兵士たちの一人に聞いた限りは、今回の壁外調査にドリス・レイヴンズクロフトは同行しなかったらしい。

 壁外調査の度に参加しているわけではないと聞いていても、姉の姿が見つからないのにはヒヤリとさせられる。百人のなかから一兵士を見つけるのが困難でも、調査兵団本部へ向かう疎らな隊列に姉を探すのは容易なことだ。いないと判断してから手近の兵士に話を聞くまで、デュークの頭の中は最悪の事態で一杯になる。本当は姉がいつ壁外調査に出るのか教えてくれればそれが一番なのだけれど、「そうしたら、それはそれで行って帰ってくるまでの間ずっと心配しているでしょう」と断られてしまった。苦笑する姉に撫でられながら、自分に心配させることが心苦しいなら、早く除団してくれれば良いのにと、意地の悪いことを考えたのを覚えている。
 デュークは姉について教えてくれた兵士に手を振りながら、数メートル離れた場所に集う人々を振り向いた。その中心で、老いた女が小さな遺骸を胸に泣きじゃくっている。デュークと同じに家族が調査兵団に属していたのだろう――少なくとも、昨日までは。地面に崩れ落ちたまま立ち上がれない女に背を向けた瞬間、デュークの胸をチクリと刺すものがあった。
 可哀想だとか、それでも勇敢なひとだったのだろうと慰めを浮かべるより先に、死んだのがドリスでなくて良かったと思っている。
 自分は汚い人間だ。デュークはそう己を責め立て、細く入り組んだ路地へと足を急かして逃げ込んだ。


Paradiso


「お前ら何やってるの? いや、やっぱり良い。大体察しはついたから」
 ガキ大将の金魚のフン三人がアルミンを取り囲んでいる現場に遭遇して、デュークは頭を振った。
 アルミンの真ん前に佇む少年がデュークに笑いかける。「こいつ、まーた『外の世界ガー!』とか言っちゃってんの」少年がアルミンの高い声音を真似ると、他の二人もゲラゲラ笑いだす。デュークは肩を竦めて苦笑した。あの隊列を見てもまだ目を覚まさないアルミンに対する侮蔑と、ミカサの前では何もできない癖にアルミン相手だと強気に出る彼らへの呆れとが心中でない交ぜになる。鉢合わせたことで話しかけられてしまったが、デュークはどちらに組みする気もない。アルミンは勿論のこと、自分をオカマ扱いしてからかってくる馬鹿と馴れ合いたくはない。家へ抜けるため、デュークは彼らに数歩近づいた。視界の端に、自分から視線を逸らすアルミンが映る。
「まあ、あんまりにひょろっちい体に産まれちゃったしな。女子に相手にされないもんだから、外に出て巨人と結婚する気でいるんだろ」
 無関心を気取るつもりでいたのに、気が付いたら鼻で笑っていた。

 デュークの台詞に、少年たちの嬌声が激しくなった。アルミンの丸い瞳が恨めしそうに睨みつけてくる。その視線に、何故なのかデュークは僅かばかりの安堵を得た。心中に貯まっていた膿が絞り出されるように、穏やかな気持ちになる。いつも“こう”だ。
 決してアルミンを嫌っているはずではないと思うのに、実際に彼を目の前にすると――外界への憧れを口にされると、徹底的に傷つけてやりたくなる。壁外で死んだ人間の遺骸で、ブラウンの腕で、不安一つなさそうな顔を打ち据えてやりたい。自分が正しいと言わんばかりに真っ直ぐな瞳に、力任せに千切られた肉の断片を突きつけてやりたい。お前らみたいな馬鹿がいるから、自分たち調査兵団に属する兵士の家族は、壁外へ向かう隊列に怯えなければならない。それが分からないのかと責め詰ってやりたい。

 “憧れ”とか“夢”とか、そんな一グラムの重さもないものが何をしてくれるのだと問いただしてやりたい。

 いつか自分の欲しい答えを口にしてくれる気がして、姉に繰り返し問いただす。いつか自分の気持ちを分かってくれると期待して、アルミンを傷つける。その何れも決して“正しいこと”ではないと分かっていて、それでもデュークには自分を抑えきれない。
 デュークは自分とアルミンの間に立っている少年を押しのけると、アルミンの顔の脇に手をついた。目を細めて、震えるアルミンに顔を近づけた。「外の世界に何があるんだ? ほら、言ってみ」自分が落とした影のなかで、それでも怯むことなく睨みつけてくる。
「僕を納得させられるだけの根拠と、文書でも絵画でも、それを裏付ける証拠があるならお前と一緒に外の世界がーって言ってやるよ」
 アルミンは何か言いかけてから、重く口を閉ざして俯いた。

