ベランダから差し込む朝日が、フォークの銀色に白っぽく映り込む。使い古されたものだから、眩しくはない。

 辛うじて――表向きは目玉焼きの体を保っている――他人に供せる最低ランクの朝食を前に、ナマエナマエはコーヒーを啜っていた。彼女の向かいでは、雲雀恭弥が顰め面をしている。彼の手に握られたフォークが、恐る恐るといった調子で目玉焼きを突いていた。
 ナマエはついこの間中学生になったばかりの十二歳だが、その短い人生の殆どを母方の従兄である雲雀と共に過ごしてきた。所謂同居だ。仕事熱心な母親と、早々に家を出た兄、単身赴任を繰り返す父親のおかげで、二人きりの朝食はそう珍しいことではない。この目玉焼きは決して偶然や奇蹟から生み出されたものではなく、必然的……まあ「煎餅じみた硬度を兼ね揃えた目玉焼きを供されても驚くに値しない」と、数々の経験からも雲雀はそう判断して然るべきなのだが、彼は“見て見ぬふり”を選ばなかった。
 雲雀は黙っている。口をきゅっと結んで、眉もぎゅっと寄せられている。何一つ不満がない時だって眉を寄せていることはあるけれど、今朝はそうではない。ナマエは“この状態”で「きょーちゃん、怒ってないかも」と思えるほど楽観的思考を有してはいなかった。楽観的でも悲観的でもないナマエが心中に浮かべたのは「さーて、今日は肋骨折れるかなー」という台詞だった。雲雀がどういう人間かを知らない他人が聞いたら「何を大げさな」と笑うだろう。幸福なひとたちだ。ナマエはマグカップから口を離した。

 “幸運なひとたち”ことナマエの家族は、並盛町の外で働いている。娘と甥に興味がないわけではないけれど、子供のために己の興味関心を犠牲にする必要はないと思っているらしく、大抵の場合は放任主義を決め込んで、母親以外は家にも碌々帰ってこない。その母親でさえ、ナマエにとってはブラウニーのようなものだ。キャリアウーマンらしく女物のスーツを着こなした母親が帰ってくるのは、その娘が微睡む時間になるのが殆どだった。たまの休みも精力的に何か――PTAや町内の活動とか、とてつもなく健全で、雲雀が普段町の人々に奨励するような行為を――していて、娘や甥のパーソナルデータを集めている暇がない。流石にナマエがやたらと医者に掛かっているのは把握しているが、お利口さんな甥の姿しか見たことのない母親は、その原因が誰なのかまでは思い至らないようだ。まあ仕方がないと言えば仕方がない。それに、知ったら知ったで面倒くさい事になりそうだし、幸いにしてやたら頑丈な体に産んでもらっているので、知ってほしいとも思わなかった。

 ……とはいえ“不機嫌”に中てられている時は、何か忘れ物をした母親がリビングに駆け込んでこないかなと思わないでもない。
 人命軽視でかくれんぼ・お尻を出した子心停止・ゆうやけこやけでナイトメア、そんな通り名をもつ雲雀は、伯母夫婦と従兄の前では、訓練された猟犬よりも行儀が良い。猫を被りやがってと思わないでもないが、単純に彼らが好きなのだろう。多分ナマエも、彼らの妹や娘でなければ、今よりずっと素直に、彼らのことを好きになれたと思う。あと、彼らみたいにリアルが充実していれば。
 友達がいないわけじゃないんだけどね。友達はぼちぼちいるんだけどね。でも、まあ、やっぱりミンチン先生より厳しい従兄と一緒に暮らしていると否が応にも息が詰まるわけで、幼少時から窒息状態で暮らす私が充実した生活を送る気力を得られるはずもなく、暇さえあれば息抜きしようとして見つかり、鬼のいぬ間に洗濯しようとして金棒と出くわし、日々を生きるだけで割と精一杯なんですよ。
 こうして、たかが目玉焼きを焦がした程度のことで命の危機を感じるような毎日で、どうやったら気力が湧いてくるのだろうか。

