自由の代償
黒目黒髪で、恐らく母国語は日本語。しかし“日本”のことは知らない。孤児で、今は山賊の塒に厄介になっているらしかった。まあそういう生い立ちなら、世界地図もよく理解していないのは仕方の無いことなのかもしれない。2001年に山賊……それも日本人もしくは日本語話者が関わっている……突っ込みどころは色々あるものの、千砂登は思考を放棄した。面倒くさいからだ。
退屈しのぎでクソガキについて考え始めたのに、そこでまた何かと思案するのは嫌だ。
性格は飽きっぽくて短気、暴力的と称しても良い。難しい話や面倒くさいことが嫌いですぐ遮る一方、興味があることへの集中力は凄まじいものがある。IQはそんなに低くないのだろう。
一昨日、久々のチンピラ来訪とナイフの取り立てとがバッティングした。
エースが来た時には既に千砂登は男に馬乗りになって、その顔面を殴っていた。年甲斐もなく「助けてくれえ!」と叫ぶ男を殴りながら、千砂登は「流石のエースも怯えるであろう」と、漠と思った。勿論、エースに怯えられたところで如何でも良い……それどころかナイフの取り立てがウヤムヤになるのは願ったり叶ったりである。しかし、なんやかやで二週間近く顔を合わるうち幾らか情が湧いていたらしい。胸奥から湧く感情を誤魔化すように、千砂登はもう一発男を殴った。
千砂登の下敷きになってる男は、エースの年格好に気づくと「早く逃げろォ!!」と叫んだ。ほんの三十分前には勝手に千砂登の胸を揉んでいたくせ、今更善人気取りとは笑わせる。
男の反応を見て微笑していたら、いつの間にかエースがチンピラの横に座り込んで笑っていた。
『おまえ、ケッコー強いんじゃん! 自分よりデッケーやつ相手にすげえな』
キラキラした目で「おれもそういうのやりてぇ」と言うエースは年相応の子どもに見えた。
……ふつう五歳の子どもは暴力に興味を持ったりしないのだけれど。
指裂きや肘打ち、肩に担いでの腕折り、下段すくい投げ、ガンバローラetc...etc...
チンピラがボコボコにされればされるほど、エースの目は輝いた。ヴァラーシュタイン写本においては“生死を賭けたルール無用の戦場では、体格の差は圧倒的な違いにはならない”と説かれている。“しろがね”たる千砂登は基礎体力そのものも常人の五倍ほどに強化されているが、ヴァラーシュタイン写本に記されている理論には概ね賛成だ。対人戦において大切なのは体力、間合い、俊敏性の三つの要素であり、その三つの使い方次第でどのような相手でも圧倒することが出来る。
チンピラに“恥ずかし固め”をキメながら淡々と格闘技について話していると、要所要所で「でも体力は結局体のデカい小さいで変わってくんじゃん」「戦う上で時間が大事って何?」と的確な質問が飛んでくる。千砂登はチンピラという教材を用いて、エースが納得するまで講義を行った。
千砂登は、他人にものを教えるのは嫌いではない。
ファティマやエレオノール相手にサーカスの芸や格闘技を教えたこともあったし、人形繰りの練習に付き合うこともあった。自分が苦労して覚えたことへ熱心に聞き入り、奮起する姿を見るのは好きだ。千砂登の人生の一部が彼女たちと一緒に生きていける気がして、少し嬉しかった。
久々に暴力以上に楽しいことを思い出した千砂登は、チンピラを五体満足で逃がすことにした。
「おまえさあ、そんなに強いのに何でこんなとこ居んだよ」
「さあ……それについては、私が聞きたいぐらいなの」
「パイプか何か使ってぶん殴ってンのかと思ったのに、素手だったんだな」
定位置に座ったエースが、隣のゴミ山から鉄パイプを引っこ抜く。
「そうね、エースは未だリーチが短いから長物を使うほうが良いでしょうね」
しみじみとした言葉を漏らすと、エースはじっと千砂登を見つめた。
「頑張って、頑張って……そんで誰よりも強くなったらさあ、自由になれっかな」
分からなかった。千砂登は強くなりたかったわけではなく、“上手くやりたかった”のである。
誰よりも上手くやりたかった。自分に課せられた役を誰よりも上手く演じたいと常に思っていた。自分のプライドのため、そして、何より独りぼっちになりたくなかったから──他人の求めに応じていれば、その支配のなかでなら独りになることはないと盲目的に信じた。本当は、千砂登が強く願えばギイ・クリストフ・レッシュの脚本から逃れることは容易だった。そうと分かっていたくせに、演じることへの不満を抱いていたのに、千砂登は脚本に殉じてしまった。
何故か?
自由になるのが怖かったからだ。
「……自由って、恐ろしいことよ。自由になって、その時独りだったらと思うと背筋が冷えるわ」
千砂登の消極的な意見に、エースはキッと眉尻を吊り上げた。
「おれは誰の言いなりにもならねえ。おれを従わせようとする奴らと、おれを否定する奴らと上手くやってくことでしか仲間が出来ねえンなら、おれは独りぼっちのほうがずっと良い……!」
五歳の子どもに不釣り合いな苛烈さを絞り出して、エースは唇を噛む。
千砂登は何となく腰を浮かし、その身を乗り出した。千砂登の腕が己に差し出されたのを見て、エースがビクリと身をすくめる。当たり前だ、一昨日も散々に引っぱたいたのだから。
千砂登はエースの固く強ばった体を抱き寄せて、はらはらと泣き始めた。
「な、なんだよ、うぜーし……ま、また説教とかしてくんだろ」
もごもごと反抗的な台詞を口にするくせ、千砂登の胸に抱かれたエースは大人しかった。
千砂登は時間も忘れてエースを抱いていた。この子もきっと自分より早く死ぬと分かっているのに、もう生きることも、考えることも止めようと思っているのに、如何しようもない寂しさから人肌を欲してしまう。他人に心を動かすのは止めようと思っているのに、結局情が湧いてしまった。
「……チサトが自由になってもおれがいてやるから、あんま泣くなよ」
千砂登の膝上で、エースが出会って初めて千砂登の名前を口に食んだ。