 デュークは記憶力が良い方だ。アルミンと親しかった五歳頃の日々で思い返せることは少なくないし、五歳の子供は決して口が堅いとは言い難い。それに、こうしてアルミンに迫るデュークを、また彼に嘲られるアルミンを、あの頃の誰が予想しえただろうか。「内緒だけど、じいちゃんは外の世界について何でも知ってるんだ!」と瞳を輝かせるアルミンの隣で、デュークも「すっごい!」と興奮していた。
 アルミンの祖父の話がデマカセでなかったとして、それが真実だとするなら、彼の家には壁外の世界についての本か何かがあるだろう。なければないで、デュークには如何でも良い。憲兵団に通報する気はないし、件の書物を悪魔の経典のように思っているわけでもなかった。デュークはただアルミンを困らせるか傷つけるかしたいだけで、デュークの考えが当たっていればアルミンは黙り込むだろう。これ以上デュークに“秘密”を漏らさないために出来ることが、この場においては“沈黙”以外にないからだ。
 予想通り黙り込んでしまったアルミンに、デュークは眉を寄せた。漆喰で塗り固められた壁に爪を立てる。胃がムカムカした。エレンには何でも打ち明けてるんだろう。五年前と同じ顔で、馬鹿げた夢物語に二人で胸をときめかせているのだろう。デュークだって、五年前はアルミンの隣にいた。五年前はこんなこと……向かい合って、下らない嘲りを浴びせたりはしていなかった。
 突き放したのは自分だったのに、如何して疎外感を抱いてしまうのだろう。デュークは一歩後退すると、そっぽを向いた。
「ふーん。ボケ老人の戯言を真に受けて、エレンにまで馬鹿な空想を感染させてるんだ。無責任だね」

「そ、外の世界に行くべき根拠はある!」
 アルミンがぎゅっと拳を作った。「証拠は……何もないけど、このまま壁の中で暮らして……ここ数十年で出生率が飛躍的に伸びてるって新聞で報じられてた」アルミンの台詞がスルスルと耳に滑り込んできて、嫌になる。「どんなに工業都市に石炭をつぎ込んでも、全ての土地を開墾しようと、所詮限られた土地だ。燃料でも食糧でも消費すれば減っていく。いつか生産が人口に追いつかなくなるに決まってる」
 今度はデュークが黙り込む番だった。アルミンの言う事は的を射ている。
 シガンシナ区の人口がこの十数年で一気に増えたのも、物流に対する優位など駐屯兵の与える経済効果の余波だけとも言い難いものがあった。町を歩いていると、子供連れの大人によく遭遇する。何よりも先年の不作で、小麦粉やその加工品の値が吊り上ったこともまだデュークの記憶に新しかった。ほんの少しの温度のバラつきで飢える者が出てくる。今はまだ開拓地を広げれば済む問題だ。しかしアルミンの言う通り、この調子で人口が増えれば今後どうなるかは分からない。だからと言って……デュークの脳裏に先ほど聞いた慟哭が蘇った。
 まだ産まれてもいない他人のために、自分の命を犠牲にしろと言うのか? じっとりと考え込むデュークに、アルミンが瞳を輝かせた。
「人類はこの狭い鳥かごから出て、外の世界に行くべきなん」
 アルミンが勢いよく宣言し終えるより先に、肉のひしゃげる歪な音がした。

 デュークはやれやれと頭を振る。
「殴るなら見えないとこにしとけよ、馬鹿か」
 草臥れたようなデュークの揶揄に応えるものは誰もおらず、少年たちは皆一様にアルミンに詰め寄っていた。デュークが割って入るまでアルミンと向かい合っていた少年が、彼の胸ぐらを掴んで壁に叩きつける。デュークは冷ややかにその光景を眺めていた。
「さっきからゴチャゴチャうるせえこと言いやがって……人類が壁の外に行くだ? 行きたきゃてめえ一人で行ってろよ、この異端者!」
 瞳の端には涙が貯まっていたが、アルミンは少年たちをきつく睨み返した。「どうした異端者。悔しかったら殴り返してみろよ!」アルミンと従順とは言い難い態度に、少年の声が険しくなっていく。「俺を殴ることも出来ねえ癖に、何が外の世界だ」低く吐き捨てた。
「荒れてんなー」
「ああ……まあな」何の気もなしに漏らした台詞を聞きとがめて、傍らにいた少年がきまり悪そうな顔を浮かべる。「あいつんち片親で、下に弟妹多いからな……家族の誰か一人でも訓練兵団に入れば政府の援助が受けやすくなるんだ……」
 デュークはふんふんと、他人事っぽく頷いた。確かに親から訓練兵団入りを打診されている身にとって、アルミンの意見は堪ったものじゃないだろう。アルミンの意見は確かに正論だ。例え子供の口にした机上の空論に過ぎずとも、外界にまるきり価値がないでもないことは分かった。デュークもそれは認める。しかしどんなに正しくても、それを受け入れられるか如何かはまた話が別だ。
 デュークを含む殆どの人間は利己的なものだ。大した不満も浮かばぬ現状を捨ててまで、大きな犠牲を伴う勇敢を行使する気にはなれない。アルミンは賢いけれど、歴史に残る偉業の裏で何人の名もない人間が死んでいくかデュークほど詳しいようには思えなかった。
 尤も知っているからといって何か良い事があるわけでも、偉いわけでもない。ただ己の臆病さを胸に抱え込みながら、腐っていくだけだ。

 そうだな。自分達は腐っていくだけなのだと、デュークは不意に思った。
 “何か”に抗おうと声を張り上げるアルミンに背を向けて歩き出しながら、天までも届きそうな完璧な壁を見上げる。人類は最後の一人が潰えるまで、この壁のなかにこもり続けるだろう。人類滅亡の間際には、きっと巨人より恐ろしい化け物が産まれているに違いない。


抗う者とおもねる者


 ズンと、彼方から地鳴りが聞こえる気がした。


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