乱文倉庫
 何故元師匠と共に、このような洒落た喫茶店にいるのだろう。
 きよらは心から疑問に思った。事の発端は、優雅にザッハトルテを食している。ついでにフォンダンショコラもある。きよらの頼んだものではない。きよらは甘いものが――ことに、こうした凝った菓子が嫌いだ。渋々ストレートのアイスティーを啜る。

「それで、何の用なんですか」
「特に用はない」
 ふざけろよ。きよらはワナワナと震えた。

「……ここに、おまえと来たかった」
 ぽつんと零された言葉にドキッとする。

「男一人で入るのは流石にまずいだろう。章平も陽介もこういうところは嫌いだからな」
「先輩モテんだから、そこらで女の子引っかけりゃいいじゃないすか」
「面倒くさい」
 モテることは否定しないのか。これだからイケメンってやつは……。

「有象無象に顔だけで好意を寄せられても、面白いことは何一つない」
「今の録音して太刀川さんとか当真さんたちに聞かせたいんで、もう一回言ってください」

「少しは気が紛れたみたいだな」

「……ボーダーを辞めるつもりなのか?」

「木虎と話してるのを聞いた」

「おまえとおれは、もう師弟でも何でもない。おまえがおれのことを嫌っているのは周知のことだ。今更おまえが何をしようと、失言を働こうと、何も変わらない」

「ボーダーを辞めるつもりだと、木虎にはそう言えなかったんだろう」
「そう、です」

「辞めます」
辞めるな
 は?

「ボーダー隊員はやめるな。狙撃場に戻ってこい」


「師弟関係は解消したままでいい。おれが言い過ぎた」奈良坂が頭を下げる。「戻ってきてほしい」
 思いがけない謝罪に、きよらはぽかんとした。
 そうだ。菊地原と揉めたり風間に叱られたり、木虎に詰られたりで忘れ気味だったけど、もとはと言えば奈良坂と揉めて、師弟関係を解消したところから始まった騒動だった。奈良坂の蛮行に憤っていた頃が、懐かしく思える。あれから、ほんの三か月しか経っていない。今思うと、しょうもないことで――いや、まあ奈良坂は明らかに過干渉だった。

「戻って……それで、先輩に何か良いことがあるんですか?」
 きよらは、カラカラとストローで氷を追い回した。
「私がスナイパー辞めたのも、ボーダー辞めようって思ったのも、全部先輩のせいじゃない。だから、気にしなくて良いんですよ。先輩の学校からうちの学校まで来るの、手間だったでしょう」
 苦笑と共に、眉を下げる。
 結局、この人は、どこまで言っても欠点のない人なのだ。その美点が、きよらには他人事にしか思えない。形ばかり弟子になってみても、奈良坂はきよらの手の届かないひとだった。
「罪悪感を晴らすなら、私がやったみたいに、ラインで一言声を掛けるだけでも十分なんですよ」

「でも……私も先輩の顔を見て、言いたいことあったから、良かったかもです」
 居ずまいを正して、奈良坂がしたのより深く頭を下げる。
「先輩なりに一生懸命指導してくれてることは分かってたのに、茶化したり、我儘言ってすみませんでした」

「トリオン体とはいえ、先輩のこと叩いて、悪かったと思います。酷いこともいっぱい言って、ごめんなさい」

「ほんの半年程度だったけど、先輩に師事出来て良かったです」

「……ありがとうございます。でも、もう良いんです」

「もう良いんです」

「私、古寺くんみたいに良い子じゃないし、馬鹿だし、身勝手だし」
 段々、声が潤んできた。歯を食いしばって、頬を掻くふりをして誤魔化す。

「全部先輩のせいじゃないんです。私に対して、変に義務感とか感じなくて良いんですよ」

 一生懸命感情を押し殺して言葉を続けるきよらを、奈良坂はじっと見つめた。

 奈良坂がきよらと初めて出会ったのは、狙撃場だった。
 偶然ブースが隣り合って、C級の割りに筋が良いなと思ったのが第一印象。だから、約束していた古寺が中々姿を見せないのも関係して、少しアドバイスしてやるかと思った。アドバイスといっても、少し姿勢を直させただけだったけれど、たったそれだけで狙いがブレなくなった。指導ありがとうございますと言って、自分の成長を確かめて安堵した風に笑う顔が眩しくて、その素直な笑い方が好きだった。自分がきよらの才能を伸ばしてやりたいと思った。何度でも、その笑顔が見られるのなら、自分が。
「責任感だけで他人に構うほど暇じゃない」

