていた。“遅い”と言うことに飽きていたとしても、他に思いつかないのだろう。
 フーの嘲りを見抜いてか(そんな時ばかり勘が良い)、センリが醜く顔を引きつらせた。
「如何してそんなに遅いのよ。あなた、私が呼んだ時もう火の国に帰ってたでしょう。しかも西部大橋も越えてたのに、何故二時間で帰ってこれる道のりに倍近く掛かるの」
「班員の手前、下忍らしくない振る舞いは出来かねますので」
「あっそ。そんなの如何でも良い。一々言わなくても、分かってるわよ」
 自分が聞いたくせ、センリはフーの言い訳を理不尽に払いのけた。

 じゃあ何だったら如何でも良くないのだろう。フーは思案した。分からない。
 ダンゾウの手で引き合わされてから四年が経つものの、フーは未だにセンリの考えていることが読めなかった。センリは我儘で、身勝手で、尚且つ奔放である。それでも彼女の価値観が世間一般の価値観と近しければ幾らか理解の糸口はあるものを、センリは有り体に言って“変人”だった。フーは特別女子の知り合いが多いわけではないが、彼女と同学年の親戚・山中いのと比べてみても、やはりセンリは“ごく一般的な女の子”の範疇に収まっていないように思う。
 そもそも、ごく一般的な女の子は養父に血道を上げないし、長期任務の帰途にある人間を捕まえて「今すぐうちに来て、早くして」としつこく喚いたりもしない。やはり変人である。
 尤もアカデミーを卒業したばかりの未熟な体で四時間近く継続して“霊化の術”を使う根性は敬服に値する。フーの使う“心伝身の術”より習得が容易であるとはいえ、やはり誰しもに使える忍術ではない。まあ、そもそも“ハイリターン・ハイリスク”な性質から禁術指定されているのだが。

 “霊化の術”は原則的に暗殺に用いられる忍術だが、術者次第では“心伝身の術”に近い使い方も出来る。ただし“心伝身の術”とは違って、同時に複数の相手に働きかけることは不可能だ。尚且つ放つ霊体は術者の意志の強さに依るところが強いため、発動中は些細な動揺や怒りが命取りになる。
 センリが好き放題ストーキングに用いている通り、“霊化の術”は極めて利便性の高い忍術の一つだ。印も簡単で、適性さえあれば幼児でも使うことが出来る。増して空間的距離に縛られないことから、“霊化の術”は“心転身の術の上位互換”とも称される。それだけのメリットがあるにも拘わらず、その忍術を得手としていた忍者は加藤ダンただ一人。センリの伯父にあたる男だ。フーが産まれるずっと前に死んだので細かい人物像は分からないものの、泰然自若とした人間だったのだろうことは容易に想像がつく――さもなくばセンリのように度を越えた自己中だったかの二択だ。

 一度肉体の外に放たれた霊体は、些細な動揺や怒りで帰路を見失ってしまう。
 霊体を失った肉体はどれだけ手を尽くしても三日と経たずに生体機能を失ってしまうし、帰路を見失った霊体はその“霊体”を維持するために必要なチャクラが枯渇して消滅する。
 自分は大丈夫。そんな軽い気持ちで試した忍者が次々と命を失い、いつしかリスク回避という理念の下で禁術指定されてしまった。この里の人間で“霊化の術”を知っている人間自体、センリたちの親世代が最後なのである。血縁に伝わっているのではないかと思う人間がいたとして、喜怒哀楽の激しいセンリに使いこなせるなどと誰が考えるのか。困った事に使いこなしているのだが。
 フーにしてみれば四時間も他人の耳元で「何をのろのろ歩いてるの?」「見るからにのろまそうな仲間ね」と喚き続けるのは十分“我を失った行為”だ。しかし、センリにとってはそうではない。
 よく分からないが、これだけ感情の発露が激しいにも拘わらず、センリは決して帰路を――自分がどこの誰で、何を目的として存在し、何を求めてここにいるのか――我を失わない。
 産まれついて“霊化の術”の才能があるとしか他に言い様のない陰湿さだ。どうせ今回も無事に肉体に戻ってるのだろうなと思った通り、こんなに元気に“遅い”を連呼している。
 フーはしみじみとセンリの不平不満を拝聴した。早く家に帰って、シャワーを浴びて、食事を摂りたい。センリの言う通り、低レベルな人間に合わせるのはかなりの疲労に繋がる。幸いにして担当上忍の意向で長期任務明けは三連休が与えられるし、“根”の任務も重要性の高いものは入っていない。センリの気まぐれから解放され次第、ゆっくり体を休めることが出来るだろう。

