ヒバリはお天道様に金返せと鳴いている。らしい。
 実際に聞いたことはないし、社蓄同然の生活を送る私にバードウォッチングの予定はない。
 並盛町はヒバリの羽根一枚落ちることのないコンクリートタウン――少なくとも私の行動域は――である。己の意思で校外に出ること叶わぬ私は、お天道様より強い強制力を持つ上司に夏返せと鳴くことも出来ず、したくもない仕事に従事せざるを得なかった。

 世の学生たちの例に漏れず、私も小学生の頃から夏休みが大好きだった。ビッグイベントと言えば母方の田舎へ行ったりするぐらいで、あとは友達の家を行き来して遊ぶのがお決まりという退屈な休暇を過ごしていたけれど、それでも毎夏終業式の時にはわくわくしていた。
 しかし中学にあがって初の終業式、私は校長と教務主任にアンコールを送りたい気持ちで体育座りしていた。
 中学にあがったら行動範囲も広くなるだろう、友達と遊園地に行っちゃったりして等と、期待に胸を膨らませていたのも桜美しい春までの話である。実際に夏季休暇を迎えてみれば、汗をふきふき空っぽの校舎へせっせと通うことを強いられる悪夢の日々が待っていた。叶うならずっと校長の話を聞いていたかった。あんなに夏季休暇が待ち遠しくない終業式ははじめてだった。
 たかが休暇中の委員活動……と思われるかもしれないが、例え風紀委員会に属していなかろうと灰色の夏を過ごすだろう男達と書類整理に興じたり、町内徘徊、じゃない、町内の巡回や、並盛中学生の生息分布図作成に耽らされる夏季休暇に幾人耐えられるのか。

 個人的な青春イメージとしては高校のそれに劣るとはいえ、中学の夏季休暇だって一生に三度きりだ。海に遊園地に花火大会――同級生たちが短い夏を謳歌している時に、何故私は円状に直した彼らの行動域を色鉛筆で塗りつぶしているのか。見ろ、私の行動域など家から学校までを結んだ直径一センチに過ぎないのに、他の生徒は皆最低でも三センチは楽しんでいるじゃないか。

 仲間たちのジェントルメンシップと受け取るべきか、はたまた性差を理由に面倒な雑事を押しつけられていると恨むべきか、肉体仕事の多い他の風紀委員と違い、レディーたる私の主な仕事は空調の故障した空き教室で事務作業に勤しむことである。
 空調の生前は何人かの委員が手伝ってくれていたが、彼らは蒸しサウナ状態の教室で汗で滑る文房具を弄っているよりは外を歩き回っているほうが良いと判断したらしかった。何が腹立たしいって、薄情な委員仲間でもなく、時折ジュースを差し入れてくれる副委員長・草壁さんでもなしに、委員長・雲雀さんが根城にしている応接室が心地よく冷えていることだ。
 応接室には作業の経過報告や書類の受け渡し等で日に何度も出入りするが、一歩足を踏み入れるだけですっと汗が引いていく。同時に血の気もすっと引いていきかねないので、長居したいとは思わないし、万一雲雀さんから応接室で作業するよう提案されたとしても固辞することは想像に難くない。君子危うきに近づかずである。“痛い”より“暑い”のほうが幾らかマシだと、私はそう思う。

 ――とはいえ一旦応接室から出て、究極の二択から解放されればクーラーのある自室が恋しくなる。家に帰りたい。コンパスでくるくるして色鉛筆でざかざかするだけの作業には飽きた。雲雀さんは「見難い」とか「別に方法はないの」とか小うるさいし、休みたい。そうやってウダウダしている時に限って草壁さんが作業の進み具合を確認しにきて下さる。草壁さんはその反社会的な外見と相反して思慮深く心優しい、部下への気配りに長けた人だ。そう感謝しつつも、口から零れるのは不平不満ばかりである。

 清掃委員だって図書委員だって生徒会だって夏季休暇中は大抵休みです。
 県大会等を控えたクラブ活動は別として、何故我々は風紀委員の全国大会があったら優勝間違いなしなレベルで働かされるのですか。

 答えの見え透いた問いに草壁さんは尤もらしい顔を作ると「学校が休みでも町は回っている。夏季休暇で浮かれて羽目を外す生徒の出ないよう日夜励むのが俺達の仕事だ」と口にした。納得出来るような出来ないような。まあ「そっかあ〜」と納得したら胸中の不満が失せる問題でもないのだけれど、草壁さんから説明を受けると「はいそうですか」と引き下がらねばならない気持ちになる。私は大人しく地図上のストーキング行為に戻って行った。草壁さんの人徳のせいだけではない。「ミョウジ、明日までに二学年分終わらせなければ自動的に休めるぞ」と念押しされたからで、真っ白い部屋で寝起きするよりは辛うじて自室で寝起き出来る現状を維持するほうが賢明だろう。
 他人の生命の危機をなんだと思っているのか、草壁さんは笑いながら教室を出て行った。

