一緒に暮らそう。
 デュークの涙が収まると、ドリスは改めてそう口にした。自分の肩を掴む手が、僅かに震えている。

 胸中の感情を全て言葉にしたからか、はたまたリヴァイに蹴られた衝撃故か、もうドリスを恨む気持ちはなかった。デュークは己に縋る姉を、冷めた視線で見つめた。姉が憎いわけでも、嫌いになったわけでもない。それでも、この人と一緒に暮らすことは出来ないと思った。
 デュークの気持ちを察してか、ドリスが彼を引き留めようと言葉を紡ぐ。この町でまた新しい学校に通おう。お金を貯めて、またこの町でお店を始めよう。デュークには商才があるから、きっとやっていける。この町に残って、一緒に暮らそう。ドリスの台詞は勿論デュークには喜ばしいものだった。しかし子供染みた甘言の全てが「でも、姉さんは壁の外に行くんだろう」という返しで無意味なものになるとも、デュークは気づいていた。きっとドリス自身も分かっている。分かっていても、最早弟の心が自分から遠ざかったことを認められないのだろう。
 気のない相槌を打ちながら、デュークは「この人はこんなにも弱いひとだったのか」と他人事っぽく考えた。ドリスを落胆させるのも、失意の底に叩き落とすのも容易なことだ。尤も軽率な悪意を口にしようものなら、再びリヴァイの足が飛んでくるだろう。

 ドリスの一歩後ろに佇むリヴァイは、威圧的な瞳でデュークを押さえつけんとしていた。リヴァイが便宜をしてくれたと姉は言うが、それはデュークがドリスの弟だからだ。恐らく彼の関心は「幼いデュークが如何身を振るか」ではなく「如何にドリスが傷つくことなく日常に戻れるか」にあるのだろう。母親が終生父親の手に依って生きたように、エレンがミカサの手を引いて歩くように、またアルミンがデュークの手を握り返してくれたように、ドリスにはリヴァイがいる。この男は項垂れる姉を蹴り起こし、前に進めと急かしてくれるに違いない。
 ドリスの隣にはもうデュークの居場所はなく、またデュークの暮らしにもドリスの入る余地はないのだ。

「……この町で、お姉ちゃんと一緒に暮らそう」
 独り言染みた響きをこぼす姉の目の下にもクマが出来ている。顔色も悪い。当たり前だ。デュークの両親は、ドリスの両親でもある。
 ドリスは調査兵団の一員だ。外壁調査にも、幾度も駆り出されている。巨人と相対する恐怖を常に身近に感じて生きていると言って良いだろう。「巨人が怖くないの」と聞いたデュークに、ドリスは「世界で一番怖いよ」と苦笑を返した。「デュークには一生外壁に出て欲しくない」と続けた姉に、自分の事は棚に上げてと、デュークは非難に近い感想を抱いた。今は、自ら外壁に出ておきながら巨人への怖れを口にする姉の気持ちが分かる。あれらはひとの夢や目的、感情の上っ面を覆っている皮膚を剥がして、臓腑に直接恐怖を打ち込むものだ。
 この二週間、ドリスだけでなく、調査兵団の誰もが、自分が味わうからこそ耐えられる恐怖に無防備な町が凌辱される絶望を味わったに違いない。自分の愛しい人が遠く離れた場所でどんな恐怖を胸に死んだか、きっと世界中の拷問器具を集めても、その現実には敵わない。
 夜ごとに、それとも日常の隙間に、トロスト区を抜けた姉の魂は二週間前のシガンシナ区を彷徨うだろう。故郷が破壊され、見知ったひとが巨人に喰われる光景を、その場で眺めていたかのように生々しく思うことが出来るだろう。
 デュークは、そんな姉に「私が両親を見殺しにしました」と言わせたのだ。

 姉のことが大好きだった。色々な事を教えて貰った。
 姉が欲したものを、姉の帰る場所にいる、自分より大事に想われているひとを幾度も羨んだ。こうしてリヴァイを目の前にして、分かる。デュークはもう姉のそばにいる資格がない。デュークも、姉のそばで生きていきたくない。この人は、デュークの“家族”ではない。
 デュークが助けを求めた時、姉はそばにいてくれなかった。それと同じで、救いを求める姉のそばにいたのもデュークではなかった。
 これから先、デュークは何度でもこの人を傷つけるだろう。

