乱文倉庫
「せんぱい」
「きよら」

「何のご用でしょうか」
「分かるだろう」

「借りた本は宅急便で返しましたし」
「非常識にもな」
「ちゃんと元払いで送ったじゃないですか!」
「そういうことじゃない」

「……もう、十分だろう」
「何が?」
「だから――いつまでヘソを曲げてるつもりだ」
『いつまでヘソを曲げているの』

「一週間も狙撃場に来なかった。一週間も。こないだおれが話した遠距離射撃での目標物との距離の測り方も、レーダーを併用しての援護射撃のことも全部忘れてるだろう」
『これで一ヶ月もお稽古を休んだことになるのよ。一ヶ月も。もう足が開かなくなる頃よ。毎日毎日一生懸命お稽古して、やっとクララを躍らせて貰えるようになったのに、全部忘れてるでしょう』

 きよらは、ぱくと口を開けた。何も言わずにきゅっと唇を結んで、視線を俯ける。
 バレエも、狙撃も、それ自身が楽しいとか、遣り甲斐があると感じたことは一度としてなかった。バレエ浸りで、子供の世話を親に任せきり。そんな母親が構ってくれるのが嬉しくて続けていた。狙撃は、一番自分に向いていると思った。向いている――A級相当の実力を身に着けて、菊地原と肩を並べたかった。
 きよらにとってはバレエも狙撃も、所詮は“望みを叶える手段の一つ”に過ぎない。だから母親の気持ちも、奈良坂の気持ちも理解出来ない。如何してこの人たちは、こんなに一生懸命なんだろうかとさえ思う。
 バレエはまだ良い。その道を極めればそれなりの栄光を手にすることもあるし、将来的な職にも通じる。狙撃なんて――この“平和”な現代社会において、狙撃を極めたところで何か得るものがあるのだろうか。シモヘイヘだって、1990年代に産まれていればごく普通のサラリーマンとして暮らしただろう。
 この世界は平和だ――三門市を除く、全ての国々は。


「だって、アタッカーが狙撃場行ってどうするんです」
「おまえにアタッカーが向いてるわけがない」
「そらそーだ。スナイパーとしては二流、アタッカーとしては三流ですもんね」
「事実を言ったまでだ。道理も分からない幼稚園児でもあるまいし、馬鹿みたいに拗ねるのは止せ」

「おまえは適宜戦闘を離脱して広い視野で状況を判断するということがまるで出来ない。そんなことで、スナイパー・ガンナーよりずっとシビアな連携が要されるアタッカーで上に行けるはずがないだろう」
「個人戦では良いかもしれないが――おまえ程度のアタッカーは掃いて捨てるほどいる」

「どうしておまえは自分のやるべきことを全うしようとしないんだ」


『ボーダー隊員は遊びでなるものじゃないのよ』
『ねえ、30秒の何がヤだったの』
『あんたなんか、鈴原先生の娘じゃなきゃ誰からも見向きもされないくせに』
『菊地原くんに見捨てられて、そうしたら、きよらちゃんに何が残るの?』

『おまえみたいな役立たず、最初から』


『おまえみたいな役立たず、最初から嫌いだった』
 知り合いだとか思われたくないから、二度と話しかけないでくれる。シロも死んだんだし、少しはまともに友達の一人も作るようにしてみたら? 勝手に付き纏って、死にかけて、こっちは良い迷惑だよ。
 何のとりえもないんだから、この機会に少しは協調性を養ったほうが良いんじゃない。


 ずっといっしょにいて。良いよとも、駄目だとも、なにもいわなかったね。
 渋々付き合ってくれてたんだね。私が付き纏うから、鬱陶しいけど我慢してくれてたんだね。しろーくんは優しいから、ギリギリまで黙って傍にいさせてくれたんだね。知らない間に、私は馬鹿だから、しろーくんを苦しめてたんだね。一緒にいるだけで大変だったよね。馬鹿な私がベタベタするから苛立ったよね。気持ち悪かったよね。死んだ方がすっきりしたのかな。しろーくんは優しいから、そしたらもっと気にしたかもしれない。平気な顔で笑おう。笑って、ごめんねって謝ろう。被害者ぶって泣いたりしないで、笑って、しろーくんが言い過ぎたって思わないように平気な風を装う。そして二度としろーくんに不快に思われないように自分を変えよう。私が変わったら、また傍にいさせてくれるかもしれない。

