咀嚼する彼らは肉に飢えているわけでもなく、血に渇いているわけでもない。
 生きるための肉を、未来に繋ぐための血を欲する私たちこそが、味来と歯列に噛み砕かれながら、嗄れるまで――潰えるまで、咆哮する。


Paradiso


 ピチャリピチャリと、そしゃくするおとがみみもとできこえる。

 ドリスと向かい合って座るリヴァイは冷めたシチューを啜っていた。食堂の隅ではどこから手に入れてきたのか、数人の兵士たちが小さな小瓶を囲んでの賭けポーカーに興じている。リヴァイは忌々しそうにその喧騒を睨んだが、放っておくことにしたらしい。「埃が散る」と舌打ちするリヴァイに、ドリスは「リヴァイの食べるのが遅いからだよ」と呟いて、木製のマグを手に取った。窓枠にはめられたガラスが夜風にカタカタと震えている。先輩たちがあそこに集っているのはお酒のためで、ドリスがここに座っているのは、彼女の属している班が今日の炊事担当だったからだ。そろそろ就寝時間を知らせるラッパの音が聞こえる頃だ。リヴァイはこんな遅くまで何をしていたのだろう。
「お前、今日の洗濯担当がどこか知ってるんだろ。誰だ。言ってみろ」
 ドリスの疑問を知ってか知らずか――お前ほど諜報に向かねえアホは見たことがないと度々馬鹿にされていることから考えるに、今回も顔に出ていたのだろう――リヴァイはそう口にした。こんなにも無法者丸だしの口調で喋っていながら、その実潔癖症であるということは兵団の皆に知れ渡っている。ドリスも勿論それを知っていたし、洗濯し直していて遅れてきたのだなとも察しがついた。
「嫌よ」ドリスが緩く頭を振ると、リヴァイはじっとり睨みつけてきた。「私が教えれば、その班に洗濯の仕方について抗議しに行くでしょう。リヴァイのために他人の恨みを、それもとても下らない理由で買うのは嫌。大体、掲示を見れば分かることじゃないの」
「じゃあ、お前が洗え」

 理不尽な反論を受けて、ドリスは眉を吊り上げた。リヴァイは平気な顔で、机上に残っているパンクズを床に払い落とす。「明日の清掃担当はどこの班だ……」という呻き声から、叶うなら今すぐにでも食堂の清掃を始めたいと望んでいるらしきことが伺える。この病的なまでの潔癖も軍則を破ってまで拘る気はないらしいので、ドリスはラッパの音を待ちわびた。何十人分の食事を作り、その片付けだけでも疲れているのに、床に散らばったパンクズや零れたシチューのために、この広い食堂の清掃にまで駆り出されては堪らない。どうか二つ向こうの机の下に何があるか気づきませんようにと、ドリスは祈った。リヴァイが吐しゃ物に気付いたら最後、ラッパだろうと、エルヴィンだろうと、彼を止められはしないに決まっている。そしてドリスは彼の潔癖に付き合わされるのだ、彼が“それ”を当然のことと思っているから。
「俺の部屋の清掃もお前がしろ。飯も、お前が作るか他の奴らに味付けの仕方について講義するかしろ」
 しゃあしゃあと吐かれた台詞は“命令”でも“プロポーズ”でもなかったが、だからこそ彼に抗うことは困難を極めた。ドリスは確かにこの小さな兵士のなかにある勇猛さへ敬意を抱いていたが、舎弟にまでなった覚えはない。
「……プロポーズだって言うなら、リヴァイの給与次第で受けようか?」
 ドリスが笑えない冗談を口にすると、リヴァイは「クソつまんねえ……」とあきれ返ってくれた。