「僕……開拓地へ行くよ」
 デュークは自分と同じ色の瞳を真っ直ぐ見つめて、なるたけ優しく口にした。惨劇と環境の変化に混乱しているからといって、真っ当な理性が消え失せているわけではない。あと一月、それとも半年、何百年の歳月が過ぎようともう二度と自分たち姉弟はシガンシナ区の日常に戻れないのだ。そしてトロスト区で新しく姉弟関係をやり直していく気力も、デュークにはなかった。どんなに頑張ったところで、この姉はデュークよりずっと早く死んでしまう。ウォール・マリアこそ調査兵団より軽いと判断されたが、ウォール・ローゼを失っては国が機能しなくなる。背後に死神を背負っている姉と共に暮らすのは、ナイトの駒が捨て駒に変わる瞬間を待つ暮らしはデュークに重すぎた。
 今はただ、ドリスを傷つけることのない遠く離れた場所へ行ってしまいたかった。
 デュークの感情を覗き込む緑の瞳に薄ら涙の膜が掛かる。ドリスは「そっかあ」と、くしゃりと微笑んだ。デュークの肩から下ろした手を太ももの上で固く握る。リヴァイがドリスを労わるように、それとも彼女が傷つく前に連れ去るつもりなのか、その肩を掴む。
「開拓地に……そんなに遠いと……お姉ちゃん、デュークが助けてって言っても……聞こえないよ」
 冗談めかす姉に、デュークも笑って見せた。「姉さんよりずっと年下だけど……男だもの」背後の壁に手をついて立ち上がる。しゃがんでいるせいだけでなく、自分を見上げる姉は記憶のなかにある姿よりずっと小さく見えた。
「自分の力で立って歩くさ。強くなるよ」

「そうだね……そう、それが……それが一番……デュークが、正しいね」
 うわ言めいた相槌を漏らすドリスは、一向に立ち上がろうとしない。「男の子だもんね」と、視線を床に落とす。見かねたリヴァイがその背を蹴ると、億劫そうに立ち上がった。ふらりとよろけたドリスの腕をリヴァイの手が捉える。
 リヴァイの暗い視線がデュークをねめつけた。「デューク……だったか」その鋭い眼光とは裏腹に、親しげな響きで自分の名を呼ぶ。
「デューク、よく言った。そんな女々しい顔に馬鹿みてぇな長髪を生やしていても、お前は男だ」
 侮辱されているのか褒められているのか――リヴァイからの突然の好意に、デュークは眉を寄せた。この男がどういう人間かはっきり知っているわけではないが、少なくともリヴァイに蹴られて以降のやり取りで彼の好感を買った覚えはない。寧ろ、ついさっきまで露骨な敵意を向けられていたはずだ。姉の反応からリヴァイの台詞の意図を探ろうとしても、放心状態で頼りにならない。
 一体如何いうことだろうと困惑していると、ガッと脇の壁にリヴァイの足がめり込んだ。デュークの胸ぐらを引き寄せるリヴァイが、その耳元にドスを利かせる。「男なら……女を泣かすのはベッドのなかだけにしておけよ。クソガキが」
 殺意の満ちた表情に、デュークはさっと青ざめた。

「……何話してるの?」
 一足遅れで二人の内緒話に気付いたドリスが、怪訝気に顔を顰めた。リヴァイの腕を押しのけて、自分一人の力で立つ。
「男同士の話だ。このクソガキは中々に見込みがある……鉄とガキは熱い内に打たねぇとな」
 リヴァイは碌でもない台詞を悪びれるでもなく口に食むと、口端を歪めて笑った。
 この、ゴロツキも裸足で逃げ出しそうなほどガラの悪い男が姉の大事な人……と思えば何かしら冷めていくものがある。それでも――自分から「もう行かなくちゃ」と口にしたくせ歩きだせないドリスを、未練がましくデュークを振り向くのドリスの腕を引っ張っていくのは、弟であるデュークでなく、この無法者なのだ。軍議がどうだ、馬の選定基準を見直さないといけない、明日の炊事当番で各班員の役割分担をどうするだ……決して雄弁なようには見えないリヴァイが、遠目にも沈んで見える姉にやたらと話しかけていた。

 喧騒の向こうに、翼のエンブレムが埋もれていく。鳥が開け放たれた窓を抜けていくように、姉の人生も疾うにシガンシナ区になかったのだろう。そして羽根や空を望んだことのないデュークも、もうあの鳥かごで生きていくことは出来ない。