 しろーくんのそばにいたい。
 一生懸命頑張るから、何か一つでも取り得を作るから、役立たずじゃなくなるから、何でもするから一緒にいさせて。そう思って、がんばった。でも、もう如何すれば良いのか分からない。しろーくんの傍にいても辛い。しろーくんじゃない人の傍にいても辛い。一人ぼっちはもっと辛い。自分がなにをしたいのかも分からないのに、自分がするべきことなんて分かるわけがない。何故この人はいつも私が全部分かっていることを前提で話すんだろう。

 奈良坂先輩は頭が良いし、自分がしたいことも、自分のやるべきことも全部分かっている。多分“役立たず”と言われたことがない。これから先も、誰も先輩のことを役立たずだと思う人はいない。


 別に、気にしてない。
 私は恵まれてるほうだし、友達も多いし、結構可愛いし、勉強出来ないからって死ぬわけじゃない。っていうか、私より太刀川さんのが勉強出来ないと思うし、それでも元気にやってるし――でも、あの人は個人ランク1位で、凄く強くて、他人を惹きつける力がある――下を見れば切りがない。上は遠く霞んで見えない。
 ボーダー隊員として防衛任務に従事している。子どもらしく、親の言うことには口答えしていない。学生として、ちゃんと毎日学校に通っている。生きる上での最低限は常に果たしているつもりだ。
 それでもあなたは私の怠慢を詰る。じゃあ、私がやるべきことって、なんですか。聞いたところで、如何にもならない。私はもうこの人を見限ったし、この人も、そろそろ私を見限ったほうが良いと思う。

 滅茶苦茶に傷つけてやりたい。役立たずと言ってやりたい。
「せんぱいは」
 口を開いたところで、きよらは自分のなかの破壊衝動を飲み込んだ。
 古寺に対して本音をぶつけたとき、どれだけ後悔したことだろう。沈黙は金だ。いつだってきよらは大事なことは口にしないで生きてきた。菊地原に一緒にいてと縋ったことさえ、今は悔いている。誰にも何も言わないほうがいい。きよらが黙っていれば全部丸く収まる。奈良坂は正しい。きよらが何も分からないのは、この人のせいじゃない。きよらが如何したら良いのか分からないのは菊地原に突き放されたからで、それだって自業自得なのだ。
「先輩は、いつも正論ですね」
 そうと口にしてから深くため息をついて、半笑いで言葉をつづける。
「藍ちゃんも、古寺くんも、荒船さんも、東さんも、皆先輩が正しいって言う。謝れって」

唯一当真さんだけは『奈良坂が女に平手打ちかよ〜』ってめちゃくちゃ笑ってた……
 そして暫くの間“安定の破局報道”とかいって、スナイパー仲間に触れ回ってくれた。
「あの人はそういう人なんだ」
 土壇場で誤魔化したものの、頭の中にはもう何のからかい文句も浮かんでこない。
 当真のことも、奈良坂のことも如何でも良い。今はもう、誰にも何も聞かれないように一人になりたい。貝になりたい、それは中居正広主演の映画。ポルノの歌詞にもあった気がする。どうしよ。どうしよ。何言おう。


「……おれも正直、」
「やべー!」
 カラカラの喉から、無理におどけた声音を絞り出す。掠れ声を唾液で湿らせて、大仰に頭を振ってスマホのロック画面を確認する。逃げよう。「UMA特集始まるんで帰ります!」言うが早いか、踵を返すのが早いか、きよらは全速力で走り出した。ぽかんと呆気にとられた奈良坂が追いかける。
「きよら、待て!! きよら!!」
 走りながら、きよらはポケットから取り出したトリガーで戦闘体を構築する。その時の服装がそのまま戦闘体に反映される設定なので、耳元の通信機器の有無でしか生身との区別がつかない。勿論、奈良坂もきよらがトリガーを利用して逃走することには慣れっこだ。しかし何度か奈良坂自身も戦闘体に換装して追いかけたものの、それでもグラスホッパーと思い切りの良さを有するきよらには追いつけなかった。
 窓から身を躍らせたきよらが、身を切る風に負けないよう声を張って叫んだ。
「すみませえん!!! 今日は絶対見逃せないんでえ!!! 続きはラインでお願いしまぁす!!」
 着地と同時に生身に戻って走り去る元弟子に、窓枠から身を乗り出した奈良坂が声を荒げる。
「メッセージを入れたところで未読スルーするだろう!!!」