 ボンヤリ現実逃避を考えながら、ナマエは手に取ったフォークで、手慰みと言わんばかりにベーコンを突いた。
「きょーちゃん」ナマエは意を決して、彼を呼んだ。「……お皿下げる?」
 今ならまだ挽回……というかなかった事に出来なくもないと思ったのだが、それは無謀な挑戦だったらしい。可哀想な朝食の向こうから、“きょーちゃん”はその呼び名に不釣り合いなほど冷めた視線を寄越してくれた。
「なんでいつも君が作った目玉焼きは焦げてるんだい」
 ナマエはぽかんと、網膜に焼き付くほど見慣れた顔を見返した。

 雲雀が“見て見ぬふり”で終わらせなかったのは、いい加減いつものように怒鳴って殴っても彼女の料理下手は改善されないと判って来たからだ。やや単細胞な彼がそう考えざるを得ないほど、このウェルダン過ぎる朝食は日常的に、ごく珍しくないことだった。
 不快さが継続することさえなければ、いつものように発散するだけして、忘れてしまえば良い。しかし、こうも淡々と……彼女が彼と同じ中学に入学してから、そして少なくとも自分がこの家を出るまで繰り返されるだろうことが分かっていれば、それは“怒るだけ怒って終了”というわけにはいかない。まあ、いかないかもしれない。一月近くも不愉快な朝を迎えていれば、世俗(世間一般の定義とは異なる)の殆どに興味のない雲雀と言えど、従妹の料理センスに関心を持つ。根本から正さななければ、このクソまずい目玉焼きは幾度でも「おはよう」を言いにくる。確実だ。そう悟っても尚怒り続けるほど、考えなしな雲雀ではない。ナマエが思っているほどに彼は暴力や理不尽が好きではなかったし、食事に興味が無いわけでもなかった。彼は従妹のイメージする自分というものを粗方把握している。

 魔王だって一日の始まりぐらい美味しいものを食べたい。雲雀はそう思った。
 雲雀は従妹がその心中で自分を魔王と呼んでいるだろうことを薄ら予感していたし、壁の向こうから「魔王がさー」と聞こえてくることもあったので、九割九分確信していた。知られていないとかセーフとか思っているのは彼女だけだった。

 兎に角、雲雀は「怒る」「八つ当たり」「発散」の三つを繰り返す内、ようやっと物事の解決を考えるに至った。
 ナマエが思っているほどに、理不尽や暴力が好きなわけではない。しかし世間一般と比べてみれば、理不尽や暴力が好きな部類に属される。それ故、暴力でねじ伏せようとするのではなく、根本から解決しようと考えるに至るまで、他人より大分かかった。ちなみに彼女の予想では魔王はそんな事を考えない。だから彼女はぽかんと、三重苦の教え子がウォーターと口にしたのを見つめるサリバン先生より間抜けな顔で、魔王の眉間に刻まれたしわを数えている。別にしわの本数で彼の精神状況を占えたりはしないのだけれど。

 他人を変える方法というのは、十五歳の雲雀にとって容易な議題ではない。加えて彼は家庭科の授業も実習も、まともに受けた事がない。特別料理上手なわけでもなく、また何か知識があるわけでもない雲雀が、他人の料理下手を矯正する方法を考えるのは一層難しかった。
 彼が黙っていたのは、そんな思考に因る。従兄が何を考えていたか、ナマエはフォークの先ほどにも想像出来ない。
 いや“出来ない”というよりも、する気がないのだ。

 藍色を塗りつぶしたばかりの高い青空。白いテーブルクロスに折り重なるような朝の空気の中で、ナマエは口を開いた。
「ねえ」
「何だい」
「なんで、今日のきょーちゃんは不気味なの?」
 トンファーは洗濯中なの? 不思議そうに、脳足りんな表情で首をかしげる。
 実際彼女の言う通り――トンファーは、自室の鞄のなかだ。雲雀はムッと口を尖らせて、フォークを皿に下ろした。
 自分の譲歩を判ろうとしないナマエへの苛立ちもあったし、そもそも幾度注意しても(トンファーで頭蓋骨を陥没させても)改めようとしない呼称も、こうした朝には耳障りだ。尤も耳障りでないナマエの台詞など呻き声以外は他にない。
 多分、相性が悪いのだ。