 デュークは二人がすっかり消えてしまうまでその場に佇んでいたが、ふと脇から飛んできた声に振り向いた。「おい、デューク」と、エレンが混雑をかき分けて近づいてくる。その背後には、モップとバケツを手に持ったミカサが続いていた。
 そういえば、今日は清掃当番だった。アルミンの父親から、午後の三時頃に共用トイレ前へ集合するよう言われていたっけと思い返す。
「ドリスさん、もう帰った? 待ってるなら……悪い、俺は放っておけって言ったんだけど……」
「ここで寝起きしてる以上、三日に一度の清掃は義務」ミカサがデュークの胸元へぐいとモップを突きつけた。
 口を尖らせたエレンが、事務的な正論を口にするミカサを睨んだ。不満や反論を口にしないのは、ここに来るまでの道中で既に言い負かされたからに違いない。デュークはモップを受け取って、笑った。「良いよ、姉さんはもう帰った。行こう」
 三人連れ立って歩き出す。無神経だと詰るエレンを受け流しながら、ミカサから掃除の手順を教わる。「七人で男女両方はキツイよな」とか「便器から大便はみ出してるのって、した人は出て行く時なんとも思わないのかな」とか、下らない雑談に耽る。

 “ここ”が自分の暮らす世界だと、デュークは何とはなしに思った。


Paradiso


 最初の面会からデューク達の行き先が決まるまでの二週間で、ドリスは頻繁に会いに来てくれた。
 リヴァイを連れていたのは初回のみだったけれど、アルミンやエレンたちと笑いあうドリスはデュークの良く知る“姉さん”だった。

 どんよりと沈んだ避難所の空気が、ドリスが訪れるだけで一変する。それは色々な物資を持ってきてくれたことも理由の一つだろうが、何より幼い頃から見知った少女が立派に兵団服を着こなしていることが人々に力強いのだろう。
『トロスト区の壁上警備には調査兵団も協力しています。私たちがこれまで赴いていた壁外と違って、ウォール・ローゼの外は立体起動装置を好条件で使える市街地が広がっています。壁を壊し得る巨人の存在が確認されたからには、もう二度と同じ事態は起こりません』
 そう断言する姉は“兵士”だった。きっと、もうデュークが何を言おうと「巨人が怖い」とは口にしないだろう。
 ウォール・マリア内の巨人を掃討することは出来ないのかと問う女に、ドリスは困った様な微笑と共に調査兵団の人員不足を嘆いた。駐屯兵や憲兵のなかには立体起動装置の使い方を忘れている人も少なくないんです。上層部は実戦経験の有無をあまりに軽視しすぎました。これから訓練兵団のカリキュラムが大きく変わると思います……そして私よりずっと腕が立ち、かつ実戦を臆さぬ兵士が多く産まれるでしょう。最近の若い人は体格も良いですし、食糧事情の変化が理由なんでしょうね。尤もらしく話題のすり替えを行うドリスは、エレンたちの前では決して訓練兵団やそれに纏わる楽観視を口にしない。傍で耳を澄ますデュークにとって、その理由は明らかだった。
 例え調査兵団に何万と志願者が押し寄せようと、その膨大な兵力の全てが巨人の胃袋へ収まるだろうことを姉は知っているのだ。
 人類がウォール・マリアを取り返すには千年以上の歳月を要するに違いないし、その頃には人口は今の半分以下に落ち込んでいるだろう。そもそも、人類がウォール・ローゼ内の燃料と食糧だけで存続出来るのかさえ分からない。ただ兵士も一般人も、誰もが次がないことだけを理解していた。もしウォール・ローゼが突破されることがあれば、間違いなく人類は滅亡する。

 ひとは愛しい者を、一日二日でも長く生かしておきたがるものだ。
 そうでなければ、兵士の姉が「生産者に徹しなさい」と言うはずがない。他の人の日和見を潰えさせぬために、押し殺した声で囁きかける。何としてでも、エレンが壁外に出て行かないよう手を尽くして。あなた達は兵士になってはいけない。兵士の命はウォール・マリアより重く、ウォール・ローゼとそれを支える生産者より軽いのだから。デュークは賢いから……分かるよね? いつかの母親に似た声音で念を押すドリスは、デュークの価値観が変わってしまったことを知らないのだろう。自分の理性的な弟は未だ壁外へ夢見る者を嫌っていると、そう信頼している。デュークは「姉さんは棚上げが好きだね」と返す代わり、「うん」と、短い嘘を吐いた。

