ギイと扉を軋ませると、窓に張り付いていた父親がはっと振り向く。
 デュークは困っているような痛みを堪えているような奇妙な笑みと共に頭を振った。通りを抜けていく隊列の惨状を目の当たりにしては姉の無事にも笑っていられないが、沈鬱な顔をしていれば父親の不安を悪戯に長引かすだろう。一分一秒でも早く姉の無事を知りたいと思ったのは、デュークも同じだ。張りつめていたものが切れたのか、窓枠に寄りかかった父親が長いため息を吐く。

「あの娘は……ドリスは一体いつまで税と命を無駄遣いするつもりなんだ……」
 父親の手が口元を覆い、深く俯く。デュークは何も言えなかった。姉のことは好きだ。でも父親のことも、母親のことも好きだ。こうまで自分たちを振り回しておきながら、その心配に応えて貰えないと腹立たしくなる。父親の愚痴はまだ幼いデュークにも十分理解出来た。それでも大好きな姉が責められるのを聞くのは辛い。居た堪れない気持ちのまま、デュークは元座っていたスツールに一歩足を踏み出した。踏み出そうとした。床に足をつく寸前、ドオっと大地が激しくたわんだ。デュークの軽い体が、軸を失って床に倒れ込む。傍らに膝をついた父親が肩を揺らすまで、デュークは何が起こったのか理解出来なかった。ビリビリと鼓膜が震える。何が起こったと言うのだろう。
 デュークが不安そうに父親を見上げると、父親もまた動揺を露わに眉を寄せていた。「……地震など、この数年はなかったはずだ」
「地下道建設がとん挫してから、地質調査も投げ出されてるって言ってたじゃない」窓の外を凝視する父親に、デュークは何が起こるか分からないよと口にした。「地震だってなら、とりあえず外に出なくちゃ。母さんは……今頃倒れた石けんに潰されてるね」
 悪戯っぽく笑って見せると、父親がふっと噴き出た。幾らデュークの家が石けんの専門店を営んでいようと、豊かな体つきの母親を押しつぶせるほど巨大なものは店先に置いていない。「倉庫に入ってなきゃな」と穏やかな苦笑を浮かべる父親と共に、デュークは執務室を出た。
 帰ってきたら売上報告書を仕上げないと――そんなことを考えながら、デュークは振り向くことさえしなかった。


Paradiso


 ねえあなた。地震ってことは、やっぱり暫くどこかに避難しなくちゃいけないのかしら。
 落ち着くまでは仕方ない。恐らく避難に際して憲兵団が何かしらの発表を行うだろうが、倉庫の施錠をしっかりしておかないとな。
 年甲斐もなく父親にしがみ付いてくる母親を宥めながら、父親は厳しい顔で周囲の気配に気を配っていた。父親が「そんなにくっ付かれては、雲の上でだって転んでしまうよ」と言ったのを背中で聞きながら扉を開けると、先ほどと同じ、長閑な陽光が辺りを照らしていた。
 いつも通りの町の様子に母親も落ち着きを取り戻したらしい。自分達同様、不安そうに周囲を伺っていた近隣住民を見つけると、皆で広場まで行こうと連れ立って歩きはじめた。デュークがはっきり覚えているのは、そこまでだ。「伏せろ」と叫ぶ父親の声を聞いた気がする。逃げ惑う人波のなかで、デュークは呆然と父親の上半身があるべき虚空を見上げた。丸くえぐり取られた断片の向こうに、壁が見える。
 天までも届きそうな壁の向こうから、皮膚を剥かれた巨大なひとの顔が町を覗き込んでいた。集団ヒステリーを起こして喚く人々が口ぐちに“巨人”と零して去っていく。何が起こったのか分からない。何か、落ち着かなければ。母さんはどこだ。デュークは震える腕を傍らについて、ゆっくり振り向いた。巨石の隙間から、見慣れた腕がはみ出している。ついさっきまで自分の肩を支えてくれた腕だ。母親の背を撫でていた手だ。自分と姉のための玩具やベッドを作ってくれた指だ。デュークは思わず後ずさった。べちゃりと、背中に熱いものが倒れ込む。それが何か理解するのに振り返る必要はなかった。地面に両手をついて、喉を震わせる。母親を探さなければならない。まだ、父親が死んだということ以外の何も分かってない。母さんはどこだ。立って、あたりを見回せ。なにをするべきか分かっているのに、体が動かない。
 恐怖と混乱のなかで母親を探さなければと、デュークは弛緩しきった四肢に力を込めて立ち上がろうとした。頭の中には父親の無残な死骸と、壁の向こうから突き出た頭、巨人という単語しか残っていない。