 例え核爆弾が落ちてこようと人々は並盛で暮らすのだから、地域密着型を自負する並盛中風紀委員に休暇等与えられないというのが草壁さんの取り成しだった。しかし彼の上司かつ我々平委員の規律である雲雀さんは部下のフォローなど何処吹く風で「休みたいなら全身の骨が折れるほど働いてからにして」と、風紀委員会に満ちるブラック企業臭を隠そうともしない。草壁さんを見習ってもう少しオブラートに包んだ物言いをすれば良いのに――否口先で誤魔化すより、長期休暇中は風紀委員の活動も休んで頂くのが一番なのだけれども。

 勿論こんな不満は精々が舌の上に転がす程度で、平素は喉も通らせない。もう堪えきれない、うら若き女生徒の夏季休暇を潰す罪を思い知れと、強い怒りと共に口を開いたって「雲雀さんは家族旅行とか、どこか出かけたりしないんですか」が限界である。しかし雲雀さんは私の台詞の裏を見透かしたらしい。落とした書類を拾い集める私の頭に降ってきたのは真っ当な返事ではなく、A4ファイルの角と偏見だった。
「どうせ君らに自由時間なんかあったって碌な事に使わないだろう」
 私は痛む頭をさすりながら、確かに、この人を納得させられるような時間の使い方は出来ないだろうなと、自分が納得していた。

 雲雀さんというのは不思議なひとだ。理解の範疇を越えた彼を前にすると、黙って隷属するか、もしくは愚かにも歯向かうかの二択しかないように思ってしまう。雲雀さんと遭遇する頻度が高ければ高いほどその二択に苛まれる頻度も高いわけで、中学生活最初の夏を迎える頃にはもう私の頭のなかには隷属の二文字がぎゅうぎゅうに積み重なっていた。隷属、隷属、隷属、隷属、歯向かうな。黙って言う事を聞け。

 パブロフの犬よろしく雲雀さんの声に反応するようになりつつあった私にとって、彼に咬み殺される人達はよちよち歩きの赤ん坊のようなものだった。転び方を知らない赤ん坊が七転八倒の末すいすい歩けるようになるのと同じに、皆並盛町での処世術を身に着けるまでに七八回は咬み殺されなければならないのだ。雲雀さんが一仕事終える度に動揺していたら、きっと、私は心拍の打ち過ぎが原因で死ぬ。

 日一分、日一分、利取る、利取る、月二朱、月二朱――ヒバリの聞きなしの如く新たな要求を畳みかけてくる雲雀さんに追い立てられながら働く私は、彼のことだけを考えていた。精確に言うと彼に満足して貰うことだけを考えていた、殆どのひと同様“痛い”のは嫌いなので。

 少しばかり委員会活動に割く時間が多いものの、私は極めてありふれた人間である。そもそも風紀委員になったのだって、その実態を知らなかったからに他ならない。生き物係になりたがる生徒がいなかったのと同じだろう程度にしか考えずに手を挙げてしまった。クラスメイトの数人が思い切り引いていた理由を知るのは、ご丁寧に委員決めの翌日から再開された、校門前の服装チェック時である。
 別にリーゼントに憧れているわけではないとか、治外法権という文字に何のときめきも抱かないと懸命に説明したが、一度引いた波は戻ってこない。気まずい応対を続けて下さるクラスメイトたちより、下らない応酬を続けられるリーゼント軍団に慣れるのは当然の成り行きだろう。例えあの日風紀委員になったのが他の生徒だったとしても、私と同じに委員会活動に励んだに決まっている。
 そして雲雀さんの理不尽や身勝手さ、学習性無力感にも似た強制力に慣れていくのだ。

 夏祭り、ショバ代の支払いを渋った男の屋台を潰す様を目前にしても、私は特に何を思うでもなく、暢気にヒバリの聞きなしを思い浮かべていた。今までは畳み掛けるような調子にしか注目してこなかったが、ショバ代を巻き上げて縁日の賑わいを練り歩く現状は正に彼の鳥の聞きなしそのものだ。そう思いついた私は微かに笑ってしまった。雲雀さんが軽い足取りで人ごみを裂いて歩くのも、インターネット上の動画でしか見たことのない、あの雀に似た鳥が鋭い流線を残して天高く舞い上がる様に似ているようだった。
 ドラゴンのように恐ろしげなひとがあの可憐な鳥と同名であることさえ笑えてきて、私は真っ黒いバインダーで口元を隠して歩き出した。しかし学習性無力感に蝕まれてへらへらしていた私も、男が焼いただろうお好み焼きを踏んだ、柔い感触を覚えては笑えるはずもない。

