世界で一番流されやすい女

「サボ、これがチサト」
 エースがはちゃめちゃにカジュアルな仕草で千砂登を指さした。なに?

「へーえ」
 友人の指の動きを追ったクソガキがしみじみとした声を出し、アゴに手をやる。
 言うまでも無く初対面のクソガキだが、流石はエースの類友だけあってジロジロと不躾な視線をくれた。ゴミために座り込んでる千砂登を、そのつま先から旋毛まで値踏みしため息を吐く。
「……本当に、こんな魂抜けかけてる女が強いのか?」
 クソガキがエースの耳に手をあて、ヒソヒソ話しかける。勿論千砂登の耳には普通に聞こえるのだが、とりあえず本人の前で悪口を言うのは躊躇われる程度の躾は受けているらしい。
「つえーよ、素手でワンパンボコボコだぞ!」
 エースはシュッシュッシュッと拳を突き出し、ムキになって否定する。
 それだけ愛着があるのなら、千砂登に対しても「チサト、これがサボ」と紹介するのが筋ではなかろうか。数日前に心が通じ合った気がしたけど、それは千砂登の勘違いらしかった。まあ千砂登にしろ、あの日自分の気持ちが変わったような気がしたのだけれど……今もゴミための中にいる。

「なんかさあ、元々たしーまぬけてる?んだけど、ここ数日余計にたしぬけまてっからさあ」
 クソガキの的確な指摘に対し、エースが後頭部で腕を組んで口を尖らせた。
「サボ、このへんで寝起きしてんじゃん。世話してくれよ。おれ、毎日は様子見にこれねえし」
「おまえさあ……そうやって要らんもん拾ってはおれに始末させんの止めろよなぁ」
「こないだ拾った不発弾は役立ったろ!」
「おれのアジト潰したじゃねぇか!!」
「はあ?! 変なおっさんに嗅ぎ回られてるからアジト移すって話だったろ!!!」
「おれの全財産が詰まったアジトを更地にしろとまでは頼んでねぇんだわ!!!!!」
 この子たち、近い未来絶対仲違いするわね。千砂登は深いため息をついた。

『誰よりも強くなったらさあ、自由になれっかな』
 この子の欲するものを与えるために、この子を連れてここを出ようと思った。

 “しろがね”として各地を転々とする千砂登には家こそないものの、それなりの資産家だ。
 未だ“しろがね”が組織として稼働していた頃は定期的に“活動費”の支給があったし、サーカスにいた時はそこからの給料もあった。食費と住居費が殆ど掛からない“しろがね”は何れも資産家だ。睡眠も取らずに二十四時間働いているようなものなので、お金が貯まるのは必然と言える。具体的な貯蓄額こそ把握していないものの、子ども一人育て上げるだけの貯金はあるはずだった。
 とりあえずフランスまでの航空チケットさえ手に入れば後は何とでもなる──というのが千砂登の考えだった。千砂登は一時はメガラニカ・サーカスにも在籍してたほどの大道芸人である。人形繰りの腕や、その特異な容姿を差し引いても、ゼロから金品を集めるのは極めて容易なことだ。
 そういうわけで千砂登は一昨日、殆ど二週間ぶりに知的活動を再開した。
 知的活動といっても大したことではない。話に聞いた“端町”とやらへ行ってきたのである。
 正直言って千砂登はGPS無しに目的地へ着く自信はないが、幸いにも道案内役を買って出る男は掃いて捨てるほどいた。グレイ・ターミナルの北方にある大門を潜ると、端町があるのだという。
 そこでイイコトをしようと囁いてくる男に腰を抱かれながら、千砂登は物憂げに思案した。