 恐怖を前にして意識が遠のきそうだったデュークの耳に、パンパンと、地面を叩く音がすぐ脇から聞こえてきた。

 奇妙な動作だなとデュークは思った――まるで目が見えないみたいだ。「……デューク?」土埃を立てていた手がデュークの胸に当たる。肩まで這わせられた手が、デュークの体を抱きしめた。「デューク、良かった。無事なのね? 痛いところはないのね?」頭に岩のめり込んだ母親が、デュークの頭を確かめる。デュークの喉が引きつって、奇怪な音を零した。昼に食べた焼き魚が喉元までせり上がる。
「ねえ、デューク。あの人は?」母親が泣きそうな声を出す。「気が付いたら真夜中だったのよ。皆避難してしまったの?」
 デュークは泣きながら頭を振った。母親の肩を強く握って、震えながら立ち上がる。「みんな……そうだよ、母さん」瞳から零れる涙を拭うと、遠い屋根の向こうに巨人が歩いているのが見えた。何かを摘まんで、口に放り込んでいる。振り向きもせず船着き場へと駆けていく人が、父親の腕を踏みつけにしていく。デュークは母親の白く濁った瞳に笑いかけた。
「父さんは怪我をして……憲兵団の人が連れていってくれたんだ。酷い地震だよ。でも幸いな事に僕も父さんも無事だった。凄い人だったんで、母さんとはぐれてしまったんだ」泣いても良い。嗚咽を零すな。声に涙をにじませるな。「みつかって、良かった」

 デュークは母親の手を引いて歩き出した。デュークは血まみれで、母親は頭部を大幅に破損していることが一目で見て取れる。道行く人々が巨人でも見るような目で二人に見つめる。尤もそう長い事デュークたちに注目している者はいない。それもそのはずで、デュークの母親は頭部だけでなく右足にも傷を負っていた。デュークたちに付き合っていれば、巨人に追いつかれてしまうだろう。チラチラと零れてくる、雪片のように淡い怯えを身に受けながら、デュークは巨人の進行を確認するため振り向いた。五棟向こうに、身の丈十五メートルはありそうな巨人が歩いている。建物に隠れて見えないだけで、五メートル程度の巨人はもっと近づいてきているかもしれない。
 生きながら喰われるのは、どんな気持ちだろう。チラリと脳裏を掠めた考えを、デュークは忘れるように努めた。ねえと、何も分かっていない母親が、それでも不安そうな声を出す。「トロスト区のほうも揺れたかしら?」あんまりに暢気な声音に、デュークは何もかもぶちまけたい気持ちに駆られた。地震なんかじゃない。巨人の襲来だ。父さんは上半身ふっとばされて、母さんの頭には計算板よりデカイ石がめり込んでる。もう巨人との距離は一キロもない。巨人が町に侵入してから十数分だ。助けは来ない。酒をかっ喰らって怠けるだけ怠けていた駐屯兵に、この非常事態を収束する力はない。遅かれ早かれ僕らは巨人にパクリといかれる。うっと嗚咽を漏らすデュークに、母親が呟く。
「ドリスは……ドリスは怪我をしてなければ良いけど」デュークははっと、虚ろな顔をした母親を見つめる。「あの子、あの、きっと……あの子、偉いのよねえ……五番で卒業したんですって……」ガクンとその場に膝をつく母親の体を、デュークは必死で支えた。
「母さん、母さん。しっかりして! 父さんが避難所で待ってる、母さんのお茶じゃなきゃ飲めないって駄々こねてるんだ!!」
「あのこ……トロスト区も、家が壊れたでしょう」

 巨人が家をなぎ倒す音が近づいてくる。背筋を冷たいものが伝う。死ぬのが怖いのか、死なれるのが怖いのか分からない。デュークは疎らな人影に――最早自分達のほうを見ようともしない人々を目で追った。たすけてと、唇から零れる。「助けて……助けて!! 誰か!!」段々と小さくなっていく母親の声を繋ぎ止めようと、段々と体温を失っていく腕を掴む。
「誰か……誰か助けて……!! 母さんが、母さんが死んじゃう……!! 母さんが、いやだ、たすけて――たすけてよ……!!!」
 デュークの悲鳴は人々のパニックに呑みこまれ、誰の耳にも届かない。みんな、他人を助けている余裕などない。