 私は靴底に張り付いた生地をこそげ落とすように歩きながら、帳面へ視線を落とした。
 紙上に誤字も計算違いもないのは書いた自分自身がよく理解している。分かっていたけれど、私は数メートル先から雲雀さんが苛立たしげに私を呼ぶ、いつもなら冷や汗ものの声音が聞こえるまで顔を上げられなかった。
 石畳を蹴って駆け寄る私に、不機嫌に目を細める雲雀さんの向こうで佇む草壁さんが「ミョウジ。今年の出店で、初参加のところと、過去一度でも支払を渋ったところがどこか纏めたものを出せ」と、雲雀さんの要求を先回りしたフォローをくれる。鉄拳制裁を免れたということだけなく、バインダーの一番下から出した紙片を雲雀さんに渡す私の胸には奇妙な安堵が存在していた。
 雲雀さんに付き従ってペンを走らせる私は、“得体の知れない”後ろめたさを誤魔化すようにヒバリの囀りを嘯いた。日一分、日一分、利取る、利取る……そう口遊みながら、くっと顎を上げて歩くと、潰れた屋台も、浴衣姿で縁日を楽しむ同級生たちも見えなくなった。

 連帯感から親しくなってみれば、普段乱暴な風紀委員たちはどこにでもいる男子生徒だったし、如何にも番長といった感じの草壁さんも単に真面目な先輩に過ぎなかった。異端を極めすぎて“特別”に昇華されてさえいる雲雀さんは相変わらず“雲雀さん”で、他人と馴れ合おうとしない野生動物を貫いていたけれど、並盛町とそれを縛るルール以外の何にも関心のなさそうな人が自分を馬鹿にするとか、そういう不慮の喜びからズルズルとほだされてしまった。尤も来年こそは図書委員か美化委員みたく、どこか無難な委員会に属そうという気持ちは確固たるものとして存在し続けた。雲雀さんに振り回されるのも、コンパスくるくるの作業も今年度限りで終わりだ。

 そりゃ草壁さんは好きだし、他の風紀委員にだって特別嫌いな生徒はいない。しかし風紀委員になって、良かったことなどあっただろうか? 否、無い。習ったばかりの反語を使ってみたかったわけでなく、本当に無いのだ。
 クラスメイトに遠巻きに見られることなど序の口だった。
 就職した覚えも、労働の対価が支払われたこともないのに、風紀委員会――というか“雲雀さん”は、所詮有志に過ぎない生徒を社蓄扱いすることを躊躇わない。自分が負けん気と根性と好奇心だけで何徹も出来るからって、他の人間にも自分と同じ活動時間を強いてくる。朝だろうと夜だろうとパシリが必要だと自覚するや電話を寄越すのは当たり前、三コールで出なければ自宅まで蹴り起こしにやってくる男である。大抵の場合は草壁さんが歯止めを掛けてくれる。しかし寝ぼけ眼で取った携帯の向こうから「五分で下りてこい。委員長が窓ガラス突き破って飛び込むぞ」と言われたのに、そんなまさかと笑いながらカーテンを開けた時の衝撃は一生忘れないだろう。

 余談ではあるが、インターネット上にはサイコパスか否か診断するための文章が出回っている。実際に役立つのかは定かでないにしろ、読む者をひやりとさせるものであるのは間違いない。その一つに「マンションの窓から外をみたら、誰かが人をナイフで刺し殺していた。あわてて通報しようとしたら、その男と目が合ってしまった。その男はあなたの方を指してその手を一定の動きで動かした。どんな動きをした? またなぜそうした?」という文章がある。私の部屋の下からこちらを見上げる雲雀さんは、己の指を動かして窓までの高さを計算し、助走のためなのか窓ガラス以上の強度はありそうなバイクを後ろに引いていた。私はパジャマの上から制服を着た。

 どんなブラック企業だって、犯罪でないギリギリのラインで社員を恐喝し、使役しようとする。私達の雲雀さんに越えてはいけないラインなど存在していない。他人を甚振ろうとか、上手いこと酷使して利益を得ようとか、そういう欲は雲雀さんに無い。彼の本音は「どうせ君らに自由時間なんてあったって碌な事に使わない」以上でも以下でもないのだ。本当に心の底からそう思っていて、手近に在って言う事を聞くので使っているだけに過ぎない。無機物としてこき使われるか、有機物として咬み殺されるかの究極の二択。