 ドリスの出身はウォール・マリアの南端の突出区画、シガンシナ区だ。
 シガンシナ区は、壁を警備・守備する兵力の集約と、また壁内の人々の避難時間を稼ぐことを目的に作られた囮の町である。巨人の襲来に怯えて暮らさなければならない代わり、町に暮らす数千人規模の兵士たちが与える経済効果は決して小さくない。王政府の奨励があっても数十年前はまだ閑散としていたらしいが、ドリスの子供時代にはもう地方都市として十全に賑わっていた。安穏のなかで肥え始めたシガンシナ区の発展には、トロスト区やカラネス区からやってきた商人からも驚くほどだ。聞けば、ウォール・ローゼの突出区画は逆に商家が集まり過ぎてぱっとしないのだと言う。石けんを運んでくる交易商が汗を拭き拭き羨んだことを、ドリスはまだ覚えている。ドリスの家はそう裕福ではなかったように思うけれど、それでも町に二軒しかない石けん屋のひとつだったので、それなりに儲かってはいたのだろう。幼い頃から、流行りの服も果物も――お金では買うことが叶わない“弟”さえも、欲しいと思ったものは何でも与えられた。
 我儘な少女だったドリスが手に入れられなかったのは、アルレルトのお爺さんが「内緒だよ」と見せてくれた一冊の本だけだ。
 その羨望と所有欲が彼女の未来を決定づけた。

 可愛さ余って憎さ百倍ということなのか、訓練兵になるため殆ど勘当同然で家を出た。
 自分の我儘で産まれたのか、それともドリス同様偶然の産物だったのか、十も年下の弟が船着き場まで追ってきた。
 大泣きする弟を「お姉ちゃんはね、欲しいものがあるんだよ」と宥めると、嗚咽交じりに「しんじゃうのに、兵士なんて皆しんじゃうのに」と訴えてきた。町に屯する兵士たちの平和さを知っていながら、よくそんな心配が出てきたものだ。ドリスだって馬鹿じゃない。調査兵団を希望しているとまでは親にさえ話さなかったし、自分自身何故兵士になりたいのか明確な理由があるわけではない。
 ドリスは、彼方まで届く芳香が満ちた家が嫌いではなかった。母親から強いられる花嫁修業も、とても楽しいものだった。炊事洗濯裁縫から家計簿のつけ方、子供服の作り方まで、近隣の女たちが知っていてドリスが知らないことは何一つなかった。
 それでも手に入らなかった一冊のために壁の外へ行くのかと、地面にうずくまる弟の前で少し考えた。

 あれから数年の歳月が流れ、ドリスは訓練兵団を五番の成績で卒業した。目の前には弟ではなく、もしかすると身長的には九歳になっただろう弟と同じかもしれないが、まあそれは如何でも良い。兎に角ドリスは今、調査兵団本部の食堂でリヴァイの食事風景を見守っている。
 そういえば、食事を取っといてやった礼もまだ聞いてない。

「洗濯掃除が得意で、飯も美味い。しかし格闘術・技巧術は最低で、唯一見れるレベルの立体機動は兎も角、反射能力が鈍い」
 礼をせがもうと思いついた直後に放たれた、賛辞とも罵倒とも判別のつかない台詞にドリスはぽかんとした。ニンジンを潰すリヴァイが「他人にプロポーズされてえなら、まずその間抜け面を如何にかしろ」と鼻で笑う。“間抜け”というキーワードに何か琴線に触れるものがあったのか、はたまた退屈なのかドリスの失敗談を滔々と語り出した。こないだの陣形演習で馬に振り落とされたのは笑えたな。訓練兵と間違われて教官連中に叱られたのは、先月のシガンシナ区の襲撃想定訓練だったか? 目の前でドリスの班が――というか、主にドリス一人で作ったシチューを啜る少年は口端を上げて笑った。ちなみに件の説教中、ドリスの身柄を引き取りに来たリヴァイだって「どこの訓練兵だ! 所属を言え!!」と叱り飛ばされたのだが、まあそれは触れないでおいたほうが良いだろう。リヴァイと違って、ドリスには協調性がある。リヴァイからは「他人に追従するのが上手い」と馬鹿にされているのか褒められているのか分からない感想を頂くが、まあ目の前のちっちゃい兵士と違ってドリスはごく平凡な兵士に過ぎないのだから、長いものに巻かれる才覚はあったほうが良い。