「何の御用ですか」
 流石に痺れを切らして、フーが切り出しだ。
 いい加減、センリも座りたくなったのだろう。はっとした顔をしてから、腕を組む。持ち前の美貌を損なうことを何とも思っていないらしく、センリはフンと鼻を鳴らして踏ん反り返った。

「筑前煮を煮たのよ」
 それが何だ。

「筑前煮を煮たの。おじさまが帰ってこないの。保存するにも多く作りすぎたの」
 腕を組んだまま、センリがツラツラと並べ立てる。
「食べなさい。そして『美味しい』と言って私を褒めたたえるのよ」
 実に自分の欲望に素直である。いつも通りの無表情を晒して、フーは感嘆した。
 よくもまあ四時間以上も自分の熱量を筑前煮に費やせるものだ。“自分の命を懸けた忍術を駆使してまで筑前煮を食べて欲しかったのか”と問うたところで、センリは平然と頷くであろう。
「ああ、あなたがノロマだからすっかり冷めちゃったわ。いつまで玄関先でぐずぐずしてるの、さっさと上がって頂戴。長期任務で疲れたでしょ、カップラーメンばっかりじゃ体を壊すわよ」
 とってつけたような優しい言葉に誘われるまま、フーはサンダルを脱いだ。
「失礼いたします」
 式台に上がってから、片膝をついてサンダルを揃える。三和土の隅に寄せ、爪先を外に向けた。
 フーの背を眺めるセンリは、行儀よくフーを待っていた。昔はよく「お母さまの教育が良いのね」と揶揄されたものだが、このところ何も言わない。それだけフーを家に呼ぶ回数が増えたのだろう。それが良いことなのか、もしくは悪いことなのか、フーにはよく分からなかった。

 ここ最近、センリは最低でも月に一度はフーを呼び出す。
 ダンゾウから申しつけられた家庭教師役で隔週ごとに訪ねているのを数に入れると、月に三度も顔を合わせていることになる。センリにしろ、フーにしろ、月に三度も二人っきりで三時間から五時間過ごす相手はお互いを除いて他に存在しない。世間一般的に考えると“友好的な関係”であって然るべき付き合いなのだろうが、センリもフーも互いに親愛の情を持っているわけではなかった。
 フーは多少の義務感と、しつこく呼ばれるのが嫌で行く。それだけだ。そしてセンリがフーを呼ぶのは、彼女が他人との接触を求めている時に限った。要はメンタルケアの一貫である。
 センリは基本的にダンゾウ以外の人間を求めていないが、それでも承認欲求や自己顕示欲は人並みに存在する。褒められれば嬉しいし、他人に見くびられると苛立つし、認めて欲しいと思う。
 認めて欲しい――この場合、彼女が他者の承認を必要とするのは“調理技術”の一点である。容姿と性格については鉄の自尊心を有するが故に他者の承認なぞ問題とするに足りない。忍才については、他人の承認を得ようなどとは思わないのだろう。必然的に、調理技術に焦点が合う。
 性格が悪いとはいえ、そして無用であると言われているにも拘わらず、センリは家事の一切を引き受けている。“根”の衛生室で一人下着を洗う上司を思うと幾らか不憫だが、まあそれなりに彼女の存在が役立つこともあるはずだ。昼時になると渋々センリの作った弁当を食べているし、センリに家事を任せるのが本意でないにしろ「絶対に許せない」と断じるほどではないに違いない。
 兎に角ダンゾウに如何なるメリットを与えているのか甚だ不明なセンリは、勝手に家事の一切を引き受けている。自分がやりたくてやってるくせに、たまに「なんで私はこんなことをしてるのかしら」と思うらしい。強制されてるわけでもなし、嫌になったら止めればいいのではとも思うのだが、センリはそうは思わない。フーにはよくわからないのだが、センリは「自分が家事の一切をしなければ」という無駄な使命感を抱いていた。しかし先述の通りダンゾウから「家事をしてくれ」と求められていない代わり、ダンゾウに労わられることもないので、稀に嫌気が差すらしい。

 フーはかつて、センリのごく機嫌が良い時に聞いたことがある。
 家事をするのが嫌なら、しなきゃ良いのではないか――その問いへの答えは、案の定フーの理解の範疇を越えていた。今より少し幼いセンリが、訳知り顔でため息を吐く。フーったら、何も分かってないわ。幾ら私がおじさまを愛しているとはいえ、それでも家庭にこもるって大変なことなのよ。一体いつ家庭にこもってくれと言われたのかは不明だが、兎に角ダンゾウとのすれ違い生活を辛く感じているらしい。フーにはそれ以上理解出来なかった。理解しない方が良いとさえ思った。
 最愛の養父とすれ違い生活を送っている関係上、愛に満ちた手料理をせっせと作ったところで後に残るのは空の食器だけ。「美味しいよ」の一言も、「センリは料理上手だな」の一言も、増してや「ワシがもう十年若かったら嫁に欲しいぐらいだよ」の賞賛も望めない。
 尤も顔を合わせて食事をしたところで結局残るのは空の食器だけだろうが、兎に角センリの自己顕示欲は正しく満たされない。自己顕示欲が満たされないと、精神衛生によろしくない。
 やはり“霊化の術”を使いこなすだけあって、センリは自分のメンタルバランスに敏感だった。

 センリは自分の欲するものが何かよく分かっている。第一にダンゾウだ。
 しかしダンゾウからの賞賛や労りが望めないなら、せめて自分の家事技能に対する正当な見返りだけでも欲しい。そう思うのが人情だろう。しかし不運な事にセンリが家に招ける人物も、彼女の差し出す食物を躊躇なく食べてくれる人物も、フーただ一人であった。
 仕方のない流れで、フーは月に三度もセンリの手料理に招かれる。


 不幸中の幸いとして、センリの家事技能は他人の賞賛を受けるに相応しいものだった。
 食卓には筑前煮の他、キャベツの浅漬け、菜の花のお浸し、筍とワカメの味噌汁が乗っている。
 フーを居間へ案内するなり、センリはさっさと台所へ消えてしまった。ご飯の量を聞かれなくなったあたり、自分がどれだけセンリのメンタルケアに付き合わされているかを再度痛感する。
 フーは賑々しい食卓から顔を上げると、自分の家に負けず劣らず寒々しい居間を見渡した。たまの来客には客間で応対するのだろう。居間には丸いちゃぶ台と、その四方に座布団が置かれただけで、生活感に乏しい。形ばかり居間として設けただけで、センリが来るまで実際に使われることはなかったのだろうことは想像に容易い。フーが知る限り、ダンゾウが“根”の本拠地から帰宅するようになったのはセンリを引き取ってからだ。それでもなお、家にいる時間は短いのだけど。
 しかしこの家が人の気配を寄せ付けないままなのは、ダンゾウの滞在時間によるものではない。センリが意図的に自分の痕跡を消しているからだと、フーは知っていた。センリの靴が三和土に出ていることはまずないし、廊下にも、居間にも、台所にも、センリの私物は置かれていない。ただ屋敷の奥に構えられた彼女の寝室から、センリの存在感が漏れてくる。音も匂いもなく、密に。
 ぼんやり思索に耽っていると、ほのかに甘い匂いが漂い始める。煮魚を温め直しているのだろう。フーが晩の献立を察するなり、センリがお盆にめばるの煮つけとご飯を乗せてきた。
 食卓が整うと、合図もなしに二人同時に手を合わせる。

 たまにアカデミーを訪れると、フーは決まってセンリの一人飯現場に遭遇する。
 フーは里内任務の際は、昼休憩の間に雑事を済ますことにしていた。担当上忍に頼まれた書類を抱え、トントンっと屋根伝いにアカデミーを去る途中、小屋上に陣取るセンリが目に入る。お握りと幾つかの菜が詰められたタッパーを膝に乗せ、センリは黙々と食事を摂る。一切の飾り気がない弁当からは、ダンゾウの分を作るついでに作ったのだろうことがわかる。“いただきます”も“ごちそうさま”も、聞いた覚えはない。ただ必要な栄養を摂るだけの無機質な食事だった。
 恥ずかしいとも、母親の躾が良かったのだとも思わないが、フーは食事の前は一人でも手を合わせる癖がついている。自分と食べる時に必ず“いただきます”と言って手を合わせるのは、「お母さまの教育が良いのね」の揶揄と同じなのだろうか。何となく不思議に思いながら、味噌汁を啜る。
 ダンゾウと食べる時は無論食前に手を合わせるだろうが、そうでなければ一々手を合わせる必要はない。自分と食卓を囲んだとて一人飯と然して変わらないだろうに、よくわからない子どもだ。

