ウォール・マリアが巨人の手に落ちてから二週間が過ぎた。
 デュークたちは今、トロスト区に設けられた避難所で自分達の移住先が決まるのを待っている。

 シガンシナ区を囲う壁を破った五十メートルを超す超大型巨人に、人間のような前屈体勢でウォール・マリアを突破した巨人――通称“鎧の巨人”、これまで広く知られてきた巨人の特徴を覆す存在に調査兵団の怠慢を非難する声もあったようだが、人々の噂話以外の情報源を持ちえないデュークたちは未だ“マヒ状態”に置かれていた。番地ごと五メートル四方のスペースに押しこまれた人々は皆一様に生気を抜かれたように呆然としている。それでも子供たちは下らないことで笑い合ったりしていたが、夜になると甲高い泣き声がホールを満たす。眠れないと腹を立てた大人と、子供を庇う親たちの諍い。騒ぎの隙間を縫ってウォール教の祈りが聞こえてくる。
 空が白んでくる頃に微睡んでは点呼を取る兵士の声で起こされる……この狭い避難所のなかで誰もがそんな暮らしを繰り返していた。デュークと同じくエレンの目の下にも濃いクマがある。一人平然としているミカサも顔色が悪い。それでもデュークとエレンよりは活力があるようで、二人が薄い仕切り板を背に並んで座っていると、その間に割り込んでくる。ミカサはデュークを嫌っているらしかった。

 避難所が設けられた市民会館の高い天井には悲壮な空気が色濃く漂っていたが、怪我人はごく少ない。皆五体満足で、重症を折ったものがいないことから、最初居座っていた救護班も数日前に撤収していた。一昨日、仕切り板の前で一人座っているデュークの前を、憲兵団の新兵らしい、若く優秀そうな男たちが横切って行った。「怪我人が少ないのは不幸中の幸いだな」と口にして憚らぬ善人面の下で、結局は自分たちを数字でしか見ていないのだろう。怪我人の少なさは、彼らがウォール・ローゼに辿りつくまでに切り捨ててきた人数の多さを示している。まずは適齢期の若者から、その次は子供、子供を持つ親……働き盛りの男……一番最後に老人……麻痺が収まれば、現実が迫ってくる。ここで明日を待つ者は、自分たちが家畜として扱われることを承諾したも同然だ。あの壁の向こうに大切な“誰か”の死体を打ち捨ててきた。デュークたちの皮膚にはかすり傷や痣がある程度で、それももう薄れ始めている。二週間が、過ぎた。

 エレンもミカサも、デュークも生きている。食事を摂るし、眠くなれば微睡む。可笑しいことがあれば笑う。トイレに並ぶ人の列へ悪態をつくこともある。皆同じだ。皆、そう悲嘆に暮れているわけではない。生きている。誰かが庇ってくれたから、誰かが切り捨てられるのを黙認したから、だからこの壁のなかに逃げ込んできた人は、五体満足でありながら、うずくまったまま動けない。
 辛うじて生き残った同番地内の七人が七人亡羊として――いや一人、アルミンだけが空元気で場を明るくしようと努力していた。


Paradiso


「エレン、ミカサ、イェーガー医師から連絡来てるよ!! それに、デューク! ドリスさんから面会の申し込みだって」
 良かったじゃないと作り笑いを浮かべるアルミンに、デュークとエレンはぎこちなく笑って見せた。ミカサは二人の間で体育座りをしたまま、首に巻いたマフラーに顔を半分埋めている。お世辞にも“良い反応”とは言えない態度でいる三人にアルミンも浅く俯いた。
「そろそろ昼だから……僕、配給取ってくるね」
 困ったような、自分たちに申し訳なく思っているような笑みを浮かべると、走って行った。
 悪いことをしたなとは思うものの、アルミンの期待に応えてわあっと喜ぶのは今のデュークには難しい気がした。きっとエレンも同じような気持ちでいるだろう。イェーガー医師も“傍にいなかった”のだ。悪意や故意の有無に関わらず、自分達が彼らに会いたいと強く願った時は二週間前のあの日だった。誰が悪いわけでもないとは分かっていたし、少なからず嬉しく思う気持ちはある。それでも手放しに喜べない。

