乱文倉庫
 なんのためにがんばるの。

 落下の衝撃で乱れた頭髪をグシャリとかき乱して、きよらは目を瞑った。
 疲れているわけでも、眠いわけでもなかった。
 確かに薄い肉と華奢な肋骨に守られた肺は酸欠気味に喘いでいるし、額からこぼれてきた汗も輪郭をなぞっている。頭蓋のなかでクラクラと脳が揺れている感覚も残ってはいたが、きよらにはそれが“まやかし”であることが分かっていた。まやかし……単に、感覚器官がトリオン体と生身の体の間で指針を失っているだけだ。その証拠に、四肢にはまるで疲労が蓄積していない。ようやっと指針を取り戻した体は先ほどの戦闘が嘘のように凪いでいた。
 操作パネルのスピーカーが、からかうような声音で再戦の誘いを口にする。流石A級隊員様と言うべきか、緑川はきよらとの戦闘に物足りなさを感じているらしかった。
『きよらん。ちょっと、聞いてる?』くすくすっと如何にも楽し気な微笑が混じる。『何、へばってんの?』
 あーもう勝手に喋ってろ。
 緑川にとってB級相手に戦うのは全く手ごたえを感じず、繰り返さなければ満足しないかもしれないが、きよらは精神的に疲れた。今日だけで十回は殺されてる。要するに、それだけポイントが減っている。いい加減緑川とじゃれるのは止めて、カモを見つけるべきだ。
 やれやれと体を起こして、大仰に肩を上下させる。



「きよらん」
「うおっビビった」トンと肩に置かれた手の重さで体が跳ねた。それを落ち着かせるかのように、ズシリと緑川の上体がきよらの背に体重を預ける。「気配消してくるのやめて」
「消してないって、きよらんが耳悪いだけでしょ。おれブース入った時にもちゃんと『きよらん』て呼んだし」
「あ、そ。ちょっとぼーっとしてた」

「つーか、思ったより筋良いね。もう乱反射覚えたし」
「そら、連日あんたに付き合わされてればね。緑川は敵に塩、」
 いや、敵と言うほど強くはないから良いか。
「乱反射覚えたところで所詮きよらんじゃん!」
 ケラケラと軽やかな声音に、きよらは深くため息をついた。

「でも、もー5000あるしさ、こないだアタッカー転向したわりに強いほうじゃん?」
「一応入隊した時はアタッカー志望だったんだよね」
「そなの?」
「ほんっとに一応だけどね。入隊した次の日にスナイパー転向したし」
「きよらん、コロコロ変えすぎ」
「B級隊員というモラトリアムのなかでぬくぬくと自分の才能が一番発揮される役職を探して惑う旅人……」
「今回はアレでしょ。最初にスナイパーに転向したのはなんで?」

「……タイム」
「たいむ?」

「30秒だった」
「へー。一分切ったなら良いほうじゃない?」「おれは4秒だったけど」
「うわあ、ムカつく」

「ねえ、30秒の何がヤだったの」

 きよらちゃん、一体何が不満なの?
 父親は外資系の会社に勤め、母親は都内のバレエ団で指導役を務めている。三門市内に建つ邸宅は、崩れた石垣が生垣に変わった以外に四年前の第一次侵攻の爪痕は伺えない。自他共に認める裕福な家庭に生まれつき、今は市内のお嬢様学校に通っている。元プリマバレリーナの母親に似て、背も高い。容姿だって整っているほうだろう。得意科目は体育で、短距離走では陸上部の子らより良い記録を残している。友達も多い。何よりも、三門市に住む子供たちなら誰もが憧れるボーダー隊員だ。その中でさえ、決して実力が低いわけではない。
 誰の目からみても、きよらは恵まれている。きよらはじっと緑川の瞳を見つめた。そうしてから、緑川が言葉を重ねる前に小さく笑う。「4秒様は言うことがちがうなあ」耳を引っ張って、頬の筋肉を上げる。
 

 自分より恵まれているくせに、不幸面をするな。
 才能に恵まれているのだから、上を目指せ。

 自分が他人より劣っているという自覚から目をそらすために、陰口を叩く。
 自分が優秀だと分かっていないから、努力のレートが個々で違うことに気が付かない。
 少し周囲を見渡すだけで、自分よりも劣っている人間はごろごろいる。そして自分より優っている人間も常に同数存在していて、きよらは自分より劣っている人間からも、優っている人間からも他人の目を意識するよう仕向けられる。あなたなら……と励まされることにも、もっと頑張ればと叱咤されることにも、あんなに……と嘲笑う声にも疲れた。一体何が不満なの? 30秒の、何が嫌だったの? スナイパーとして優秀なのに、団で一番優秀だったのに――如何してきよらちゃんは本気で頑張ろうともせずに、そうやって逃げてしまうの?