 男に馴れ馴れしくされるのはムカつく。
 当たり前みたいに触ってくるのも気持ち悪い。
 でも大道芸に必要な道具もないし、男を財布にするのが一番簡単そうね。

 ……これでも気が向くまま男をボコボコにしてた頃に比べると未だ理知的と言える。

『ギイちゃんはさあ、イースト・ブルーのどこ出身? このへんの顔じゃないよね』
 その台詞を聞いて、千砂登はここへ来て初めて(エース以外の)人類の顔を凝視した。
 当たり前と言えば当たり前だが、チンピラをよくよく見ると、その顔は“へのへのもへじ”よりも繊細な作りをしていた。汗と煤で汚れているものの、チンピラは未だ三十代半ばの若者らしかった。日に灼けてはいるものの、白人だろう。そういえば、これまでボコボコにした子達もみんな白人だった気がする。顔立ちもアフリカというよりユーラシア大陸民族っぽいし、そもそも当たり前みたいに日本語を話してるし……と小首を傾げると、チンピラが照れくさそうに顔を背けた。
 ユーラシア大陸なら、千砂登の知らない国はない。全世界を隅々まで見て回ったわけではないが、グレイ・ターミナルほどの広大なゴミ捨て場があるなら噂の一つ二つ耳にしているはずだ。
 何かが可笑しい。なぜ。如何して。これだけ発展した都市に、九十八年生きた千砂登の知っているものが何一つない。町ゆく人は千砂登の母国語を語り、書店に並ぶ本には英語が記されている。ベストセラー!というポップの下に並んだ本の著者の誰一人分からない。その分厚さに反してページ数は少なく、本によってインクの濃さが違う。棚に並ぶ何れの本も、千砂登が子どもの頃の書籍と同じ方法で製本されている。値札には千砂登の知らない通貨が並び、チンピラが「今あんまり持ち合わせがなくてさァ」と上擦った声を出す。頭が痛くて、何もかもが分からない。
 万物に困惑した結果、チンピラにされるがまま抱かれてしまった。

 強いショックを受ければ夢から覚める可能性にワンチャン賭けたのだが、普通に翌日だった。
 饐えた匂いのする寝床で目を覚ました千砂登は死にたい気持ちになった。まあ“しろがね”は繁殖力も低いし、偽名を名乗ったので「こないだ抱いた女がさァ」などと屈辱的な話をされようと被害を受けるのはギイ・クリストフ・レッシュである。いや別に何の被害もないか。死んでるし、この世界は千砂登の知ってる世界とは違うみたいだし、千砂登だけ地獄に来てしまったのかな?
 それとも頑張って探したら、ここにギイ・クリストフ・レッシュもいるのだろうか。いるわけがない。エレオノールのハッピーエンドのために死んだ彼に、生への未練があるはずもなかった。
 よく分からないチンピラに「かわいいよ」「世界で一番綺麗だ」と囁かれながら、千砂登は泣いてしまった。こんな千砂登の体にしか興味のない男でさえ、千砂登に優しいことを言ってくれるのならそれで良いと思ってしまう。押しに弱い上、自我が薄すぎる。しかも理性が砂の城より脆い。
 一夜の過ちの後ようやっと我に返り、チンピラへグレイ・ターミナルへ帰る旨を伝えたら流れるように軟禁されたので笑ってしまった。色々優しくしてくれた相手を殴るのも気が引けるな……と迷っていたら謎の薬をキメられ、セクシャルななんやかやが発生したのだが、十時間ぐらいで薬の効果が切れたのでチンピラの家と体を破壊して帰ってきた。つくづく“しろがね”で良かった。

 上記のような“やらかし”のあとだと、エースから対等に扱われないのも仕方ない気がする。


「とにかくコイツはおれたちの船の雑用係になるから世話しろ。必要だろ、そういうのも」
「必要だけどさあ……エース、今はお荷物増やすより船の資金集めが先だろ!?」
 このクソガキ、エースと違ってすごく弁が立つ。
 エースたちに千砂登の“やらかし”が分かるわけでもなし、そろそろ鉄拳制裁でも食らわすか。
 いい加減幼児に罵られるのも飽きた千砂登が「はーどっこいしょ」と腰を上げた時、エースが極めて不快そうに顔を顰め、クソガキを睨み付けた。クソガキが僅かに怯んで、一歩下がる。

「……仕方ないだろ、チサトはもうここにいんだから」
 エースはクソガキだが、チンピラから囁かれた言葉のどれよりも優しいもののように思った。
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -