パンはパンでも
たべられないパン
なーんだ

 火也子ちゃんはなぁ、本当は“ねず子”のはずだったんよ。
 かわいそうね。そう言って笑う母親の口元はいつも静かな笑みを湛えていたのを覚えている。
 火也子ちゃんの名前決めようかって日に台所でドブネズミが捕まってな。お父さんさんたら、考えるの億劫になってしまったのね。それ見て“ねず子”で良いだろうって言うのよ。可哀想。
 台所仕事の傍ら、母親は冗談でも口遊むように微笑う。もう少し良い名前をつけてやってって、お母さんが頼んであげたから、今の名前があるの。火也子はもっとお母さんに感謝して。

 二〇〇〇年台初頭、文明社会の円熟と共に多くの人間がジェンダーについての議論を交わした。
 男と女は一個の生命として完璧に平等であり、現代社会は男に都合のいい慣習に塗れて不平等である。男と女は同価値で、一方を蔑むことも軽んじることも許されてはならない。我々は肉体の“性”を超え、もっと深いところ──自分が何者であるのか──理性的に自己の性を選択するべきなのではなかろうか? それが高度に発達した文明のあるべき姿で、一つの理想なのだ。
 火也子には、ジェンダー論の是非は分からない。男だ女だと言った些細な差異で騒いでいた“高度に発達した文明”とやらは、超常黎明期の訪れにより退廃した。一切の名残がないわけではないけれど、結局、殆どの女は腕力では男に叶わない。自然な成り行きから、あちこちで男尊女卑が復権していった。代々ヒーローを輩出する一族が、その継嗣に男児を望むのは言うまでもない。
 母親は熱風の“個性”を買われて轟家に嫁してきた。夫の“個性”と自分のものを掛け合わせ、更に強い“個性”を持つ男児を産むことだけが彼女の使命だった。少なくとも彼女の夫や姑はそう思っていたし、彼女自身にも、火也子が物心ついた時にはもう若かりし日の葛藤は残っていなかった。
 火也子の知る母親には、彼女の体が、心が、その全てが彼女一人のものだった頃の面影は残っていない。二人の子を産んだ母親は一個の人間としての思考を完全に放棄し、婚家に身を委ねた。
 そんな母親にとって、待望の第一子が女児だった屈辱は拭い去りがたいのだろう。

 母親が火也子の尊厳を踏みにじるのは、名前の由来を話す時に限らなかった。
 母親にとって“我が子”は弟のみで、火也子は失敗作だった。彼女が火也子を否定し、突き放し、拒絶する時、そこには一切の躊躇も罪悪感もない。母親の口から出る言葉の全てが正であり、火也子の自尊心は非だった。母親は常に火也子の自我を砕いて、自分に従わせようと躍起になった。
 あなたは我侭。あなたは可愛げがない。あなたは不真面目。あなたには思いやりがない。
 火也子は母親の妄念のなかに、かつて彼女が自分と同じ少女だった頃の姿を見るのだった。
 母親がかつて──自由で、幸福で、何にでもなれて、“個性”を理由に売り買いされる未来なぞ知る由もなかった──少女だった過去を、火也子だけが識っていた。母親が消し去った過去を。

 火也子の知る限り、良妻賢母を地でこなす“うつくしいお母さま”の愛は弟にのみ注がれていた。
 一度外へ出れば“時代錯誤”と一蹴される男尊女卑は火也子の家で丁重に遇され、彼女に“己の分”とやらを教え込むのだった。己の分──母親がこれまでに味わった差別や屈辱──を娘に託すことで、自分はそうした苦痛の及ばない“一段階上の性”に到達したのだという自己暗示を施す。
 矮小な女。火也子はごく幼いころから母親の本性に気付いていた。その聡明さも、母親が火也子を嫌う理由だったに違いない。母親は火也子に冷たかった。自分と母親のどちらが先に相手を見下し、嫌うようになったのか、火也子には分からなかった。突き止めたいとも思わなかった。
 あなたは女の子なんだからと、母親が囁く。本当に可愛げのない子ね。眇めた目の奥には優越感が宿る。ただでさえ不細工なんだから、そんな風だと誰もお嫁に貰ってはくれないわよ。