「……なんで?」

「頭が悪いから? 可哀想だから? 年長者としてほっとけない? 自分の良心が咎める?」
 きよらがにっこり笑った。

「私は大丈夫です」
 対外的な微笑みを浮かべるきよらの頬に、涙が伝う。


「もう、ほっといてください」
 堰を切ったように、ポタポタと涙が机を打つ。きよらはひくりと、不自然に頬を動かすと、恥じ入った様子で唇を噛んだ。肩が、屈辱と苛立ちに震えていた。
 きよらは実際馬鹿だったけど、容姿は整っていて、いつもたくさんの友達に囲まれている。会話の中心に陣取って、クルクル表情を変え、話題を変え、話を振って、相槌を打ってと見ているだけで忙しい。誰の目にも、きよらは恵まれている。鈴原さんは良いよねと口にする女子隊員を目にしたことも、少なくはない。
 その恵まれているはずの子どもが、誰の目にも入るまいと俯いて、人前で泣いたことを恥じている。耳まで真っ赤にして、惨めに取り乱している。まだ、十五才の子供が。

「嫌だ」
 ゆったりと、奈良坂はきよらの求めを拒絶した。

「おれは自分のことを“世間一般からみて正しい人間”だとは思わない」

「自分のことを嫌っている女子に、年齢をかさに着て付き合わせるのが、善良な人間のやることか?」
 少しずつ、言葉を重ねる。
「勉強は嫌いじゃない。昔から本を読むのは好きだった。体育も苦手じゃない。でも大縄跳びとかトランポリンとか創作ダンスとか、目的不明で何となくリズムに乗って体を動かすことは大嫌いだった」

「木登りも出来ない」

「他人の顔色を窺って言葉に配慮したり、相手の都合をあれこれ考えるのも苦手だ」

「おれはおれがしたいことをしたいようにしているだけで、それが正しいかどうかは考えたこともない」

「だから正直言って、おまえが大丈夫だろうが、死にそうだろうが如何でも良い」
「え」
 きよらがぎょっとして、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

「おれはおまえにボーダーを辞めさせる気はないし、引きずってでも狙撃場に連れ戻す。師弟関係にしたって、おまえが一方的に解消すると言ってるだけで、おれは同意した覚えはない。結婚でも雇用でも、他人と何等かの関係を結ぶのにも、それを解消するのにも、双方の合意が不可欠だ。おれはまだ“わかった”とは一度も言っていない。おまえが一人で師弟関係を解消した気になっているだけだ。おれは間違ってない。例え師弟関係になかろうと、おまえはおれが見つけて鍛えた才能だ。その進退について、半分ぐらいは口出しする権利がある」

「さっさとしろ、狙撃場に行くぞ」
「や、」きよらは、ぱくぱく口を動かした。「い、や、やだ」

「理由を言ってみろ」
「え、だって」

「……だって」

 ほろほろっと、また涙をこぼす。
 放心しているような泣き方だと思った。他人のための感情。自分の本音が分からなくなるほど笑って、ふざけて、鈍感を気取って、脆い素顔が外気に晒されることを人一倍恐れている。
 カップの脇に置かれた手を取ると、想像していたよりもずっと華奢な手をしていた。自分より幼くて、小さくて、柔らかい。少女の手をしている。この手が、武骨な武器の引き金を引く。