「相変わらず、料理がお上手ですね」
 そういえば賞賛させるのが目的だったなと思い返して、賞賛してみた。
 フーの意に反し、センリはまるで嬉しくなさそうだった。は〜と深く長い溜息を漏らす。
「さっきから思ってたけど、いい加減、その敬語は止めなさい。おじさまに聞かれたら、また渋い顔をされちゃう。おじさま、私がフーのことをいじめていると思って、とっても怒るのよ」
「ダンゾウ様がこの時間に帰宅されることは稀です」
 フーは箸置きに箸を戻して、手を膝の上に置いた。それもやはり、母親の躾だった。
「おじさまがいなければ良いってものじゃないわ」センリはダンゾウそっくりの渋い顔で、ほうじ茶を口にした。「……第一、山中いのとは普通に話してる癖に、いい加減嫌味ったらしいのよ」
「元はと言えばセンリさんが馴れ馴れしく話しかけるなと仰ったのではありませんか」
「ええ、そうよ。人間の形をした道具に馴れ馴れしく話しかけられるなんて怖気が立つわ」
 いつまでも自分一人箸を持っているのもみっともないと思ったのだろう。センリも箸置きに箸を戻した。まだ八分目までほうじ茶が入っている湯呑を手にして、目を眇める。「私に幾ら罵られても一切顔色を変えようともしない可愛げのない人間なんて大嫌い」そう口にするなり、細い喉を晒して、くーっと湯呑を煽る。トンっと音を立てて、湯呑を下した。

「でも、おじさまが怒るの! 私のほうが年下で、なんやかんやで色々とアレなんだから、フーのこといじめちゃダメだし、ちゃんと敬語を使いなさいって怒るんだもの!!」
「……それは、センリさんが敬語を覚えられたら良いだけの話では」
「イヤ!」
 フーの台詞を遮って、センリが激しい拒絶心を露わに叫んだ。
「あなたが私を呼び捨てて、そのわざとらしい敬語を止めれば良いの。そうしたら、おじさまは何も言わないわ。私だって『山中いのだって同じ風に喋ってます』って言えるもの」
 食事中だというのに立ち上がって、上から目線の要求を口にする。はしたないとか行儀が悪いとか、言いたいことは山ほどあるが、言ったところで、その何れも聞き入れては貰えないだろう。
 やれやれと言いたげに肩を落として、フーはセンリを見上げた。

 一応下忍になったにも拘わらず、センリは四年前からまるで変わらない。
 何よりダンゾウに愛されることだけを求め、養父に怒られ、嫌われることを恐れている。ダンゾウが掲げる理想や野望への同調より先に、ダンゾウ個人に深く執着する子ども。
 こんな調子でくノ一としてやっていけるのかと思うし、大成しないだろうなとも思う。勿論、センリの進退などフーにとっては如何でも良いことだ。養女がくノ一として大成しなかろうと、例え任務の途中で命を落とそうと、ダンゾウは何も変わらない。憶測ではなく、絶対に変わらない。
 フーはただダンゾウの手となり足となり、その理想に寄って生きて行くだけで良い。
 フーがセンリの駄々に付き合うのは、彼女がダンゾウの養女で、しつこく誘ってくるからだ。暖簾に腕押し。それが一番楽なのだ。故事にあるように、フーはいつもセンリの感情の発露を適当に受け流すことにしていた。そして、センリには骨を砕いて何かしてやるほどの義理もない。
 フーにとってのセンリはその程度の存在だった。

 フーだけじゃない。誰にとっても、この子どもは重い存在ではない。
 それは別に何ら特別不幸なことではないと思う。フーだって、センリと同じだった。フーが死んでも、母親は一切動じない。センリにとってのダンゾウがそうであるように、フーの母親も、絶対に動じたりしない。最も強い縁を持つ母親が動じないということは、誰も動じないということだ。
 たった一つこの子どもを憐れむ理由を挙げるならば、フーが当の昔に解放された“完成することのないパズル”に向き合わざるを得ないことだろうか。その一点において、センリはフーより不幸だった。良くも悪くも悪くも才能の故に、センリは“自己”という名のパズルから解放されない。
 センリの在り方は、どこか過去の自分に似ている。でも、それだけだ。如何でも良いことに変わりはない。適当に受け流し、義理と惰性だけで付き合うのが一番良い。申し訳ありませんとか、善処しますと気のない返事で誤魔化せば、センリもそれ以上は突っ込んでこない。

いのとあなたは違う
 自分の口をついて出た言葉の意味は、フーにも分からなかった。
 申し訳ありませんでも、善処しますでもない、自分らしくもない人間味のある声音。己に何故を問うより早く、フーは咄嗟に手で口を押えた。それでも、一度放った言葉は如何にもならない。