 高校に上がるまで、火也子は自分の容姿が優れていることに気付かなかった。
 髪が伸びると、母親が台所用ハサミでザクザク切りそろえてくれた。“くせっ毛でみっともない”からと、肩より下に伸ばすことは許されなかった。服もそれと同様で、露出度も彩度もうんと低いものしか与えられなかった。女の子らしい楽しみとは無縁の、悪夢のような少女時代。
 もしも自分が女の子を産んだら、うんと可愛い服を着せよう。レースが沢山ついたワンピースに、華やかなサテンのドレス。エナメル製の赤いパンプス、ピンク色のカシミヤのコート。鳥の巣みたいになった髪の毛をひっぱりながら、色んなことを考えた。もしも……もしも、自分が女の子を産んだら……? その子がここと似たり寄ったりの男尊女卑で育まれるのは明らかだった。
 母親がその“個性”を理由に買われたのと同じで、やがては火也子も見知らぬ誰かに売り渡されるだろう──火也子の“個性”が欲しい誰かに。火也子を売ったお金で、弟は花嫁を買う。

 素直で愚直な弟は父母の価値観を引き継いで、平然と火也子を見下すようになった。
 全く親しくないと言えば嘘になるけれど、親の扱いに差があれば自然と溝が産まれる。姉弟で屈託なく過ごしたのがいつか、火也子には思い出せない。母親が火也子を見下すのと同じで、いつからか弟も火也子を見下すようになった。火也子にとって、それはもう如何でも良いことだった。
 忍耐強く、勤勉で、何事にも一生懸命で、思いやりのある弟は、火也子に厳しかった。火也子がどんな仕打ちを受けていても、成功作で、優等生で、利口な弟の目には自業自得に映るらしい。
 全部お前の自業自得だ。そう言いたげな冷たい視線を寄越す時、弟が否定するのは火也子のみに留まらない。自らの痛みにも鈍感になっていく弟を目の当たりにしても、火也子にはそれを不憫に思うだけの余裕はなかった。弟は火也子に厳しかった──そして、自分自身にも。
 満足の行く結果を出せない息子に、父親は容赦なく手をあげた。父親の口癖はこうだった。こんなもので倒れていては、雑魚ヴィランにすら勝てはしない。一方的な暴力を目の当たりにしながら、それに割って入る者はいなかった。母親にしろ、火也子にしろ、父親の機嫌を損ねるのが恐ろしいのだ。あの家において父親は絶対的な正義であり、弟自身もそう信ずるのである。
 弟は忍耐強かった。歯が飛ぶほど殴られても、骨を折られても、弟は「オレの力が及ばなかったから」とか「父さんの期待に応えられなかったオレが悪い」と口にした。愚かな子。

 母親が、父親が、弟が、自分の体に流れる血が嫌いだった。
 物心ついた時にはもう“一日も早く家を出たい”という願いは存在し、父母が自らの受けた差別や屈辱を当たり前のように我が子へ受け渡そうとするのが嫌だった。悍ましいとさえ思った。
 その“悍ましい生き物”の助けがなくては生きていけない自分が許せなかった。

 雑に切りそろえられた髪に、男物の服。高校へ入るまで、火也子は母親の言いなりだった。
 火也子がお洒落の楽しさを知ったのと、自分の体に価値があることを知ったのは殆ど同時だ。
 男たちの殆どは、母親よりずっと優しかった。火也子に縋るような視線を送り、その一挙一動に全てを左右される。なんて綺麗な赤い髪、美しい瞳だろう。懸命に自分を口説く男たちは滑稽で、その猥雑さが愛おしかった。喩え誰が相手でも、可愛いと言われるのは嬉しかった。いつからか自然な流れで男に春を売るようになった。それに、自分の自由になるお金も欲しかったから。
 自らの性を消費されるたび、火也子は幼稚な全能感を得て逆上せていった。
 私は母さんとは違う。差別や屈辱から解放されるために、“わたし”を犠牲にしたりはしない。

