そうよ、お利口さんね。マリア、私を殺したい?
 カチッカチッと、ドリスの手の中のクリッカーが鳴る。親しげに巨人の名前を呼ぶ横顔を、リヴァイは不愉快な気持ちで見つめた。

 マリア――聖母の名で呼ばれる女型の巨人は最低限の釘と縄だけで拘束され、唯一自由な右腕をドリスに伸ばすでもなくダラリと地に垂らしていた。些細な気まぐれから彼女の実験を覗きに来たリヴァイが「調教ごっこか」と皮肉ると、ドリスはマリアに背を向けて振り向いた。
「そうね、調教ごっこ」困った様に微笑するドリスの背後で、巨大な指がぴくりと動いた。「でもマリアには痛覚があるの」
 カチッとクリッカーが鳴る。マリアの腕は再び脱力し、ドリスは自身の背後にいる化け物に意識を集中させつつも会話を続けた。
「そして学習能力も備わっている。この間の壁外調査で、木に登ろうとする巨人がいたのは、貴方も見たよね?」
「さあ、巨人をよく見ようと身を乗り出したら苔に足を取られて落ちかけた馬鹿がいたとは聞いたな。……お前のことか?」
 リヴァイがふんと鼻で笑うと、ドリスは口を噤んだ。図星なのだろう。

 普通新兵は各班にバラけさせられるものだ。リヴァイは彼女の同期ではないし、ドリスのような“兵団服を着た学生連中”よりかはまともに動ける自負もあったが、それでも分類上は新兵である。兵団の生活は班単位での行動が原則であること、また訓練兵団卒の同期に対する軽視も手伝って、リヴァイには親しい新兵仲間がいなかった。巨人に強い関心を持つ新兵がいるとの情報も、先輩兵士から聞いたものだ。
 マリアの指が地面を擦る音を察知して、カチリと静かな音が響く。それはあたかも、彼女が巨人の動きを制御しているかのような錯覚をリヴァイに植え付けた。ごく平凡な、もしくは平均以下の兵士に過ぎない彼女が一部の兵士から“巨人の聖母”と呼ばれ、また調査兵団の活動を支援する人々から期待を掛けられているのも、何ら可笑しなことはないようだった。

 ドリスはリヴァイに背を向けると、女型の巨人に一歩近づいた。「……調教ごっこ、かあ。言い得て妙だな」空いている左手で、サバイバルナイフを出す。「マリアは、人間以外を欲しがらないの。痛覚と学習能力はある。それも、人間を捕食するためだけの学習能力がね」
「要するに、純粋な害獣ってことか。そんな分かりきった結論を出すために、何人死んだ」
 リヴァイも、マリアを飼うための天幕のなかへ足を踏み入れた。薄暗い視界のなかで、ドリスがマリアの腕の届かないギリギリのところで立ち止まっているのが分かる。リヴァイの気配を背後に感じても、ドリスは視線一つマリアから逸らさなかった。
「これまでの記録とマリアの反応を照らし合わせるに……巨人は個体ごとに……違う性質を持っているものと思われる。私に分かるのはそのぐらいで……本当は、王立研究院の人がマリアと関われば良いんだろうけど、そうすると捕獲不可能なサイズの巨人がいることを忘れてしまうって……“外”に行かない人は内の情報だけが全てだから……」一歩、ドリスが後ろに下がる。「ガッカリさせちゃうかなあ」
「がっかりとか、そういう問題じゃあねぇだろうが。おい、」
 ちったぁ後ろを見て歩けよ。リヴァイがドリスの軌道から外れるより、彼女の体がぶつかってくるほうがずっと早かった。
 よろけたドリスが「あ、」と、零れ落ちるクリッカーを目で追う。リヴァイは咄嗟にドリスの首根っこを掴んで、マリアから遠ざかった。鼻先に広がる石けんの香と、自分達を殺さんと伸ばされた指に対する恐怖とが、一瞬で冷えきった五感を緩やかに溶かしていく。醜悪なほどに肥えた指が、先ほどまで自分達の立っていた地面を削っていた。見開かれた目はガラス玉のように自分たちを見ておらず、人の形を模した張りぼての顔からは、遠吠えに似た呻き声を絞り出している。アアアア……と無秩序に鳴る声は、人類への害意だけを含んでいた。フーッフーッと、殺すに殺せぬ化け物を飼い続けなければならない怒りを押し殺すリヴァイに対し、ドリスは短いため息を一つ漏らすだけだった。
「痛覚のみならず、反射や学習能力の高低にも個体差があるだろうこと……たったそれだけを知るために、六十人は死んだだろうね」
 ドリスはリヴァイの手を払いのけると、困ったような笑みを浮かべた。「……そう素直に言えば、納得してくれるの?」