「……今度から、リヴァイのお皿にだけ毒入れとこう」
 すっかり渋くなった紅茶で喉を潤しながら、ドリスはため息交じりにそう呟いた。
 黙っていれば貴族の子弟にも見えなくはない整った容貌から発せられる乱暴な台詞は、彼の作る表情と吃驚するほど相性がいい。他人を傷つけるような発言もはっきり口にする彼を苦手がる者は少なくないし、ドリス自身彼が苦手だった。苦手だったのが、炊事洗濯掃除の何れかで気に入られたらしく、汚れた衣類や部屋の清掃を押し付けられる内に慣れてしまった。上官にあたるエルヴィンからも「適性診断の結果如何でリヴァイと同じ班に移ってもらうかもしれない」と言われているため、近々正式にリヴァイのパシリとなるだろう。
「そういえば、訓練兵団時代は座学も酷かったらしいな。立体起動術の成績上位に女が多い理由を言ってみろ」
 一体誰がそんなことを密告したと言うのか。卒業すれば座学など無用の長物よとばかりに適当に流してきたドリスは唐突な口頭訊問に窮した。ほんとうに誰から聞いたのだ。ドリスの同期で調査兵団に入った者は五人いるかいないかだ。皆、卒業して一度目か二度目の壁外調査で戦死した。生き残っているのはドリス一人だ。それはドリスが人並み外れて半刃刀身の扱いに長けているからではない。臆病だからだ。

 人並みかそれ以上に臆病なドリスは、巨人に頭から齧られる同期の兵士を、それもごく親しい仲だった少女を見捨てて逃げたこともある。その件でドリスを責める者は誰も居なかった。それもそのはずで、崖や巨木等の足場がなければ立体起動装置は役に立たないし、立体起動装置の使えない平地では、巨人と交戦に及ぶだけ無駄というものだ。調査兵団を希望する訓練兵は、一期に五人いれば良いほうだと言われている。支持母体を失わないため……成果をあげるためにも犠牲は避けなければならない。特別に命令が下されているか、もしくは他の班の行動を阻害しない範囲に限り、まず自分の命を、次に班員の命を優先して動くことになっている。皆誰かを見捨てて生きている。
 ドリスを責められる者は、調査兵団のなかに誰も居ない。だからドリスも、感傷に浸らないようにして生きている。

 見捨てた彼女との思い出を埋めるように、目の前で生きているリヴァイと、彼女と並んで受けた授業の内容を思い出す。
 いや、思い出せなかった。
「女のひとのほうが軽いから……だった、ような」
「脳みそが軽いからだ。脳容積が大きければ大きいほど燃料……酸素が必要になる。要するに女で尚且つ小柄な奴ほど重力加速度に強い」
「軽いって言うと馬鹿にしてるみたいに聞こえるんだけど」
「目の前にいる女がこうなんだ、仕方ねぇだろ。お前、何で兵士になんかなった」
 スプーンを口元に運ぶ途中、リヴァイが決して軽くない問いをぽつんと零した。彼と親しくなってからの半年で疾うに聞き飽きた問いだ。それでも彼の低い声で問われるたび、ドリスは母親の甲高い声を思い出す。たまの余暇に訪ねても、母親だけは頑として会ってくれない。
『なんで兵士になんかなりたいの! 何に不満があるの、兵士なんて、有事の際は真っ先に死ぬことになるのよ?!』
「今からでも遅くない。籠の暮らしも、そう悪いもんじゃねえぞ」
「リヴァイ。偉そうな事言うのも良いけど、口元に垂れてるよ」
 ドリスは身を乗り出して、リヴァイの口端を拭ってやった。リヴァイが幾つかは知らないけれど、その身長の低さと幼児に似た我の強さから年下のように扱ってしまうことが度々あった。それで叱られたということはないが、まあ年下扱いされて喜ぶひともいないだろう。「あーあ、またやってしまった」とポケットのなかのハンカチをまさぐっていると、指先に咬みつかれた。
 ドリスの指についたシチューを舐めとると、リヴァイはいつも通り平然と「石けんのわけのわからん味がする」と感想を漏らした。
「折角綺麗な顔をしてるのに、時々犬みたいな不作法をするね」
 こちらを見上げる瞳に一片の動揺もないのを見て、ドリスは苦笑した。
 ドリスの肩に顔を埋めたり、短い髪を無理に引っ張る度、リヴァイは「石けんの匂いがする」と言うのが常だった。どんなに泥だらけ汗まみれになっても、潔癖な彼から清潔な匂いがすると言われるのは、ドリスにとって嬉しいことの一つだった。