「そりゃあ、そうよ。山中いのは、あなたのことを温厚で優しい下忍だと信じてるわ」
 正しく火に油を注がれた状態にあるセンリが鼻で哂った。
 珍しく焦った表情のフーを見つめながら、その脇に膝をつく。細い腕。度重なる修行で歪に傷ついた手。自分よりずっと高い体温。センリがフーの肩に触れ、畳の上に押し倒した。
 嗜虐的な笑みを浮かべたセンリが、フーの視界に影を落とす。如何収集をつけるべきかも浮かばず、フーはセンリのされるがままになっていた。爛々と光るセンリの双眸を見つめる。
あなたの言う通りよ、私は山中いのとは違う
 状態を屈めたセンリが、フーの耳朶に囁きかけた。「優しいお兄さんのフリ。仲間を信頼するフリ。飼い主の“玩具”に遜るフリ」自分が何をもってしていのとセンリを“違う”と言ってのけたのか分からないままに、センリの揶揄を頭の中で噛み砕く。「本当に、あなたは演技が上手」

 失言の理由はよく分からないものの、センリの怒りを買った理由は明らかだ。
 センリは“根”の構成員を蛇蝎の如く忌み嫌っている。自分よりダンゾウの役に立つ人間が嫌いなのだ。ダンゾウはセンリを養女として迎え入れ、放任主義の嫌いがあったにせよ“普通”に育てた。“霊化の術”が使えるからと言って、センリに暗殺を任せたことも、間諜を任せたこともない。
 いのとセンリが如何違うのかは“性格”としか言いようがない。しかしフーとセンリの違いは明白だ。フーはダンゾウの手で“根”に誘われた。センリは“根”に誘われなかった。センリにとって、その事実は彼女の自尊心を傷つけるのに十分過ぎた。それ故、“根”の構成員を嫌っている。
 この面倒くさい状況から脱する方法を考えて、フーは頭が痛くなった。
 フーの困惑を見透かして、センリが勝ち誇った顔で身を起こす。プライドの高さが為せる技だろうか、安っぽい白熱灯の下でも、その笑みはとびきり気高く見えた。顔が良いのは得だ。
 諦観に満ちた視線を一身に受けながら、センリは高らかにフーを罵ろうとした。

「そうやってバカにしていりびいいふぇっ!!!!」
 罵ろうとしたけど、噛んだ。

 なぜ、この子どもはすぐ噛む癖に、回りくどい言い回しを多用するのか。
 耳まで赤くなったセンリがワナワナ震える。こういう時は聞いていないふりをするのが一番だと、フーは知っていた。フーが知らんふりを決め込んでいると確信するや、センリは意気揚々と顎を突き出した。TAKE2である。幸いにして、噛んだ時点でセンリの戦意が削がれているだろうことが想定できる。大人しく従っていれば、じきにこの面倒くさい状況から解放されるだろう。

「……そうやって馬鹿にしていればいいわ。おじさまにとって、センリは“特別”なのよ」
 無事に言い直せて良かったですね、などと言おうものなら大惨事である。
 フーは何も言わずに項垂れた。そうしておけば、センリが満足するからだ。幸いにして思ったより早く満足した――もしくは深く恥じているのかもしれない――センリが自分の席に戻る。
 何事もなかったかのように、センリは食事を再開した。フーも身を起こして、センリに倣う。


 センリは何事もソツなくこなし、霊化の術という希少価値の高い忍術も会得している。
 しかし、それらを加味しても尚“忍才がある”とは言えなかった。いや、並のくノ一より断然才能があるのは言うまでもない。ただ、フーをはじめ“根”の構成員は並の忍者とは一線を画する。
 センリは優秀な忍者だ。覚えも早い。彼女は良い教え子だったが、幾らか育成に関わった分、フーにはセンリの限界値がよくよく分かっていた。努力で如何にかなるのは特別上忍まで、それ以上を目指すのは荷が重い――増して、なまじ努力家なばかりに“霊化の術”は既に完成されている。
 下忍になったばかりの十二歳の子ども。今、この時期がセンリのピークだった。
 どれだけ努力しても、センリの実力は少しずつ下降していく。いや“周囲の成長についていけなくなる”と言ったほうが正しい。何せ近接戦に役立つ忍術の殆どが不得手ときている。センリは印を組むのが鈍い上、防御力が極端に低かった。要するに、到底実戦で伸びるタイプの忍者ではない。基礎を抜かして、封印術や“霊化の術”を極めた代償であろう。フーは近接戦について手ほどきするのはほどほどにして、相手の実力を見極め、撤退する術を中心に教えることにしていた。
 センリ相手に組手をしたのは、いつが最後だっただろう。思い出せなかった。それにも拘わらず、先ほど自分に触れた手はボロボロだった。今も尚、一人で無駄な努力を続けているのだろう。