 流石の両親も娘の“不道徳”について把握していたようで、高校卒業と同時に縁談が決まった。
 ただ火也子の“個性”が欲しいだけの見知らぬ誰か、嫁ぎ先は二十歳年上の遠縁だった。「とりあえず顔合わせだけ」としきりに勧める母親に、火也子は断固として拒否し続けた。
 結婚相手はバツイチだった。先妻は産褥──率直に言うと、腹の子の“個性”の発現があまりに早すぎたせいで母子共々死んだ。炎に耐性のある火也子であればと、前から打診されていたらしい。
 その縁談は“お見合い”という尤もらしい出会いこそ用意されていたものの、最早両親と相手の間で決まったことだった。火也子の逃亡を恐れた父親は、娘を座敷牢に放り込んだ。
 頑丈な南京錠で封鎖された扉の向こうから、母親が猫なで声で火也子を懐柔しようとする。
 良い人なのよ。本当に素敵な人なの。火也子の写真を見てね、一目で気に入ったんですって。
 今まさに売られんとする娘に、母親は優しかった。物心ついてからずっと、火也子が求め続けた“母性”がそこにはあった。母親もまた、こうやって売られてきたのだ。良い人なの。本当に素敵な人なの。あなたの写真を見て一目で気に入られたのよ。女の子はね、こうして望まれて嫁ぐのが幸せなのよ。あなたももう子どもではないのだから、分かるでしょう。分かって頂戴。

 あなたの体も、心も、その全てはもうじきあなたのものではなくなるの。
 それが大人になるということなのよ。

 二〇〇〇年台初頭、文明社会の円熟と共に多くの人間がジェンダーについての議論を交わした。
 男と女は一個の生命として完璧に平等であり、現代社会は男に都合のいい慣習に塗れて不平等である。男と女は同価値で、一方を蔑むことも軽んじることも許されてはならない。我々は肉体の“性”を超え、もっと深いところ──自分が何者であるのか──理性的に自己の性を選択するべきなのではなかろうか? それが高度に発達した文明のあるべき姿で、一つの理想とされた。
 その理想郷は一人の赤ん坊の誕生により無惨に瓦解した。混迷渦巻く世の中で文化水準は一気に下降し、人権意識も出生率も低下の一途を辿っていく。混迷と暴力の狭間で辛うじて国家の体裁を整えるも、グズグズに腐った指示系統では警察も自衛隊も大した効果を発揮しなかった。
 “ヒーロー”などという特定個人に依存した時点で、この国の民主主義は死んだのと同じ。“個性”の存在でどれだけの不利益を被る人間がいるか考えもせず目を瞑る大人。醜悪なプロパガンダに乗せられる子ども。かつて存在した文明社会は“超常”の出現により完全に断たれてしまった。
 一握りの人間が、暴力でひとを従える。火也子の識る世界はそういうものだ。こんな世界で子どもを産むなんて、正気の沙汰とは思えない。あなたは狂ってる。ずっと前から、火也子はそう叫びたかった。先天的に備わっていた“個性”に左右される人生なら、産まれないのと変わらない。
 私の体も、心も、その全てがもう私のものでなくなってしまう。それが大人になるということなら、大人になんかならなくて良い。こんな世界で大人になることに、何の意味があるの。