 巨人を殺すための兵器、そして巨人を即死に至らしめるための弱点――十分な支援もせず結果だけを求めてくる王政府に、支援者たち。
 ドリスの言う通り、壁外調査に十分なだけの知識を持った学者の同行を望めば、国の宝を死地へやるわけには行かないと拒まれてしまう。一方で下手に情報を渡せば、兵士を数字でしか見ない学者達の好奇心で無謀な実験に付き合わされる。現場の兵士から見てどんなに馬鹿げた検証実験でも、王政府からの命令とあらば応じないわけには行かない。そして“失敗”に見合う犠牲を出さない限り、何度でもやり直すことを強要されるのだ。現団長は、心を交わした同期の兵士や目を掛けてきた部下が紙上の数字として扱われる現実を長く耐え忍び、最近になってやっと「原則的に仮説を立てるところから検証・実験、作戦立案まで全て調査兵団内部で行う」許可を得るに至った。
 数十人の兵士の命と引き換えに捕えた巨人を新兵に託したのは、“消去法”以外の何物でもない。ドリスがそれに相応しい知識や聡明さを誇るからではなく、単に好き好んで巨人を弄繰り回したがる人間が現状において彼女以外にいなかったのだ。

「しねえだろうな。俺は、俺の仲間を食い殺した化け物を殺したいんだ」
 リヴァイが冷ややかな視線を向けると、ドリスは己に向けられた敵意に対し、やはり困った様に笑うだけだった。
 それから一年後の風が冷たい夜、あの笑みの裏で「こっちの気も知らないで、バーカ」と思っていたことを、酔い潰れたドリスが教えてくれた。頭を振って嫌がるドリスの口に麦酒を追加すると、出会った当初は自分を苦手に思っていたらしいことも明らかになった。
 その事実はリヴァイにとって割りに面白からぬことだった。訓練兵団のカリキュラムを終えた新兵との顔合わせが行われた日、一人隅の壁に寄りかかっていたリヴァイへ声を掛けてきたのはドリスだった。ドリス=レイヴンズクロフトです、ご指導のほど宜しくお願いします。そうにこやかに手をさし出す娘は、健全な家庭で育ってきた真っ当な人間なのだろうことが一目で知れる清潔な容貌だった。自分とかけ離れた真っ直ぐな笑みを可愛らしいなと、リヴァイはそんな風に思って、握手に応じなかった。名前も名乗らなかった。手をさし出したままのドリスに何を言うでもなく、ぷいと食堂を出て行ってしまった。ぽかんとするドリスに、一部始終を目撃したエルヴィンが唇を噛んで笑いを堪える。初々しい敬語で話しかけてくるドリスに、「俺も新兵だ。敬語は要らない」とは訂正出来なかったのだ。
 らって、なまえゆわないんらもん……。赤ら顔のまま口を尖らすドリスに、リヴァイはそっぽを向いた。エルヴィンは、リヴァイがその態度のデカさから「新兵ではないだろう」と判断されたことを未だにからかってくる。