 大抵の問題は、互いで過ごす時間に反比例して解決策が浮かばなくなってくる。
 別に雲雀は好きでナマエを甚振っているわけでも、この十五年でただの一度も彼女との関係を改善することを考えなかったわけでもない。まあ、何かと顔を突き合わせているわけだけれど、改まって何か話し合おうとするとか、そういう空気になると途端に向こうが茶化すモードになって、要するに苛立つのだ。誕生星座に照らし合わせると相性はそこそこ良いので、バイオリズムが合わないのだろう。
 雲雀は食卓に並んでいたグラスを、ナマエの顔に投げつけた。パリーンと割れたグラスの中に何も入っていなかったのは武士の情けだ。十数年、実の母親以上に世話になっている伯母に面倒を掛けるのは忍びないという本音がある。よって従妹が額から流血していようと、それは雲雀の関心の範囲外だった。彼はナマエの側にあるグラスを取って、ゴクゴクとオレンジジュースを飲み干した。
 雲雀の白い喉が小気味良い音を立てている間も、彼の目の前ではちょっとしたB級スプラッタが繰り広げられていた。

「……文句があるなら、きょーちゃんが作りなよ」
 ナマエは血が制服につかない様、ハンカチで傷口を押さえてからブンブン頭を振って、ガラスの破片を払った。そうして諸々を諦めきった表情で、いきなりのドメスティックバイオレンスに文句を言うでもなく、論点のずれた反論を垂らしだす。
「二歳も年上の十四歳で、もうちょっとで十五歳のきょーちゃんが、この間まで小学生だった私に美味しい朝食を期待しないでよ」
 額の怪我も、リズムアンド暴力な雲雀の行動も、今更咎める気にはならない。
 雲雀を舌先三寸で如何こうしようなどという野望は、疾うに捨てている。互いの関係や、その不利益さについては、ナマエのほうがより詳しい。なるようにしかならないのだとも、彼女は悟っている。相手を変えようなどと考えることは、絵に描いた餅だ。
 ……などと悟ったところで、額からダラダラと血が流れている現実は揺らぎようがない。

 余談になるが、ナマエは血液量が異常に多い事に定評がある。そしてもっと余談だが雲雀はやたら貧血を起こす。
 幼少時の雲雀は、すっかり凶暴になった今と違って病弱だった。健康診断を受けに病院へ行って、採血直後に貧血を起こして倒れるほどだった。日射病を起こしては倒れ、季節の変わり目に熱を出しては倒れ、給食を抜いては倒れ――今も昔も無茶をし、そして無茶をしている間はしっかりしているのは同じだ。暴走族に喧嘩を売るとか、ナマエをボコすとか、何か目的意識がない間は大抵ぐったりしていた。
 病弱な雲雀の世話係は、大抵の場合ナマエの兄だった。兄に優しく看病される雲雀を見るにつけ、無駄に頑丈なナマエはうらやましく思ったものだ。ナマエと雲雀はどちらもナマエ家の長男を慕い、常に彼の寵愛を奪い合っていた。