 デュークは僅かに身を乗り出して、ミカサの向こうに座り込むエレンを覗き込んだ。
「お前、イェーガー医師生きてたって……良かったじゃん」
 アルミンへ見せたような笑みを作ると、何事か考えていたのか、はっと我に返ったエレンが奇妙に顔を歪める。「デュークこそ……まあ、こんな状況で良いも悪いもねーよな」はーあと、草臥れたため息を絞り出して後頭部で両手を組む。
「ま、親がいたところで開拓地行きは免れないだろうしな……でもイェーガー医師なら、トロスト区でもやってけるんじゃないか?」
 現状ウォール・マリア領内の人々はトロスト区以外の突出区画に割り振られ、トロスト区内の避難所に暮らすのはシガンシナ区の人々だけだ。それでもトロスト区の広場という広場、市民会館、運動場、劇場――凡そトロスト区にある殆どの共用スペースに避難民が押しこまれている。豪商を始め一部の特権階級にある者はウォール・シーナの突出区画内にある避難所へ送られているというが、一般庶民に過ぎないデュークの知ったことではない。軍部か王政府に伝手のない者は親のいる者も孤児も皆纏めて開拓地送りだ。まるで牛馬の扱いじゃないかと憤慨する人も少なくないがウォール・マリアが突破されたのである。あの日アルミンが口にした“もしも”が、何の予兆もなくやってきてしまったのだ。毎日のパンが配られているだけ憲兵団は配慮しているほうだと、デュークはそう思う。
「いや……父さんの医療器具の殆どは家だ。ここで一から医者としてやってくには……お前こそ、ここに残ることになるんだろ」
 デュークはエレンから顔を背けると、肩を竦めた。「……兵舎暮らしだって聞いたし、僕を養うのは難しいものがあるんじゃないかな」
「ドリスさんは弟を開拓地送りにして平気な人じゃない。良いじゃん、開拓地は寒暖の差が厳しいってよ。お前、寒いの苦手だったろ」
 何でもない風に告げられた気遣いに、デュークは眉を寄せて俯いた。「お前だって……暑いの苦手だったじゃないか」

 夏に川岸で遊んでいると、草の上から降りようとしないアルミンとデュークの脇で、決まってエレン一人が川に足を涼ませていた。
 まだこの時期には冷たすぎるだろうと背後から覗きこめば、こちらを見上げたエレンがにやりと笑う。足を引っ張るエレンに「やめろよ」とはしゃぎながらじゃれていると、脇から飛沫をあげて鳴る水音が響く。藻に足を取られて立ち上がれないアルミンに思わず笑い声をあげると、アルミンも笑い出した。笑って済ませてくれないのはドリスだけだった。昼食の詰まったバスケット片手に駆け寄るドリスの叱責に、焦ったエレンまでもが川に落ちる。不服そうに口を尖らすエレンと苦笑を浮かべるアルミン、タオルを取ってこないととスカートを翻らせるドリス――最後にはデュークも川に引きずり込まれるのがお決まりだった。楽しかった。大好きだった。……戻りたかった。
 今は、何を取り戻したいのか分からない。

「……こうやって話すの五年ぶりだよな」
 同じに追想していたのか、エレンが低く呟いた。顔をあげて表情を伺うと、エレンは哀しげな顔をしていた。ミカサの横顔が険しくなる。
「私は一回もデュークと真っ当に喋ったことがない」
「そうだな。なんか、今思えば壁とか外界とか死ぬほど如何でも良いことで、よく五年も絶交してたよなあ」
「アルミンも虐めたしね」
 ミカサが首だけでデュークを振り向いた。
 じっとりと絡みつくような黒い視線がデュークを責苛む。デュークも眉を寄せて、ミカサの瞳を睨み返した。ミカサのことは嫌いではないが、彼女の、過剰にエレン優先なところに歪んだものを感じてしまって――得体が知れない者と対峙しているような気味悪さと言えば良いのだろうか、彼女を前にすると思わず身構えてしまう。それにミカサ自身デュークを良く思っていないようだ。彼女の友人であるアルミンを虐めていたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、それ以外の“何か”も感じる。
「ちゃんと謝ったの? アルミン、あなたに詰られるのが一番辛いって言ってたけど、それもこのどさくさでなし崩しにする?」
 淡々と詰る台詞を口にするミカサに、エレンがその腕を掴んで制止しようとした。デュークは頭を振った。
「良いよ、エレン。僕はミカサの言う通りだと思う」
 この五年で自分がアルミンに行ってきた八つ当たりは、自分が両親を喪ったこととは無関係だ。アルミンもその両親も、この非常時だからこそ何もなかったかのように優しくしてくれるが、その優しさに胡坐をかきたくはないとデュークは思った。
「落ち着いたら……ちゃんと謝るし、話もするよ」そこまで口にすると、デュークは皮肉っぽく笑った。エレンが、自分だって目の前で母親を喪った癖に労わるような瞳で見つめてくる。「まだ、暫くは出来そうにないけど……そういう時に面会とか入れられちゃうんだ」
 訝しげな顔を浮かべたエレンがミカサを押し避け、デュークのほうに身を乗り出してきた。
「落ち着いたらって……お前、」
 デュークはエレンに苦笑を返して誤魔化す。二人に挟まれて窮屈そうなミカサが小さく「馬鹿な奴」と呟いた。

 デュークはあの日、五年前に三人ではしゃいだ川岸が巨人に踏みにじられるのを目にした。
 こうして昔のようにエレンとアルミンと話すようになっても、あの景色には二度と戻れないだろう。二度と戻れない。あの日、全てが一変した。二週間前まで暮らしていた世界は、過去になってしまったのだ。デュークの胸に燻る、行き場のない憎しみも消えてはいなかった。


さかさまの世界から水が零れる


 傍にいてくれと四肢が千切れそうなほど強く請うた時、助けてと叫んだ時、デュークは一人だった。


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