トロスト区までの道のりは、巨人の脅威と悲鳴を背に受けながらの強行軍だった。
 デューク達がウォール・マリア突破の知らせを耳にしたのはトロスト区に入ってからだったが、恐らくアルミンの臆病さと、そこからくる賢さは父親譲りなのだろう。アルミンの父親は、船に乗り込んだ段階で息子の手と自分の手を紐で括っていた。反対の手を妻と結び、デュークもアルミンの左手に繋がれた。「やり過ぎじゃあない? 壁を越えれば駐屯兵団か憲兵団が機能しているはずよ」と怯える妻に、アルミンの父親は「まだ終わりじゃあない」と断言した。結果として、その機転から四人全員はぐれることなく避難所まで辿りついた。

 共同掲示板が設けられた一角には、探し人の張り紙が壁一面に溢れている。憲兵団も一週間ほど前から、避難民を一人ひとり呼び出しては出身・本籍地、家族や同番地内で生死が判明している人間を聞きだす作業を進めていた。エレンやデュークたち孤児、もとい保護者を失った子供は聴取が開始された日に呼び出しを喰らった。情報収集の効率を考えた結果だろう。アルミンの両親がエレンたちに代わって証言すると申し出てくれたものの「公的書類に記す情報であること、暫くは修正の余裕がないことから第三者の代弁は許可しがたい」と却下された。アルミンは聴取の行われる事務室まで着いてきたが、デュークの前に並んだエレンが「母親かよ」と笑いながら追い払った。
 避難所に辿りついてからの一週間で疾うに落ち着いているつもりでいたし、実際ノブを掴むエレンはいつも通りだった。デュークも、自分達はもう平気だと思っていた。しかし部屋から出てきたエレンは――いや、一歩足を踏み出したミカサの肩を掴んだ瞬間から、薄々分かっていたのかもしれない。扉の向こうから、罪状でも検めるような淡々とした問いかけが聞こえてきた。

 名前と年齢を。エレン=イェーガー、十歳。この避難所に収容されているということは、君もシガンシナ区出身だね? ご両親は如何されたかな。シガンシナ産まれです、本籍がどこにあるかは知りません。両親は……母は、母は巨人に。父は、知りません。そう、母親は巨人に殺されたということで良いんだね? 確かに? はい、そうです。ご両親の名前は? 父の名前はグリシャ=イェーガー、母の名前はカルラ=イェーガー。ここまではどうやって避難してきたのかな? 一年前から同じ家に暮らしてる女子と一緒に駐屯兵団の知り合いに保護されました。他に誰か、知り合いの死ぬところ……もしくは死体を見た覚えはあるかな? 覚えが、ありません。

 デュークはミカサの腕を掴んで、後ろに引っ張った。ミカサは扉を見つめたまま振り向かない。低く「離して」と呻いた彼女に、デュークは何も言わなかった。腕っぷしの強い彼女のことだから、デュークの拘束など容易に振りほどくことが出来ただろう。カタカタ震える彼女の頭を占めるのが“怒り”か“恐怖”か、デュークには判別出来なかった。結局ミカサは憲兵団の聴取を受けなかった。彼女が己の責任を放棄したわけではない、酷い顔をしたエレンが開け放したままの扉の向こうに向かって「こいつも俺と同じものしか見てません」と証言したからだ。エレンはミカサと共にこの場から立ち去ろうとしたが、デュークと目が合うなりすまなそうな顔をしてみせた。
 自分はそんなに誰かの助けを必要としている風に見えるのだろうか。アルミンをいじめていた自分が一番弱虫で臆病というのでは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。自分ももう少ししっかりしないとなんて、デュークは少年らしい矜持を胸にノブを捻った。
 “もう大丈夫”なはずのデュークの脳裏にあの日の惨事が蘇ったのは、扉を潜ってから一分と経たないうちの出来事だった。
 エレンのようにしっかり受け答えしようと努力したが、デュークは三つめの質問に答えている途中から自分が何を言っているのか分からなくなった。三人の憲兵団員の前で両親の死因を報告しながら、デュークは自分の手をズボンにこすり付けていた。
 皮膚の隙間に父親の臓腑と血がこびりついていると、頭のどこかで思った。

 事務室から出るなりデュークは外の水道に駆けていった。
 トロスト区まで逃げてきた日と同じに、両手を洗って、タワシで腕を擦った。痛覚が麻痺するまで皮膚を削ると、少しだけ落ち着いた。
 両親が死んだことは分かってる。シガンシナ区にはもう戻れない。自分は今生きているし、父親の血はとっくに洗い流した。公用掲示板に貼り出された“シガンシナ区の死亡者名簿”には、デュークの両親も並んでいる。デュークは一人ぼっちではない。姉が生きているし、アルミンや、その両親、エレンがいる。困ったとき、助けてほしい時真っ先に呼べる名はもうないけれど、彼らはデュークを助けてくれる。
 助けてくれた。たすけてくれた。自分はだいじょうぶだ。ひとりじゃない。たすけてもらった。もう大丈夫、大丈夫なんだ。
 蛇口の前に膝をついたデュークが腕を洗っていると、脇の地面に小さな影が落ちた。