 たすけて……掠れた懇願を口にして、デュークは母親の首に縋りついた。冷たくなっていく皮膚に顔を埋めて、涙をこぼす。助けてという言葉で頭が一杯になる。誰も助けてくれない。いつも自分と母親を守ってくれた父親は真っ先に死んだ。駐屯兵も、きっと、町の端で喰われていたのがそうだろう。ウォール・シーナやウォール・ローゼから送られる救援隊も、デュークの七十メートル向こうにいる巨人より遥かに遅い。姉は、姉のいるトロスト区までは、どんなに早く馬を走らせても四五時間は掛かる。
 デュークは母親の肩から顔をあげて、自分の暮らした町が、アルミンやエレンとふざけ合った川岸が、姉と歩いた通りが破壊されているのをぼんやり眺めた。あと五十メートル。ここで、ここで自分は死ぬのか。せめて楽に死ねると良いな。すけて、くれるよ。デュークは肩にかかる息を感じて、母親の口元に耳を寄せた。デュークに支えて貰うことでようやっと身を起こしている母親が、薄ら笑った。
「トロレ……家が……あの子、他人をたすけてる……五番だもの……何度も、壁外から帰って……とても立派に……女の子、少し……」
 女の子だけど、こんな時は逞しくなった背が誇らしいわね。
 それが母親の最期の台詞だった。そう口にすると、母親の体がどすんと地面に滑り落ちた。石畳の上に、脳漿が散らばる。もう、良い。母親の死体を前にして、デュークはその場にへたりこんだ。母親が死んだことが苦しいのか、最期の台詞が姉のものだったのに馬鹿馬鹿しくなったのか分からない。もう如何でも良いと思った。自分一人生き残ったところで行き場はない。会いたい人もいない、両親の他には。自分は頑張ったと思う。母親が死ぬまで、ここまで頑張った。それが誰に評価されなかったとして、もう良いじゃないか。デュークは目を瞑って、プツンと自分を吊っていた糸を切った。つぎの瞬間ガッシリと自分を掴んだ手は巨人のものにしては小さすぎた。
 ガクンと四肢が宙に浮く。

 デュークを担いだ男性の脇から「荷物を貸して!」と焦る女性の声が聞こえた。「アルミン、もっと早く!」と急かす男性の声がすぐ下から聞こえる。流れていく地面から、アルミンの真っ青な顔が覗いていた。デュークはぽかんと口を開けたまま、アルミンの父親の肩に担がれるままでいた。肩口からだらんと垂れた手にアルミンが手を伸ばす。血みどろの皮膚をきつく握りしめてくれた。

 はっはっと荒い息を漏らしながら、苛立たしげに吊りあげられたアルミンの瞳がデュークを睨みつけてくる。
「何を……!! 逃げないなんて……っ馬鹿じゃないのか!」
「アルミン! お母様を目の前で亡くされたのよ!!」
 アルミンを叱責する声に、デュークはボタボタと涙を零した。理由は、もう頭が麻痺していて分からない。アルミンは何も言わずに、デュークの手を強く握った。アルミンを何を言いたいのか、何故アルレルト一家が自分を助けてくれたのか、何が起こっているのか何も分からない。助けてくれた彼らに何と言えば良いのかも分からない。父親の消えた上半身と、母親の頭から零れた何かで頭が滅茶苦茶になる。
「……母さんが、死んじゃう」もう、死んでる。「母さんが……母さんと父さんを助けて……」自分を助けてくれた人達に、これ以上何を望むのか。言葉が止まらない。人々の喧騒が大きくなっていく。押さないで、押さないで下さいと先導する声が聞こえる。

「姉さん……助けて……姉さん、母さんと父さんが死んじゃう……死んじゃうよ……」
 消え入りそうな声で呟くと、アルミンがデュークの手を握りしめた。
 自分よりも小さいアルミンの手が、ガタガタ震えているのが分かる。皆同じだ。船の順番を待ちながら、町を見つめている。船着き場の前に並べられた砲台のチャチさと、あまりに強大な巨人の体躯に絶望を覚えながら……死ぬ順番を待っている。


この世界の全てが憎い


 幾つもの選択肢。母親と共に巨人に貪られるのと、これから先どこかで死ぬのとでは、その終着点に一体どれ程の差があると言うのか。
 何も分からない。何も理解出来ない。否、何にも“納得出来ない”。許せない。理解したくない。血まみれの体をアルミンに支えられながら、デュークは胸の内の憎悪を己の内に解き放った。何もかもが憎いのだと、理解した。


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