 金属製のスプーンを皿に置く。もう誰も何も食べていないはずなのに、ぴちゃりぴちゃりと啜る音が離れない。
 兵士になんかとヒステリックな母親の声。馬を翻すドリスを目にした時の、戦友の顔。リヴァイに小突かれながら行った、単独での調査兵団本部の清掃。ドリスがパシられているのを見て、兵団の仲間が笑う。わらう。わらう。わらう

 ――とおくから、女の悲鳴が聞こえる。恥も外聞もなく泣き喚き、嫌だ嫌だとごねる台詞が遮蔽物一つない草原を抜けていく。

 眼前でしゃがみ込んだ男は呆然と目の前の群れを見つめ、傍らで震える女は馬の首にしがみ付いて、吐しゃ物をまき散らしている。二人とも新兵ではなかったが、ドリスとは親しい仲だった。何不自由なく育った者独特の善良さと穏やかさを嫌う者は少なく、彼女は調査兵団のムードメーカーと言って良かった。その彼女が巨人に喰われ、臓腑を引きずり出されながら絶叫している光景に五感が麻痺してしまったのかもしれない。リヴァイも辛うじてドリスの馬の手綱を持っているが、自分が何故彼女の馬を掴まえているのか分からない。落馬したわけではない。班員の一人が信煙弾を発射した際、馬に逃げられた。折しも先月馬の交換を行ったばかりだった。調教が万全ではなかったのだろう。百年の平穏を破られて以降、壁外調査の頻度は高くなり、馬の調教・育成が追い付かなくなっていると聞いたことがある。逃げられた男は体格が良く、誰かと同乗するには負担になる。巨人数体が接近してくる中、男に馬を一頭譲り、女の班員同士で同乗するよう指示を振っている暇はなく、ドリスが男を拾いに行った。ドリスの馬も、先月変えたばかりだ。巨人の接近にパニックを起こし、ドリスを振り落した。男の馬とは違って捕獲には成功したが、それと同時にドリスも太い指に掴まれていた。

 壁の外では僅かなミスが負の連鎖に繋がる。五人で固まっているというだけで危険であることは皆重々承知していた。井戸端に集まる女たちのようにグズグズしていたつもりは毛頭ないし、実際信煙弾を打ってから五分と経たない内の出来事だった。

 離れたところには消えかけの巨人の死体が一つと、班員の上半身が一つ落ちている。ドリスに群がっている三体の巨人の内一体は十五メートル級。奴らが何故リヴァイたちに関心を示さないのかは謎だが、そういえばそこに転がってる班員もドリスが好きだったなと、リヴァイは現状において酷く如何でも良いことを思い出した。何か、少しでも頭を動かなければならないとリヴァイは思った。ドリスに纏わること以外の何かを考えて、頭を動かして、そうしなければ“何をするべきなのか”が分からなくなる。
 カチリと、操作装置に半刃刀身をはめる音がした。リヴァイの視界の端で、男が操作装置を握ったまま震えている。あの死体のように、無謀を仕出かす愚かさも、ドリスを救いに行く誠実さもないのだろう。自分も同じだと、リヴァイは緩慢とそんなことを抱いた。
 しかしリヴァイはこの男ともあの死体とも違う点が一つある。鼓膜を破る悲鳴から己の意識を遠ざけて、俺は兵士だと心中に落とした。
「……馬に乗れ、奴らの関心がこっちに向く前に本隊に合流するぞ」
 振り向いた男に手綱を渡すと、リヴァイは傍らの女を小突いた。
「喰われたくねえなら起きろ」
 ビチャビチャになった口元を拭う女が「でも……でも、」と子供染みた駄々をこねる。「ドリスの馬が……馬がなければ……」
 馬鹿げた台詞にリヴァイの頭がカッと熱くなった。女の襟を掴んで、巨人の群れのほうを向かす。「よく見ろ、ボケ。足がないドリスが如何やって馬に乗る。巨人みたく生えてくるってなら話は別だがな」チッと吐き捨て、手を離す。
 女は物言いたげにリヴァイの顔を見つめたが、すぐに馬を方向転換させた。ドリスの馬に乗った男も、同様に手綱を操る。二人が駆け出したのを確認すると、リヴァイも馬を動かした。エルヴィンなら、この状況を如何判断するか。背後に広がる惨状を、空を切る悲鳴を、全てを切り離して模索する。チラチラと、ドリスと過ごした日々が浮かんでくる。頭が熱い。先ほどの怒りがまだ額の奥に残っている。馬を走らせても、網膜に焼き付いた映像が消えない。弄ぶように喰っていた。その尊厳を踏みにじり、甚振るように捕食している。いや、こいつらは生きるための何かなど必要ない。リヴァイは強く手綱を握りしめた。犠牲は最小限に押さえろ。ドリスは己の望みで調査兵団を選んだ。エルヴィンの考えも、躊躇いこそ見せたもののそれが正しいと認めていた。自分が死ぬことを分かっていた。
 だからもう、どんな判断も残酷なんかではない。愚かしいかそうでないかの違いだけがこの世界に残っている。