 私は極めてありふれた人間である。もう、こんな生活には耐えられない。きっと明日にでも、神経の磨耗が原因で死んでしまう。

 雲雀さんのように、睡眠さえ根性でコントロール出来るような優秀な身体を有しているわけではないが、それでも私の体にも多少の自己回復機能が付属されている。この一週間というもの、一日四時間睡眠でフル稼働していた。己の手でもぎ取った休みにこれ幸いと疲弊しきった体を慰めるように惰眠を貪っていた。しかし眠りというのは深海に留まっていられぬもので、一定の周期で浮き沈みを繰り返すらしい。それと関係あるのか、はたまた骨の髄までかつての恐怖が染み渡っているのか、散らかった床へ滓の様に溜まっていた空気が揺らいだ気配に覚醒した。指先よりも早く目覚めた聴覚が“呼び出し”ではないと告げる。それもそうだ。草壁さんは真夜中に後輩を、それも女子を呼び出すようなひとではないし、私達のロベスピエールは並盛町より良いものを見つけたのか、このところ応接室を留守にしている。
 雲雀さんがどこかへ出掛ければ楽が出来ると思ったのに、寧ろ普段雲雀さんがこなしていた書類仕事を振り分けられたので、睡眠時間が減った。寂しいとか、一体どこへ行ってしまったのだろうとは全く思わないが、早く帰ってきて欲しい。私が十分に寝たら。

 果たして私と雲雀さん、先に応接室に帰ってくるのはどちらだろう――うつらうつら微睡んできた瞳を細めながら、ぎこちなく寝返りを打って、狭い室内の安息を確認する。冬に備えて厚手のものに変えたばかりのカーテンは右に寄せられ、開け放たれた窓からは夜風と月光が棚引いていた。フローリングの床が薄ら照らし出される。深海よりは明るく、浅瀬よりは暗い自室が暗闇から生えた二本の足に遮られていた。母親は夜が早く、朝が遅い。この暗さでは間違いなく布団のなかだろう。父親は娘の部屋へ黙って入るのを避けているはずだった。誰だということよりも何故こんな時間にという気持ちが強く、靄がかった眼をゆっくりとあげていくと、腕を組んで立つ男と目があった。
 乾いた唇が「ひっ」と引きつる。不意打ちだった。雲雀さんがいた。間違いなく生身の雲雀さんだった。こわい。

 先の台詞は、“ひ”ばりさんと、彼を呼ぼうとしたのと咄嗟に悲鳴をあげてしまったのとで半々だろうか。
 とりあえず馬鹿みたいにキャー! とか、ひえー! とか言おうものなら問答無用で咬み殺されると判断したのに間違いない。寝起きに、しかも深夜の自室で最上級の恐怖とエンカウントするという冷や水を被っても尚「これは夢かしら」と瞬きをする私を、雲雀さんは相変わらずの何を考えているんだかわからない無愛想な顔で見下ろしていた。
 一体何なのだろう。“呼び出し”を無視してしまったなら、覚醒の如何に関わらず咬み殺しにくるはずだ。暫し山中でイノシシに遭遇した時の対処法を探っていたが、相手が雲雀さんである以上いつまでも横たわっているのは得策ではない。私はなるたけスプリングを軋ませぬようにして起き上がると、とりあえずベッドマットの上で正座した。本当なら床へ降りた方が良いのだろうけど、目の前で仁王立ちする雲雀さんを刺激せずに事を成すのは不可能そうだ。ベッドのたわむ微かな音が静まってもまだ雲雀さんは黙っていた。

 私は膝へ落としていた視線を恐る恐る上げて、雲雀さんの背後に掛けられた時計を確認した。草木も眠る丑三つ時を一周過ぎた頃、三時だった。深夜だ。侵入経路は間違いなく窓だろう。戸締りを疎かにした記憶はないが、真夜中の侵入者といえど雲雀さんだったらしょうがないという気持ちがある。知らないうちに脳みその大事なところを、ぐるぐる巻きにして動かないようにされてしまったみたいだ。
 幾ら社蓄扱いしているとはいえ不法侵入は勘弁して下さいよという不満が、何故ここにいるのかとか、如何して黙っているのかとか、雲雀さんの行動の意図を知りたいという好奇心に取って代わられる。一般常識に照らし出せば悪いことをしているのは雲雀さんで、私はその加害者であるはずなのに、じっと見下ろしてくる目から逃れようと視線を逸らしているのは私のほうだった。