 ドリスの脆さを知ってしまえば、突いただけで崩れてしまいそうで、折角会いに来て貰ってもつい遠巻きにしてしまう。
 その一方でドリスの周りをチョロチョロしていたのは、ごく幼い頃から面識のあるアルミンやエレンではなく、エレン以外の何もかもに関心のなさそうなミカサだった。ドリスの兵団服の裾を引くミカサの姿は、デュークにとって衝撃だった。ミカサがエレンの家で暮らすようになってから一年と経たない。その間、ドリスは二度しか帰省してこなかったはずだ。一体いつの間に親しくなったと言うのか。「ドリスも怪我がないようで良かった」と、彼女にしては破格の好意を口にするミカサの横顔、デュークは怪訝な顔を見つめた。凝視されていることに気づいたミカサが、愛想の欠片もない無表情をデュークに向ける。恐らく姉はデュークとそりの合わない何もかもと親しく出来るのだ。

 たった一度会ったきりだけれど、リヴァイと親しく話す自分を想像するのはデュークにとって困難を極めた。
 この町に残れば否が応でもリヴァイと顔を突き合わせる機会が多くなるだろう。姉を傷つけるのも怖いが、姉と意見を違える度に蹴られるのでは堪らない。ミカサはリヴァイよりはまだマシだ。エレンと話しこんでいるとモップの柄で小突いてくるし、エレンと自分の間に割り込んでくるけれど、六メートル向こうまで蹴飛ばしたりはしない。まあ、出会ってからの一年でざっと十回はコテンパンにされているけれど、デュークもミカサの髪を引っこ抜いたり反撃に出ているので、一方的に暴力を振るわれるよりはずっと良い。

 しかし避難所生活も終盤になって、デュークは、ミカサの拳が鳩尾にめり込むより、エレンをこけさせた咎で冬の川に突き落とされることより、リヴァイにわき腹を蹴られるより辛い事が世の中にはあると悟った。アルミンに無視されることだ。

 デュークが開拓地行きを選んだと知るや、アルミンは手を繋ぐどころか返事をくれることさえなくなってしまった。両親やエレンからたしなめられても、デュークが機嫌を取ろうとしても、アルミンの態度は軟化しなかった。
 アルミンの強情さに痺れを切らしたデュークが「何でだよ、怒ってるなら理由を言えよ」と付き纏っているのを見て、ミカサが「いい気味……」と瞳を細めて微笑う。この女、ベッドに引きずり込んでしこたま殴ってやろうか……と思ったところで、アルミンがくるりと振り向いた。「バーカ! そんなに畑を耕したいなら、地面から頭だけ出して埋まってろよ!!」と訳の分からん罵りを浴びせられ、デュークは咄嗟に両耳を抑えた。アルミンの台詞が受け入れがたかったわけではない。トロスト区全域に聞こえかねないボリュームだったのだ。
 デュークが鼓膜の健康とアルミンの機嫌とを天秤にかけていると、フフッとミカサの笑い声が聞こえてきた。視線を滑らせば、エレンに寄りかかって笑っているミカサと、何とも言えない顔でこちらを伺うエレンとが目に入る。「……アルミン、ドリスさんのこと好きだから……お前がさあ」と、友人同士の諍いを案じるエレンに対し、ブフーと小さく噴き出したミカサは「わらえる」と付け足す。
 フォローなのか、はたまた諦めろという意味合いなのか、エレンが「こいつ……ほんと、執念深いから……」と漏らした。デュークは、自分がこの女に好意を抱く機会が永遠にないだろうことを確信しながら「良いよ、気にしてない」と見栄を張った。
 尤も丸きり嘘というわけでもなかった。アルミンを如何にかしないことには、おちおちミカサに腹を立てることも出来ない。

「アルミン、いい加減口利いてくれよ……今更、もう怒るなって」
 開拓地へと向かう馬車のなかで、デュークは今日になって十五回は繰り返した懇願を吐きだした。それはもう“お願い”というより“ため息”に近かった。何かしらの反応を期待して口にしたものではなかったが、思いがけずアルミンがデュークへ振り向く。
「折角ドリスさんが迎えに来たのに――何でデュークはそう、馬鹿でもないくせ馬鹿げた選択肢を選びたがるんだよ」
 トロスト区へ続く門が見えなくなったことで観念したのだろうか。真っ当に話す気になったらしかった。
 エレンの言う通り、デュークがドリスの誘いを無碍に断ったことに腹を立てているとしても、そんなのアルミンに関係ないはずだ。デュークが開拓地に行って、アルミンに何の不利益があるのか分からなかった。自分と一緒にいるのが嫌なのかもしれない。これまでのデュークの仕打ちを思えば、アルミンに嫌われていたとしても可笑しくことはない。仕方がない。そう分かっていても、アルミンに嫌われたり、無視されるのが我慢できない。苛々する。アルミンに嫌われたくないという気持ちから、彼を傷つけるための台詞を口にしたくなる。
「はあ? お前いじめるような奴が馬鹿じゃないと思ってるわけ。おめでたいじゃないか、アルミン=アルレルト」
 デュークが一週間分の苛立ちを込めて皮肉ると、アルミンはつんとそっぽを向いた。「フルネームで呼ぶな」
「じゃあ、何で怒ってたかぐらい言えよ。何で僕が僕の身の振り方を考えたぐらいで、一週間も無視されないといけないんだ」
 キッと、アルミンの丸い瞳が鋭くデュークを睨みつける。
「……トロスト区にいれば、勉強が出来るし……こんな……少なくとも奴隷染みた暮らしをしないで済むのに……」
 膝の上で作った拳が微かに震えていた。抑えた声音は、少し離れた場所に座る両親の耳に入らないようにという気遣いだろう。