「照準を合わせてる時の、おまえの横顔が好きだ」
 きっと、ずっと前から、はじめてあった時から、“そう”だったのだと思う。


「戻ってこい。おまえには向上心がある。おまえの望む場所まで、おれが連れて行ってやる」

 どこに。きよらは、奈良坂の大仰な台詞を聞いて、ちょっと笑った。
 きよらは、三門市以外のどこにも行きたくない。このまちがきよらの育った場所で、菊地原がいて、木虎がいて、緑川がいて、荒船や、忍田、風間、太刀川……どこか遠くへ逃げたいと思うには、あまりに優しくて、魅力的な人がたくさんいる。
 だから強くなりたかった。大切なもののために、圧倒的な脅威を前に一歩踏み出すことが出来る自分でありたいと、そう望んだ。惨めで、弱くて、保身的で、我儘で、そんな自分が嫌だった。自分が縋れるものは全部排除しようと思った。今ここで死んでも、生きてても一緒だと、普段から考えて暮らそう。毎日毎日「ほら、一歩踏み出せなかった未来のなかで、ちっとも幸福じゃないでしょう。この寂しさのなかで生きるより、死ねばよかったのに」と自分に言い聞かせて生きていこう。そうしなきゃ、私は何が大切かも分からない馬鹿だから、そうするより他にない。私みたいな馬鹿の気持ちは、頭の良い人には分からない。とりわけ、奈良坂先輩みたく何でも出来る人には、決して。

 そのあなたが、私の才能を信じて引き留める。


 きよらは無音の中で静かに涙をこぼし続ける。
 自分の傷を語らないし、悟らせようともしない。二面性のある性格から、きよらの自制心が人並み外れて強いことが分かる。思い返してみれば、きよらが向ける敬意があんまりに自然だった。奈良坂自身は周囲の評判など対して気にしないし、自分自身の努力とそれが産む結果に自信と満足感を抱いていたけれど、それでも心中には“当真さんのような才能はないな”という気持ちが存在する。才能で言えば、多分きよらにだって敵わない。才能に対して卑屈になっていたわけでないが、だからこそきよらが執拗に自分と奈良坂の間に線を引こうとする理由が分からなかった。その線引きが、きよらの不真面目さによるものなのだと苛立った。不真面目な弟子が、自分の指示通りに姿勢を直し、嫌そうな顔をしつつ自分の話を聞いて、話の要点を纏めようと相槌を打つ。その一つ一つが自分への敬意で、古寺の言葉に思い返してみればきよらは決して奈良坂以外の人間のアドバイスを鵜呑みにすることはなかった。当真や荒船、東からのアドバイスでさえ、最終的には奈良坂の確認を取ってから取り入れるようにしていた。当真が奈良坂をからかう時の決まり文句である「万年二位」というレッテルを、きよらは一度たりとも本気に取ることはなかったのに、たった一度「先輩より当真さんのがずっといい」と言われただけで不愉快だった。いつもいつも自分を馬鹿にして、不真面目で、結局おまえも“それ”かと、自分らしくもなくカッとなった。カッとなったけどその後すぐに平手打ちされて、怒気を削がれた。あの時きよらが手をあげなければ、自分がきよらに酷いことを言ったかもしれないし、手を上げるとまではいかずとも、怯えさせてしまったかもしれない。

 狙撃場で出会った、奈良坂が見つけた“才能”。その才能を手塩にかけて育てようと思ったのは、きよらが屈託ない笑みで自分の向上を喜んだからだ。自分のアドバイスを受けて、きよらが安らいだ笑みを浮かべて喜ぶ。その、たった一度の笑顔がずっと忘れられなかった。その笑みは奈良坂に向けられたものではなかったけど、きよらの向上心を支えていけば、いつか自分のために笑ってくれるかもしれないと思った。
 才能云々より、先輩としての義務感より、きよらが笑ったときに自分のなかに沸いた感情が何なのか知りたかった。こうして何の虚勢もなしに涙を零すきよらを前に、あの時抱いた感情の輪郭がおぼろげに浮かんでくる。