 もう一年後、シガンシナ区崩壊から一月が経って、ドリスは生態調査班との公的な関わりを禁止された。大事な被検体を殺したのだ。

 腰から上を切り離され、脳漿をぶちまけたまま蒸発していくマリアの死体の前で、ドリスはうずくまっていた。
 天蓋の入り口で立ちつくすリヴァイに、ドリスがへらりと笑いかける。リヴァイの姿に驚くでも、己の感情を訴えて泣くわけでも、体を震わすでもなく「自分の力だけじゃ切りにくいね」なんて、血で汚れた半刃刀身に文句を漏らしていた。
 心が壊れたわけでも、外壁に出て行く気力が失せてしまったわけでもない。単に、彼女の魂がトロスト区に戻ってこなかっただけだとリヴァイは思っている。彼女の精神状態を表現するなら、それは“傷ついている”と言うべきだったのだろう。幸か不幸か世界には“傷ついている者”で溢れかえり、生きるための栄養を摂取し、真っ当に会話の応酬が出来る彼女がか弱きものとして労わられることはなかった。ドリスは、それで良かったのだと思う。他人に心配を掛けることや、腫れ物扱いされることを嫌っていたから。リヴァイも、彼女が誰か他人から労わられないことや、案じられないことで憤ったり、不快に思う事はなかった。寧ろ、彼女同様“そうであって欲しかった”のだと思う。
 吊り橋効果でも、消去法でも、その理由が何だろうと、リヴァイには如何でも良かった。
 一人で歩けなくなったドリスはリヴァイに依って生きていかざるを得なかったし、もう彼女の居場所はリヴァイの下にしかないのだ。


Paradiso


 離れるなと、そう望んだのはリヴァイが先だったように思う。
 関心を持ったのも、話しかけたのも、リヴァイからだった。リヴァイがドリスと共にいるのを見て、周囲は「掃除と洗濯上手いもんね」と妙に納得していたし、ハンジは「ドリスを解放してアライグマを飼おう」等と訳の分からない提案をしてきたが、まあ、掃除・洗濯技術の高さもリヴァイにとって魅力的だったのは事実だ。しかし幾らリヴァイと言えど、初対面でそれを見抜けるわけではない。

 何故兵士になることを決めた?
 彼女の経歴を聞くまでもない。ニコニコと笑う穏やかさを目にするだけで胸中に湧いてくる問いを、彼女にぶつけた者は少なくないだろう。リヴァイとて、彼女の生前幾度も問いかけたものだ。食事の席で、樹上で夜を越しながら、ドリスが洗濯する傍らで、市場を冷やかしながら、リヴァイは幾度も幾度も問いかけた。何故兵士になったのか。その度にドリスは困ったような笑みを浮かべるだけで、ああ、また笑みの裏で「うるせー同じこと何度も聞いてくんな」等と考えているのだろうなと、そういうやりとりを問いかけただけ繰り返してきた。しかしたった一度、彼女の部屋でいつも通り雑談に興じていた、その隙間で、ドリスはリヴァイをはぐらかさなかった。
「子供染みた所有欲。最初はただ、欲しかったの。その次は哀れみと……関心、傲慢と知的欲求――英雄になりたかったのかもね」
 有り触れた豊かさのなかに産まれ、両親の愛と弟の思慕を一身に受けて育ってきたドリス。恐らく彼女と話した誰もが「善い娘さんだね」と口にし、その胸中に秘めたものへ関心を持つでもなく、彼女の存在を忘れていくだろう。何故兵士になったのか分からない。どこにでもいるような少女が英雄なりたさに家を出て兵士になったのだと、自分の隣に掛けたドリスが亡羊と呟く。
 自分でないものになりたかったし、自分の手に入らないものが欲しいだけの我儘な子供だった。ドリスはそう苦笑して、脇に手をついた。リヴァイはドリスの告白を受けて何を言うでもなく、その手に己のものを重ねた。リヴァイだって、ドリスの傲慢や愚かさが分からないわけではない。寧ろ彼女と共にいると、動物的な欲求に怖気が立つほどだった。何年も渇いてきたようだとさえ、思った。
 いつからなのか、ドリスは己が英雄になることを諦めたのだろう。そして、だからこそリヴァイを“人類の翼”にせんと、彼を英雄にする手伝いに意欲的だったのだ。マリアが死んでから、彼女はそれまで以上に優秀な補佐役となった。リヴァイに余裕があると見るや、必ずトドメはリヴァイに任せた。着々と増えていく討伐数。同期で、仲間だったドリスが、部下としての振舞いを崩さなくなる。二人きりになって、やっと敬語を止めた彼女に「主従関係ごっこか」と皮肉れば、ドリスは「良いじゃない。態度デカくて、とても私と同期には見えないもの」と笑う。その前日、エルヴィンにからかわれたばかりなのもあって、初対面での勘違いを思い出したリヴァイは僅かに赤面した。