 考えるな。走れ。逃げろ。生き抜け。班員を追いたてて、新たに発見した巨人を迂回して馬を走らせる。奴らがドリスの肉を咀嚼する音が追いかけてくる。ドリスの骨が潰れる音が聞こえる。もうかなりの距離を開けているはずなのに、奴らがドリスを持ったままついてきているような気さえした。苦痛と絶望、助けを求める金切声が聞こえる。数多くの訓練に耐えた腕が薄汚れた歯に噛み千切られる。リヴァイの頭を撫でた指が舌の上でひしゃげていく。自分の名を呼んだ声が食道を下って行き、やがて弔う者もいない草原に吐きだされるだろう。鳥が死肉を啄み、風雨がその骨を舐める。昨日まで、笑い合っていた。最期に何を話したか思い出そうとする。今は駄目だと言い聞かせる。それでもドリスの声が聞こえる。あの悲鳴が薄れていくのに、その思い出を思考に受け入れてしまう。ただ今はドリスの悲鳴を聞きたくない。

 何か喋ってくれと、脳裏に佇むドリスの影に乞うた。「極限状況でひとはひとでいられないね」と、窓枠に寄りかかるドリスが重たく口にする。兵団服を脱いで、清掃用の白いエプロンをつけたドリスは、その腕の傷と彼女の口にした台詞さえ気に留めなければどこにでもいる少女に見えた。本当に彼女はどこにでもいるような少女だったのだろう。同期の兵士が「入団した時は腰まで髪あったよな」と、彼女の短髪をからかう。リヴァイと初めて会った時にはもう耳元に掛かるのがやっとの長さで、差し出された手も固かった。兵士になる修練を積み、最も危険の多い調査兵団を希望していながら、何故この女は壁外でさえ間延びした雰囲気を保っていられるのかと不思議に思ったものだ。彼女の班が炊事担当の日だけやたらと食事が美味かった。彼女の班が清掃担当の日だけ、やたらと部屋が綺麗だった。彼女の班が洗濯担当の日だけ、いつもより石けんの匂いが濃かった。彼女の皮膚からは清潔な匂いがした。あの日、この、脳裏に佇むドリスと何を話しただろう。リヴァイがドリスに清掃に従事するよう強いることは珍しくない。自分達にとってこのシチュエーションは慣れたもので、一体いつの、何を話し合っていた時か思い出せなかった。リヴァイの望みに応えて、ドリスの台詞だけが誰も居ない耳元で囁かれる。

『極限状況でひとはひとでいられないね。生存本能と恐怖に支配されたけだものになってしまう。私たちは人間のまま死ぬことは出来ないだろうけど、だから、そのギリギリのところで何をしたか、それを見てほしいと思う』

 忘れないでねと念を押すドリスが不意に背を屈め、リヴァイに口づけた。その仕草に腹が立ったのと、口付けの後に続く台詞が薄ら分かったからリヴァイはドリスの胸ぐらを掴んで、その台詞を口に食道に流し込もうとした。
『どんなに叫んでも、惨めたらしく糞尿を垂れ流しても、私は最期まで人間でいたい。あなたのなかだけでも、人間でいたい』
 二度目の口付けのあとで、リヴァイの肩を掴むドリスは結局そう口にしたのだった。

 あれはウォール・マリア奪還作戦から一月経った後の、日常風景だった。これまでの壁外調査とは違う口減らしを目的とした進軍は、それも彼女の故郷の人々を“巨人の餌”として運ぶのは耐えきれないものがあったのだろう。幸せに育ってきたのに調査兵団なんかに関心を持つ奇特な馬鹿。知りたいことが沢山あると言っていた。私が知ることは出来ないだろうけど、こうして私が外に行くことで誰かが知ることになるかもしれないと夢を語っていた。自分の落とした影のなかで、死にたくないとひっそり呟いた。
 何で兵士になりたかったのか思い出せないと、身を震わせた。兵士でいる理由が欲しいと、泣いていた。だから応えようと思った。違う理由があったかもしれないけれど、思い出したくない。泣くぐらいなら兵士になるな。さっさと除団しろ。そう思っていた。そう思っていたのに、ドリスの嗚咽止めたさに馬鹿なことを口にした。除団したげなあの女を引き留めたのは自分だった。気の迷いだ。些細なミスが負の連鎖を招くのは壁の有無に関係ない。たった一瞬、除団しろと背を押して貰いたげなドリスを引きとめる台詞を口にした。

 馬鹿げたことに、この女と離れたくないと思った。離れるなと懇願した。

 いつ死ぬかも分からないから、黙っておいたほうが良いよね。
 ここまでやっておいて黙ってるも黙ってないもないだろ。いつ死ぬか分からねえんだ。言っとけ。
 ここまでやっておいても何も、興味関心があったとか、ノリと勢いでとか、性欲を持て余したとか色々言い訳は出来るじゃあない。
 馬鹿か。その気がなくてお前みたいな筋肉女を抱くわけを言ってみろ。機械体操とどっこいどっこいのセックスなんざ初めてだ。
 機嫌を損ねたのか、ドリスはくるりと寝返りを打った。その背は自分と同じに傷だらけで、獣のようにしなやかだった。一見しただけでは、男のものか女のものか分からない。乱れた髪に鼻先を埋めると、石けんの清潔な臭いがした。どんな過酷な演習のあとでも決して消えることがないので一度など「お前は髪を洗って流さないまま出てくるのか」と聞いたものだ。「実家が石けん屋だからかなあ……」と怪訝な顔をしたドリスは、十八歳だった。初めてキスをしたのは、彼女が二十一歳の時だった。最初で最後の夜は、二十二歳、そして今は二十三歳。二十四歳のドリスは存在しない。もう二度と、あの夜彼女が飲みこんだ台詞を聞くことが出来ない。聞かなくて良かったとも、思う。

 成る程と、馬上のリヴァイは追想を終えた。
 彼女の判断通り、自分達の間に少なからず特別なものがあったと認めるのは恐ろしいことだ。

 助けてと泣き叫ぶドリスは、その声が聞こえなくなるまで誰の名前も呼ばなかった。
 彼女が誰かに助けを求めることがあるならそれは自分だと、リヴァイにはそう分かっていた。極限状態の、本当に本当のギリギリまで、四肢を引きちぎられながら、それでもドリスは「助けに来るな、逃げろ」と精一杯の理性で自分の名を呼ばなかったのだ。
『兵士でいる理由が欲しけりゃ俺に尽くせ。俺は巨人を滅亡させる』
 自分の台詞へ忠実に、あの女は最期までリヴァイに尽くさんとしたのだろう。


さいごの文字を綴ろうか


 特別作戦班所属ドリス・レイヴンズクロフト、第三十七回壁外調査にて戦死。対巨人の戦績は討伐十五体、討伐補佐二十二体。


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