 奈良坂透       128
 いい加減既読をつけろ



「……おれが、しょーじき」「なんだってのーよ」

「出来が悪い奴だって、そう思ってるくせに」
 話半ばで途絶えてしまったものに、きよらの欲しい台詞があったためしがない。
 きよらを前にして言いよどむ、その沈黙で千切れた言葉は大抵きよらを傷つけるものだ。優しい風を気取っていても、すっかり本音を隠せる人は少ない。きよらを傷つけるのを躊躇う優しさ、己に嘘をつくことを戸惑う実直さ――沈黙には何の咎もない。その沈黙を産んだ自分の行いこそが、恥ずべきものだった。きよらは頭が悪いし、性格も悪い。一人娘で甘やかされてきたから、すぐに他人に頼りたくなる。一人でいるのも好きじゃない。構って欲しい。そういったエゴを押し付けるだけ押し付けて、そんな自分に嫌気が差した。

 奈良坂先輩は正しいと、きよらは自分自身の感情でそう思う。奈良坂は、きよらが上に行きたがっていることをよくよく理解している。見当違いの苦言を呈したことは一度としてなかった。棘のある物言いは確かにきよらの勘に障ったが、きよらを傷つけたくてそう言っているわけではないことも分かっていた。奈良坂は奈良坂なりに、出来の悪い弟子を鍛えようと腐心してくれている。奈良坂の言う通りに励んでいれば、ちゃんとA級昇格を見込める隊に入って、名実ともにA級に上がることも夢ではないだろう。ただ、その期待に、きよら自身が“もう着いていけない”と思ってしまった。
 課される訓練メニューに無理があるのではない。奈良坂の失望や怒りを買う度に、きよらも自分のことが嫌いになっていくのだった。いつだって正しくて、頭が良くて、理性的で、優れたスナイパーでもある奈良坂に叱られている――もう、その構図が耐えられない。忘れるよう努めている台詞が、脳裏に浮かび上がってくる。

「かえろ、UMA特集……みなきゃ」

 しろーくん、わたしが奈良坂先輩みたいだったら、今も仲良くしてくれたの。
 歌川くんみたく強くなったらいい? 風間さんみたく強くなったらいい? 藍ちゃんみたく強かったら、意識に留めてくれる? 緑川とか、双葉ちゃんとか、太刀川さんとか、出水先輩とか米屋先輩とか――私、もう他人に甘えたりしないから、何でもしろーくん任せにしないし、五月蠅く付き纏ったりもしないから、ねえ。
 今度はちゃんと頑張るから、頑張ってるから、

「……頑張ってないけどね」
 奈良坂の言うことは正しい。スナイパーだアタッカーだとフラフラしていれば、戦闘技術も狙撃技術も中途半端になってしまうのは当然のことだ。本当に“頑張ってる”と胸を張って言いたいなら、スナイパーに徹しているべきだった。
 菊地原の拒絶を受け入れることも出来ず、奈良坂の苦言に耐えることも出来ない。
 向上心や好奇心から前に進みたがる人々のなかで、きよらはどこに行けばいいのか分からず立ち尽くしている。近界民が殊更憎いわけでも、正義感や責任感が強い性質というわけでもない。きよらのなかには“何かしなければ、結果を出さなければ”というどうしようもない焦燥感だけが存在していて、その焦燥感を紛らわせるのは“ボーダー隊員”に求められる向上心や責任感だけだった。