「尽くせって、言ったじゃない」
 リヴァイの手の中で、固い皮膚が反転する。縋るように握り返してくる手を、リヴァイはきつく繋ぎ止めた。
 ドリスから詰られたリヴァイは喜ばしいような……反吐が出るような、何とも形容しがたい複雑な感情を抱いた。リヴァイは、それが悪しき“異端”であれ、善なる“優性”であれ、自分が普通でないことを自覚している。ドリスがリヴァイに尽くすことを選んだように、リヴァイもまたこの平凡な女を手中に収めることを望んだのだ。そうと気づいた時、リヴァイは自分がこの女の人生を狂わせたのだろうかと思った。
 彼女を平和な世界に返してやる選択肢は幾らでもあったのに、リヴァイはそれらを選ばなかった。デュークが開拓地に行くと口にした時、殆ど絶望に近い気持ちでいるドリスを支えながら、第三者としての冷静さどころか、安堵さえ覚えている自分に気付いた。
 リヴァイは「そうだな」と、掠れた声を口にした。「ああ、そうだ。俺は巨人を滅亡させる。巨人が憎ければ、兵士として俺に尽くせ」
 骨がひしゃげるほど力を込めても、ドリスは不満一つこぼさなかった。なにか、飲み物でも取ってこようか? そう問いかける彼女の腕を引いて、寝台に押し倒した。離れるのが怖かった。壁の中だと分かっていても、ふとした切っ掛けで二度と会えなくなるのではないかと思った。立体起動装置も半刃刀身も身に纏わぬ人間は、あんまりに脆くて、壊れやすすぎる。武装していてさえ、巨人の前には虫同然なのだ。
 いつ死んでも可笑しくない。そうと分かっていて離れるのが、一日二日、離れていれば永く生きると分かりきっているのに――
「良いよ、一緒にいよう」リヴァイの心中を見透かしたように、ドリスが静かに笑う。「兵士でいるの、嫌いじゃないから」
 日に焼けた手がリヴァイの胸ぐらを掴む。上体を僅かに浮かせると、ドリスはリヴァイに口づけた。

「かえってくるなら、ここがいい」
 ね? 宥めるように笑いかけるドリスの手に拭われて、リヴァイは己の頬を伝うものに気付いた。

 自分の手を絡め取って緩く握る指は、男のそれのように骨ばっている。ここがいいよと震える声だけが女の弱さを含んでいて、リヴァイは彼女の手を強く握った。帰ってきてやるから髪を伸ばせと、そう口にした。自分を見つめる彼女の瞳が歪む。リヴァイは嗚咽を覆い隠す手を剥がして、口づけた。情事の最中、彼女が「わたしたちは家畜や虫と何が違うの」と色気もへったくれもない台詞で自嘲気味に笑う。リヴァイは「俺は家畜でも虫でもねぇ」と返して、もう一度唇に触れる。「言っておくが、獣姦の趣味もない。ミケはどうか知らんがな」と続けると、押し殺した喘ぎ声に、無邪気な笑みが混じった。ミケといえばね。艶を含んだ声が自分以外の男を語ろうとするのが苛立つ。リヴァイが目元を険しくすると、「はじめて真っ当にしゃべったとき……そんな顔してたね」と、懐かしいことを口にする。今ここで体を繋げているはずなのに「懐かしいね」と、まるで、もうどちらかが死んでしまったような追想に瞳を潤ませる。なつかしいね。……なつかしいね。