 なにをしただろう。なにか不興を買ってしまっただろうか。わざわざ家まで出向いて、咬み殺すことさえ忘れてしまうほど呆れられるような何かを仕出かしただろうか。何をしてしまったのだろう。じわじわ、膝に置いた手の指先から染みる冷気に似た不安が胸中に広がる。
 何をしてしまったのか気になり過ぎて、このまま黙ってたら吐きそう。私は口を開いた。
「ひばり、さん」
 今思っても自分の行動は軽率だったと思う。雲雀さんはイノシシではないが、動いたものを襲ってくるという点に掛けては同じなのだ。しかし雲雀さんが口を開くのを待っていれば、それこそ冗談抜きで、心拍の打ち過ぎが原因で死ぬ。さもなくば吐く。
 沈黙に耐えきれなくなった私が「その、雲雀さん、お久しぶりで」と笑って誤魔化そうとした瞬間、ぐわん、と、世界が揺れた。

 揺れているのは大地でなく自分の脳だと気づいたのは、頭部からうなじにかけて筋張ったような熱を孕んでからだった。ひさしぶりと挨拶しただけで殴られるとはどういうことだろう。如何対応すれば良かったと言うのだ。くらくらと熱に浮いたような顔をもたげてじっと見上げると、雲雀さんの口は御機嫌斜めにへの字に曲げられていた。
「ねえ、聞いてるの」
「……はい」
 流石にイエス・ノー答えただけでは殴られないだろう。しかし出来立てほやほやの“久しぶり”の前例があるため、自ずと押し殺した声になった。今度こそ雲雀さんは殴ってこなかった。文字数の問題なのか。「お久しぶりです」を二三文字で表せば良かったのか。無理だ。
 私が沈黙のなかでどれ程葛藤しているか知るよしもないし、蟻ほどの関心も持ちえない雲雀さんは尋問を続ける。
「それで、僕がいない間に何してたの」

 私は舌を動かした。もつれた舌が「あー、その」と、時間稼ぎを口にする。もう一度繰り返してから、恐々と口腔内の検分を始めた。歯は、差し歯は嫌。舌の上、頬裏にも熱と痺れ以外の何も転がっていないことが分かると、私は胸を撫でおろした。
 歯は折れてない。鼻血も出てない。良し、左頬が腫れるぐらいだろう。
 被害状況を確かめる私を、雲雀さんが呼んだ。
「ミョウジ」
 雲雀さんの台詞は大抵主語が無くて、コツさえ分かればさらりと流してしまえるもので、しかし稀にこうやって、怖い響きで“私”を呼ぶ。雲雀さんの声に耳を澄ませていると、頬を焼く熱も、窓辺でぐずる夜風も、何もかもが薄れていくようだった。

 私は頬の裏を噛んで、小首を傾げて見せた。
「恐らくは……委員のお仕事、じゃあないでしょうか」
 少なくとも私はそう思ってましたと、言い訳みたく付け足す。あんまりに頼りない返事に、雲雀さんの眉がキリキリ吊り上る。
「しごと?」
 仕事だ。
 雲雀さんがいなくて、それでも応接室に行って、風紀の仕事以外の何をするのだ。DSか。PSPか。ひと狩り行っちゃうか。あのリーゼント集団のなかでそんなことを仕出かす度胸があるなら、睡眠を切り詰めてまで委員会活動に励んだりしない。

 ただ皮張りの応接椅子にふんぞり返って気まぐれにひと咬み行っちゃうだけの人と思っていたのに――そこまでではないにしろ、自分の作業量を鑑みても、たかが中学の委員会に回ってくる書類など五センチも積もれば十分だろうとは思っていた。私と草壁さん二人で取り組んでも十二時間は掛かる量の書類を処理して、校内や町内を闊歩しては並盛町の風紀を乱す重罪人を見つけだし、そして牙がかゆくなくなるまで咬み殺す。更に暇に飽かせて「今日は各教室での持ち物検査を行うことにした」だの、「ちょっと、エクセルで表作ってUSBに入れておいて」なんて思いつくのだから、このひとは本当にいつ眠っているのだろうと考えてしまう。