 王政府は市街地で暮らす国民の反感を買わないために、そして大人達は子供を不安がらせぬために夢見がちな台詞を口にする。番地ごとの移住だから、環境が整えば元通りの生活が待っているなどと、開拓地へ追いやられていく人の幾人が心からそう信じているのか。
 治安の行き届いた町から遠く離れ、デュークたちの暮らしを管理するのは王都から左遷されてきた憲兵たちだ。荒んだ暮らしが待っているだろうことは、ドリスがミカサに男物の服しか買い与えなかったことからも明らかだった。それを知っているからこそ、ドリスは足しげく通ってきたのだろう。ドリスは最後まで弟の心変わりを期待していた。結局はこうして馬車に揺られているが、ドリスは自分に出来る精一杯でデュークたちに尽くしてくれた。衣類や生活必需品を揃えてくれただけでなく、開拓地までの馬車代もドリスが支払った。
 昨夜遅く会いに来たドリスは、別れを目前に控えて何を言うでもなく、ただ分厚い手帳に黒鉛を走らせていた。白いページに自分が写しだされていくのを何気なく眺めながら、デュークは「これが今生の別れになるのだろうか」と他人事めいた感情を胸に抱いた。
 その薄情さがアルミンの気に障ったのかもしれない。

「ドリスさんがあんなに頼み込んでたのに……何で、トロスト区に残らなかったのさ……」
 ガタンと、車体が大きく揺れる。斜め向こうで眠っていた赤ん坊がぐずり出した。デュークは傍らにある窓のカーテンをそっと捲った。それは窓というより、硝子さえ嵌っていない小さな覗き穴で、車体を撫でる風がデュークの頬を冷やした。
 木々の向こうに、空の終わりに天までそびえる壁が見える。いつ崩れるとも知れぬ、虚構の鳥かご。デュークの故郷を切り捨てる目盛り。壁の向こうには、ついこの間まで人類の暮らしが営まれてきた廃墟が広がっていた。巨人の新しい玩具、ドリスの新しい死に場所。
 何を見てるのと、アルミンがデュークのマントの裾を引く。何でもないさ。デュークはカーテンを戻して、振り向いた。
「……僕は、僕自身の考えで生きていく。自分の足で立って、巨人に喰われるその時まで僕は僕の日常に生きる。お前をいじめてたことを謝るし、エレンと馬鹿な話をするし、ミカサに喧嘩も売る。僕は、巨人の脅威や何かの都合に振り回されて生きるのは真っ平だ」
 デュークは固く握りしめられたアルミンの拳に己の手を重ねた。真っ直ぐに、アルミンの瞳を見つめて口を開く。

「僕は、お前達と行く。僕は僕が死ぬ日まで、お前達の生きる日常で暮らす」
 これがお前の知りたかったことだと付け足すと、デュークの手のひらのなかで広げられた指が握り返してきた。


楽園


 俯いたアルミンが小さく「かえりたいね」と漏らす。デュークもコクリと頷いた。「ああ……そうだな。石けんの在庫が山と残ってる。報告書も、途中で放り出してきたし……帰らないとな。帰るぞ」アルミンがデュークを見上げる。「……あの町に帰るんだ」
 きっとエレンならそう言うと笑うと、アルミンも呆れたような苦笑と共に頷いた。エレンが訓練兵団に入るなら、ミカサとアルミンも行く。三人が行くなら、デュークも行く。何よりも巨人を駆逐し、そして人間としての尊厳を全うするための力が欲しいと思った。

 デュークは人間だ。自分が死んでいくまでの“数日”が何のために存在しているかは自分で決める。


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