 出会ってから、実に四年の月日が流れていた。
 その四年でドリスの同期の兵士は皆死に、リヴァイも親しい兵士仲間をざっと三ダースは亡くしている。
 あの日、二人で“はじめて真っ当にしゃべった”時は、まだ皆生きていた。二人は親しくなくて、リヴァイは「なんだこのぬるま湯巨人大好き馬鹿」とドリスを軽んじ、ドリスはドリスで「理不尽俺様無礼馬鹿」と腹を立てて、そうして、まだ生きていた友人と話すことで気を紛らわせた。名前はまだ覚えている。どうやって出会ったかも答えられる。でも、もう彼らの思い出は二人の生活から薄れ始めていた。

 いつか、こうして二人で肌を重ねたことも、違う誰かとの絆で上書きされてしまうのだろうか。上書きされるだろう、リヴァイもドリスも、生きながら死んでゆけるほどに壊れているわけではない。今だけだ。相手が生きているから、だから傍にいることが出来る。
 傍にいるから、生きているから――そう思うと、リヴァイの頭がカッと熱くなった。如何してドリスを自分の傍で、兵士として自分に尽くせなどと言えたのか、分からない。兵士仲間や上官と部下としてではなく、普通の男と女として相手を見ることで何のデメリットがあると言うのだろう。いや、疾うに自分達は相手をそう見ていて、だからこそこうして肌を重ね合っている。
 許されたいわけでも、損得計算で納得させてほしいわけでもない。胸奥に存在する理性を断ち切る切っ掛けを求めていた。

 あいしてる。あいしてる、はなれたくない。そばにいろ。はなれるな。
 睦言のかわりにガスを叩きつける。鈍いと、冷たく詰る。背後の気配に敏感になれ。ガスの吹かし方ぐらい訓練兵時代にマスターしておけ、お前は一体何を習ってきた。アンカーぐらい狙い通りつけろ。お前の動体視力は蝿以下だ。

 ドリスは平凡な兵士だ。リヴァイとは違う。ドリスがどんなに頑張っても、リヴァイの目には未熟に映る。この女は、間違いなく自分より先に死ぬ。そうと分かっていて、リヴァイはドリスを叱咤するのだ。リヴァイの班は精鋭を集めた、調査兵団のなかでも危険な任務を負う班だ。リヴァイが選び、自分が使いやすい人材だけを集めてある。それでも、いやだからこそ自分の足手まといになると判断すれば外さざるを得ない。リヴァイは兵士だ。リヴァイは英雄だ。その後押しをしたのは、エルヴィンだけではない。死にゆく仲間に、リヴァイは幾度巨人の滅亡を誓っただろう。兵士として、死んでいった仲間の軌跡として、翼のエンブレムを掲げる限り私情に走ることは許せなかった。
 リヴァイが許せない。ドリスも、きっと受け入れない。リヴァイを英雄にすることを望んだドリスが、誰よりその虚像に縋ることで生きている。リヴァイに不満を漏らすでも、違う班への移動を希望するでもなく、ドリスはリヴァイの求めに応えようとした。
 有り触れた男女の“それ”のように優しいものではない。寧ろ相手を憎んでいるかのような、そんな横暴で無茶な求めだった。ドリスの体には多くの傷がある。巨人の爪に抉られた頬の傷。仲間を庇って落馬した際に折って以来少し歪んだ右腕。リヴァイがガスボンベを投げつけた時の痣が、まだ腹部に残っている。ドリスもリヴァイも人間だ。痛覚がないわけではない。痛いし、辛いし、疲弊するのだ。
 心身共に消耗した後には、巨人の舌の上で眠りにつく結末が待っている。