 不運にして負けん気と根性と好奇心だけで生きていけない私は、連日応接室に泊まり込みで気になるリーゼントな彼と書類デート★となれば食事も取るし、水分補給もする。私の懸命な社蓄精神をこうも疑うということは、私の分の書類に輪染みでもあったのかもしれない。そりゃ最初は雲雀さんの目に触れるだけでなく雲雀さんが処理したことになるのだからと気を張っていたけれど、寝たかった。寝たかったんです。せめて三時間でも四時間でも家に帰って、自分のベッドで寝たかった。風紀委員長の判子を押して雲雀さんのサインを真似るだけの単純作業から一分一秒でも早く解放されたかったんです。後半はサンドイッチとか食べながら、眠気覚ましのコーヒーとか飲みながらの、“ながら作業”が増えました。だって草壁さんもやってた。草壁さんおにぎり食べてお茶飲んでた。私もおにぎりにすれば良かった。米粒が落ちる可能性は、パンクズを散らばす可能性より断然低い。草壁さんは賢い。ああ、草壁さんの言う通りコースターを買ってくれば良かった。否要らない書類を折ったコースターもどきを使ってはいたのだけれど、所詮贋物である。吸水性に欠けたし、そもそもあの書類が要らない書類ではなかったのかもしれない。A6サイズに折りたたまれ、ばっちり輪染みのついた重要書類。わあアーティスティック。

 沈黙が重い。

 今ならコンクリを詰められなくても、浮力と生命を失うことが出来そう。
 床へ沈んでいく空気が居た堪れなくて、私は何の気なしに毛先を弄ろうとした。女子なら誰だって同じような誤魔化しをするだろう。何か難しいことを考えているようなポーズ。今から何か作業をするつもりだけど、髪が邪魔をしているのというポーズ。無駄なかっこつけ。しかし固められた右手のおかげで、何の利益ももたらさない仕草を削減することが出来た。ギプスからはみ出た指がピクリと動く。
 私は手持無沙汰に浮いた左手でギプスを撫でて、顔を伏せた。ばっきりと折れている、右腕が。

 何か難しいことを考えているのと気取ったところで、頭の中は幼稚な後悔でいっぱい。今から何か作業をしたくても、草壁さんから戦力外通知を受けたばかりだ。腕がくっつくまで、そりゃ学校は行くけど、三センチでも十センチでも好きなだけ直径を長く出来る。自動的に与えられた長期休暇。寝たい。本屋も覗きたい。流行りのケーキ屋も行ってみたい。慣れない左手でも、ショートケーキぐらいは食べられるはずだ。でもそこに、雲雀さんはいない。私は「自由時間なんかあったって、碌な事に使わないんだなあ」といつかの雲雀さんの台詞を思い出していた。代わりに、あれほどはっきりと覚えていたヒバリの聞きなしが思い出せなくなっていた。
 雲雀さんはいない。いなかった。いなかったじゃないかと、しわの寄りかけた眉間を左手で抑えて膝を見つめる。

 淀んでいた空気は、拳でも、トンファーの流線でもなく、「そう、仕事してたの」という呆気ない納得で動き出した。
 呆気ない。あまりにも呆気ない。これはワンチャンある。ワンモアチャンスというか、もっかい殴られる、これは。私はじりじりと上体をそらしながら、ベッドに膝を乗せて近づいてくる雲雀さんに胸中の確信を深めた。これは、至近距離でぶち込む気じゃなかろうか。ほんとうに、そんな、内臓とか多分破裂しちゃうし、内臓が如何こうするって考えるだけでおなかが痛くなってきたけど、多分千切れたりする。こわい。畳一畳分もろくに動けないなかでは鬼ごっこにすらならない。もう、まだ若いのに、なんで死ぬことになってしまったのだ。雲雀さんレベルの戦闘狂になると人の腕を引っこ抜くのも朝飯前らしく、その指が触れたのは腹ではなく左腕だった。

 化繊のパジャマ越しには、掴まれているということしか分からなかった。あと、当面は引っこ抜く気がないらしいことも分かった。何事だと顔をあげた私の眉間は無論訝しげに寄せられていたことと思うが、雲雀さんは然して気分を害した様子もなく、私の左腕を撫でるように指先を滑らせていた。雲雀さんの指が手首に至り、乾いて骨ばった拘束が生々しく皮膚を確かめる。ぎゅうと、
「いたっ! いた、」ぎゅうぎゅう。そんな可愛いもんじゃない。ギリギリ、か。痛い。「ったたた、本当に、ほんとに痛いです、それ」
 私の切実な苦情に対し、雲雀さんの返事は実に簡素だった。
「君の仕事を手伝ってあげようと思って」
「何の仕事ですか、ギプスをはめているのは右腕で、それだって看護師さんが取り換えてくれます」
 放っておいてくれ。頼む、せめて右腕がそこそこくっ付くまで委員の仕事は休ませてくれ。碌でもない時間に埋もれて窒息死したい。並盛に暮らす小市民のささやかな願いを、この町の規律は放っておいてくれない。雲雀さんは憮然と言い放った。
「腕を折ることが仕事なんじゃないの」
 何故だろう。悪意を感じる。
「それは、」
 ギプスに至るまでの経緯を思い出した私は、気恥ずかしいような、バツの悪さから口を噤んだ。
「馬鹿な事をしたね」
 腕から、雲雀さんの指が離れていった。
 見上げる先で、雲雀さんは、草壁さんが時々浮かべるような呆れと失望を表情に含ませている。なんだそれ、っていうか、その顔。いつも無表情ばっかのくせに、「私は、」咄嗟に、いつもなら躍起になって飲み下す不平不満の先端が口を突いて出た。
「私の仕事は、」
 雲雀さんがいなかった。いなかったから、大変だった。書類の塔というものが実在することを知ってしまったし、草壁さんと応接室で暮らすことになってしまったし、ユンケルはあんまり効き目ないし、それに、それに雲雀さんが少しいないだけで、校内が凄く五月蝿かった。