 元は青かったハンカチがスプラッタ・レッドに染まっていく。こんなに出血しても朦朧としない自分は何か特別な存在ではないかと、ナマエは薄ら思った。まあ、暴力の耐性がついているだけなのだろうけれど、夢を見たい年頃なのだ。
 ナマエはひょいと席を立って、廊下に出た。今更、登校二十分前だというのに、たかが流血でシャワーを浴びる気はない。とりあえず額を洗い流して、床に散らばったガラス片を処理しよう。ナマエ家では、掃除機以外の掃除用具は全て洗面室に収納されている。
「僕はフランス料理のフルコースを作れと言ったつもりはないよ」
 浴室に向かって歩く従妹に向けて、先ほどの考えはすっかり捨て去った雲雀がいつも通り辛らつな言葉を吐きだしていた。
「十二歳にもなって、目玉焼きひとつまともに焼けないほうがあり得ないんだ。自分の短所を十二歳全般の短所にしないほうが良いよ。君は昔からそうだよね。碌な事は出来ないくせ、人のせいにするのばっかり得意で、四年前のクリスマスだって自分が僕らと一緒に行かないって言って、馬鹿みたいな意地を張って、散々兄さんに心配掛けておいて、きょーちゃんがきょーちゃんがだなんて泣くだけ。それで――」

 久々にあった親類の話に劣らぬ勢いだ。しかし一緒に暮らしていなければ、ここまで刺さる台詞は口にできまい。
 ゆるゆると遠のいていく非難に、ナマエもまた二人の過去を思い出していた。長いため息を絞り出す。脳裏を過ぎるのは、しみじみと懐かしい類のものではない。何かの切欠でハッとするほど鮮やかに浮かび上がってくる思い出は、まだ十二歳のナマエにとって痛みを伴うことが少なくない。今しがた人生の殆どを共有している従兄によって引きずり出された記憶も、あまり良いものではなかった。
 後味の悪い追憶によって疼く傷口を誤魔化すように、彼女は改めて並盛の悪夢と血の繋がっている事を嘆く。
 何故血が繋がっているのだろうと何億回もぼやいた事をぼやきなおす。

 もしも血が繋がっていなかったら、如何しようもないほど嫌い合えた気がする。

 一番嫌いな人は? と聞かれたなら、ナマエは雲雀を挙げるだろうし、彼は彼で彼女を挙げるだろう。“だろう”等ではなく、もっと確実にそのはずだと断言できる。何故なら二人の嫌いな人間像というのは、互いに相手をイメージして作られているからだ。それも意図的にではなく、気が付いたら相手に似た存在が嫌いになっていて、嫌いな人間像を挙げてみたら、これと言ったモデルもいないはずなのに、いつの間にか相手の事を話しているようになってしまった。そのぐらいナマエは雲雀が嫌いだった。雲雀だって、似たようなものだ。

 ナマエは雲雀と何所かしら共通点のある存在には断固として近づかない。とことん避けて、露骨に悪口を言うことだってある。しかし、こうして額を切っても、多分、もし今怒って口を聞かなかったとしても、明日には口を聞くだろう。雲雀もそれに応じるに違いない。どれ程ナマエのように群れている奴らを病院送りにしようと、結局当のナマエとは口を聞かざるを得ない。
 はっきりとした理由はないが、強いて言うなら“血が繋がっているから”なのだと思う。

 鏡に映る血は誰もと同じように赤いけれど、その中には彼女と彼だけがお揃いの遺伝子情報があるはずだった。遺憾ではあるが、従兄妹なのだ。ナマエは憮然とした顔のまま、塗れタオルで血を拭った。出血量の割りに傷は小さく、前髪を整えれば絆創膏を貼る必要はなかった。
 とりあえず人にバレなきゃ良いけどと、への字に歪めた口元が思っていた以上に従兄と似ている。
 従兄妹か。従兄妹同士なのだ。洗面台のふちに手をついたナマエは、エスプレッソよりも深く苦いため息をついた。
 少なからず類似点があることは認めている。やはり二人は従兄妹であり、鳥肌の立つようなことを言えば、実の兄妹のように育った仲だ。たかが十二年だろうが彼は彼女の人生の殆どに関連している存在。雲雀にとってのナマエも然りだ。十二年の歳月は大きい。
 例え不愉快な存在であろうと、如何しても、ナマエにとっての雲雀はそのまま自分を形成する要素の一つになってしまうのだった。
 嫌だなぁと思いながらナマエは箒を手に取った。

