乱文倉庫
 三門市人口2……そこそこ。四年ぐらい前、この街に異世界へのゲートが開いたとかなんとか。
 まあきよらにとっては大した問題ではない。目下の問題はスナイパー仲間の先輩が、きよらを悪魔の下へと引きずり戻そうとしていることだ。可愛い後輩のことをミジンコやミドリムシ扱いする師匠がどこにいるのか。
 緑川からラインはバンバン入るし、古寺はあれやこれやと仲直りの方向に持っていくしで鬱陶しいことこの上ない。自分に謝ってほしいんだったら、まず奈良坂本人を連れてきて……いや奈良坂本人を前にすると反射で謝る癖がついてしまってるから、連れてこられては困る。
 大体にして奈良坂の干渉は師弟の域を超えている。何故父でも兄でもない奈良坂に毎日の学校課題について報告し、奈良坂の指示に従って進めていかなければならないのだろうか。提出日ごとに分別して、特に苦手な英語と並列させながら提出日が早いものからこなすようにしないから「明日提出の課題があるから今日はいけません」なんて訓練をサボることになるんだとか、ちゃんと授業中に真面目にノートを取れ、板書しただけじゃなくて時間のある時にこまめにサブノートに写していけとか、おまえは家庭教師かと言いたくなるアドバイスの山々。そーしたほうが良いのは、きよらにも分かる。きよらのためになることだとも分かる。でも、そんなことやってられないし、やりたくない。赤点取りまくり、綱渡り進級がデフォルトの太刀川を目の当たりにしているだけに、学業がそのままトリガーの扱いに反映されるとも思えない。奈良坂は自分が優秀だから、弟子のきよらにも最善を押し付ける。きよらは奈良坂や古寺みたいに勉強が出来るわけじゃないし、聞き分けが良いわけでもないのに。
 
「……でも、鈴原」
「じゃあ、これだけ教えて」


「米屋先輩に言われて来たんじゃないなら、一緒に奈良坂先輩んとこ行ったげる」
 古寺は無言で俯いた。ほらねほらね。ほーらね。
「私は、三輪隊のサンドバッグじゃないっつーの」
「分かってるってば! 分かってるよ! でもさあ、」
「あーもうダメダメ」
 古寺の前に突き出した人差し指をチッチッと左右に振る。

「古寺くん、ほんっと分かりやすい。当真さんの爪の垢でも煎じて煮て」
「飲まないと意味ない奴だからね、それ」チャッと、古寺が眼鏡の位置を直した。「煎じると煮るってほぼ同じ意味だし」
「古寺くんも、そーゆうとこ奈良坂先輩ソックシ。うざい」
「鈴原が妙な日本語喋るからだって、それで話どんどんズレてくし」
「ズらしたの古寺くんじゃん」

「兎に角私はスナイパー辞めます。師弟関係も終わり」
「そーゆーことだから、米屋先輩に『先輩のご機嫌取りはご自分でどーにかしてください』つっといて」
「そういう風に言うことないだろ」

「先輩は自分が悪いとはちょっとも思ってないんでしょ」

「古寺くんは、私に『癇癪を起こしてすみませんでした。私が全部悪かったです』って言えっての? 全く自分に非がないと思ってる人に対して百パーセントの謝意を口にして、ビンタと三輪隊に迷惑かけた責任を取れと」
「私も確かに悪かったけど、そこまで悪いことしてない」

「古寺くんと米屋先輩の言う通り先輩に会いに行って、先輩なんか古寺くんよりずっと口が上手いんだから謝らないとなって思うに決まってるじゃん。そしたら、十割私が悪いってことで謝ることになるんだよ。
 米屋先輩はあーゆう人だし、そもそも今回の件では被害者だから仕方ないとは思うけど、古寺くんは私と奈良坂先輩がどんな風だったかよく知ってるよね。それでも『鈴原が癇癪起こして奈良坂先輩がめんどくさくなって困るな』ぐらいにしか思ってないんでしょ。奈良坂先輩がめんどくさくなんなきゃ、如何でも良いんでしょ」
 きよらは、はっと顔を上げた。古寺はぽかんと、呆気にとられた風にきよらを凝視している。
「ごめん、」思いがけず本音が漏れたことに、カッと耳まで赤くなった。「睡眠不足でイライラしてた」