 五月蝿かった。それが全ての理由だ。ひょっとすると私も、あの群れも、雲雀さんがいないということで調子づいていたのは同じかもしれないけれど、雲雀さんがいたらあの群れを絶対に咬み殺すに決まっていた。でも雲雀さんはいなかったじゃないか。だから私が彼らを注意しに行った。草壁さんや、他の風紀委員がいたとしても、きっと私と同じことをする。私は悪くない。
 ただ、殴られたとかでなく、殴られそうになって、そんなの日常茶飯事だと余裕こいて避けた拍子に空のバケツに足突っ込んで転んだのが見っともないとか、馬鹿げているというのなら甘んじて受け入れようと思う。自分でも、こんな馬鹿げた理由で骨を折るとは思ってもみなかった。どうせひょろ男子のパンチなんて雲雀さんに殴られるよりずっと痛くないんだから、大人しく殴られておくべきだったのだ。
 悪いことをした覚えはなかったが、身の丈に合わぬことへチャレンジし、そして大失敗したのは事実だった。しかし私だって、何も好き好んで腕折ったわけじゃない。何故こんな、からかいとも本気の侮辱とも判別出来ぬ台詞に刺されねばならないのか。
 よーく考えてみなくとも、間違いなくこの骨折も社蓄ライフも灰色の青春も、雲雀さんのせいだ。

「その、ほら。仕事、だって」
 私は雲雀さんに不平不満を口にするという大いなる挑戦を前に、肝心要の台詞に迷っていた。
 なにを言おうかな等と考えて冷静ぶっているが、頭は真っ白だった。苛立つ。雲雀さん、いなかったじゃない。バーカ。辛うじて残る理性が、直球で言うのはヤバイと歯止めを掛けていた。雲雀さんがちょっとも言葉を選ばないのに対し、何故私は正当な不満一つ口にするのにこうまで気を使わなければならないのだ。殴られたくないからか。殴られたくないからだ。殴ってくるし、なのに今は手を上げる素振りさえ見せず黙ってるし、腕組みなんかして、これなら雲雀さんの拳が私の顔面に到達するまで余裕があるとか、そんなことを考えてしまう。
「……だって、雲雀さんがいないし、馬鹿はわいわい騒いでるし、私なにも悪いことしてないのに、だって群れて騒いでたから」
 私は唇を噛んでから、きっと雲雀さんを睨みつけた。もう左腕なんか要らない。私は悪くない。
「雲雀さんだったら、なのに雲雀さんがいなくて」
 私は悪くない。雲雀さんがいたら、絶対にあいつらを襲ったはずで、それで、雲雀さんがいなかったから私がやったのだ。それを、馬鹿な理由で右腕を折ったことを責められるなら兎も角、風紀委員としての職を全うしたことを責められるというのは何事だ。
 己の実力に見合わぬことを仕出かすのは見苦しいからやめろということなら、そうはっきり言ったら良い。グッバイ今生、そして並盛。
 雲雀さんは左腕の粉砕を諦め、私の頭蓋ごと破壊することに決めたらしい。いつかの林檎を思って身を固くしたのに反して、
「悔しいなら、馬鹿を出来る実力を身に着けると良い」
 雲雀さんはぽんぽんと私の頭を叩くだけだった。フェイントという言葉が頭蓋一杯に満ちる。こわい。なにこれこわい。むずがゆい。

 強張る表情の裏で色々な思い出が思考を過ぎっていった。
 ナマエ、この男は寝起きの自分をぶん殴った男だぞ。枕元の携帯に詰まっているメール履歴を読み返せ。風紀委員はブラックを通り越したダークネス企業だと愚痴ったじゃないか。雲雀さんがそれを読んだら殺される。落ち着け。落ち着いて、読まれる前に消せ。
 そういったタイミングでせっせと働いて下さるのが、マーフィーの法則である。マーフィーってグーフィーと似てる。