 血縁関係にあることは認めるが、素直に好きになれないのに変わりはない。
 昔からやけに人の心の傷を抉るのが上手いということもあるが、一番は幼少時に兄を取られていた事が大きいだろう。大好きな兄は体の弱かった従兄に付きっ切り。悲しくなって自分も病気になれば傍にいてくれるかと思っても、風邪すら引けなかった。頭もそこそこ良く、顔も良く、健康な時は運動もそれなりに出来、周囲の信頼を一身に受けていた従兄を羨むなというのも無理な話だ。
 話半分に聞いていた――実際に風紀委員長として校内に君臨しているのを目にしてからは“ドン引き”という感情が強いものの、沢山の生徒の上に立っている姿や、憧れていた風紀委員の仕事を独占している従兄を羨む気持ちは当然あった。
 かつて並中で風紀委員長を務めていたのは、ナマエの兄だった。まだ、今よりは雲雀と歩み寄りが可能な年齢にあった幼い頃、二人で兄の制服や腕章を借りて、“ふうきいいんごっこ”をしたものだ。そうだ、風紀委員ごっこもまた遺恨の原因の一つだった。風紀委員の仕事内容の解釈……というか、雲雀がやたらオレルールを振りかざしてくるので「二度と一緒にあそんだげない!」と言い捨てて、それが二人で遊ばなくなった直接的な原因だったような気がする。うん、そうだな。あれが始まりだった。雲雀が“ちつじょ”云々言い出したのもあの頃からだ。

 トコトコと、来たときと同じ速度で居間へと戻るにつれ、ヴォリュームが大きくなる。リビングと廊下を結ぶ扉を潜ると、先ほどからずっと延々延べていたらしい嫌味がナマエを抱擁してくれた。窓の向こうで美しく澄んだ空を見上げながら、ナマエは鳥になってしまいたかった。

 雲雀の嫌味は、彼女が箒でガラスを掃いている間も続く。ナマエは脳内でのみ鳥になること――鳥頭で嫌味を聞き流していた。フローリングの溝に細かい破片が入り込んで取りにくいなぁなど、時々人間の思考に戻りつつも、彼女は数分間の苦痛を避けるミッションに成功した。常にこう対処出来れば彼と暮らすのもそう不快ではないのだろうが、十二歳のナマエはそんなに器用ではない。
 ガラスの処理も終盤になった頃、ようやっと嫌味リサイタル(朝の部)は終わりを告げた。雲雀は「ふー」と、ただ椅子に座っていただけのはずなのに、ナマエ以上に疲れた顔をしている。疲れるなら黙ってれば良いのに。そう思っても、口に出せるはずもない。切れ長の瞳から溢れた視線が、反論は許さないと射抜いてくる。苛立ちとかそういうのを抜きにして、素直に怖いと思わせる視線だ。
「とりあえず、トースト焼いて。其のぐらいは出来るよね?」
「……はい」
 大抵の場合、ナマエは“イエスマン”である。箒とチリトリを握り締めたまま、キッチンに駆け込んだのは言うまでも無い。
 トースターは既に焼き時間も設定してあるので、操作方法さえ覚えれば誰にでも美味しいトーストが作れる。
 オートメーションって良いなあ。その内目玉焼きもオートメーション化したらいいのにな。逃避交じりにトースターを弄り終えると、ナマエはマリアナ海溝よりはちょっと浅いため息を、平均して一日に三百九回ほどつくため息の一つをついた。