「私が悪いとは思うけど、そこまで責任とれない。ごめん。行く」
「いや」

「ちょ、鈴原! 鈴……!」

「あーもう……ほんっと……こんなはずじゃなかったのに」
 どすんとベンチに腰を下ろして、頭を抱える。



 言っちゃった言っちゃった酷いことを言ってしまった。


「わざわざ会場まで見に行くことなくないですか」
 風間と並んで歩く菊地原が気だるげにぼやいた。
「最近は笹森が好アシストするようになったし、一見の価値はあるだろう」
 左隣を歩く歌川に「なあ」と話を向けると、歌川は風間の意見にごく忠実に頷いた。
「そうじゃなくて、別に作戦室で中継見るぐらいで良いじゃないですか」
 一人菊地原だけが不平不満を垂れ流し、それは極めて有り触れて、平和で、仲睦まじい様子に見えた――少なくとも、彼らをよく知る者にとっては。そうしたやり取りの脇を何気ない顔で通り過ぎたきよらもまた、彼らをよく知る者の一人だった。
 スマホの液晶画面に目を落としてから、平然と振り向く。視線を左右に揺らし、探し人でもいるかのような素振りで、きよらは風間隊のやり取りを目で追った。向こうは、流し目一つくれない。それで良い、そうでなければきよらはさっと顔を背けて歩き去っただろう。


『ずっと一緒にいて』
 手を握る。汗ばんだ皮膚。手を引く。
 確かにあんたは、良いよとも、駄目だよとも言わなかった。

 友達はたくさんいる。男の子たちは優しくしてくれる。女の子も、きよらが冗談めかして話を盛り上げれば仲良くしてくれる。女の子たちとの付き合い方を学ぶ上で、女子校に入学したのは良い選択だったと思う。
 子供の頃、どれだけ馬鹿だったのか、今のきよらにはよく分かる。自分の力で物事を解決しようとしない馬鹿な子供だったから、大人たちに余計なおせっかいを焼かれたし、ありもしない才能に過剰な期待を寄せられ、発達障害の可能性まで心配された。今のきよらなら、バレエ教室の子たちに言わせっぱなしにしない。
 別に、何か言われて嫌なわけではないけれど。誰に、何を、どんな風に言われても。

『ママね、今日はパリのバレエ学校に来てるの。ほら、来年うちの研究所から……』
 四年と少し前、きよらを散々に苛めていた子が、来春パリに留学する。
 きよらは、第一次侵攻で腹部に裂傷を負った。歩行器を頼りに歩いていたきよらが、自分を見舞うための花束を抱いた彼女に何を言われたのか、母親は知らない。その子が、バレリーナの夢を抱いてパリへ行く。
 ぼうっと菊地原の姿を追うきよらの手の中で、スマホが震えている。母親の留守番電話と同じ、詰まらない愚痴、相談事、余暇を持て余した軽口。めんどくさい。きよらは着信を知らせて震えるスマホを構いもせず、風間隊の去った方角を見つめたままでいた。
 生きるのってめんどくさい。学校へ行って、放課後になったらボーダー基地へ言って、笑って、相手の顔色を見ながら笑って、なんて言ったら良いのか考えて、笑う。笑う。笑う。笑う。顔の筋肉が釣る。頭の中に、他人の声が湧いてくる。きよらの声を奪う。きよらの自我を殺す。なにもない、だれもいない。

 鈴原きよら、十四才。中学校三年生。
 母親は元バレリーナ、現バレエ講師。父親は大手貿易会社に勤めるサラリーマン、単身赴任族。それなりに富裕な家庭に生まれ、世間一般にお嬢様学校と呼ばれる、とある女子校に通っている。深刻な学業不振に悩まされていることは有名だが、同時に運動神経が良いことでも知られる。その一方で、きよらが昔バレエを習っていたこと、四年前の第一次侵攻で左腹部に裂傷を負い、小学校生活最後の一年間、殆どの時間をリハビリに費やしたことを知る者は少ない。再びバレエを踊るための努力と信じて尽くしてくれた母親は、きよらがボーダーに入隊してから殆ど家に寄り付かず、きよら以外の才能を愛するようになった。父親は海の向こうで異文化交流に夢中だ。
 三門市に住む人々から特別視されるボーダー隊員であり、尚且つ運動能力・容姿・財政面等で平均以上に恵まれていながら、学業不振という分かりやすい欠点のために、他人の親しみを集めやすい。後輩たちからは「面白い先輩」として慕われているし、クラスのなかでもムードメーカーとして扱われている。
 多分、誰もきよらを不幸だとは思わない。だから、きよらも自分を不幸だとは思わない。辛いことなんて何もないんだと、言い聞かせる。まだ頑張れる。頑張ろう。がんばろう。頑張らなきゃ。もっと、もっと頑張らないと。