 きよらが欲しいのは、たった一人だけだ。菊地原から向けられる好意以外、如何でも良い。
 ボーダー隊員になったのも、A級隊員を目指すのも、全部菊地原のためだ。早く菊地原と同じA級隊員になって、近界遠征を目指せるような高位の隊に入りたい。きよらが未だにどこの隊にも所属していないのは、生半可な強さの隊員とチームを組みたくないからだった。下手にB級隊に所属して、ランク戦を勝ち上がっていけるかなんてわからない。きよらはチームの絆を深める気はないし、一緒にA級を目指して頑張ろうなんて友情ごっこに興じる気もない。風間隊と同程度の強さのない隊に興味はない。きよらの目指すものは、そこにある。スナイパーという役職に甘んじた理由の一つには、需要の高さもあった。隊員同士相性の摺り合わせが難しいため、アタッカーやガンナーが隊外の仲間と連携するためには、各隊オペレーターのみならず、戦況を俯瞰視して細かい指示を出す“司令塔”が必要になる。故に、彼らが即席チームで行動することは滅多にない。勿論、A級隊員の殆どはどのような相手とでも臨機応変に連携を取ることが出来るし、何なら司令塔として他の隊員を動かすことも可能だったが。要するに、アタッカー・ガンナーのA級隊員はそれだけの手腕と頭脳――もしくはカリスマが求められる。そう考えてみると、仲間内の連携を最も重視するはずのスナイパーはかなり融通が利く役職だった。通信機器さえあれば、簡単に連携が取れる。A級アタッカー・ガンナーの多くが持ちうる“司令塔”としての知識と判断力は、A級に上がるための必須要素ではない。
 ただランク戦さえ勝ち上がれば、A級隊員になれる。スナイパーは連携が基本の役職だけに、個人主義の人間が多かった。当真などは、その典型例だ。きよらも、当真みたいになりたい。でも、当真は単なるスナイパーとして優秀なだけでなく運も、勘も良い。一朝一夕で真似できるものではないし、多分きよらは五回死んでも当真のようなスナイパーにはなれない。

 早くA級に上がりたい。そして菊地原と“幼馴染”以外の縁を作りたい。菊地原に見直して貰いたい。
 奈良坂との師弟関係を続けてきたのも、単に彼が“スナイパー”として最も優れていると思ったからだった。その日の気分や運によってピンキリの結果を出す当真とは違って、奈良坂は確実な結果を出すことに頓着している。だからきよらは、この人を真似るのが一番良いと思った。この人が、スナイパーとして一番優れている。きよらが奈良坂との師弟関係を続けているのに、それ以外の理由はない。ない、と思う。


 優秀な奈良坂先輩には、私の気持ちは分からない。
 頭が良くて、スナイパーとしての実績も残していて、自分に確固とした自信を持っていて、かっこよくて、身長まで無駄に高い。奈良坂先輩は「自分が今、何をするのが最善なのか」をきちんと分かっている人だ。
 奈良坂先輩に呆れられるたびに嫌な気持ちになる。なんで分からないんだと言われる度に、泣きたくなる。私みたいに“分かっててもそれが出来ない人間”の気持ちは、何でもできる先輩には分からない。
 奈良坂先輩と一緒にいると、自分が嫌いになる。自分が如何しようもない馬鹿で、身勝手で、利己的で、世界で一番醜い人間みたいに思えるから、先輩と一緒にいたくない。先輩から叱られたくない。

 師弟関係を結んでからというもの、奈良坂はきよらのやることなすこと不平不満だらけで、章平が章平は章平なら章平にの“章平五段活用”で説教するばかりだった。その上、一度顔を付きあわせれば、必ず一つは小言が出る。しかも「髪や爪が長すぎる」だの「宿題は終わってるのか」とか「こないだの訓練に来なかったのは如何いう料簡だ」なんて、詰まらない理由で。当初はきよらも大人しく従っていたが、“顔を付きあわせれば小言を言われる関係”が“顔を付きあわせれば口論になる関係”になるまで、時間は掛からなかった。

 奈良坂と一緒にいると、きよらは自分が嫌いになる。自分が如何しようもない馬鹿で、身勝手で、利己的で、世界で一番醜い人間みたいに思えてくるから、自分を守るために奈良坂のことを嫌うことにした。
 この人が大嫌いと思うことで、自分の愚かさも身勝手さも、その醜さの全てを忘れたかった。

ムオンノクニ//4


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