『足、千切れちゃえば良かったのにね。どうせ、二度と踊らない足なんでしょ』
 そしたら先生だって、全部諦めがつくのにね。悪意の乗った声音が、鈴のようにあたりに広がって消えていく。

「……泣きたいの」
「違う」


 きよらちゃん、一体何が不満なの?
 貴女の足はバレエを踊るためのものなのよ。変に意固地になったりしないで頂戴。
 今時お勉強も出来ないで、社会に出て苦労するのはきよらちゃんなのよ。菊地原くんといることが、きよらちゃんの将来より大事なの? 菊地原くんがきよらちゃんの将来に責任を取ってくれるの? 違うでしょう。菊地原くんなんか、頭が良いから、高校大学ってきよらちゃんが入学出来ないような頭の良い学校行くのよ。
 ボーダー隊員になるだなんて、菊地原くんがボーダー隊員になったからなんでしょう。きよらちゃんはいつもそう。如何して自分の頭で、自分が如何するべきなのか考えられないの? 菊地原くんがボーダー隊員になったら、きよらちゃんもボーダー隊員になる。じゃあ菊地原くんが死んだら、きよらちゃんも死ぬの? 
 菊地原くんが、きよらちゃんに何をしてくれるの? なんでそんなに意固地なの? シロのことだって、もう忘れて前を向いてやってかなきゃいけない時だってどうして分かってくれないの?
 どうしてママのことを考えてくれないの。年甲斐もなく泣きだす母親を前に、きよらはぼんやりしていた。ママは、私の足が無かったら全部諦めがついた? きっと、そう口にすれば他人の悪意に鈍感な母親でも、きよらが誰かに何か吹き込まれたと察することが出来ただろう。足がなければボーダー隊員になれないどころか、二度と歩くことも出来ない。それでも、一瞬でも、母親が楽になるなら、やっぱりあの子の言う通り無くなってしまったほうが良かったと思った。それが、きよらなりに母親のことを考えた結果でないなら何だというのだろう。
 娘の才能を愛していた母親は一時間ほど泣いてから、嗚咽と共に謝罪して、同意書にサインしてくれた。腫れた目を細めて「危ないことをしないで」と懇願する母親に、きよらは自分の秘匿は正しかったのだと心から思った。
 母親はきよらのことを愛している。きよらも、それなりに愛してる。母親は、バレエの次に。きよらは、菊地原と愛犬の次に。一番でなくとも愛情は愛情だから、相手の安寧と幸福を願わずにはいられない。
 きよらが口を噤めないでいたら、母親はきよらに悪意を吹き込んだ少女を厭うただろう。例え、その子がどんなに上手に踊れても、その才能を愛することは出来なかったはずだ。彼女はきよらの母親を敬愛して、血の繋がりから娘としてもバレリーナとしても無条件に大事にされるきよらを妬んだ。母親には、きよらに代わるあたらしい才能が必要だった。多分、二人は上手く行くだろう。きよらが何も言わなければ、うまくやっていける。

 母親の幸福に踊れない娘は必ずしも必要ではない。
 現役引退して久しい母親にとって、自分の代わりにバレエを踊ってくれる才能なしには生きていけない。
 きよらには、母親の気持ちがよく分かる。幸福の絶頂で傍らにあったものが、人生の全てになる。それを失ってしまったから、二度と手に入らないと分かっているから、永遠に追い求めるしかないのだ。
 飼い犬と菊地原だけは、ずっと自分の傍にいてくれると信じていた。その信頼と安心がきよらにとっての幸福だった。今はもう、誰のことも信頼できない。自分より短い命を愛することはできない。

「泣く?」
「泣かない、つってんでしょーが」

「乱反射覚えたね。すごいじゃん」
「二度目」

「んー。凄いなって思って、ここ数日でかなり良くなったしさ」

「……色々教えてあげるから、奈良坂先輩みたいにさ」
 それは止めてと冗談めかす気にもなれず、黙りこくる。


「っていっても別におれ、奈良坂先輩みたく意地悪じゃないし」
 緑川が慌てたように言い添えた。「だよね? おれ凄い優しくない? ねー?」と、わざとらしくきよらの肩を揺さぶって、おどけた風に笑う。急にテンションを上げれば作り笑いだと、すぐバレるだろう。きよらは苦笑と共に緑川の足を踏んで、痛めない程度に、他に考え事をしているのが見透かされない程度に圧を掛けた。
「優しい優しいめちゃくちゃ優しい」はーとため息をつく。「まあ奈良坂先輩と比べれば鬼怒田さんでも温いわ」
「じゃあなんかもっと良いものと比べて褒めてよ。木虎ちゃんとか」
「ばっかおまえ、藍ちゃんが私に優しいと思うの?」
「いつも思うけど、なんできよらんって木虎ちゃんに付き纏ってんの? マゾなの?」

 緑川は、きよらと特別親しくしてくれている。何の見返りもなしに乱反射を教えてくれて、ここ最近ずっと一緒にいてくれるのは、きよらが落ち込んでいる風だからだろう。話していると楽しくて、一緒にいて気楽だ。
 それでもやっぱり信頼出来ない。その優しさにも、からかいにも、何か意図があるのではないかと考えてしまって、幾ら気楽と言っても菊地原といた時ほどに神経が休まることがない。

「うん。ま、感謝してるよ。ありがと」
 きよらにも、分かってはいる。もし菊地原がきよらの前で足を止めて、昔みたいに話しかけて、傍に居させてくれたとしても、きよらにはもう二度と菊地原を信じることは出来ない。
 誰のことも信じられない。誰の前でも神経が休まらない。一人ぼっちにはなりたくない。他人といると、気持ちが摩耗する。自分が分からなくなっていく。目を瞑る度に、頭の中でしずかに祈る。
 近界民も、街も、木々も、人も、足も、音も……全部、目を開けたら何もかも消えていますように。

「今の、もっかい言って」
「やだよ。下手に言質とられて裁判とかで不利になったら困るし」

ムオンノクニ//2


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