 ツンと取り澄ました瞳が安堵と喜びに細められて、不愛想に引き結んでいた口元が高揚感に弧を描く。華奢な背中が僅かに丸められる。イーグレットに添えられた手が脱力して、その指が銃身を優しく撫でる。あんなに全身で“嬉しい”という気持ちを表現出来る人間は、そうそういない。その喜ぶ様が可愛いと思った。その喜びは、家族か友達か、もしくは単なる向上心のためなのか、誰を思ってのものか知りたいと思った。もしも自分のための感情だったら、どんなにかこの少女を可愛く思うだろうと思った。なんて可愛い奴だろうと、そう思ったのだ。
 可愛い奴だ。おれの傍で、いつかおれのために屈託なく笑って欲しい。これだけ才能があれば、じきに誰かこの少女と師弟関係を結ぶだろう。誰よりも早くおれが見つけた才能。可愛い弟子。

 きよらはおれの弟子だ。だから決して手を離さない。
 例え信頼がなくても、おれの手を振り払えないのならそれで構わない。今度こそ、きよらを大事にしよう。そうしたら……いつか、おれのために、あの笑みで笑ってくれるかもしれない。


「……もういちど、」涙で潤んだ瞳が奈良坂を映し出す。「また……よろしくお願いします」
 こっくり頷いて、きよらの手を握る指に改めて意識を差し向ける。

 自分の指示を信じて引き金を引く華奢な手。嗚咽を漏らすこともなく涙を流す、可愛い弟子。不信に塗れた心で懸命に奈良坂の信頼に応じようとしている。本音を晒すことを恐れている癖に、誰よりも奈良坂を尊敬していて、奈良坂が優秀な人間で、自分のために間違ったことをしないと思い込んでいる馬鹿な弟子。今はそれだけで良い。
 それが、誰のことも信頼出来ないきよらの精一杯だと分かったから、もうきよらを不真面目だと決めつけることも、きよらの軽口で苛立つこともないだろう。

「たたいて、ごめんなさい」
 気持ちの整理がつかないのか、一度泣きだしたら収まりがつかなくなったのか、メソメソと泣き続けるきよらに、即物的な感想が募っていく。
「……トリオン体に痛覚はない。もう良い」
 可愛い。手が小さい。肩幅が狭い。まつ毛が長い。首が細い。唇がやわらかそうだなとか、前に彼氏がいたんだったなとか、そいつのことをまだ好きなのかなとか、そいつが如何いう人間だったかとか、キスまではしたんだろうなとか、手がすべすべしてるとか、悶々と心中に降り積もる。

 好きだなと意識した途端に、珍獣でしかなかったきよらが異性に見えてくる。もっと触りたい。キスしたい。好きだと言って欲しい。可愛い。自分のものだと他人に牽制したい。好きになってもらいたい。きよらのほうから、自分に触ってほしい。キスして欲しい。ぎゅっとしがみ付いて欲しい。誰にも見せたくない。
 如何しようもない気持ちを自覚した奈良坂は、そーっときよらの手を離した。

 とりあえず、暫くは師弟として平穏にやっていくしかないだろう。
 緑川とは単なる友達同士でしかないし、元々女子校に通うきよらは男っ気がない。荒船が面白がっている節はあるが、流石に三つも年下だし、奈良坂を邪魔してまで手を出すつもりはないようだ。古寺とは単なる先輩後輩だし、米屋や出水とは一時のおふざけを共にする仲間でしかない。当真さんは年上好きだし、太刀川さんも子供に興味はない。前の彼氏のこと等、色々引っかかるところはあるが、今のところきよらに最も近しい男は奈良坂だ。
 邪魔者はいないのだから、ただ外堀からゆっくり埋めて、逃げられないよう気を配るだけで良い。


 表向き元鞘に戻ったのだろうが、奈良坂の心中は妙なところに転がってしまった。

ムオンノクニ//16


prevmenunext

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -