『それ、帰る度に聞いてくるよねえ』
 自分の問いに応えて苦笑するドリスを、デュークは眩しいものでも見るように目を細めた。

 たまに会う姉は、彼にとって家族の一員というより単に優しい年上に過ぎなかった。幼い頃あやされた思い出は確かに残っていたが、デュークの記憶に残る姉は長い髪が美しいひとだったし、自分を撫でる手も華奢なものだった。短く切りそろえられた髪が与える活発な印象はそう悪いものではないし、すっかり逞しくなった手で乱暴に撫でられるのも嫌いではなかったけれど、今一つ腑に落ちないものがあった。
 姉が何を求めて訓練兵に志願したか知りたくて、引き留めるために駈けていった波止場で、乗船する姉を見送りながら「なんで兵士になったの?」と問いかける。欲しい答えが得られないからこそ繰り返す問いに、ドリスがはっきり応えてくれることは稀だった。ちゃんと答えて貰ってもデュークに理解し難い台詞だったりして、いつしか「何でだろうねえ」とはぐらかされたまま答えて貰えなくなった。それでも口元に手をやって笑う仕草は懐かしくて、またあの人と分かり合えないまま別れてしまったことも腹立たしく思えない。

 ドリスが「お姉ちゃんが帰ってきたよー」と手を振ってくれなくなったのがいつのことが、デュークはもう覚えていない。
 姉は自分のいない世界に居場所を見出し、そこへ帰っていくのだ。尤も姉が家を捨てたのと、両親が姉を追い出したのとどちらが先か、デュークには分からない。姉の居場所に自分がいないことで誰を責めれば良いのか、デュークは己の感情を持て余し気味に生きている。


Paradiso


 カンカンカンと、正門の方角から高い鐘の音が鳴り響く。
 デュークは計算板から顔を上げると、斜め向かいのテーブルで羊皮紙を覗き込んでいた父親へと視線を滑らせた。姉が家を出て以来陰気さに磨きの掛かった父親は、執務室の日中における唯一の光源である窓を見つめている。父親はデュークを視界の端に捉えると僅かに唇を動かしたが、結局何も言わないまま、再び羽根ペンを動かし始めた。店先に立っている母親も夫同様“我関せず”を気取っているだろう。
 計算板を傍らのチェストに置くと、デュークはスツールから立ち上がった。ばかに強情な父親へ声を掛ければ、視線だけでこちらを向く。
「倉庫にある石けんの数を数えてくるよ。もしかすると駐屯所に届け忘れたものがあるかもしれない」
 計算の苦手な母親は、大量の注文があった際に荷馬車に商品を詰み忘れることが度々ある。しかし昨日はデュークが隣についていた。父親もそれを知っているはずだったが、デュークが部屋を出て行くのを呼びとめることはなかった。そして先月の売上報告書を放り出したまま数時間帰ってこなかろうと、父親から咎められることはないだろう。父親も母親も、何だかんだ姉の安否が気になるのだ。
 階段を軋ませながら下りる途中、踊り場にある出窓を覗き込んだ。正門から続く広い通りには、もう物見高い人々が集まっていた。そのなかの何人が、デュークの姉が調査兵団に籍を置いていると知っているだろう。物言えぬ体になった姉が帰ってくると、恐れているだろう。
 姉がこの町に帰ってくるのは年に数回あるかないかだ。生きている姉と話せる機会が幾つ残っているか、数えたくない。本当は、あの鐘も鳴って欲しくない。姉の生死を確認するために、臆病な両親に変わって通りへ出て行きたくもないのだ。
 階下と階上に分かれて作業する両親を思って大きなため息を吐く。
 姉が訪ねてくれば嬉々として会いに行く父親は兎も角として、「除団するまでは絶対に会わない」と頑なな母親には困ったものだ。実際姉が除団して帰ってくるなら万々歳なのだけれど、母親の意地で折れてくれるような人なら最初から訓練兵団になんか入らない。
 母親の馬鹿げた要求に従う姉は、自分の部屋は愚か、自宅の半径一キロメートル圏内を歩くことさえ出来ない。帰省した姉は父方の遠縁であるアルレルト家に泊まるのが常だった。どんなにデュークが一緒にいたくても、空が暮れると「さあ、寝る時間だよ」と背中を押される。それでいて手を振った姉は、弟でも従弟でもないアルミン・アルレルトと一緒に帰るのだから腹が立つ。

 デュークはアルミンのことも、彼の家族も嫌いだ。それは何もエレン・イェーガーが言うように重度のシスコンだからではない。近所に、あの死に急ぎ馬鹿のエレンと巨人の庇護者アルミンが住んでいるだけでも不愉快なのに、去年からは剛力男女のミカサが加わり、デュークは半ばこの町を出て行きたいような気持ちになっていた。一枚の壁で安心出来ない人々のように内地へ行きたいわけではないが、姉に会いたい。トロスト区に住めば、調査兵団本部も近い。姉と会う機会も、シガンシナ区で暮らしているよりは増えるだろう。

 数段飛ばしに降りると、デュークの後頭部で括った髪が宙に揺れた。柔らかにうなじを撫でる房へ手をやって、デュークは憮然とした。こうして男の癖に髪なんぞ伸ばして、姉の髪型を真似しているからエレン如きに「シスコン」と馬鹿にされるのだろう。自分だって、おはようからおやすみまでミカサに世話されてる癖に、この五年間ドリスなしでやってきたデュークを馬鹿にする権利があいつのどこにあると言うのか。腹立たしいような、どこか可笑しいような気持ちで通用口を開けると、視界に光が溢れて、一瞬何も見えなくなる。
 眉を寄せて瞬きすると、見慣れた町並みが陽光のなかで長閑に寛いでいた。これから目の前を通る軍隊が地獄を味わってきたことなど知らないかのように、いつも通りの景色。肉親の生死を確かめに行くデュークでさえ、壁外には巨人などいないのではないかと思いそうになる。いつも通りの平和な町、賑やかな喧騒、群れなす人々の間を通るのはパレードが似合う。そんな平和な空想も「ほら、お馬さんだよ」と自分の手を引く姉の姿に引き戻される。胃が地中深くまで沈むようだと、デュークは思った。
 如何してハゲタカのように、姉の死肉を探して通りをうろつかなければならないのだろう。

 誰を責めれば良いのか分からない。何故姉がこの町を出て行ったのか分からない。
 往来の激しい通りから少し横道に逸れた場所にある家は程よく寂しくなくて、清潔な臭いに満ちた店先はデュークのお気に入りだった。母親は少し頑固でヒステリックなところもあるけれど、ドリスはそんな母親の操縦法に長けていたはずだ。父親は寡黙だけれど心優しくて、子供想いなひとだった。デュークとドリスのベッドは、どちらも父親の手製だ。ドリスが家を出て行くまで、デュークはエレンの奔放さも、アルミンの聡さも大好きだった。調査兵団の帰還の鐘がなると、三人で連れ立って見に行った。子供っぽい歓声を上げては傍らの姉にたしなめられた。あの人たちは疲れているのだから、大きな声で驚かしちゃいけないよと、三人一緒に注意された。
 自分の暮らしていた、あの小さな世界より素晴らしい何かがあるはずがない。アルミンもエレンも、それを分かっていないのだ。調査兵団に馬鹿みたいに焦がれて、外の世界に無限の可能性があるなどと思い込んでいる。
 外の世界に価値があると言うなら、何故調査兵団が非難される。調査兵団に入った姉が、何故除団するよう責められる。

 通りに群れる人々の背の高さに足場を探していると、夜より暗い黒髪に陽光より明るい笑みの二人組が目に入った。ミカサとエレンだ。二人の声が聞こえなくても、エレンが何と言っているか見当がつく。英雄の凱旋だとか何とか、聞き飽きた言葉だ。
 デュークは唇をきつく噛むと、彼らに背を向けて歩き出した。薄い胸の奥で少年の体には収まりきらないほどの憎悪が鎌首をもたげる。
 この醜悪な感情をどこにぶつければ良いのか、誰か教えてほしい。両親も姉もエレンもアルミンも、ミカサだって決して心の底から嫌っているわけではない。それでも、このまま暮らしている内に許せなくなってしまいそうだ。何もかもを拒絶したくなる。


僕の暮らす、このうつくしい町


 姉が欲したものを――姉の帰る場所にいる、自分より大事に想われているひとを、僕は時折憎んでしまいそうになる。


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