 フーはダンゾウの手で“根”に誘われたが、センリは“根”に誘われなかった。
 その差異は、間違いなく、センリの忍才の乏しさに起因する。それでは何故センリを引き取ったのだとも疑問に思うのだが、それについてはダンゾウ自身が“引き取らざるを得なかった”と証言している。ただ不思議な事に、ダンゾウはその“渋々”と言った口調の割りに、フーに家庭教師を頼んだり、誕生祝いの品を買い与えたり、帰宅時間以外は“養父”としての務めを十分果たしていた。
 ダンゾウはセンリを特別大事に扱っているわけではないが、さりとてまるきり無碍に扱っているわけでもなかった。その奇妙な距離感は何なのだと考えてみても、フーにはよく分からない。ただ、フーの目にも、センリの度を越した好意が空回っているのはよく分かった。
 センリは鬱陶しいほどの敵意をフーに向けるが、それを遥かに上回る熱量でもってダンゾウに執着する。いい年をした大人が、そんな無駄な熱量を構いきれるはずがない。それでも、フーは時々“本当にセンリの好意は一方通行で、空回っているのだろうか”と、思うことがあった。
 ダンゾウは、センリに干渉しない。束縛することもない。センリが欲しいと望むものは、大抵の場合何でも与える。公にされていない幾つかの――勿論、機密性は低いが――情報を共有する。忍者としての才を伸ばすべく、家庭教師もつける。自らも、時間があれば“封印術”を教えている。
 センリは言う。私は、おじさまにとって特別なの。私の“霊化の術”と、“封印術”の知識を使えば九尾の暴走に歯止めを掛けられる。この里の最大の災厄である“九尾の狐”を抑える力があるから、私はおじさまの特別なの。正直言って、この子どもにそこまでの能力は見込めない。
 九尾の狐が里に現れた時、フーは二歳だった。母親に抱かれて避難した記憶があるだけで、それがどの程度強大なものだったかは覚えていない。しかし文献を漁るだけで、センリの手に余るだろうことは容易に想像がついた。例え“霊化の術”で九尾の子どもの体を乗っ取れたとしても、霊体ごと九尾に取り込まれるだろう。フーに分かることが、ダンゾウに分からないはずがない。

 センリはついにダンゾウの訂正を受けないまま、アカデミーを卒業してしまった。
 このまま放っておくのかと思いきや、逆に勘違いを助長させるような指示を与える始末。
 “根”には入れない。養父としての務めは果たす。命取りになる勘違いを助長させる。そこまで考えると、フーはダンゾウにとってのセンリが如何いう存在なのか分からなくなってしまうのだった。役に立たない道具を傍に置き続ける理由。屈託なく愛でて然るべき子どもと距離を置く理由。
 よく分からないままに、何故かフーはこの子どもについて考えてしまう。


「私を褒めたたえなさい」
 センリがふと呟いた。センリ自身、何故フーを呼んだのか半ば忘れていたらしかった。
 “霊化の術”を使うセンリにとって精神衛生の維持は必要不可欠である。この子どもがダンゾウにどれほどの利益を与えるかは分からねど、一先ず“殺せ”と指示されない限り、従順に振る舞っておくほうが無難だ。フーは自分の言葉に信憑性を持たすために、筑前煮の器に箸を入れる。
 ほの甘く煮てある、乱切りのレンコンを摘み上げた。口に放り込んで、むぐむぐと咀嚼する。
「センリさんの腕ならすぐにでも総菜屋を開けますよ」
「ちがう」
 褒めたたえろと言うから褒めたのに、我儘なお人だ。
 フーは憮然とした面持ちで、極めて不愉快そうな顔で睨み付けてくるセンリを眺めた。
美味しいの? 美味しくないの?」畳みかけるように言ってから、ふんすと胸を張る。満足げな表情だ。「美味しいでしょう。美味しいと言って、私を褒めたたえなさい」
 案外、センリは調理技術に関しても自分一人で完結しているのかもしれない。
 メンタルケアに自分が必要ない可能性を感じ取って、フーは思った。自分で自分の調理技術に満足しているなら何故わざわざ“大嫌い”なフーに聞く必要があるのか。甚だ理解出来ない。