 トースターが作業の殆どをやるというのに、それすらナマエに掛かっては信頼できないと言いたげな視線を感じる。首だけで振り向くと、ダイニングテーブルに肘をついた雲雀がじぃっとこちらを見ていた。男子に見つめられると普通に恥ずかしく感じるが、雲雀に見つめられると息苦しいだけなのは何故なのだろう。答えを知りたくない問いを、ナマエはアルムの森の木とか、アルプス全体に投げつける事にした。おしーえてーおじいーさんーおしーえてーおじいーさんー。現実逃避は中毒性がある。しかし麻薬の効き目が時間の経過によって薄れるように、現実逃避も時間の経過によって効果が怪しくなる。逃避しにくくなるのと比例して雲雀の視線が重くなり、一層気まずい。
 チン、とトースターが軽快な音を立てたのもいっそ憎らしい――そこまで思って、ナマエはハッと、嬉しそうにトースターへと振り向いた。今ならトースター教を作れる。さもなくば電器屋で家具を漁るカップルに、トースターを二三個売りつけられる気がする。

 ようやっと気まずい空気ともおさらば、もう数分すれば家を出る時刻だ。
 バターナイフを握る手も軽やかに、口笛を吹きたいような気持ちでジャム・バターを塗り終える。弾むような足取りでテーブルへ向かうと、ナマエは圧の掛かった重苦しい表情でトーストの乗った皿を下ろした。
「いただきます」
 雲雀は目の前に置かれたトーストを手に持って、端っこを齧る。この人はトーストされていないパンの耳を食べない。
「どうぞめしあがれ」
 定型文を口にすると、ナマエはソファの脇にある学生鞄に近づいた。登校前の、最後の荷物確認を行う。
「きょーちゃん、おじさんとおばさん、今どこ?」
「フランスだってさ。良いご身分だよね」
「組のほう大丈夫なの?」
「下に任せてあるから良いんじゃない? 僕も時々行ってるし」
 ナマエは不可解そうな、難しい数学の問題を解いているときと同じ表情を浮かべた。ぎゅっと英語の教科書を握り締めて呟く。
「まさか、きょーちゃん、おじさんの跡継ぐの?」

 常々親の敷いたレールに乗っかるなんてナンセンスだと本や漫画を見ては感想を漏らす彼が親の跡を素直に継ぐのかと――それより何より問題なのが当の職業なのだが――ヤクザの組長になるのかと、ナマエはおっかなびっくり問いただした。
 雲雀と視線が交差した瞬間、彼の機嫌が下落したのが見て取れた。馬鹿じゃないのと言いたげな視線に「あーやっちゃったー」と、まるで悪びれていない思考で失態を悟る。暴力さえ振るわれなければ、彼の精神状況など如何でも良いのだ。
 従兄の心中にちょうちょが飛んでようとお花が咲いてようと構わないが、ヤクザの組長になるかならないかはとても大事な事だ。

 トーストの破片を頬張って咀嚼すると、雲雀はガタンと立ち上がった。
 まだパジャマ姿でいるから、着替えに行くのだろう。時刻は七時五分前、マンションから学校まではのんびり歩いたって二十分も掛かりやしない。朝礼に間に合うように行くには、八時に出たって十分だった。朝の七時に家を出てゆくべく既に制服に身を包んでいるナマエが可笑しいのだ。勿論早すぎる登校は彼女の嗜好の問題ではない。ただ単に、リーゼント集団の大名行列に遭遇したくないのである。群れるのが嫌いだからと雲雀の半径十メートルは無人だが、其の十メートル先にはやたらとリーゼントがいるので目立つ。
 当面は“風紀委員長殿”の従妹なのを知られたくないナマエは、彼よりもずっと早く登校する。

「僕はずーっと風紀委員長」
 んーっと伸びをしながら、雲雀はニヤリと笑った。
 悪巧みをしてるとかチェシャ猫みたいというわけじゃなくて、純粋に笑おうとしたら悪そうになった、そんな感じの笑み。