「……馬鹿なことやってるね」
 血のにじんだ腕を見て、アルミンが困った様に笑う。デュークも「うちの石けんなら、どんな汚れでもすぐ落ちるんだけど」と口にして、笑おうとした口元が引きつった。自分だけが大変なわけじゃない。自分だけが辛いわけじゃない。エレンとミカサは胸中の気持ちを押し殺して、“いつも通り”振舞う努力をしている。男の癖に、しかもついこの間までいじめてた相手に気を使われている。馬鹿みたいだ。
 タワシを持った手を、アルミンが引っ張る。
「ドリスさんとの面会……ここに来る時間が伝言板に掲示してあったよ。見に行こう」
 アルミンに手を引かれるままロビーへ向かって以来、そうやって二人手を繋いでいる時間が増えた。
 少しは気持ちを落ち着けるなり、しっかりしなければ――そうは思っても、姉との面会が刻一刻と近づいていることを思うと心が乱れた。日和見を口にするアルミンに手を握られていると、その暢気さ……他人に対する思いやりや優しさが移る気がして、ホッとした。
 エレンやアルミン、ミカサに比べて、自分は弱い生き物だなと、そんなことを思った。

 自分たちを守ってくれるはずの壁は壊された。外壁へ出て行く姉は生き残り、娘を案じていた両親のほうが先に死んだ。トロスト区へ向かう道々で、巨人から民間人を守るはずの兵士たちの避難が優先される現場に幾度も出くわした。調査兵団に属する兵士たちはシガンシナ区への立ち入りを禁止されていたと言う噂が、避難所内で実しやかに語られていた。デュークだって、煙の元が分からないほど馬鹿じゃない。
 兵士にだって、限りは有る。百年の安穏のなかで、立体起動装置の扱いに長けた人間は決して多くはない。今となっては、調査兵団のみが生身の巨人に対抗しうる現実的な兵力なのだ。大事なナイトの駒を、升目のために使うお人よしがいるとは思えなかった。

 デュークはもう何も考えたくない。ドリスにも会いたくない。姉は“ナイトの駒”で、自分は“升目”に過ぎないことを知ってしまったから。


Paradiso


 それでも、ロビーの混雑を前に「姉さんは自分を見つけられるのかな?」と思ってしまう現金さよ。
 ロビーの端に並ぶ円柱へ背を預けて寄りかかると、デュークは漫然と入口を眺めた。入口脇に数台設置されているベンチには既に埋まり、デュークから見て右手にある掲示板群には今日も人だかりが出来ている。公用掲示板の前で崩れ落ちる男が目に留まったが、デュークは彼を哀れむでもなく「ああ、探し人が見つかったのか」と事務的な感想を抱くだけだった。ブラウンの腕も、デュークの記憶からは疾うに抜け落ちていた。ひとが死に過ぎたのだ。ほんの数時間、あまりに多くの死体を踏みつけて走った。デュークは、自分がまだ混乱していると自覚している。少しばかり可笑しくなっている。あと一月、それとも半年、時間を置けば元通りの自分に戻れるだろう。
 如何しても待ってほしいと思った。会いたい気持ちは確かにある、あの人はナイトの駒ではなく、デュークの姉だ。五歳まで同じ屋根の下に暮らしていた。それからも、会いに来てくれた。トロスト区へ向かう船が沈んでしまえば良いと、何度も思った。大好きだった。

 大好きだった。
 助けてくれと望んだ。傍にいてくれなかったと、恨んだ。
 今更どんな面を下げて会いに来るのだと、アルミンの優しさを掌に感じながら憎しみに近い感情を抱いた。

「……デューク?」
 人垣の向こうから自分を呼ぶ声に視線を滑らせ、デュークは眉を寄せて嗤った。
 顔を確かめずとも、その声だけで分かる。姉だった。陽光と翼のエンブレムを背負った姉がデュークを見つめて、ロビーの中ほどに立ちすくんでいた。三ヵ月前あったばかりなのに五年は会わなかったかのように懐かしい顔が自分の四肢を確かめている。
 デュークは手持無沙汰に手を振って見せた。「……姉さん、」元気で良かった? 迷わなかった? この辺り一帯、凄い人だろう? 何と続けるべきが一瞬躊躇ったが、悩む必要はなかった。石けんの香りを鼻先に感じると同時、デュークの体は姉の腕の中に閉じ込められていた。デュークの肩に顔を埋めたドリスの声がくぐもる。「本当に……良かった……!」デューク、良かった。無事なのね?「どこも、痛いところはないのね?」痛いところはないのね? 自分の体に欠損がないことを確かめるべく這わされた手に、胸がムカムカする。
「デューク……良かった、本当に……本当にアルレルトのおばさま達には……」
 姉の胸を押して遠ざけると、自分と――母と同じ色の瞳に己の顔が映る。デュークは唇を噛んで、鎖骨のあたりを抑えた。感極まるあまり観察能力が抜け落ちているのか、ドリスは祈りにも似た感謝の言葉を紡ぎ続けている。本当に、本当に良かった。もっと早く会いに来たかった、本当にごめんなさい。でも、会うなら引き取る準備が整ってからのほうが悪戯に不安にさせないだろうと思って……リヴァ、私の上官が、兵舎の隅に余ってる部屋をデュークが使えるよう話をつけてくれたの。いずれは違うところに部屋を借りるけれど、暫くはそこに……人が多いわね。姉が怪訝な顔であたりを見回した。ほっと、安堵したような笑みをデュークに向ける。とりあえず、アルレルトのおばさまやアルミンたちのところへ挨拶をしに行きましょう。荷物は……生活必需品はもう揃えてあるから。頬の強張りを姉に気付かれないよう、デュークは俯いた。視線の先に、兵団の制服を纏った姉の体がある。デュークの喉がウッと引きつった。石けんの匂いが気持ち悪い。清潔に洗濯された、数字しか見ていない憲兵団員たちと同じ服。デュークたちを押しのけて避難した駐屯兵たちと同じ服。
 デュークたちを助けに来てくれなかった調査兵団の、一員。


紙上の命


「何で、助けにこなかったの」
 掌で覆った唇から零れたのは吐しゃ物でもなければ懇願でもない、この二週間で擦り切れるほど脳裏に浮かべた恨み言だった。


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