「美味しいです」
「それなら良いの。おじさまもきっと喜んで食べてくれるでしょうね」



 妙な緊張感のある食事が終わり、後片付けも済むと、センリはラブレターを書きだした。
 無論相手はダンゾウである。冷蔵庫のどこそこに筑前煮があるとか、お弁当はいつものところに置いてあるとか、食べたいものがあったら教えてくださいとか、そういう家庭的な内容の書置きだ。それでもよくもまあA4サイズにびっしり書くことがあるものだと、なんだか感心してしまう。思ったより、センリは国語能力が高いのかもしれない。つらつらと思索に耽るフーを置き去りに、センリはA4用紙五枚の上にハート形の重石を乗せて、晩の儀式を終える。
 ダンゾウへの書置きが済むと、あとはもう寝るだけである。帰るタイミングを失ったまま居間にいるフーが、片膝をついた。一応、言うだけ無駄だと分かっている文句を口にしてみる。
「それでは、センリさん」
「明日はサバイバル演習だそうから、もう寝るわ」
 フーの台詞を遮って、センリが就寝宣言を出した。
 センリはさっさと立ち上がるなり、居間の入り口を塞ぐ。退路を断たれたわけだ。こうなれば、最早逆らっても疲れるだけである。こいこいと手招きされるままに、フーも立ち上がった。
「あーあ、明日、面倒くさいわ」フーの腕にしがみ付いたセンリが、誰ともなしにぼやく。「どうせあの人、全員落とすつもりのくせに。でもナルトが下忍にならなきゃそれが一番よね」
 薄暗い廊下を音もなく歩きながら、フーは微かに抵抗を試みた。
「……オレは報告書を出してからここに直行したんですよ。汗臭いと思うんです、」
 ドンっと、部屋のなかに突き飛ばされる。とことんフーの台詞を遮りたいらしい。
 フーは、ハーとため息交じりに項垂れた。明かりがついていないものの、手をついた感触で布団の上に投げ出されたことに気付く。まんま悪代官に夜伽を迫られる生娘のシチュエーションだ。
 パチっと音を立てて、部屋が明るくなる。センリが後ろ手に襖を閉めるのが見えた。
「そんなの知ってるけど、朝風呂に入るから気にしないわ。さっさとこれを羽織って頂戴」
 言うが早いか、センリは入り口脇に掛かっていた浴衣をフーに投げてよこす。
 糊付けされることもなく、草臥れた浴衣。フーは、それがダンゾウのお古だと知っていた。

 ダンゾウの寝室を追い出されるようになってから、センリは定期的にフーを呼びつける。
 別にいかがわしいことをしているわけではないので、良いと言えば良いのだが、一応異性なのだし、そろそろ一つ布団で寝るのは止めたほうが良いのではなかろうか。そう思っていながら、結局今日もセンリに流されるまま“生娘役”に甘んじてしまった。後悔しきりである。
 ため息交じりに浴衣を羽織ると、パチンと音を立てて電気が消えた。
 相変わらず人の都合を考えない子どもだ。いや、別に羽織るだけだから、電気がついていようといなかろうと如何でも良いと判断したのかもしれない。正しくそうだったようで、前も合わせていないのに寝床に引きずり込まれた。外し損ねていた額当てが上にズレて、鼻先をシャンプーの香りが掠める。センリの腕がフーの背を抱き寄せ、その胸元に頬を寄せる。ぎゅーっとしがみ付く。
 果たしてこれをダンゾウが目にしたら、フーが被害者であることを理解してくれるだろうか。分かってくれるかもしれないが、「いや、何それ(ドン引き)」という反応は免れないだろうな。フーの困惑をよそに、センリは「んふー!」と満足げに鼻を鳴らしていた。
「きわめておじさまに近いわ」
「そうですか」
 そりゃ生きている分、ウザギのぬいぐるみや、バービー人形よりかはダンゾウに近いであろう。
 如何したらこの無体を止めてくれるのかチラと考えたものの、すぐ止めた。あのダンゾウがセンリに振り回されるまいと逃げ回っているのだ。フー如きに抗えるはずがなかった。
「もうすこし肉が必要ね。あとお肌のたるみとざらざらした感じと首元のしわと私が抱き付く度に剥がそうと努力する根気と“一人で寝たいのに鬱陶しいなコイツ”という雰囲気が足りない」
 あなたは養父との添い寝で何を満喫してるんだと、思わず聞きたくなる。
「変化の術でも使いましょうか?」
「いいわ」
 呆れ果てた問いを口にすると、舌足らずに否定された。