 きよらは他人の気配がないのを良い事に、“きよららしくもなく”その場に立ち尽くしていた。勿論、他人が来たらさっと“いつも通り”に切り替えることは出来る。そうでなければ――立ち回りが上手くなければ、ボーダーに入ろうとは思わなかっただろう。菊地原と再会するためには、少なからず彼より上の“何か”が必要だった。A級隊員、幾度も近界遠征を体験している風間隊の菊地原に会うためには、昔のままのきよらではいられないと、そう思った。いや、そうでなければ許せなかった。

 バレエという武器を喪った分、きよらには新しい武器が必要だった。幸いにして容姿は人並み以上だったから、それに加えて社交力も上げることにした。
 明るくて可愛い女子中学生に媚びられて、邪見に扱う人間はそう多くない。きよらは、風間とも、歌川とも、太刀川とも、忍田本部長とも、殆どのボーダー隊員と親しい。勿論ベタベタとした付き合いではなく、それなりに分を弁えるよう気を付けてはいたけれど。
 それでも、菊地原の視界に映るためには“それだけ”では足りない。仲良しごっこなら、学校でも出来る。学業不振だけではなく、きよらが学校ではなくボーダーを選んだのは、年齢による区分を受けたくないからだった。
 ボーダーのなかでなら、きよらと菊地原は対等の関係になることも出来る。A級相当の実力をつけることで、彼がきよらの存在を直視せざるを得ない影響力を持つことも可能だ。
 だから、きよらは努力してきた。努力した。でも、やっぱり上には上がいて、結局B級のまま燻っていて、師匠とも揉めて、先輩隊員からも宥められて、なんだか疲れてしまった。家に帰ったら、居間と自室に掃除機をかけて、洗濯物を洗って、食事を作って、風呂を入れて、したくもない学校の宿題をとりあえず適当に片づけて、軽くランニング、ダンベル運動、お風呂から出たら柔軟……その間適当にラインやメールの相手をして、明日クラスメイトたちの話題に出るだろうテレビ番組を流し見して、寝る間際に、やっぱりクラスメイトの大多数が読んでるファッション雑誌に目を通して、身繕いのために朝は早めに起きて、学校にいって、放課後はひたすら射撃場やC級ブースに……ずっと、ずっとそれの繰り返し。

 ただ自分が他人より優れた人間として存在するためだけに、それだけのことに、どうせだれもいないのに、なんのためにがんばるのか、すこしわからなくなってしまった。
 たぶん、すこしつかれてるだけで、明日には元気になる。ならなきゃいけない。そうでなければきよららしくない。きよららしく出来ないなら、きよらに存在価値はない。


 ミドリムシね。ふっと、きよらは古寺がリークした、奈良坂の軽口を思い返した。
 単細胞だよねと馬鹿にされることには慣れているし、そういった台詞の殆どがからかい半分であり、悪意はない。気を悪くしたわけではないが、少なからず尊敬する相手に単細胞扱いされるのは受け流し難い痛みがあった。
 古寺の言う通り、奈良坂はきよらを嫌っているわけではない。寧ろきよらを買ってくれているとも思う。
 でも母親だって、昔はきよらのことを買ってくれていたのだ。でも、きよらがバレエを愛していないと知って家を空けるようになった。今は多分、きよらより、パリへ留学しようとしている教え子のほうを愛している。奈良坂だって同じだ。きよらは優秀なスナイパーになりたいわけではない。子どもの頃、母親の気を惹くためだけにバレエに打ち込んでいた。今は、菊地原の気を惹くために優秀なボーダー隊員になろうとしている。他人である分、奈良坂のほうがずっときよらの不真面目さに対して露骨な失望を抱くだろう。

 犬じゃあるまいし、ただ義務感で構ってくれる人に好意を抱くなんて馬鹿げている。

ムオンノクニ//1


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