 今逃げなければ一生この家に飼い殺されると、座敷牢のなかで思った。
 猶予は一週間。嫌だ嫌だと、二日に渡って泣いて拒絶した。その後の三日で、少しずつしおらしい態度を見せるよう意識した。食事を持ってくる母親が、やっと分かってくれたのねと安堵の顔を見せる。同志でも見つけたような晴れ晴れとした笑み。母親の白い指が火也子に触れる。撫でる。
 あなたは本当に可愛いのだもの。きっと嫁いだ先でも大事にして頂けるわ──私みたいに。
 ……南京錠はがっしりとして、耐火性にも優れていたけれど、無理やり押し破った。玄関へ行く前に自室へもぐりこんで、箪笥の一番下の引き出しを引っ張り出す。この家のなかに、持っていきたいものなど幾つもない。中敷きの下から取り出した通帳と印鑑をポケットに仕舞うと、もうあとは何も要らなかった。それだけだった。母親に褒められたいとか、父親に認められたいとか、弟と平等に扱って欲しいとか……そういうものは、もう捨てようと思った。もう何も要らない。
 静まり返った玄関で靴を履いていると、背後で床板の軋む音がした。その軽さから、振り向くまでもなく足音の主が分かる。火也子は振り向かなかった。出てくのかよ。弟の──炎司の声。
 ……そうやって、お前は……お前みたいな出来損ない、この家を……!!
 怒りに喘ぎながら、弟が言葉を紡ぐ。憤怒に塗れた声には、まだあどけない響きが残っていた。

 十八才の火也子には、背後を振り向いて、弟の表情を確かめる度胸はなかった。
 いつものことだ。父親が弟を詰っている時も、殴っている時も、火也子は一度だって弟を庇おうとはしなかった。父親の怒りの矛先が自分に向かないよう息をひそめて、嵐が過ぎ去るのを待った。鼻血を出して蹲る弟に駆け寄ろうともせず、父親の機嫌を取るのに夢中だった。
 炎司が──父さんの望む結果を出さないから──全部、何もかも、この子の自業自得。
 そう言い聞かせて、ただの一度も手を差し伸べなかった。弟が自分を見下す時、何故と思ったことは一度もない。自分と炎司のどちらが先に相手を見下すようになったのか、答えは明白だった。
 火也子が先に炎司を見捨てたのだ。保身のために、父母への未練から、弟を顧みようとしなかった。それ故に、炎司は助けを求めなくなった。打ちのめされる姉を見ても、何も感じなくなった。
 父さんがこの子を殴っても、全部この子の自業自得。そう言い聞かせながら、打擲される弟から顔を背けて、耳を塞いだ。庇うことは愚か、見ていることさえ出来なかった。今もそれと同じだ。弟の激情に向き合うことが出来ない。弟がこんなにも怒る理由を考えることが出来ない。
 不出来な姉が家名に泥を塗ろうとしているから? そうではない。違うと分かっているから、振り向くことは出来なかった。未だ十三の子どもが、憎しみだけで怒ることは出来ない。
 最早、靴紐を結び終える暇はなかった。ふらつく足で立ち上がって、慌てて引き戸の内鍵を外した。廊下の向こうからドタバタ重たい足音が駆け寄ってくる。父母のどちらかが起きたのだ。
 焦りのなかで、不意に冷たいものが背筋を伝った。弟は玄関先に立ち尽くしたまま、三和土に降りてくる気配もない。火也子の体に触れようともせず、棒立ちになっている。この場にいながら火也子を引き留められなかったと父親が知れば、無論のこと弟を折檻するであろう。
 父母は家の面子を潰した火也子を決して許さない。もう二度と、ここへは戻れない。この子に勉強を教えることも、食事をすることも、言葉を交わすこともない。炎司を捨てて、出ていく。

 青あざだらけの体を縮めて、精一杯のプライドから嗚咽を殺す小さい体。
 手を差し伸べることが出来ないまま、それでも弟に手が届く場所にいると安心した。
 いつか、きっと……きっと、この子が如何しても困った時には手を差し伸べようと思っていた。
 でも、いつか産む娘をこんな家で育てたくない。

 “ごめんね”とか、“元気でね”とか、何か口にしたとは思うけれど、覚えていない。
 晩春の温い夜風に混じって、炎司が叫ぶ。姉さん──姉さん、火也子姉さん。もう随分耳にしていない呼び名を捨てて、どこか遠い場所へ行く。一生大人にならなくて良い世界を探して。
『姉さん、オレも一緒に連れてって』
 彼方から弟の声が追ってくる。それが最後だった。


 それで全部が終わりになると思った。

Q.パンはパンでも、食べられないパンな〜んだ?



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