「本物のおじさまでなければ誰でも一緒。センリは自分の好きに出来る、生きてる抱き枕が欲しいだけよ。それがおじさまだったら言うことなしってだけで、別にだれでも良いの」
 寂しいのかと問えば、「そうよ」と返ってくる。「一人きりで寂しくないわけがないでしょう」と、馬鹿にしたような台詞を聞いたのは一度や二度ではなかった。寂しさが募る前に手頃な道具で消化してるだけ。センリにとって、フーを抱き枕に使用するのはその程度のことなのである。
「でもフーいがい、かってに、家に上げちゃ……だめっていわれてるんだもの」
 そうしたら、センリに友達が出来ようとフーは解放されないわけだ。
 暗澹たる気持ちになって、フーはセンリの顔を見つめた。闇に慣れた目が、微睡むセンリの容貌を事細かに映し出す。時折睫毛を揺らすだけで、その目蓋はすっかり重力の虜になっている。常に見下し、嫉妬し、大嫌いな自分を抱いて、何故こんなに幸福そうに眠るのだろう。この抱き枕役を引き受けている時だけは、機嫌のよいセンリを見ることが出来た。大抵の場合すぐに眠ってしまうし、フーとてセンリが眠ればさっさと帰ってしまうのだが、まあうつらうつらと夢心地のなかで上機嫌を見せるセンリは中々に希少価値が高い。尤も珍しいものを目の当たりにしたところで、早く解放されたい気持ちに変わりはない。フーは心から祈った。出来るだけ早く家に帰れますように。
「あと、それに」のそのそと、センリが付け足す。「ほら、あなた」
 まだ寝ないのか。そんな気持ちで、はいと投げやりな相槌を打つ。

「あなた、わたしのまえで、えんぎするのきらいでしょ」
 それっきり、センリは安らかな寝息を立てて夢の世界へと旅立ってしまった。

 だらりと力が抜けただけで、センリの腕はまだフーの背に回されている。
 望み通りの“解放”を得たにも拘わらず、フーは暫くセンリの腕の中に留まった。ぼんやり、センリについて考える。自分がなぜこの子どもを“いのとは違う”と称したのか、フーは一人考えた。
 センリの言う通り、フーは決して温厚で優しい下忍ではない。その気があればフーは去年の中忍試験で合格することが出来たし、ダンゾウ経由で請けるのはA級任務が最も多かった。苛烈なわけでも、怒りっぽいわけでもないが、温厚というほど思慮深くもない。優しくないのは、母親への情の無さを鑑みれば一目瞭然である。フーはダンゾウに全てを委ねる代わりに、ありとあらゆる苦悩から解放された。ダンゾウの手足となって働くことだけが全てで、それがフーの幸いだった。
 センリもそうだ。ダンゾウがそれを許さない、もしくは公に認めないだけで、ダンゾウの手足となって働くことを夢見ている。もし母親がフーの希望を撥ねつけたら、フーもこの子どもと同じ鬱屈を抱えて生きていたのだろうか。完成しないパズルと延々向き合わされ、少しずつ精神のバランスを崩していく有り触れた人間の一人。並外れた精神力で“霊化の術”を制御出来るセンリと違って、あの家に縛りつけられたまま長じたフーは中忍にさえなれなかっただろう。仮定が現実に勝ることはないと知っていても、フーは自分が打ち捨てたパズルのピースを顧みることがあった。

 “根”には名前はない。感情はない。過去はなく、未来もない。ただ、あるのは任務のみ。
 山中フーなどという人格も、過去も、何もかもまやかしだ。そうと分かっていて、センリといると“自分は何者だったのか”と、不意に考えてしまう。白昼夢のようなものだと、フーは割り切っている。ほんの気まぐれからなる憂愁。その思索の全てが如何でも良いものであることを踏まえた上で、それでもフーはこの子どものなかに幼い日の“家庭”を見つけることがあった。幼い日の自分と、身勝手な母親。そして、自分がついに中を見ることが出来なかった“真綿の繭”。


 あの幼い日、フーは父親の傍らでひたすらに息を殺して待った。
 やがて何を待っていたのかも忘れてしまうほど時が過ぎて、フーの手には何も残らなかった。
 こんもりと膨らんだ布団。真新しい墳墓を思わす丘状の繭のなか、フーの父親はついにそのまま死んでしまった。羽化に失敗した蛹と同じ。父親の死は、所詮その程度のことだった。
 センリの熱を胸に感じながら、フーはその小さい頭をそっと抱き寄せた。この少女が死んだときも、父親が死んだときと同じように思うのだろうか。漠然と考えてみても、答えは見つからない。
 疲弊しきった体がなだらかな睡魔に包まれ、目頭に篭った熱が頭蓋に広がっていく。

 白む意識のなか、見知った子どもが期待に満ちた目で自分たちを見つめている気がした。
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