 ナマエは手に持った学生鞄をブラブラ揺らしながら、なんと言うべきかとじっと考える。はらはらする類の考え事ではなくて、ケーキ屋さんでどれを買うか選んでるときのような考え。あぁ今度の日曜にケーキ屋行こう。友人から美味しいケーキ屋さん教えてもらったのだ。其の住所と店名の書かれたメモはしっかりと、プリーツスカートのポケットに入っている。貰ったきり忘れていただけとも言う。
 トントンと二度、オズの魔法使いのラストのように靴下を履いた足のつま先でフローリングを叩く。
「私きょーちゃんが卒業したら風紀委員、なるよ」
「別に今年度からなれば良かったじゃないか」
「だって皆、風紀委員だけは嫌だって最後までジャンケンとくじびきの連続だったんだから。そこまでされちゃあ立候補なんかしたくなくなるに決まってるじゃない」
「良いじゃないか立候補すれば。まあ、風紀委員に入ったらリーゼントにしてもらうけど」
「きょーちゃんはいつリーゼントにするの?」
「咬み殺されたいの?」
「きょーちゃんねぇ、きれいな黒髪だからきっとリーゼント似合うよ。草壁先輩以上に」
「草壁には先輩付けするくせ、僕はいつまで経ってもきょーちゃんなのは何でだい」
「きょーちゃんが季節の変わり目ごとに風邪引かなくなったら改める」

 そう言うと、傍若無人な雲雀が珍しくも押し黙った。彼自身、どうやら自分がそれなりに体が弱い事は思い知っているらしい。
 苦虫を噛み潰したような表情の従兄に、ナマエはなんとなく掛けるべき言葉を失くす。尤も、こんな話題は他の話題で上書きして無かった事にしまっても一向に差支えがない。でもナマエはそうしなかった。

 きょーちゃんは気管支が弱いし、ちょっとした事で風邪を引きやすい。しかも万年貧血体質だ。レバーは大嫌いと来ている。
 だからよく病院にお世話になるし学校を休む事も珍しくない。普段からサボってるのを入れると普通に学校に行っていることのほうが珍しい。体弱いんだから、元気なときぐらい通行人を襲ったり恐喝するのはやめて学校行ってれば良いのに。何故きょーちゃんは具合が悪いか人を襲ってるかの二択しかないのだろう。どっちも私に迷惑を掛ける選択肢だ。

 昔から学校で、そして兄が家を出てからは、病弱な従兄の世話をするのはナマエの役割だった。
 ナマエの作った料理のなかで、雲雀が文句をつけないのはトーストとお粥だけだ。あたまのなかで、従兄との思い出検索機にて「料理 きょーちゃんが食べる」と入力して絞り込むと、数多ある彼との思い出が激減したのは言うまでもない。
 雲雀との思い出は、いつもいつも自分を苛めていたことの他には、いつまでたっても堰が治まらなくて体を丸めてコンコン言っている小さな背中が浮かぶだけだ。

 私を苛めている時のきょーちゃんは物凄く憎らしくて、殺してやりたいと思うことも多々あったけど、コンコン言ってるきょーちゃん見ると、多少殺したいと思わせてくれても良いからいつもみたいになれば良いのにってよく思った。今は――まあ、たまにコップ投げられたり毎朝平手で殴られたり、たまにストレス発散でグーで殴られても、嫌味をチクチク言われても、やっぱり弱ってるきょーちゃんよりは普段のきょーちゃんのが良い。憎たらしいけど、時々一分ぐらい良い感じに会話が続くときは楽しい。ような気がする。あぁ額いてぇ。

 チラリと、雲雀が腕時計を見やった。仕草の意図に気づいて、ナマエはクルリと扉のほうへ向きなおる。
「さっさと行けば? もう七時だよ」
「きょーちゃん、」
 真剣な表情で自分を呼ぶ従妹に、雲雀は何だと咎めるような視線を返した。ナマエはすぅと朝日に紛れた冷たい空気の響きで、呟く。
「ずーっと留年だけはよしてね」
 ずーっと風紀委員という言葉に対して真っ先に浮かんできたからかい文句を呟くと、ナマエは手痛い反撃を食らわないうちに家を飛び出した。エレベーターも使わずに9階という高さからエントランスホールを目指して駆け下りる。
 いってきますは互いに言わない。でも「ただいま」は言う。同居人として、最低限のルールは存在している。
バッドモーニングコール
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