 ドリスにとって、自分の求めに応じることで生じるメリットは何一つないと分かっていて、どうしてここまでしなくてはならないのかと少し思う。ウォール・ローゼが破られる時は、その時までにはリヴァイも生きてはいないだろう。除団するよう、促せば良い。適当に怪我をでっち上げて、来季で契約を打ち切るよう命令すれば良い。兵士でなくなれば、もう彼女に無理をさせることも、乱暴することもない。世間一般の関係のように、いつくしむことが出来るだろう。大事にすることが出来る。痛い思いや、怖い思い、悍ましい結末の全てから逃れることが出来る。ドリスはきっと良い妻になる。普通に、普通の男女として、そう夢想する裏で、如何しても駄目だという気持ちが強くなる。
 この女はリヴァイなしにはもう生きていけない。リヴァイが死んだら、誰がこの女の腕を引くだろう。リヴァイに尽くすことでようやっと保っている平静が、如何すれば確かなものになるだろう。傍から離してはいけない。離れてはいけない。自分達はここで生きていくのだ。
 髪を伸ばせよ。兵士なんか止めろ、そうしたら……そうしたら……。機密事項を伝えるよりずっと殺した声が、途中で立ち消える。リヴァイの胸板に、ドリスが顔を寄せた。巨人の肉を削ぐために逞しくなった肩が、果敢無げに震えている。
 良いよ。ドリスが、リヴァイをあやすような声を出す。もう良いんだよ。いつ死ぬかも分からないから、黙っておこうね。

 出会ってから四年。肩につく長さまで伸びていた髪は、その数日後に短く切り揃えられてしまった。

 手に触れると、からりと笑った。抱き寄せようとすると、するりと逃げた。いつも通り、リヴァイの横暴に口を尖らせる。リヴァイは面倒くさがりで、男女の駆け引きに興じるような男ではないから「無かったことにするのか」と、率直に聞いた。
 ドリスは切なげに顔を歪めて、立てた人差し指を口元に持ってきた。それが答えだった。機械体操はデリカシーが無さ過ぎたのだろうか。もしくは、処女を捧げた相手に筋肉女と小馬鹿にされたので幻滅したのだろう。それが理由だと、リヴァイは思うことにした。それ以外の理由はないのだと、そう思わなくては兵士仲間で居続けることは出来なかった。
 それ以外の、何か、彼女のなかに自分への愛情があるなどと……そう認めていて、如何して彼女を切り捨てることが出来るのか。

 単なる兵士仲間でも二人きりで話しぐらいするだろうと部屋に押しかける。寝台に掛けるリヴァイに、ドリスが怯えるような、期待しているような視線を落とす。彼女を愛するのは簡単なことだった。愛されるのも、そう困難ではなかったと思う。それでも二人は、死ぬその時まで兵士でいることを望んだ。おずおずと隣に座るドリスの手に、自分のものを重ねる。それが二人の精一杯だった。
 切り捨てる者と、切り捨てられる者。二人で傷つかないように、相手の意志を精一杯尊重して、そうやって、最後に許された僅かな自由が掌一つ。あとは庇うことも、助けに行くことも、助けを呼ぶことも、恋人同士に許された“優先事項”を全て諦めて、共にいた。
 いつかドリスが死ぬその時には手さえ繋いでいることが出来ないと知っていて、ただ手を握り合っていた。


けだもの共のよごれていない指


 じきに彼女のものでなくなる部屋に、窓を開け放してもまだ清潔な臭いが立ち込めている。遺品整理がすすまない。
 隣にドリスが座っているような気がした。脇へついた手に、誰か触れてくれるのではないかと思った。リヴァイの右手に抱えられた分厚い手帳を見て、困った様に笑う誰かがいるのではないかと、リヴァイは己の感傷を鼻で笑った。


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