 あーあ。だから、ミッキーマウスマーチのままにしておけってあんなに言ったのに。後だしアドバイスを浮かべて薄く笑う私の背後から、嗚呼我が美しき思い出の学び舎――並盛中の校歌が響き渡った。雲雀さんがポケットをまさぐったのと、発信源を察したのは殆ど同時だった。ヤバイ。きっと、愚痴メールへの返信だ。待ち受け画面に留まる「新着メールが一通あります」の表示を見られてはならない。そもそも群れるとか、他人と一纏めにされるのが嫌いな雲雀さんにとって、同じ着メロというだけで殺意ポイントは高いかもしれない。正直私も、ちょっとまずいかなって思った。でも違うんです、雲雀さん。だって雲雀さんが並盛中の校歌を受信音にするとか言い出すから、草壁さん忙しいし、委員たちのなかで一番パソコン弄るの得意だったんで、それで押し付けられたというか、一生懸命作った音源を自分も使いたかったというか、雲雀さんがいる時はマナーモードにすればいいとか思ってですね。わあ恥ずかしい。そんなつもりはなかったけど、好きな人とお揃いにして楽しむ女子みたい。駄目だ。少なくとも左腕は逝ってしまう。グッバイ左腕。
 羞恥心を必死で押し殺す私と、むっと口を尖らせる雲雀さん。雲雀さんは自分の携帯を確認すると、パチンと閉じた。
「一番は僕が使ってるから、二番か三番に変えて」
 雲雀さん。これは着うたでなく着メロなので、二番だろうと一番だろうと特に変わりはないんですよ。等と言ったら冗談抜きで多くのものとおさらばすることになるだろう。私はこくこくと頷きながら、証拠隠滅を画策して携帯に手を伸ばした。

 雲雀さんの頭部から調子はずれの校歌が聞こえることに気付いたのは、十五件目の愚痴メールを無事消去し終えた時である。
 よもや雲雀さんが口遊んでらっしゃるのかと、雲雀さん音痴疑惑が湧いてきたところで、雲雀さんの頭に営巣しているらしき黄色い鳥が目に入った。ひょこひょこっと雲雀さんの頭髪をかき分けて、記憶に依ればヒバードという固有名詞を持つ、黄色い鳥が私を見下ろしている。何というつぶらな瞳だろう。スイカバーの種にも似た甘さは、生来のものだけでなく睡魔のせいもあるらしかった。鳥の、睡魔。
 うろんな表情で見つめる私の眼前で、ヒバードは再び並盛中校歌のメロディラインを真似た。とても可愛い。可愛いです。

 私の称賛するような視線に機嫌を良くしたのか、ヒバードは暫くの間ぴよぴよと囀っていたが、やがて雲雀さんの頭髪に埋もれて行った。そこで、寝るのか。落ちるのではありませんか、雲雀さん。お部屋に落とされていったところで何ら困ることはなく、それどころか嬉しくもあるような可愛らしさである。しかし雲雀さんが小さきものを気に留めるイメージはなく、果たしてこの鳥との関係にくちばしを挟んで良いのか分からない。室内に再び沈黙が満ちる。どうも雲雀さんの協議事項は真っ当されたらしかった。
 我々はこのまま朝を迎えるのでしょうか。

「雲雀さん、」
 鳥、落ちますよ。もう四時ですよ。明日からは、また応接室に戻ってくるんですか。
 会話の糸口と、非難と、甘えがごっちゃになって、結局続けられなかった。雲雀さんも続きを催促したりはしなかった。無言でヒバードを摘まむと、上着のポケットに押しこむ。まあギリギリ入るサイズですけど、それで良いのですか。というか普段は無関心そうなのに、その鳥を窓の外にぽいっと放り投げたりはしないんですね。

 雲雀さん、その鳥は、応接室でない雲雀さんの居場所にも一緒にいくのですか。やっぱり、聞けなかった。

 ベッドの上で馬鹿みたいに正座したままの私を置いて、雲雀さんとヒバリでない鳥は銀鼠色の冷気に溶けて行った。
 晩秋の早朝でも、どこかでヒバリが白み始めたお天道様に金返せと鳴いているだろう。
 硝子越しの冷たさや、しらじらと明け始めた町の気配を感じながら、私は何を声高に要求すれば良いのか分からなくなってしまった。
鳥に似せて鳴く
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